オバサン、そろばんの生みの親になる 1
食事が終わり両親が話に加わり、入れ違いにローズマリー様とアレクシアは帰宅した。
王族を放置してワディンガム公爵の見送りに行くのはいいのかと心配だったんだけど、食事をあのメンバーで食べることも含めて王弟殿下の指示だったみたい。
お父様がいなくて不安だったお母様としては、全部指示をしてもらえたのは気分的にだいぶ楽だったんじゃないかな。
王族への接し方なんてわからないもんね。
でもこれから王宮に行くというのなら、私もその辺は学ばなくてはいけない。
前世では毎日家と職場の往復で、ほぼ決まった顔ぶれとだけ接していたから、若い頃のように新しい知り合いは出来なかったでしょう。
今は毎日、いろんな人に会えて学べて、不安や心配もあるけどそれ以上に楽しいわ。
ローズマリー様もアレクシアも若いから、いろいろ若い感性を教えてもらわないと。
まずは若者らしい話し方を教わって、流行もある程度は押さえたほうがいいのよね。
やりたいことがたくさんあるのっていいわね。
その日は王宮に行く日の連絡や、ギルモア侯爵について軽く説明をしてもらって、私は先に自室に戻って早めに休み、翌日からは普通に過ごしていいと言われていたので、しっかりと朝からベーコンやハムのサンドイッチを食べて商会に向かった。
ギルバートにそろばんの試作品の依頼を受けていた職人が、商会に来るって聞いたら行かないわけにはいかないわ。
王宮に行くのは十日後なので、それまでは今まで通りに商会の仕事をするわよ。
「こちらが試作品です。これでよろしいのですか?」
職人のおじさんが持ってきたのは、ごくシンプルで真新しいそろばんだ。
枠はほとんど黒に見える茶色で珠が薄い茶色をしていて、見慣れたそろばんそのものだ。
「素敵」
でも感動しているのは私だけ。
商会の人達もお父様もギルバートも、この子は何を始めるんだと不思議そうな顔をしている。
「見て。この横に渡された細い板から上の珠はひとつで五なの。下はひとつが一ね。計算をする前に上の珠を上側に移動させて」
爪を使って左端から右に指を走らせて、しゃーという音を響かせながら五の珠を上に揃えた。
「この音。なんていい音なの。その伝票を貸して。ほら、ここに丸い点をつけてもらった場所があるでしょ。この列が一の位よ。下の珠を上にあげると、これで一になるの」
ひさしぶりなのでゆっくりとパチパチ球を動かして計算していく。
私としてはものすごい一歩なのに、見ている人たちの反応はいまいちだ。
「それは便利なんですか? めんどうじゃありませんか?」
「計算を知っている人じゃないと使えませんね」
「そりゃそうよ。算数を知らない人が計算できるような道具なんて、私には作れないわ。出来たら国をあげての大騒ぎになっちゃう」
いえ、国内だけじゃなくて世界中から注目の的になってしまうわよ。
計算機なんて私には仕組みがわからないし、わかっていてもおいそれと作っていい物じゃないと思う。
この世界の文明が大きく変化してしまうかもしれないじゃない。
「そりゃそうだ。魔道具を作っても平民は使えないしな」
ギルバートにも言われて、商会の若い男性はすみませんと頭を下げた。
彼にとっては私とギルバートは、商会長で貴族の旦那様のお嬢さんとお坊ちゃんだ。
機嫌を損ねるようなことを言ってしまったと小さくなっている。
「そんな気にしないで。私もギルバートも怒ってなんていないわよ。それにこれは、私が早く確実に計算するために欲しかっただけで、売り物にするかどうかは決まっていないの。試作品がいくつかあるからよかったら使ってみて。あ、無理にじゃないからね。練習しないと早く使えるようにならないから、最初は確かに面倒かも」
そろばんを手渡されて、この流れでやらないわけにはいかないと思ったのか、彼はポチポチとそろばんを使い始めた。
「動かしにくくない?」
「いえ、大丈夫です」
そろばん教室なんてものがあったくらいなんだから、使いこなすには時間がかかるわよね。
でも露店舗で商品を売る時に、柱に固定したそろばんがあると便利だと思うんだけどな。
昭和初期が舞台の映画やドラマではそういうシーンがあった気がするのよ。
いつも通り月末の伝票整理を手伝っているうちに、徐々にそろばんの使い方にも慣れてきて早く計算できるようになってきた。
前世ではそろばんの起源はアステカだとかバビロニアだとかいろいろ言われているみたいで、要は古代文明の頃から存在していたのよ。
この世界にだって計算を補助する道具は何種類かあるんだけど、長い歳月を経てブラッシュアップされ無駄なく使いやすく美しくなった日本のそろばんは、どの道具よりも使いやすくて便利よ。
「ギルバートもだいぶ早く使えるのね」
「姉上より器用だから」
「なんだとー。じゃあ競争しよう」
「受けて立つぞ」
伝票の枚数を決めて、めくるのは手伝ってもらって、よーいドンで計算を始めていく。
商会の人を巻き込んでやるのはどうかと思うけど、私とギルバートが手伝ったおかげで予定より早く仕事が終わったから無問題。
「出来た!」
「僕も!」
ほぼ同じくらいに終わったので、次は計算の間違いがないかどうか伝票を交換して計算してみた。
「あってるわ」
「姉上のも」
「すごいな」
「ちょっと俺も練習しようかな。おい、早く出来たほうが奢るというのはどうだ?」
「いいな」
さっきのお兄ちゃん、すっかりやる気になっているじゃない。
それで早く使えるようになれば仕事がはかどるからいいんだけども、ちょっと複雑な気分だわ。
「計算って楽しいでしょ?」
聞いたら、みんなにぎょっとした顔で見られてしまった。
「桁が多いほうが楽しいわよね。間違いがないかチェックするためにもう一度計算して、ばっちり合っていた時は嬉しいじゃない? 伝票の数字を分析すればいろんなことがわかって楽しいし」
「……ちょっと変わっているんだ」
みんながなんて答えていいかわからなくなっていたみたいで、空気を読んでギルバートがぼそっと言った。
「それは、まあうすうす感じてはいました」
「お嬢さんのような小さな女の子が、決算日になると嬉しそうにやって来るんですからね」
「変わってなんていないでしょ」
言いながらそろばんを揺らしたので、また音が響いた。
「この音がいいね」
「おお、さすが我が弟。この音の良さがわかるのね」
言いつつそろばんをマラカスのように揺らしてリズムを取ったら、お嬢さんが踊っていると注目されてしまった。
「かわいい」
「仕事の癒しだな」
「踊ってはいないからね」
「いい音だよな。これを違う形にしたら楽器になるね」
ギルバートが真顔で言っている。
これを機に、我が商会でマラカスが爆誕するかもしれない。
職人に珠をもう少し赤味のある木に変えてもらうのと、枠の四隅に金属を加工した板をつけてもらって、補強しつつおしゃれにしてもらうことにした。
お城に行くために、ドレスも靴も新しい物を揃えるってお母様がはりきって、いくつか店を回ったり、アレクシアに魔法の基本を教わったりと充実した日々を過ごし、五日後に商会に行ったら、部屋の扉を開ける前からポチポチとそろばんの音が聞こえてきた。
うわ、普及している。
それにみんなだいぶ上達している。
掛け算割り算のやり方も軽く教えただけなのに、ちゃんとできている人もいる。
みんな優秀すぎない?
「いやあ、おかげで三日間奢ってもらえているんですよ」
「早く打てるのが楽しくて自宅に持ち帰って練習したんです」
ああ、テレビもネットもないから暇な時間を使うゲーム感覚なのね。
早くなると褒められるし、勝負に勝てるし、仕事がはかどる。
それでみんな上達したのか。
「旦那様が人数分用意してくれるっておっしゃってくれたんですけど、自分の好みのものがほしくて注文しちゃいました」
「お得意さんが来た時に使ったら、ほしいって注文されましたよ。今使っている道具はやりにくくて、いい物を探していたんだそうです」
「奥様のほうのお店ではバインダーの上に乗せて、立って使える小型のそろばんを注文していましたよ」
最初は反応が悪かったのに、なんでこんなに人気になっているの?
販売するかもとは聞いていたけど、もうそんなに注文がきているの?
「八歳のお嬢さんが考えたって話したら、天才だって褒められました」
「王弟殿下に才能を見出されるくらいのお方ですからね」
というか、まずくない?
私がそろばんの生みの親になってしまう。
「これはほら、他にも計算の道具があるじゃない? あれを参考にして考えただけなのよ」
「それがすごいんじゃないですか」
「もう少し使いやすくならないかなと思っても、具体的にこういう形にしようって考えられませんよ」
やばいわ。
他の転生者に報告しておかないと、やりやがったなと思われてしまう。
他の人達も、何か前世のものをこっちで作っているのかしら。
私よりレイフ様や王弟殿下のほうがいろいろ思い付きそうだし、あちらの世界のものをこちらで作るのは駄目とは言われなかったから平気よね。
「これって何個かもらえる?」
「お嬢様用と色の違うものを五つ用意してありますよ」
「ありがとう。王宮に持っていかないと」
「王宮!!」
ああ、そんな緊張しないで。
なにも王宮に売り込むわけじゃないのよ。
ブツを実際に見せたほうが説明が早いでしょ。
でもそろばんは便利だし、みんなが使うようになっても今までの文化を壊すものじゃないし、若い子は思いつかないでしょ?
問題ないはずよ。
むしろ王宮でも使いたいって話になるかもしれないじゃない。
よし、王弟殿下に売り込もう。




