オバサンは図太い 5
ワディンガム公爵家でお世話になって五日、私は穏やかな日々を過ごしていた。
私の行動範囲は、講義用の部屋とローズマリー様の部屋と自室だけなので、顔を合わせる相手はおのずと決まってくる。
事情を知っている侍女たちは優しく、何かと気を配ってくれていた。
ローズマリー様が一緒に過ごす時間は、講義の時間を除けば一日三時間くらいかしら。
その時間ずっと外国の言葉だけしか使えないって、思っていた以上に大変だった。
まだつたない外国の言葉で会話しようとすると、途中で単語を調べなくてはいけなかったり、言い間違いをしてしまったりして、ひとつの話題を終わらせるのにも時間がかかってしまう。
三日目くらいにはだいぶストレスを感じていたんだけど、それを乗り越えられたのは私たちが子供だったからだ。
変な発音をして笑って、単語を調べているうちに話題が変わってしまって笑って、そのたびにつられてもうひとりも笑って会話にならなくなることもある。
自国の言葉を使っては負けたような気がして、無言のまま表情で気持ちを伝えようとして変顔になってしまってまた笑ってしまう。
子供ってなんでも面白いのよね。
でもそれは私が思っていた以上に、ワディンガム公爵家の家族と使用人たちにとっては大きな変化だった。
今までは、ヒロインが動き出したら悪役令嬢にされるかもしれないという恐怖で、ふとした時に沈みがちだったローズマリー様が、明るい声で笑っている姿が毎日のように見られるようになったのよ。
食事もしっかり食べられるようになって、夜もぐっすり眠るので体の調子がいいと心にも余裕が出てくるものよ。
家族や侍女たちとの会話でも笑顔が増えて、子供らしい表情も見せるようになったのも話し相手が出来たおかげだと、私の評価はうなぎのぼりだ。
ただポロック伯爵のほうは何の進展もなく、もうひとつの重要な案件も全く動きがなかった。
「報告をしたのに王弟殿下が返事を下さらないので、お父様もお兄様も心配しているわ」
「そうですか」
ローズマリー様やワディンガム公爵家の方たちからしたら、ポロック伯爵より王弟殿下の反応のほうが気になるんでしょうね。
ジョシュア様の未来がかかっているのだから、それは仕方ないわ。
そして私にとってもこれは大きな問題よ。
反応が鈍いということは、王弟殿下は私にそれほど関心を持っていないということで、私の後ろ盾になる意味が減っていくということでもある。
ローズマリー様の周囲では救世主のように思われている私だけど、直接の接点がない人の間では、いつまで男爵家の娘を特別扱いするんだという不満が出ていると、ドナが親しい侍女から聞いてきた。
「バークリー侯爵が勝手に名前を使ったことに怒って、ポロック伯爵を派閥から追い出したそうだよ」
そんな時、顔を出してくれたギルバートが、いい情報を知らせてくれた。
まだ五日しか離れていないのに、扉の前にギルバートが立っている姿を見た時には、恥ずかしいけど少しうるっときたわ。
両手で帽子を握りしめて、侍女に連れられてやってきたギルバートのほうも、私の顔を見てほっとしたみたい。
椅子を勧めて、ドナが冷たい紅茶を出すとごくごくと一気に飲んでいた。
「ワディンガム公爵家からも、こんな結婚は認めないという正式な書状を送ってくださったんだって。これでポロック伯爵は諦めるしかなくなったって父上が言ってたよ」
ワディンガム公爵家にいる私より、弟のほうが情報を早く知っているってどういうことなんだろうって疑問に思っていたら、ローズマリー様が笑顔で部屋にやってきた。
「シェリル! あ、お客様でしたの?」
「弟が来てくれたんです」
「ギルバート・クロウリーです。姉がお世話になっています」
ギルバートは慌てて立ち上がり、びしっと背筋を伸ばして一礼した。
可愛い女の子を前にして、緊張でガチガチになっているわ。
公爵令嬢に会える機会なんて、普通だったら滅多にないしね。
「うふふ、私のほうがお世話になっているのよ。さあ、そんな緊張しないで座って。焼き菓子があったでしょ。せっかく来たんだから、公爵家お勧めのお菓子を食べて行って」
それって王家御用達と大差ない超一流店のお菓子よね。
私もいくつかいただいて、どれも美味しくて、あまり長く公爵家でお世話になると太りそうで心配なのよ。
それでここ何日かは散歩をするようにしているわよ。
「今ね、お父様にいいお話を聞いたの。バークリー侯爵がポロック伯爵を派閥から追い出したんですって」
嬉しそうに話してくれたけど、ついさっきその情報は聞いてしまったせいで私たちの反応が薄くて、ローズマリー様は怪訝な顔で首を傾げた。
「驚かないのね」
「ギルバートにたった今、聞いたばかりなんです」
「まあ。娘の私より彼のほうが先に知っていたということ!?」
「僕も父から夕べ聞いたばかりなんですよ」
そのくらいなら話すタイミングの違いね。
ワディンガム公爵もバークリー侯爵も、王弟殿下なんて特に忙しくて、きっと予定がびっしり埋まっているのよ。
それなのに私のために動いてくださっているのだから、文句を言ったりしたら罰が当たるわ。
「ローズマリー様もギルバートも、話を聞いてすぐに私に教えようと思ってくれたんですね。ありがとうございます」
「そんなの当たり前じゃないの。でも注意してね。あとがなくなったポロック伯爵が何をしでかすかわからないわ」
「そんな……。そこまで私に執着するでしょうか」
「逆恨みってこともあるだろ」
ギルバートに言われて、一気に心が重くなった。
もうそこまでいくと、精神を病んでいるとしか思えないわ。
「失礼します、シェリル様にお客様がおみえです」
控えめなノックがして、侍女長が部屋にやってきた。
また来客?
家族以外に私に会いに来る人なんていたかしら。
「誰なの?」
この場を仕切って、ローズマリー様が尋ねた。
「それが、魔道省のマガリッジ二級魔道士という女性の方です」
「魔道省!?」
侍女に告げられた言葉に、私とローズマリーとギルバートは揃って首を傾げた。
魔道には興味がないとジョシュア様から伝わっているはずなのに、なんで魔道省から使いが来たの?
「姉上、魔道省に知り合いがいるんですか?」
「いるわけがないでしょう」
「そうですよね」
「なんでアレクシアが来たのかしら?」
顎に手をやり考えながらローズマリー様が小声で呟いた。
「ローズマリー様、御存じなんですか?」
「ええ。王弟殿下の仕事をときおりしている将来有望な魔道士よ」
王弟殿下……やっと連絡が来たのかしら。
それかジョシュア様の意見だけでは心配で、他の人の意見を聞こうと思ったのかも。
どうしよう。ギルバートには帰ってもらうしかないわ。
「王弟殿下の……そうでしたか。いかがいたしましょう」
侍女長も安堵したようだ。
魔道士が突然訪ねてきたら何事かと思うわよね。
「かまわないわ。ここに通してちょうだい」
って、えええ?
ギルバートが帰るまで待ってもらいたかったのに。
ローズマリー様、話を進めないで。
「ごめんね、ギルバート。そういうことだから今日はこれで帰って」
「姉上、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。私がついているから」
私が口を開くより早く、ローズマリー様が答えた。
「シェリルに失礼な態度はとらせないわ。お兄様にいろいろたのんだくせに、今度はアレクシアまで寄越すなんて失礼よ」
そうよね。ジョシュア様の判断を疑っているみたいですもんね。
ギルバートと目を合わせて、ここはおとなしく帰ってくれという言葉を込めて頷いたら、彼は察してくれたのか頷いて立ち上がった。
「では、姉をお願いします」
「ええ、まかせて。しっかりした弟さんね」
素敵なお姉さんに褒められて、ギルバートは照れくさそうな顔を隠して背を向けて扉に向かった。
「シェリル、アレクシアも転生者のひとりよ」
そのタイミングを待っていたのか、耳元に顔を寄せてローズマリー様が囁いた。
「え」
転生者グループのひとりが来たの? なんで?
「会う前にどんな子か説明したかったんだけど、もう来たようね」
もう? 玄関からここまで走ってもこの短時間では来られないわよ。
どうなってるの?
「す、すみません。いつの間にかすぐそこの廊下にまでいらしていて」
侍女長が真っ青になっている。
「この人は怒らないであげて。どうしてもシェリルさんに会いたかったのよ」
侍女の横から顔を覗かせてひらひらと手を振ってみせたのは、派手な化粧をしたお姉さんだった。
ラメがきらきらしたアイシャドウとマスカラで伸ばした睫毛のせいで、元の目の形がよくわからない。口紅は見事に真っ赤で、爪もお揃いの色だった。
化粧をしっかりしている割には豊かな黒髪はパサついている。
体の線が出る黒いロングドレスを着て、灰色のショールを前でしっかり留めている様子は、暖炉の前でロッキングチェアに座るおばあさんを思い起こさせた。
ほっそりとしたナイスバディの美人だけど、どこか野暮ったいのよね。
アニメのキャラにありそうな、色っぽい魔法使いのお姉さんを目指して失敗している感じだ。
扉を出る前で遭遇してしまったギルバートが、どうしていいかわからなくて固まっている。
「逃げたら困るから転移でそこまで来ちゃった」
「逃げる? 私が?」
何を言っているんだろうと首を傾げたら、アレクシアはまじまじと私を見て、それでも足りなかったのか部屋の中に入って私の傍まで来て上体を屈めた。
「あなたがシェリルさん?」
「はい。シェリル・クロウリーです」
「そ、そうか。まだ子供だったわね。思っていたより小さいのね」
びっくりした表情になったら、色っぽい雰囲気が一瞬で消えた。
それに相手が私の顔を確かめたくて近付いてきたせいで、私も相手の顔がよく見えるようになったでしょ。
もしかしてこの子、思っている以上に若いんじゃない?
「あの、体の具合が悪いんですか?」
「え? そんなことないわ」
「でも目の下のクマがひどいです」
「うっ」
はっとして顔を引いたけどもう遅いわよ。
肌が乾燥して荒れているのも、爪に塗ったマニキュアがはがれかけているのもしっかり見てしまったわ。
「アレクシア、いったいどういうつもり?」
ローズマリー様はアレクシアさんの腕をどんと押して、私を背に庇って立った。
「どういうって?」
「ワディンガム公爵家の屋敷内で転移魔法を使用していいって、誰から許可をもらったの?」
「あ……いえ、でも急ぎで」
「急ぎだと公爵家で勝手に魔法を使っても許されると思っているの? いつの間にそんなに偉くなったのかしら? やったのが王弟殿下本人でも苦情はいれるわよ。あなたの場合、今すぐに捕らえて二度と魔法を使えないようにすることも出来るんだってわかってる?」
「も、申し訳ありません」
化粧は濃いけど色っぽい魔法使いのお姉さんはもういない。
目の前にいるのは、肩を落として小さくなっている気弱そうな女の子だ。
髪で顔が隠れて表情はわからないけど、手が震えているからかなり怖がっているみたい。
「誰があなたをここに寄越したの?」
「……レイフが」
「あの男、何か勘違いしているようね」
「転移魔法は私が勝手に」
「使いを寄越して予定の確認もしないで突然公爵家に押し掛けてくるだけでも、失礼だってわからないの? あなた、いちおう子爵令嬢でしょう?」
「……はい」
待って、待って。
いくらなんでもアレクシアさんがかわいそうよ。
確かに彼女がまずかったんでしょうけど、八歳の子供にここまで怒られてしまっては立場がないわ。
「ローズマリー様、彼女の行動への苦情はそのレイフさんですか? その人にするとして、ひとまず彼女を座らせてあげてください。たぶんこの方、ほとんど寝ていないんだと思います」
「え? そうなの?」
転移魔法を使われてかなり頭にきていたんでしょうね。
ローズマリー様は私の指摘に驚いて、アレクシアさんの目の前まで行って顔を覗き込んだ。
「本当だわ。あなた、目が充血して真っ赤よ。顔色も悪いじゃない。早くこの椅子に座って」
「すみません」
腕を引かれて椅子に腰を下ろして、アレクシアさんはほっと息をついた。
この子、実はかなり若くない?
「失礼ですけど、あなたの年齢をきかせてもらってもいいかしら」
「え?」
「十四歳よ」
戸惑う本人の代わりにローズマリー様が答えた年齢に、ギルバートも含めて部屋にいる全員が驚きの声をあげた。