第270話 出立
「ベアトリクス殿下と奥様、そして当主閣下に、敬礼っ!」
二ケ月前からバーデン領軍の指揮官になってくれているアントニアが、よく通る声で号令すると、元帝国兵も元公国兵も、一斉にびしっと姿勢を決める。
いやはや、彼女が指揮官になってからというもの、寄せ集め感の強かった領軍が、本当に軍隊らしくなった。やっぱりこういう組織は、トップ次第で大きく変わるんだなあ。
なんでもかんでもきちっとしている国軍でずっと過ごしてきたアントニアが、こんなまとまりのない集団にキレるんじゃないかと思っていた俺は、彼女の才を甘く見ていたらしい。一兵卒にも気楽に声をかけ、夜のBBQなんかにはふらっと参加したりしながらも、時間や命令には厳格に臨むその振る舞いは、特に元帝国兵に受けが良かった。帝国の将校は、部下に対して高圧的に当たるのがスタンダードだったそうだから……そういう意味では、ブラックな帝国軍に感謝しないといけないのか。
「行ってらっしゃい、殿下!」
「奥様、ご無事でお戻りを!」
「姫がお風邪など引きませんように」
「当主様、夜は控えめに!」
敬礼はビシッと決めても、後はめいめい勝手な声を上げ、俺たちの旅立ちを祝い励ましてくれる領兵たち。最後に聞こえた俺へのコメントだけが、かなり不本意だ。
まあ領軍の連中からそう思われているのは、仕方ないか。いまやベルゼンブリュック、いや大陸中の酒場で吟遊詩人が俺の成り上がりストーリーを竪琴の旋律に乗せて唄いあげていて……そこで俺は「種馬侯爵」という二つ名を与えられているらしい。男の身で二つ名を得るなどというのはなかなかのレアケース、喜ぶべきことかもしれないが……「種馬侯爵」というわかりやすいフレーズがバズったおかげで、俺は大陸中の民に、三百六十五日サカっている男だと印象付けられてしまったらしい。
「まさか、この遠征の間は、しないわよね?」
「わからぬぞ、ルッツは猿並みだからな。まあ、変わった環境が刺激になって、ミカエラやツェリとする気になるのなら、あえて止めぬが……」
やや引き気味のグレーテル、平然と浮気を推奨するベアト。微妙に俺をディスりつつも、二人が俺に向ける目は、優しい。先の見えないこの遠征に不安を隠せない一行の雰囲気を少しでも笑いで和らげようと、こんなことをあえて口にしているのだろう。
「違う。ルッツの夜を心配しているのは本当だ。なにかと流されやすい夫であるからな、なあグレーテル?」
「本当ですわね。手綱をしっかりつかんでおかないと、どこで種まきをしてくるやら……」
まだ続いている兵士たちの歓喜の声を背中に聞きつつ、俺は妻たちのいじりに、ひたすら耐えるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「まあ一日目は、こんなものか。明日は、このまま南へ進めばよいか?」
俺たちは、森の縁から十数キロほど踏み込んだところで、野営している。目的地がはっきりしている行軍ならもっとガツガツ前進するのだが、今回は手がかりの乏しい探索旅だ。一行が疲れないことを第一義に考えないといけないのである。
「そうですね、殿下の分析結果に従うならば、あと二日は真っ直ぐ南下して、以降周辺をしらみつぶしに探ることになろうかと」
真面目な顔で応えるのは、旅のナビゲーター役を務める、コルネリアさんだ。
目指す「森人の里」の情報は、極めて少ない。カネと手間を惜しまずベアトが集めまくった情報も、せいぜい「魔の森中央部、ひときわ大きな樹木のまわりを取り囲むように、百数十軒の家々が建てられている」くらいのもの。その位置情報に至っては、ほとんど手がかりが得られていないのだ。
「こういうのは、根性なのだ」
ベアトが、ぶっきらぼうにつぶやく。
ごくたまに、森で迷った冒険者や狩人が森人に助けられることがある。もちろん森人は、迷い人たちの口から自分たちの里が突き止められないよう、いろいろフェイクをかますのだが……そんな奴らの話を全国からひたすら集めて地図に書き込んでゆくことで、だいたいこのへんじゃないかという範囲を、ベアトは割り出している。その対象外範囲もこれまたバカバカしく広いのだが……そこをローラー作戦で徹底的に潰していくという、まさに根性を試される探索なのだ。
「コルネリアさんの探索魔法が頼りだな」
「私の『探索』は、それほど精度がよくありませんが……」
自信なさそうに肩を落とすコルネリアさん。同じ属性の中でも、得意とする魔法は個人個人で違う……金属性の女性の中で『鑑定』持ちが限られるのなんかが、その典型だ。コルネリアさんは努力の人、風属性魔法を概ね全部修めているけれど……どっちかというと空気弾を撃ち出して敵を倒すような戦闘系の魔法が得意で、通信や索敵などはそれほど得意でないのだという。俺から見ればそれほど多くの魔法を使いこなすことは素晴らしいことだと思うのだが、目標に届かないことに申し訳なさそうな顔をするのが、軍人気質のコルネリアさんなのだ。
「大丈夫だ、コルネリアに全て押し付けたりはせぬ」
「何が大丈夫なの、ベアト?」
「ここは森の中。言っただろうルッツ、森の中に限れば、私はなかなか役に立つ女なのだ」
自信にあふれた翡翠の瞳が、俺をまっすぐ見つめた。




