義弟の婚約者が私の婚約者の番でした
「――……姉さん……ごめん……」
金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら私を見て言った。
自分も辛いだろうに、この優しい義弟はこんな時にも私を気遣ってくれているのだ。
我がニーズベルグ侯爵邸の玄関で、私の婚約者レーリック王子様と義弟の婚約者マリナ・ライラック伯爵令嬢が見つめ合っていた。
「貴方は私の番ですわ」
この国には人族、獣人族、魔人族がいる。
魔人族は魔法が使えるが、今や出会うことは難しい。
その力を手に入れようと人々は争いを繰り返した結果、数を減らしてしまったのだ。
獣人族は人族よりも優れた能力を持っており、『番』というただ一人の相手がいるといわれている。
魔人族も獣人族も同じ種族間では子が出来にくいが、相手が人族であれば、より能力の高い子供が授かりやすいともいわれている。
それゆえ、王族はその強い能力を手に入れるべく、獣人族との婚姻を優先して結んでいる。
義弟の婚約者は獣人だった。
黒髪で金の瞳の可愛い令嬢だ。
確か彼女から義弟に交際を求めてきた。
……どうして……
呆然と二人を見ている私に、婚約者であるレーリック王子様は気がつくと、慌てたようにマリナ嬢から距離をとった。
何事もなかった様に私に微笑むレーリック王子様。
『アリシア、今日の君も美しいね』
そう言っていつもなら軽く抱きしめて、額にキスをくれるのに……。
「済まないが急用ができてしまってね、王宮に急ぎ戻らねばならなくなった。――後日、連絡するよ」と告げると、レーリック王子様は一度も振り返ることなく、侯爵邸を出て行った。
その後をマリナ嬢が追う様に出て行く姿を、私と義弟のレイはただ見ていることしか出来なかった。
*****
王族は代々獣人族と人族で血を繋いできている。
その始まりは獣人族の王と『番』だった、人族の貴族の女性だ。
二人の間には優秀な獣人の子供が四人産まれた。
しかし、その子供達は『番』に巡り会うことはなかった。
それからというもの、王族は可能性がある貴族との婚姻を結んできた。
『番』から生まれる子供は、その全てが獣人である。
『番』以外と結ばれ生まれる子供は、そのほとんどが人族だった。
しかし稀に、世代を超えて獣人の子供が生まれてくることもあるのだ。
ニーズベルグ侯爵には、狼獣人の血が入っていることもあり、私は生まれた時からレーリック王子様の婚約者に選ばれていた。
王子様と私の子供が獣人である可能性もあるからだ。
ーーけれど彼に本当の『番』が現れた今、それはもう関係がない事。
私は、自室で一人寝台に寝転び天井を眺めていた。
レーリック王子様と私は、生まれた時からの婚約者だ。
いや、きっと明日にはだったになる……なりたくないけれど。
しかし『番』は絶対的だ。
周りがどう言おうとも動じない。
どんなに私が彼を思っていようとも、彼が私を思ってくれていたとしても、番が現れてしまえば、その思いすら無かったことになるのだから。
私は知っている。
*****
この国の第一王子ユーグリッド様の婚約者フレイ様は虎の獣人だった。
とても大人びた美しい方で、仲睦まじいお二人だった。
一昨年に結婚されたばかりだったが、新年の祝賀会で、お二人の運命は変わってしまわれた。
北にあるトリス王国から御出席なされた、第三王子様。
トリス王国第三王子様は留学の為、初めてこの国を訪れられていた。当時、王子様は十五歳。
新年の祝賀会では、王族は皆壇上に座り、来賓を迎える習わしがあった。
名を呼ばれれば、壇上におられる王族の方々の前に行き挨拶を交わす。
我がニーズベルグ公爵家も父と義母。私の義弟のレイと共に行き、慣わしの通りに挨拶をした。
しばらくすると「トリス王国第三王子エドモンド様」と、声が上がった。
その時、義弟のレイがハッとした顔をして、トリス王国第三王子様が立っている入口の方を見た。
どうしたのだろう、そう思いながら私もそちらへ目を向けた。
そこに立っておられた、トリス王国エドモンド王子様は、青髪の氷のような薄青色の瞳を持つ美しい少年だった。
その時。
「フレイ‼︎」
ユーグリッド王子様の声が会場に響き渡った。
振り返り見ると、ユーグリッド王子様のお妃様であられるフレイ王女様が、椅子から立ち上がり真っ直ぐに前を見つめておられた。
フレイ王女様は、そこからエドモンド王子様の元へ、真っ直ぐに駆けていかれる。
ユーグリッド王子様の呼ぶ声など、まるで聞こえていないようだった。
エドモンド王子様の下へとたどり着いたフレイ王女様は、近づき手を取り見つめ合う。
「……私の番」
そう言うと、フレイ王女様はエドモンド王子様を抱きしめた。
獣人は、自分もしくは『番』が子を生せるようになるとその存在を感じることが出来ると言われていた。
しかし『番』には簡単には出会えない。
出会う事が稀なのだ。
その為、ほとんどの獣人族は、普通に恋をして結婚し子を生す。
でも、その後に『番』と出会ってしまったら?
その時、獣人はそれまでの全てを捨てて『番』の元へ行く。
かつて愛したであろう相手も、自らの子供も捨てて。
『番』の他は、何も要らないかのように。
それは、よりよい子を残す為だけの、種の本能なのかもしれない。
新しい年を祝うはずだった会では、その後第一王子ユーグリッド様とフレイ様の離縁が発表される事となった。
フレイ様は、そのままエドモンド王子様と共にトリス王国へ渡られた。
すぐに御子を身篭られ、誕生されたという話を聞いている。
お生まれになったお子様は、虎の獣人の御子息だったそうだ。
離縁なされたあの日以降、第一王子ユーグリッド様の姿は王宮でお見かけする事はなくなった。
ユーグリッド王子様は、外交や戦地へと向かわれることが増えたのだと、レーリック王子様から聞いている。
*****
私も、ユーグリッド王子の様に何処かへ行ってしまいたい。
きっと明日にはこの屋敷へ、婚約破棄を告げる書状が届けられるだろう。
『番』が現れた今、私の事は必要無いのだから。
生まれてからずっと、十八年もの間婚約者だったのに。
一年後には、結婚式の予定もあったのに……。
すべては今日終わってしまった。
「レーリック……様」
いつも隣にいた赤い髪の王子様。
優しくて何事からも守ってくれて、初めて恋をした私の王子様。
『好きだよ、アリシア』
十六歳の時、王宮の中庭で初めてキスをした。
『好きな人が婚約者なんて、私は幸せ者だな』
『ああ、早く結婚したいよ、アリシア。君も同じ気持ちでいてくれている?』
『獣人ではないから分からないだけで、私達は番だと思うんだ。だって、こんなに愛してるのだから』
そう言って笑っていたレーリック王子様。
「……レーリック様」
瞼を閉じると涙が溢れた。
泣いたってどうにもならないから、泣かない様に上を向いていたのに。
「……ふっ……ううっ……」
次から次へとこぼれ落ちる涙を、私は拭う事もせずただ涙が枯れて出なくなるまで泣いていた。
いつもなら声を掛けてくる侍女達も私に気遣ってくれたのか、誰一人部屋を訪れる事はなかった。
泣きつかれ、気がつけば夜になっていた。
ベランダのある窓からは月の光が差し込んでいる。
「今夜は……満月だったのね……」
そっと窓を開けて、ベランダへ出てみる。
夜の冷たい空気が泣き腫らした頬を撫でる様で、心地よく感じた。
もう忘れなければ、そう思うけれどやはりレーリック王子様の事を考えてしまう。
そして『番』だったマリナ嬢のことも。
マリナ嬢は義弟の婚約者だった。
黒豹の獣人族で、半年前に十五歳になった彼女の方から、レイへ婚約を申し込んできていた。
義弟の絵本に描かれている王子様の様な風貌と、優しい物腰に憧れる令嬢は多かった。
義弟はとても人気があったのだ。
十六歳になったレイには、数多くの縁談が申し込まれて来ていた。
その中から、獣人族のマリナ伯爵令嬢との婚約を父が決めた。
選ばれた彼女は、至極喜んでいた事を覚えている。
今日、レーリック王子様とマリナ嬢が会ったのは偶然だった。
レーリック王子様と私との約束は以前から決まっていた。
義弟のレイとマリナ嬢も出掛ける事が決まっていたのだが、たまたま義弟の馬車に不具合が出た為、彼女の方から迎えに来てくれた。
そして、二人は偶然にも出会ってしまった。
けれど、マリナ嬢はレーリック王子様に会うその瞬間までは、義弟レイのことを本当に好きだったと思う。
「……姉さん」
突然、後ろから声を掛けられた。
思わず身体がビクッと震える。
「レ……レイ? どうしたの、こんな時間に……それに、ノックも無しに……」
「ごめんね、ノックはしたけど……姉さんから返事が無かったから心配で……入ってきてしまったんだ」
「そう……だったの……」
「姉さん……大丈夫?」
八歳の時、私の父とレイの母親が再婚した。
私の実母は、私が三歳の頃に病気で儚くなっていた。
もう結婚はしない、と言っていた父だったが、いつだったか義母と知り合いわりとすぐに結婚した。
義母は美しくとても優しい方で、私はすぐに好きになった。
「あなたの義弟になるレイよ。仲良くしてくれる?」
義母に紹介されたレイは、天使の様に可愛らしかった。
「こちらこそ! レイ、アリシア姉さんと呼んでくださいね!」
「はい! アリシア姉さま‼︎」
レイはとても優しくて可愛くて、本当に天使の様だった。
いつも私のそばにいて、私の事を気にかけてくれるレイ。
婚約者のレーリック王子様を紹介した時も「素敵な王子様ですね! どうか姉を幸せにしてあげて下さい!」と言ってくれた。
「姉さん……泣いていたんだね……」
レイはそっと私の頬を撫でるように触れた。
赤くなっていたのだろう。
「……仕方のないことだわ……」
優しい義弟に辛そうな顔を見せたくなくて、私は笑ってみせた。
「……レイだって辛いでしょう?」
義弟も今日、婚約者を無くしたのだ。
『番』がわかった以上、獣人はそれ以外を愛せない。
マリナ嬢の心がレイへと戻る事はないのだ。
「僕は、マリナに愛は無かったから辛くはないよ」
義弟は、今まで見たこともない冷たい表情をしていた。
ーー……どういうこと⁈
「だって……あの時、貴方泣いていたでしょう?」
確かに、レイは泣いていた。
きれいな碧の瞳から涙が流れていたのを見たもの。
「……ああ、あれは姉さんを想って流した涙だよ」
「私を?」
「……そう、姉さんに……辛い思いをさせたなぁとおもってね」
……私に辛い思いをさせた⁈
「だってレイ、貴方だって、マリナ嬢と婚約する時、凄く喜んでいたじゃない、それが、こんな事になってしまって……」
レイはマリナ嬢との婚約を凄く喜んでいた。
君で良かった。
君が良かったんだ、と言っていて。
「……姉さん、身体が冷えるよ。この先は、明日きちんと話をしよう」
レイは私の手を取ると部屋へと入り窓を閉めた。
「ゆっくりお休み、アリシア姉さま」
いつの間にか私の背を超えていた義弟が、額にキスを落とす。
ーー気がつくと朝になっていた。
寝着も着て寝台で寝ている。
レイが額にキスをくれたところまでは覚えているが、私は自分で着替えて寝たのだろうか?
ふと、ある事に気がついた。
昨日、レーリック様が帰ってから部屋に籠った私は、一人になりたくて部屋の鍵を掛けた。
マスターキーも持って誰も入れないように……。
そしてそのまま夜になるまで、一度も扉には近付いていない。鍵もベッドサイドのテーブルの上に置いてある。
……レイは どうやって入って来たの?
朝食の食卓は、誰一人声を出すことなく静まり返っていた。
時折、カチャカチャと食器の音が鳴るぐらいだ。
父も義母も、私達姉弟を痛々しい顔で見ている。
まさか、父も自分が決めた息子の婚約者が、娘の婚約者であったレーリック王子様の番だとは思ってもいなかっただろう。
『番』に出会うのは本当に稀な事なのだから。
静かな朝食が終わると、私は一人庭へと出た。
ニーズベルグ邸には、貴族の間でも有名なほど美しい薔薇の庭園がある。
咲き誇る薔薇の庭園の奥には温室もある。
私はそこへ足を向けた。
先程、国王陛下から正式に婚約が無くなったとの書状が届いた。
『番』と出会った為、どちらに非が有るではなく元から婚約の話を無かった事にする、といった何とも都合のいい内容だった。
レイの方にも、国王陛下から何らかの書状が届いてマリナ嬢との婚約は破棄された。
レーリック王子様から私への言葉は何もなかった。
『後日、連絡するよ』と彼は言っていた。
しかし国王陛下からの書状が届いた今、もう連絡はないだろう。
十八年もの間婚約者だったあの人は、別れの言葉もなく私の前からいなくなってしまった。
そっと温室のドアを開く。
温室の中はハーブが多く植えられていて、爽やかな香りがする。
「アリシア姉さん!」
「レイ、居たのね」
先に来ていたのだろう、レイは私の下へと近づいてくる。
「昨日は良く眠れた?」
そっと私の頬へ手を当てて、少し首を傾げながら心配そうに聞いてくる。
陽の光を浴びたレイの金の髪が、キラキラと輝いている。
美しい義弟。
けれど、私は昨夜の鍵の事が気になってしまい思わず一歩下がってしまった。
「姉さん?」
「……あっ貴方はちゃんと眠れたの?」
近づいて私を見つめるレイから、目を逸らしてしまった。
「……姉さん、僕を見て」
優しいのに、何故だかいつもと違う。
なぜか怖く感じるレイの声色に、私はまた一歩距離を取ってしまう。
「あ、あのね……レイ……」
「……どうして僕から逃げるの?」
レイが一歩近づいてきて、私はまた一歩距離を取る。
「に……逃げてなんかいないわ、気のせいよ」
下を向いたまま、私はまた一歩後ろへ退がる。
今日の義弟は何か違う。
いつも天使の様に微笑んで、優しく話しかけてくれるのに……今はなんだか……。
「僕が……怖いの?」
レイは、ふふっと笑ってまた一歩近づいてきた。
「そ、そんなこと無いわ。ただ……今は……」
……今は怖い。
いつもと違う義弟が、優しく穏やかだった声が何故?
「……ひとり……一人になりたいの」
義弟を傷つけない様に、恐れを感じていることを悟られない様に私は言葉を選んだ。
「一人になって、何を考えるつもり?……アリシア姉さん」
次の瞬間。
レイの腕が私を捕らえ、その手で強引に顔を上げさせられた。
レイの手が私の頬を撫でていく。
その手はゆっくりと耳の後ろへとまわり、私の銀色の髪を梳いていく。
何度も……何度も。
碧瞳は私の目を捉えて離してはくれない。
「もうアイツは婚約者ではないからね。考えなくてもいいんだよ」
「わかるね」
アイツ……レーリック王子様のこと?
「番が一番大切だって言っている獣人族は、やはり獣だよね」
そう思わない? とレイは笑った。
それは、いつもと違う含みのある笑い方。
「獣人族の力を欲しがる王族も、大したことはない」
だからね、これで良かったんだよ姉さん、とレイは言う。
「レイ……あなた……」
陽光の中、キラキラ光る金の髪。
澄んだ碧瞳の美しい義弟レイ。
けれど今は、私を見るレイの碧瞳が仄暗く見える。
「……もういいね、アリシア」
「えっ」
義弟に両腕で抱きすくめられた。
「もう貴女は僕のものだ」
レイが耳元で囁く。
こんな事はおかしいと、義弟の腕の中から離れようともがくけれど、私の力ではびくともしない。
「レイ! 離して、こんなこと姉弟ではしないわ‼︎」
どんなに訴えても抵抗しても、レイは私を離そうとしない。
「アリシア、かわいい……僕のアリシア」
嬉しそうな微笑みを浮かべながら、レイは私の額へキスを落とした。
ーーあれから。
温室に居たはずの私は、気がつけば見たこともない邸に居た。
広い邸は、何故かとても居心地が良い。
けれど、不思議なことにどこにも出口は見つからない。
此処はどこで、何故私はここに居るのか、そう尋ねてもレイは笑っているだけだった。
ただ分かっていることは、レイが私を守ってくれ、側にいてくれているということだけ。
レイは、私を姉としてではなく、一人の女性として愛していると言った。
僕を見て、僕を愛して、あなたが好きだ、愛してる、愛している。
アリシア、僕のただ一人。
貴女の他は何も要らない。
だから 愛して。
僕を求めて。
二人だけの場所でずっと愛を告げられて、私にそれを拒み続けることができただろうか……。
レイの愛を心から受け入れた時、私はレイと共にニーズベルグ侯爵邸へと戻った。
いつの間にか、一年もの月日が経っていた。
帰ってすぐに 半年前に父と義母が馬車の事故で亡くなっていたことを知った。
けれど、それを聞いても何故か私は少しも悲しくは無かった。
どうしてなのかはわからない。
ああ、そうか、と思っただけだった。
ニーズベルグ侯爵家は十七歳になったレイが継いでいた。
私達は、レイが十八歳になった時、婚姻する事になっている。
レーリック第二王子様は、あの後直ぐにマリナ嬢と結婚したらしい。
マリナ嬢はすぐに懐妊した。
だが、生まれた子供は……獣人ではなかった。