月の神界とピエール・ド・リュンヌ
水の底から浮き上がる様に、少しずつ意識が戻ってきた蓮は目を開けた「俺、どうしたんだっけ?あぁ、そうだ月の世界に行くんだよね」月に向かって上昇している翠の姿。下をみると地上が遥か下に広がり、日本列島を見渡す事ができた。チラッと横を見ると、澪はまだ意識がハッキリとはしてない様に見えた。「おい澪!起きてるか?」蓮が話しかけると、ハッとした様に澪が目を覚ました。
「あ、私・・・翠の背中?」「目が覚めた?なんか変な感じだな」「うん、でもこうして見えるし意識もあるし、感覚もある」「小さい俺と澪の姿のままかと思ったら、違ったな」「そうね!子供のままの姿じゃなくて安心した」「だな、子供の姿のままじゃ困るよな」意識が戻った二人が話をしていると、「二人共、目が覚めた様ですね。月の世界はもうすぐですよ」と翠が言った。
翠は飛翔を続け、蓮と澪が後ろを振り返ると青い地球が見える様になった頃、大きな月が目前に迫って来た。「おい翠!月の世界にどうやって入る気だ?このままだと月にぶつかりそうじゃないか!」蓮が慌てて翠に言った。「心配しなくても大丈夫、落ちない様に掴まってて」翠は猛スピードで月に飛び込んだ。
蓮と澪は思わずギュッと目を閉じた。この後、一体どうなるんだろう。その瞬間、目の奥で光がスパークして微かにメロディーが聞こえた。このメロディーは何処から流れてくるんだろう?どこかで聞いた様な懐かしい調べ・・・。
潮風を肌に感じた蓮がそっと目を開けると、いつの間にか目の前には海が広がり、寄せては返す波の音が聞こえた。海・・・海だ!月の世界に海があるのか?「澪、目を開けて周りを見てみろよ」「ほんと?怖くない?」「大丈夫、怖くないよ」蓮にそう言われた澪はゆっくり目を開いた。
「あ、ここは・・・」澪はそれ以上言葉が出なかった。眼前に広がる海原、足の裏に感じるサラサラした柔らかな砂浜、寄せては返す波の音。波打ち際で歩みを止めた澪は振り返り「ここ、本当に月の世界なの?」と翠に言ったその時、海の向こうから水面をジャンプしながら、魚が澪に近付いてくる。「えっ、何?」ドキッとする澪。「やあ!こんにちは」と言いながら、水面から鱗が光の加減で薄く虹色に輝く魚が顔を出した。
魚は目をクリクリさせながら「おや、これは珍しい!滅多にない地球からのお客さんだ!」と言って感興した。「さ、魚が喋った!」澪は仰天した。仰天した澪を見た魚は、ヒレを動かしながら「この世界の魚は皆、言語を持っているからね。そりゃあ、普通に喋るものなんですよ」と得意そうに言った。「ところで、あなた達はその龍神さんに、月の世界に連れてきてもらったんですよね?」「そうよ、翠が私達を連れて来てくれたの」「翠?あぁ、龍神さんのお名前ですね。その龍神さん、見た事あるなぁ。私、覚えてるんですけど確か、翠って名前じゃなかった様な・・・あれあれ?名前が思い出せないな。これは一体どうしたことか!名前を思い出せないなんて、私も歳なんだろうか・・・」魚はヒレで頭を抱え出した。結構真剣に悩み出した魚を見て、ちょっとだけ気の毒に思った澪は「お魚さん、その龍神の名前「翠」は、私と蓮が考えて付けた名前なの」と教えてあげると、魚は目を見開いて「あぁ、なるほど新しい名前!それで元の名前が思い出せなかったのか。それを聞いて納得しました」魚はヒレで腕組みをしながら頷いた。
「なんで新しい名前を付けられると、以前の名前が記憶から消されるんだ?」蓮は翠に聞いた。翠は「私達の世界では名を与えた者が、名付けた者を支配する権限があるからです。だから本当の名前を相手に教えると言う事は、相手に自分の命を預けてしまうのと等しいのです。」「あぁ、そうなのか。と、言う事は俺とアイツ(澪)は翠を支配しているってことなのか」「そうです。そう言う事になりますね。」翠と蓮が話をしていると、魚が思い出した様に「そうだ!貴方達、せっかく
この世界に来たんだから、餅つきをしている「兎の兄弟」に会ったら?あと、この月の世界を主宰している男神様に是非、お土産をもらったらいいよ」と、魚は教えてくれた。「でも、どうやって兎の兄弟に会うんだ?主宰している神様にも」蓮が魚に尋ねると、魚はヒレを横にヒラヒラと振りながら「そんな事、言ってはいけません!ここは感性の世界ですから、頭で考えちゃだめなのです。兎の兄弟に会いたいなら、「会いたい」と思うと会えるからね。後、この世界を主宰する神様も「お会いしたい」って思うと会えるからね」
魚は力説すると「私が貴方たちに教えてあげられるのは、こんなとこかな。ではこの辺で失礼するよ。またね翠!」魚は水面から出した顔を引っ込めると、幾度かジャンプして海の中を泳いで行った。
「そんなこと言われたって・・・」と蓮は呟いた。月の世界の空に綺麗な夕焼けが広がり、日が沈んで辺りが暗くなると、満点の星空が夜空一面に輝き出した。月の世界の夜空に浮かぶ満月は、とても大きくて今にも落ちてきそうなほどだった。
月明かりに照らされた澪が、「蓮、お魚さんが教えてくれた「兎の兄弟」に会いに行ってみようよ」と言った。「うん、会いに行こうか」「え〜と「会いたい」と思えばいいのよね?」「ん〜そうらしいね」「ここは感性の世界なんでしょ?じゃあ、こうしてみたらどうかな」澪は夜空に浮かぶ満月に向かって、「お月様、どうか兎の兄弟に会わせてください」と祈る様に話しかけた。
「冷静になると恥ずかしい様なセリフを、澪も言える様になったか」「なによ、悪い?」「悪いとは言ってないだろ」「だって、他に方法ある?」「わかんないよ、だって初めての経験だし、会いたいと思えばいいと言われたってねぇ・・・」月夜の浜辺で、軽く言い合いをする蓮と澪、「言い合いはやめましょう!」と翠が言った。二人と一体の龍神があーでもない、こーでもないとやり合っていると、月の中から軽やかな鈴の音と共に牛車が降りて来て、こちらに向かって進んで来る。「澪の思いに答えて、どうやら月からお迎えが来た様ですね」と翠が言った。「あれは歴史の教科書でしか見たことないけど、「牛車」って乗り物だろ?すげぇ!」と蓮が驚喜した。
牛車の両側を、平安時代の女官装束姿の女性達が、衣摺れをさせながら優雅に歩く姿は優美だ。牛車は二人の眼前に迫り、月夜の浜辺に音もなく静かに着地した。
気が付くと目の前に、弓を背中に背負った近衛兵が一人、片膝を立てながら跪き「お迎えにまいりました」と言った。「お迎え?それって私と蓮のこと、ですよね?」「えぇ、そうですよ!澪様と蓮様、そして龍神様も」と近衛兵は微笑した。
改めてよく見ると、紫紺色の車体に金の菊と扇の模様があり、上品な漆塗りの牛車はどう見ても、位の高い人が乗るものだ。なんでこんなに立派な「お迎え」が来たのかと、二人は不思議に思った。偉い人でも、身分が高いわけでもない自分達が、お迎えなんて恐れ多い。
そんな二人の気持ちを察した近衛兵は和やかに、「そんなに驚かないでください。私共は月を主宰している男神様の命令により、お二人と一体の龍神様を、お迎えに来たのですから」と言った。「男神様って、どんな神様なの?」澪が近衛兵に質問すると、 「それは秘密でございます。今は教えて差し上げることができません。それに、男神様からも秘密にする様にと、念を押されておりますし・・・オホホ」近衛兵は、手で口を隠しながら優雅に笑った。蓮も手で口で隠しながら「オホホ」と、近衛兵の真似をすると、「失礼だから、やめなって!」と澪に嗜められた。
車の側で控えていた女官長が、近衛兵に近づくと「近衛様、そろそろ参りましょう。夜が明けてしまいますよ」と言った。
「おぉ、そうであった!さぁ、お二人共早くしないと「ウサギの兄弟」に会えなくなってしまいますよ。色々と聞きたい事も、ある事ではございましょうが、まずは牛車にお乗り下さい」近衛兵が二人と翠に、車に乗る様に勧めた時、蓮が「ちょっと待って、牛車は車高がありますけど、僕達はどうやって車内に入るのですか?」と近衛兵に言った。「蓮様、思い出して下さい。ここは感性の世界、頭で考えてはいけないのです。お車に乗りたいのであれば「乗りたい」と思えば、乗れますよ」「あ、そうか、そうだった!すっかり忘れてた。じゃあ・・・」蓮が、「牛車の中に入りたい」と心の中で念じると、蓮の体はフワリと宙に浮かんで、牛車の中へ入っていった。「そう、それでいいのです。お上手でございますよ。さぁ、澪様と龍神様も、どうぞ牛車の中へ」。
近衛兵に促され、澪と翠も牛車の中へと続いて入った。牛車の中は広く、寝転がっても余裕があり、床の畳は新しい。座布団もフカフカだ。車内で二人と一体の龍が雑談をしていると、女官長が「失礼致します」と言って入ってきた。
「では、出発!」近衛兵の掛け声と共に、御簾が降ろされると、牛車は夜空に静かに浮かび上がり、山の向こう側へ消えて行った。
車内では、お茶とお茶菓子が、漆塗りの綺麗なお椀やお皿に美しく盛られ、女官長が「体が重だるく感じませんか?菓子をお召し上がりになれば、体もまた軽やかに戻りますよ」と、蓮と澪に言った。言われてみると、なぜか体が重たい。「どうして?さっきまで体が重いなんて、感じなかったのに」澪が女官長に言うと、女官長は「それは、貴方様方が、この世界の住人ではないからです。この世界は神が住む世界。神界です。本来は特別な許可がない限り、人が来られる様な所ではないのです。時間も空間も、人が住む世界とは全く違いますからね」と言った。
蓮が「月の世界が神界なんですか?」と聞くと、「いいえ、月の世界だけが、神界なのではありません。これはほんの一部。ここは月の神界ですが、他の惑星の核となる部分にも、それぞれ異なる神界があるのですよ」女官長はにこやかに話した。
二人がお菓子を口に入れると、体の奥から温かな光が二人を包み、体が軽くなった。「これでもう暫くは、私共と一緒に時を過ごすことができるでしょう。それにしても、こうしてまた人に会えるなんて、夢の様ですわ・・・とても懐かしい」女官長は着物の袖で目頭を押さえた。
「あの、こんなこと聞いちゃっていいのかな・・・」澪は戸惑いつつ、「女官長さんは、何か事情でもあるのですか?良かったら私達に、話を聞かせてくれませんか?」澪が女官長に言うと、女官長は暫し黙考した後、「昔語りになりますが、ある娘の話を聞いていただけますか?」と言った。澪と蓮が頷くのを見て「では、お話ししましょう」女官長は閉じた扇を片手に語り始めた。
むかし、むかし・・・海の近くに小さな村があり、村人は山から山菜や、土の中に育つ作物を収穫し、時々猪狩りなどもしていました。漁師は海で魚や貝を取り、山と海の幸に恵まれた人々は、秋になると「豊穣祭」を山の上に祀られている神社で毎年行い、土地神様に収穫の感謝をしたのです。
御神前にお供えされた海の幸と山の幸、地酒も供えられ、祭囃子は途切れる事なく夜通し続きました。その神社の宮司には、一人娘がおり名を「あやめ」と言いました。その娘は小さな頃から、人には見えない物が見える子でした・・・。
「ほら見て、父様!神様が降りてこられたのよ」「あやめ、その様な事を口に出して言ってはいけないよ」「どうして?」「他の人は、お前の様に見えたり聞こえたりしないものだからだ」「ふぅん・・・他の人は見えないの?あやめには見えるのに?」「いいかい、あやめ。見えたり聞こえたりしても、その事を他の人に教えたりしてはいけないよ。いいね?」「わかったわ父様、あやめナイショにする。それでいい?」「あぁ、それでよい、いい子だ!」宮司は娘の頭を撫でて、とても可愛がりました。
年月が流れ、16歳になったあやめは美しい娘に成長しました。隣の村の村長の息子の元へ嫁ぐことが決まっていたあやめの部屋には、婚礼衣装が飾られていました。
ある日のこと、海月を見ようと浜辺へとやって来たあやめは、狩衣装束に身を包んだ世にも美しい男性が、月から舞い降りてくるのを見て、ひと目で恋に落ちてしまいました。
麗しいその男性は、月明かりに照らされた海の上をゆっくりと歩き、娘の側を通り過ぎようとしました。「お待ちください!あなたは、どなた様ですか?」咄嗟に、あやめは男性を呼び止めました。
「あなたには、私が見えるのだね。私は、月読尊」と男性は娘に言った。「ツクヨミノミコト様・・・」扇を片手に持った月読尊は、「娘よ、夜遅くに一人で海に来るものではない、早くお帰りなさい」と優しくあやめに言った。
威厳のある声、端正な顔立ちに神々しい姿・・・初めて恋に落ちたあやめは、その日から夜の浜辺へ足を運び、土地神様に「もう一度、月読尊様に逢わせて下さい」と、くる日もくる日も毎日祈りました。「土地神様どうかお願いです。私の想いが、月読尊様に届きますように」と・・・。
婚儀が1ヶ月後に迫り、あやめは「結婚を破談にして欲しいと」と父母に申し出ました。母は突然の事にショックを受けて、その場に泣き崩れ、父である宮司は、そんな娘を叱ったものの、あやめの気持ちが変わることはなく、反対される程、月読尊様への慕情は強くなっていきました。
娘を不憫に思った土地神様は、あやめの夢枕に現れて「お前の祈りを毎日、聞いていたぞ。だが娘よ、そなたの想い人は月の神。人と神は親と子の様な関係ぞ・・・男女の恋慕とは違うのじゃ」と仰られました。
娘は婚儀の前夜「この恋が叶わないのなら、泡沫のように消えてしまおう」と、月読尊様と出会った海に、その身を水底深く沈めて、この世を去って行きました。
娘をとても哀れに思った海の神は、人の魂を作った女神様に「娘の魂を、どうか月の神と一緒にいられる様にして欲しい」と訴願しました。
慈悲深い、海の神の願いを聞き届けた女神様は、作り替えた娘の魂を月読尊様の元へ送り、神でも人でもなくなった娘は、月読尊様が住む水月宮で今も変わらず、月読尊様にお仕えしているそうでございます。
女官長の話を聞き終えた蓮が、「その、あやめという娘が、あなたなんですね?」と聞くと、女官長さんは莞爾してから静かに「そうです」と頷いた。「切ないお話だったわ」澪がハンカチで鼻を軽く抑えた。「ごめんなさい、湿っぽくなってしまいましたね。父様と母様を悲しませた事は後悔していますが、月読尊様の側にいられるだけで、私は幸せなのです」女官長は迷いのない声で言い切った。
牛車が目的地に着くと御簾が上がり、近衛兵が「お待たせいたしました。ウサギがちょうど餅つきをしている最中ですが、さぁ、こちらへどうぞ」と、二人と翠をウサギ兄弟の所へ案内した。澪が振り返ると、牛車から女官長と女官達が手を振って、二人を見送る姿が見えた。蓮と澪が女官長達に手を振り返す。
「あやめさんの様に、命をかけて愛せる人がいるってある意味、羨ましいかも。私は諦めちゃったし・・・」「澪も過去に何かあるのんだ」「うん、まあね。蓮は・・・」「ん、何?」「ううん・・・なんでもない」
暫く野原を移動すると、月の明かりが照らす夜の野原では、ねじり鉢巻きをした二羽の真白な兎が、臼と杵を使って餅をつく音が聞こえた。一羽の兎が「よいしょっ!ペッタン!」杵で餅を突くと、もう一羽の兎が「ほいしょっと!」掛け声をかけながら、臼の中の餅を素早くひっくり返す。「ペッタン、よいしょっと、ペッタン、ほいしょっと」餅を突く音と掛け声が交互に、月夜の野原に響いた。
兎の餅つきを見た蓮が、小声で「昔話で「月で兎が餅を突いてる話」があるけど、あれって、本当だったんだな」と澪に言った。澪は、首を縦に振ったあと、立てた人差し指を口にあてて「静かに」とジェスチャーした。そんな様子に気がついた臼の中の餅をひっくり返していた一羽の兎。「これはこれは、地球から来たお客様。餅つきに夢中で気が付きませんでした。餅も出来上がり、これから月見団子を作りますから、もう少し待ってて下さいね」兎は餅つき作業に戻り、手早く出来上がった餅を小さく丸めると、月見団子を完成させた。漆塗りの器に丸めた団子がピラミッドの様に、絶妙なバランスで積み重ねられている。
二羽の兎はそれぞれ、器にのせた月見団子を蓮と澪の前に持って来た。兎の兄弟、兄の方から「お待たせしました。地球からのお客様。おや?男の方・・・蓮様はどうやら胃腸の調子が良くない様ですね。何かお薬を飲んでいらっしゃいますか?」と、蓮は言われた。「なんでわかったの?実は最近、胃の調子が悪くて、胃腸薬を飲んで寝てたんだ」「やはりそうでしたか!それならば我々兄弟が作ったこの団子を、召し上がって下さい。胃腸の調子も良くなりますよ」「僕、餅を食べるのは、重たい様な気がするんだけど」「大丈夫です。我々を信じて下さい。胃や腸、腰などの人の体を表す漢字には、月の文字が必ず入っているではありませんか?」「まぁ、言われてみればそうだね」蓮は掌に、胃や腸などの漢字を指でなぞって確かめた。
横から翠が「蓮、彼らの言うことは間違いありません。信じて団子を食べてあげて下さい」と助言した。「わかったよ。団子食べるよ。それで、何個食べればいいの?」兎兄弟の兄は、クスッと笑うと「私が貴方のお口に、団子を入れて差し上げますので、口を開けていただけますか」と言った。「はいはい、あーん」蓮が口を開けると、兎兄弟の兄は長めの箸で団子を1つ取ると、蓮の口の中に優しく団子を入れた。団子が淡雪の
様に口の中で溶けると、凭れていた胃の中がスッキリとした。
「これ、美味しい!・・・もう1つ頂戴」思わず蓮は言ってしまった。兎は心得た様に、箸で団子を摘むと蓮の口へ運んだ。ただの餅なのに、なんでこんなに美味しいんだろう。蓮は、月見団子のピラミッドの山が、半分無くなるくらいまで団子を食べた。兎兄弟はニコニコと蓮を見て、「これですっかり、胃腸も良くなるでしょう!」と言った。
夜空の月がだいぶ傾きかけた頃、何処からともなく、上品な伽羅の香りがあたり一面を漂い、花びらが舞い散る中、蓮と澪の前に狩衣装束に身を包んだ、見目麗しい男性が現れた。「あ、あの・・・」目の前の男性が、美しく艶やか過ぎて言葉が出なくなってしまう。「主宰神様?」やっと、蓮が言葉を口にすると、目の前の男性は頷いた。この方が、女官長さんが話していたあの月読尊様か・・・。
気がつくと、蓮と澪以外の皆んなが跪き頭を下げている。蓮と澪も急いで跪こうとすると、神様は「そんなに堅苦しくしなくてよい。名残惜しいが、そなた達に帰る時間が迫っている。いつまでも神界にいてはいけない」と仰られ、月読尊様は蓮と澪にムーンストーンを、お土産にと手渡した。
月読尊様は「この宝石はね、当てにしなかったことが転がり込んで来て、思わぬ幸福をお前達に与えるだろう」と教えてくれた。
月の世界に夜が明け、日が昇る頃になると月読尊様は「さぁ、もう元の世界へお帰り、途中まで見送ろう」と言って、牛車でお見送りをしてくれた。月の上空から遥か遠くに青い地球が見える場所で月読尊様は、「お前の名前が思い出せないと思ったら、どうやらその子達に、新しい名を貰ったようだね?」と翠に言った。「はい、翠という名を貰いました」「翠か、よい名だな」「はい、ありがとうございます。月読尊様」。
翠は身の丈を最大限の大きさにすると、蓮と澪を背中に乗せた。「月読尊様、月の世界の皆さん、ありがとうございました!」蓮と澪は月の主宰神と神様に仕える近衛兵、女官長達、そして兎の兄弟に見送られながら、月の神界を後にした。
蓮と澪が去った後、月読尊様は女官長に「お前は澪の先祖であったのに、何も云わなくてよかったのか?」と言った。「月読尊様、良いのでございます。神でも人でもない私は、澪に先祖と名乗ることはできません」あやめは少し寂しく笑った。
ハッと目を覚ました澪は、両手で自分の身体をあちこち撫でた「私、戻って来たんだ・・・」蓮の部屋の絨毯の上で、神様から貰った宝石は何処にもない。帰ってくる途中で落としてしまったのかと澪は思った。時計を見ると、あんなに月で時を過ごしたはずなのに、蓮と澪が眠ってから、10分しか時が過ぎていない。
この世界と神界と呼ばれている世界は、時の流れが違うのだろうか?蓮が眠ったまま
なかなか起きてこないので、澪は蓮を叩き起こした。「いつまで寝てるの?ほらっ!起きて」「いってぇ!もっとこう、優しく起こしてくれたっていいじゃないか!」「だって、なかなか起きないから・・・ところで胃の調子はどう?」
「胃の調子?」蓮は胃の辺りを手でさすった。「あれ?胃の調子、良くなってるみたいだ!」「それは良かったね。月の世界で兎から食べさせて貰ったお団子が、効いたって事でしょ?」「うん、不思議だけど、信じるしかないね」「ねぇ、帰る時に貰ったお土産、何処にあるのかな?」「ムーンストーンのこと?」「そう、どこに行っちゃったのかな」手元にない宝石。二人は首を傾げた。
「そのことなら大丈夫!」身の丈を縮めて小さくなっていた翠が、澪の頭の上に飛び乗ると、「神様から貰ったお土産は、シンボライズされたものだから心配しなくても、お土産はちゃんと貰っていますよ」と言った。
蓮と澪が月の世界へ行ってから1ヶ月後、蓮は滅多に購入できないゲーム機の本体がネット抽選で当たり、蓮本人も全く当てにしていなかったので驚いた。当選の通知メールが届いた時は、「嘘!マジっ?やったぁ!」と大喜びした。蓮は一頻り喜んだ後で、「あれ?もしかしてこれは、月のお土産効果?」と思った。当てにしてなかったことが転がり込んでくるって、神様が言ってたな。
それから2ヶ月後、蓮がアマ・デトワールに行くと、オーナーの香月響子が謝礼を持って蓮の所へ挨拶にやって来て、「聡太君のお兄さん、遅くなりましたが定休日のお仕事を引き受けていただき、本当にありがとうございました。これ、謝礼です」と、白い封筒を渡された。「少ないけど、何かに役立ててくれたら嬉しいわ」とオーナーは言った。
蓮が家に帰って白い封筒を開けてみると、万札が三枚入っていた。「これは、貰いすぎなんじゃないだろうか」と思ったが、謝礼なので有り難くいただくことにした。これも、もしかして、お土産効果?。
澪は以前に、友達に拝み倒されて「もうきっと、絶対に返ってこない」と思って、当てにせず貸したお金が、全額返ってきた。貸した友達はなぜか、「どうしても返さなきゃ」と言う思いに駆られたようだ。
これが、神様から貰ったお土産の力・・・こんなに、いい思いができるなら、また何処かの神界へ行ってみたい。だが、暫くは変化がない、淡々とした日常を、二人は生活することになり、月の世界へ行った記憶も遠くなった。