カフェオーナーとスタッフ
ある夏の昼下がり、カフェの前に白いレクサスが停車した。運転手が運転席から降りて、後ろの座席のドアを開けているのがカフェの窓越しから見える。やがて「皆さん、ご機嫌よう!」とカフェの左右の扉を、両手で力強く開けてやって来たのは、アマ・デトワールのオーナー香月響子だった。後ろから運転手と思しき人物が、高級そうな木材で出来た箱を、大切に両手で抱えながら入って来る。
「これはオーナー!お久しぶりです。皆を呼びますか?」佐伯がカウンターから出てきて、オーナーに近寄った。「そうね佐伯さん、そうして頂戴、骨董品のティーポットとカップのセットを手に入れたから、みんなにぜひ見てもらいたいの」オーナーは嬉しそうに、運転手が持っている綺麗な模様が装飾された箱を指さした。「さぁ、どうぞこちらへ」佐伯は店内のソファー席に、オーナーを座らせてコーヒーを出すと、従業員を急いで呼びに行った。
従業員休憩室では、澪から試作品の焼き菓子をもらって食べようとしていた聡太、スイーツ工房では、澪とだいきゅんが新商品の試作をしていたが、佐伯に呼び出され、皆店内の客席に集まって来た。
「ところでオーナー、二階の特別室にいる二人のスタッフも、呼んだ方がいいのでは?」佐伯がオーナーに伺いを立てると「あの二人は二階専属のスタッフだから、後日改めてお話しようと思ってるの」とオーナーは言った。「わかりました。では、今回は我々だけですね」「そう、1階フロアのスタッフだけね」。
ソファー席には女王の様に、優雅に座るオーナーの姿があった。オーナーの目の前にはバリスタの佐伯、パティシエの澪とだいきゅん、そしてウエイターの聡太が背が高い順に階段の様に並んでいる。「営業時間中にごめんなさいね。今日は、皆に見せたい物があって来たのよ。まぁ、これをみて頂戴!」とオーナーは言うと、箱の蓋を開けてシルクの布に包まれたティーポットとカップを、丁寧に取り出しテーブルの上に置いた。
「ボンボニエールフランスやリモージュから、リボンに薔薇の花が装飾された優美なティーセットを購入したの。どう?素敵でしょ?」オーナーは上機嫌だ。猫を触る様にティーポットを手で撫でる。
「オーナー、もし僕がこの食器を落として割ったら、一生タダ働きですよね。」と聡太が言った。それを聞いたオーナーは「あら、何言ってるのよ。もちろん落として割って欲しくないけど、陶器で出来ている食器類だもの。いつか割れたり、欠けたりする事もあると思うわ。何かあっても、責任を取らせる様なことはしないから安心してちょうだい!他の人達もね」と、言いながら笑っていた。オーナーの言葉に従業員は皆ホッとした。高級な骨董品を落として割って弁償なんて、何年かかるか・・・。
「さぁ、この食器を使ってお客様におもてなしをしてね。私はこんな店があったらいいなと思って、趣味でこのカフェをオープンさせたの」オーナーはまっすぐな目で皆を見つめた後、パンパンと手を叩き「これで私の用は終わり、皆さん、仕事に戻ってね」と言った。
オーナーが帰る間際に店内を見渡すと、女性客が数名、紅茶とケーキのセットを注文して楽しく談笑したり、ミドル層の夫婦がコーヒーを飲みながら、優雅な時を過ごしている。ウェイターの聡太は、女性のお客様に話しかけられ対応中だ。聡太がモテる事をオーナーは知っている。「聡太君、相変わらずモテるわね」と苦笑いした後、「さて、私、今度こそ本当に帰るわ」と言って、入り口の扉に向かって歩き出した。
佐伯が入り口の扉を開けようとした時、オーナーは思い出した様に「あぁ、そうだ!佐伯さん、今日紹介したティーセットは、アフタヌーンティーのセットを注文されたお客様に使ってちょうだい。それ以外の時は、ガラス製の戸棚に飾っておいて」と言った。「わかりましたオーナー。その様に致します」「あと、もう1つはね」「なんでしょう?まだあるのですか?」「そうよ佐伯さん、まだあるのよ。ティーセットは飾りっぱなしにしないで、お店の定休日を利用してスタッフが交代でティーセットを、シルクの布を使って磨いて欲しいの。磨いた従業員はティーセットを使ってお茶を飲んでいいから」「かしこまりました。私から皆に伝えます」
「それじゃあ、お願いするわ。何かあったら連絡してちょうだい」オーナーは佐伯にそう言うと、満足そうに帰っていった。入り口の扉のガラス窓から、運転手が車のドアを開けて、オーナーを車に乗せる様子が見える。運転手が車のドアを閉めて、運転席に乗り込むと、白のレクサスはアマ・デトワールから静かに遠ざかって行った。
カフェの窓越しから一部始終を見届けた佐伯は、見送りが終わるとカウンターに戻り少し溜まっていた洗い物を片付け始めた。
スイーツ工房から、澪が作ったばかりのフルーツタルトをワンホール運んで来て、カフェ店内にあるガラスケースにフルーツタルトを入れた後、カフェのカウンターにいる佐伯に声をかけた。「涼介さん、響子さん(オーナー)帰ったんだ?」ドリップポットを片手に持った佐伯は、渋めの低い落ち着いた声で「うん、響子さんならさっき帰ったよ」と澪に言った。「それより澪ちゃん、これから定休日に交代で、響子さんが持って来たティーセットを磨く仕事ができちゃってさ」佐伯が少し渋い顔をしながら澪に話した。
「定休日に仕事?それはちょっと怠いなぁ」「でしょ?だからさ、定休日にティーセットを磨いたスタッフが別の日に代休を取れる様に、俺から響子さんに話すよ」「うん、それなら皆、納得してくれるんじゃないかな。定休日に予定を立てているスタッフもいるかもしれないし、当番を早めに決めよう!」澪が佐伯に提案した。
「どうする?今ならお客さんもちょうど居ないし、皆を呼んで決めようか?」「そうだね。私、だいきゅんと聡太君を呼んで来る!」澪はだいきゅんと、店の二階でテーブルを拭いていた聡太を呼びに行った。
かくして、佐伯さんの前には澪、だいきゅん、そして聡太の三人が先程と同じ様になぜか背の高い順に階段の様に並んでいる。「皆、もう一度集合させて悪かった。実は・・・」と、佐伯はオーナーが持ってきた骨董品のティーポットを、スタッフが交代で定休日に磨く仕事ができた話を始めた。
佐伯の話を一通り聞いた後「俺は特に予定が入ってないから、大丈夫です」と黒瀬は言った。「僕は2週間後の定休日、予定が入ってて・・・その日はちょっと。でも、大丈夫です。強力な助っ人がいますから。」と、言ったのは聡太だった。「聡太はデートか?で、その強力な助っ人って誰なの?」佐伯が聡太に聞いた。「それは、カフェ常連客になった僕の兄です。」佐伯は腕組みをしながら「蓮君か!我々とは顔見知りではあるけど、蓮君はOKしてくれそう?そうなったら、臨時のアルバイトで入ってもらうよ。ただ働きさせると後から響子さん(オーナー)に叱られるからね」と言った。「大丈夫です。兄がティーポットを磨く仕事を引き受けてくれる様に、僕からお願いしますから」聡太は自信がありそうに佐伯に話した。「それで、蓮君からの返事はいつ頃わかる?」「明後日までにはわかる様にします」聡太と佐伯のやりとりを見ていた澪と黒瀬は、なんとなく顔を見合わせた。
夜9時頃に蓮がお風呂に入っていると、リビングからスマホの着信音が微かに聞こえた。「誰だろう、友達かな?後でこっちから連絡すればいいか」そう思った蓮は、1時間くらいiPadを使ってYoutubuの動画を見ながら、ゆっくり湯船に浸かった。
風呂から上がって、首からバスタオルをかけた蓮が、冷えた炭酸水を飲みながらスマホの画面を見て見ると着信が3件、LINEが1件来ていた。着信の履歴は、3件とも弟からだった。LINEには「兄ちゃん、お願いがあるから電話出て!」と号泣した顔文字と共にメッセージが入っていた。
何だろう、急いでいるみたいだが?蓮が聡太のスマホに電話すると、聡太はすぐ応答した。「聡太かLINE見たよ。で、お願いって何?」と蓮は言った。聡太はオーナーが持ってきた骨董品を、従業員が交代で定休日に磨く話をした後、2週間後に自分の当番になるが、用事があって出来ないから、僕の代わりに臨時でアルバイトをしてみない?と言った。
話しを聞いた蓮は「お前の用事ってなんだよ」と聡太に聞いた。「僕の用事、言わなきゃ駄目?」「なんだ言いづらいのか?じゃあ、お前の言える範囲で言ってみろ」「わかったよ兄ちゃん、僕、先週彼女と喧嘩してさ、やっと仲直りできたから二週間後のデート、キャンセルしたくないんだよ。そう言う理由だから!ね、お願い!」聡太は願意を述べた。
「あ、そうだ兄ちゃん。ティーポットを磨いた後は澪さんが、美味しいスイーツと、お茶を用意してくれるってよ!」聡太が蓮に餌をちらつかせる。ふ〜ん、そうなのかどうしよう?蓮は少し考えた。別に仕事に困っているわけではない、しかし、澪のスイーツはとても魅力的だ。
「餌に釣られた感じだけど、仕方ない、今回だけ引き受けてやるよ」「ありがとう!兄ちゃんマジ助かる!明日、佐伯さんに話すから、また連絡するね」「わかったよ。でも、本当に今回だけだぞ!」「わかってるよ!じゃあまたね。おやすみ」聡太は電話を切った。それにしても、ティーポットを磨くアルバイトなんて、世の中には色々な仕事があるものだ。
気が付くと、モカがリビングの絨毯の上で転がっている。「モカ、モカちゃん」蓮が猫の名前を呼ぶと、彼女は尻尾だけをフリフリと振って、顔を上げなかった。ほっといてくれと言っているようだが、モカに触りたい。モカのお腹を撫でようとしたら、軽く猫パンチされてしまった。「今日は、もう寝る」愛猫に軽く拒否されて、ふてくされた蓮は、洗面所に行って歯を磨き、首にかけたタオルを洗濯機に放り込むと、ベットにダイブした。
次の日、アマ・デトワールに早めに出勤した聡太は、佐伯に蓮が定休日の臨時アルバイトを、引き受けてくれた話をした後、「バイトした後、澪さんが美味しいスイーツとお茶を出してくれるって言いました」と付け足した。
佐伯がシフト表を見ると、2週間後の定休日に、聡太と仕事を組んでいたのは、澪ではなく佐伯だった。「聡太でも、勘違いすることってあるんだね」佐伯にそう言われて、聡太がシフト表を慌てて確認すると、2週間後の定休日にティーポット磨きの作業を組んでいたのは、「聡太と佐伯」だった。自分の勘違いだ!顔が青くなる聡太を見て、佐伯は澪に事情を話した。その後、シフト表の定休日の欄は1週間後「佐伯と黒瀬」がペアとなり、2週間後は「蓮と澪」がペアとなった。
佐伯はスタッフルームからカフェ専用のパソコンを使って、メールの本文に修正したシフト表の画像を添付すると、オーナーが所有しているノートパソコンのアドレスにメールを送信した。暫くすると、佐伯のスマホにオーナーから連絡が入った。
「佐伯さんお疲れ様、私よ。早速だけど臨時のアルバイトの件、労働基準的に1日だけの日雇いって原則駄目でしょ?でね、考えたんだけど色々と面倒だから、私個人から聡太君のお兄さんに仕事を手伝ってくれた謝礼として、1日働いた分の賃金をお支払いするわ」「そうですか、謝礼にすると言う案は、私もいいと思いますよ。」「でしょ?それにしてもまさか聡太君が、お兄さんを引っ張ってくるなんて思わなかったわ。こちらとしては、お手伝いしてくれるから大助かりだけど・・・お兄さんに気を悪くさせたりしてない?それだけが心配ね」「オーナー、その件なら心配しなくても、大丈夫です。「ティーポットを磨く作業が終わったら、澪ちゃんの美味しいスイーツ付きのお茶が出る」って聡太の奴、蓮君(お兄さん)に話したみたいですから」「フフッ、そうなの?まぁ、聡太君は頭のいい子だし、抜かりがないから心配する必要はなかったわね。後は、謝礼をいつ渡すかだけど、お兄さんの都合がいい日を聞いておいてもらえないかしら?私、謝礼を直接、手渡ししたいの」「わかりました。蓮君の都合は澪ちゃんに聞いてもらいます」「了解しました。あとは?何かある?」「いえ、ありません」「それじゃ、お店のことお願いするわね」オーナーは早々に電話を切った。
定休日のシフト調整が済み、代休をいつ取るかについては、急ぎじゃないから徐々に決めればいいと思った佐伯は、スタッフルームを出るとカウンターへ戻り、黒いエプロンを付けると、コーヒー豆の補充に取り掛かった。黒瀬がレアチーズケーキをトレーに乗せて、店内のガラスケースに入れる為に、佐伯がいるカウンターの前を通り過ぎて行ったがまた戻って来ると、佐伯に声をかけた。
「涼介さん、定休日のシフト調整、響子さん(オーナー)からOK出ましたか?」「あぁ、それなら響子さんに、シフト表はメールで送ったし、OK出てるよ!いいってさ。聡太の代わりに、臨時でバイトに入ってくれる蓮君のバイト代の話もしたし」「そうですか、それは良かった。」「もうさぁ、色々調整したりメールしたりでさすがにくたびれたわ!」「それはすいません。俺達、涼介さん頼りだから・・・精神的に負担ですよね?」「いやぁ〜職場が大所帯じゃないから、それでもまだ何とかなってる方よ。ところでだいきゅん、澪ちゃんは?」「澪さんですか?スタッフルームで業者宛に、食材の発注をかけているのを見かけましたけど?」「そうか、それなら、だいきゅんに頼みがある」「俺にですか?なんでしょう?」佐伯はカウンターから出ると、黒瀬の近くに寄ってきて、「澪ちゃん、蓮君と定休日にペアを組んで、ティーポット磨きをするだろ?その事で響子さんが、蓮君に直接謝礼を手渡したいって言っててさ」と、話を切り出した。
塩顔に涼やかな目をした黒瀬が、黙って話を聞いている。佐伯は話を続けた。「だから、ペアを組んでいる澪ちゃんに事情を説明して、蓮君の都合がいい日を澪ちゃんから聞き出してもらいたいんだ。で、この話を澪ちゃんに伝えて欲しいんだけど、頼めるかな?」
黒瀬は心得顔をして「頼みって言うから、何かと思ったら・・・澪さんにその話、伝えておきますよ。とりあえず俺、用事が済んだら工房に戻ります」と言って、レアーチーズケーキを、ガラスケースの中に入れると工房に戻った。
黒瀬の後ろ姿を見届けた佐伯が、再びカウンターへ戻ろうとした時、入り口の扉が開いて、スーツを着た男性客が二人来店した。「いらっしゃいませ」佐伯の深くて落ち着いた声は、心地よく店内に反響する。
聡太が男性客を席に案内している。ここ数日、暑い日が続くせいなのか、アイスコーヒーを注文するお客様が多い。佐伯はカウンターに戻ると水出しコーヒーと、氷が足りているか業務用冷蔵庫を開けて、中身を確認した。とりあえず今の所は大丈夫そうだ。アマ・デトワールの1日は結構長い。