バタフライ・エフェクト
なにも起こらない、平凡な人生を送るなんて難しい。皆、何かしら日常の中で大なり小なりの問題が起り、悩んだり葛藤したり、受け入れたり、時には逃げ出したりしながら山あり谷ありの人生を送るものだ。
7月に起こった惑星直列。今までのやり方では、通用しなくなった世界。変化を受け入れ前に進む者、変化に戸惑い、立ち竦んだまま動けない者。世の中の流れが変わって行くのに、僕の日常は相変わらずなにもない。
人生の変化は、どうやって起こるんだろう?僕はゴミ屑クズだから、楽しい事や好きな事をして生きていたい。かと言って、何かを極めたわけではなく、興味を強く引かれないと物事に打ち込まない。熱が覚めたら、折角今までやってきた事も放り投げ、そのまま放置。この世に生を受けて28年、こんな自分が時々とても嫌になる。でも、僕は僕にしかなれない。
暑夏の何処までも晴れ渡る大空に、心を解き放ち想いを描く。遥か遠く、異国の地で優雅に羽を広げる蝶々、羽の振動は届いた者の人生に、微かな変化を与えるのではないかと。馬鹿馬鹿しい話だと君は思うかい?これはね、気象学者のエドワード・ローレンツが、「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも、遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という問い掛けを、ネタにした空想だ。
そんな僕が体験した夢の様な夢ではない話を、これからしようと思う。家族や友達に話をしても、きっと信じてもらえないだろう。だから、この話は僕と君だけの秘密だ。
まずは、僕の自己紹介から。名前は高杉蓮。年齢は28歳、家族構成は父と母、10歳下の弟が一人。現在、実家から離れて東京の片隅で一人暮らし中。彼女いない歴11年近く、もうすぐ1歳になるスコティッシュ・フォールドの雌ネコを一匹飼っている。名前はモカって言うんだ。
僕は普段、家から外にほとんど出ない。食料品や欲しい物を通販に頼っている。だから外に買い物に行く機会が少ないし、コンビニを利用する時はあるけど、お酒を呑む時にグラスの中に入れる、ロックアイスを買いに行く事くらい。こんな話をすると、僕が何をしている人なのかちょっと気になるだろ?
普段は、自宅で設計図を作成するのが仕事。パソコンを使用して作業するから、会社には会議がある時しか出社しない。
リアル以外では、気が向いた時にYoutubuを使ってゲーム実況をしたり、顔出ししないでリスナーとチャットを使用した雑談生配信をしていたけど、今はほとんど活動休止状態。ニートじゃないけど、自称ニートっぽいユーチューバーさ。
朝は自分で起きる時間を決める事ができるし、職場の人間関係や柵に心をすり減らして、精神を消耗する事もない。やっと手に入れた悠々自適の生活。
不思議な体験をする前の僕は、1Kの部屋でこのまま何の変化も刺激もない、平凡な人生を何十年か生きた後、やがて砕け散っていくのだろうと思ってた。でも本当は心の奥で変化をもたらしくてくれるキッカケを求めてた。
君達は僕に長い間、何故彼女がいないのかが気になっているんだろ?いいよ、話してあげる。但、話が長いからそこだけ勘弁して欲しい。
僕は女性が嫌いなわけじゃない、男性として普通に女性に興味はあるよ。でもさ、僕は女性と話すと緊張するし、好きな娘だと意識し過ぎて話しかける事ができないんだ。いつも足長おじさんみたいに、好きな娘を遠目から優しく見守るだけ。行動を起こさないから、他の誰かに好きな娘を取られる。街で好きだった娘が、他の男とデートしているのを見かけては落ち込んだ。もちろん、言われなくても、行動を起こさない僕が悪いことはわかってる。
当時はリア充じゃないと思っていたけど、こんな僕でも、高校生の時は彼女がいたんだ。今思うとリア充だったよなぁ・・・。戻れるならあの頃に戻りたい、でも、もう戻れない。
僕と当時の彼女は高校二年の夏休み、僕の友達と、友達の彼女の四人で一泊の温泉旅行に行く計画をした。僕は家に帰るとすぐ親に相談した。親は「自分で稼いだお金で行きなさい、それなら、友達と旅行してもいい」と、言ってくれた。条件付きで旅行を認めてもらった僕は、学校が終わると毎日、アルバイトして旅費を稼いだ。
そして人生で初めて、自分で稼いだお金で熱海に行った。僕らは夏だし海があるし、親の目が届かない非日常の中で、いつもより大胆で気が大きかった。自分達が世界の中心にいる様な気がした。その時、その瞬間、僕達に恐いものは何もなかった。
その日の夜、熱海の海岸では盛大に花火が上がり、夜店が沢山出店していた。友達カップルと僕達は、別行動で夜店を見て回り、彼女がパステルカラーのコットンキャンディを売っている夜店を見つけて、僕に手招きをした。「ねぇ、あれ可愛くない?」コットンキャンディを指差しながら、子供の様にはしゃぐ彼女を可愛いと思った。「欲しいなら、買ってあげようか?」「ほんと?いいの?」「いいよ、ちょっと待ってて」
僕は、カラフルなレインボーカラーのコットンキャンディを買うと、「はい、これ」と彼女の前に、コットンキャンディを差し出した。満面の笑みで「ありがとう」と言った君を、思わず僕はギュッと抱きしめたくなったけど、人前だから我慢した。
夜店の灯り、子供のはしゃぐ声、下駄が石畳と接する時に響く、カランコロンという音、赤くて艶々したリンゴ飴に、焼きそばのソースの香り。夜空に浮かぶ三日月が、僕達を見守っているように思えた。
花火大会が終わると、彼女と友達の彼女は先に宿泊先の宿へ戻り、僕と友達は開放感から酒を飲み過ぎて、ほろ酔いと言うよりも素晴らしく出来上がっていた。
こういう話をすると「未成年なのに、お酒を飲んだのか!」と怒る人がいるけれど、そこの所は10年も前の話なので、黙認いただきたいと思う。
さて、話を戻そうか。酒を飲み過ぎてすっかり出来上がった僕は、宿泊先の温泉宿に向かう途中の緩やかな坂道を歩きながら、気分は高揚していた。
宿に着いて部屋に入ると、彼女がローベットの上に座ってTVを見ていた。「遅くなってごめん」と僕は彼女に言った。彼女は、「なかなか帰ってこないから、少し心配してた。春人君とだいぶ飲んだんじゃない?」と言った後、見ていたTVを消した。
それから僕達は当たり障りのない話をしたけど、何を話したかなんて覚えてない。余裕もなかったし、僕は「致すこと」で頭がいっぱいだった。
緊張している事を悟られない様に、僕の横に座る彼女の腰に手を回して優しく抱きしめると、彼女の髪から甘い香りがした。その香りは時を経た今でも思い出せる程、記憶に残っている。
その夜、僕達はとても甘美な時間を過ごした。と、言いたいところだが、現実は違った。気持ちはあるのに、僕の身体が反応しない。異変に気付いた彼女も、なんて言ったらいいか言葉を見つけられなかったのだろう。戸惑う君の表情、焦る僕。結局どうにもならなくて、僕は彼女から離れてベットの端に座った。
気不味い空気が、身体中に纏わり付いて離れない。彼女は僕に「蓮、もういいよ。寝よう」と一言だけ言った。
温泉にゆっくりと入る気にもなれなかった僕は、彼女の側にすぐ戻った。明かりを落とした部屋の中、背を向けて寝る君に触れることができなかったのは、躊躇いを感じていたから。あの時、どんな対応を君にしていたら良かったのかな。彼女の隣で熟睡できない僕は、寝返りばかりして朝を迎えた。きっと彼女も眠れていなかっただろう。気不味いままの僕達は、宿で出された朝食を食べた後、帰りの電車の中も会話は弾まず。空気を読んだ友達カップルが、色々と気を使ってくれて助かった。
「大人の階段」を登れなかった僕は、夏が終わると同時に、彼女から「別れようと」告げられた。ずっと後になって、お酒を飲み過ぎると、男性の機能が役に立たなくなる事を、Youtubuで雑談ライブ配信をした時に、男性リスナーから教えられた。今更わかったところで、もうあの頃には戻れないのにね。
当時付き合っていたあの娘は今、どうしてるだろうか。傷つけてごめん・・・本当にごめん!願わくば僕との思い出を笑い話にして、他の誰かと幸せになっていて欲しい。
こうして僕、高杉蓮は高2年の夏から11年の間、女性に全く縁がなかったわけではなかったが、好きな女性に話かけられないから、好きな人とは付き合えない、なぜか自分を好きになってくれない娘を好きになる。
好きじゃない娘に「好き」と言われて、何となく「付き合ってもいいか」と、その場の雰囲気に流されて付き合ったものの、すぐに冷めて「ごめん、やっぱり別れよう」と僕から別れを切り出すパターンを繰り返し、未だに「大人の階段」を登れず、その間に友達は次々と結婚して行った。
女性から見ると、僕という男はマイペースの気分屋で、扱いづらさから「ダメンズ」と言われる部類に入るのだろう。「高杉蓮=草食系男子」という文字が、頭の中に浮かんで消えない。
或る日の夜、仕事の合間の気分転換に僕がベランダに出て、タバコを吸っていた時のことだった。隣の部屋から「むらさきアーマー!むらさきアーマー!」と言う男の声が頻りに聞こえてきて、僕は落ち着かなかった。「むらさきアーマー持ってるよ!」隣の部屋から、興奮気味に叫ぶ声が聞こえる。
以前に外出先から帰ってきて、玄関のドアを開けようとした時、隣人がちょうど出かけようとしていたのか、玄関のドアを開けて出てきたことがあった。軽く目が合ったから愛想もなく会釈をすると、隣人も愛想のない会釈をした。
社交辞令というのか、鉢合わせして無視するのも気まずいから、仕方なく挨拶した感じだ。遭遇したらとりあえず、挨拶する程度しか接しない隣人、何をしているのかわからない人。
隣の部屋の窓からカーテン越しに、溢れる明かりとは対照的な暗いベランダ、「隣の奴、ネットゲームでもやってんだろうな」と、僕は心の中で思った。口に軽く咥えたタバコの煙が揺れながら、夜空に登って消えて行く。
僕の住んでいるマンションは、大通りから少し奥に入った場所に建てられたマンションだから、夜は車の騒音もなく比較的静かだ。すぐ近くには緑が生茂る公園があり、7月のこの時期は当然だが虫がいる。タバコを吸っている今も蚊が来て、手で追い払っていたがさすがに限界がある。
これでは、ゆっくり煙草も吸えないと思った僕は、タバコの吸殻を携帯吸い殻入れに少々乱暴に押し込むと、早々に部屋の中へ退散しようとしたその時だ。
突然、公園の草木がザワザワと揺れて突風が吹いたと同時に、何かがバサっと僕の後頭部に覆い被さってきて、思わず「うわっ!」と声を上げてしまった。
部屋の中ではキャットタワーの最上階から、香箱座りのモカが頭を上げて不思議そうにこっちを見ている。「あービックリした!何かと思った」足元に落ちたA4サイズの紙を拾って窓を開けると、窓際までモカが走り寄って来る。僕はモカがベランダに出ない様に、急いで部屋に入ると窓を閉めた。
突風で乱れた髪を手で直し、タバコをテーブルの上に軽く放り投げた。拾った紙を改めて見てみると、それは最近オープンしたばかりのカフェのチラシだった。「え〜なになに、「cafe salon de The amas d etoiles(カフェサロン・ド・テ「アマ・デトワール」)」だって?こんな東京の外れにカフェか」カラー画像には、本格的なカウンター席、大きな丸いウッドテーブルに、座り心地の良さそうな椅子やソファーが、隣との距離を気にせずにゆっくり過ごせる様に配置され、グリーンが向かい側の席の人と視線が合わせない様に、上手に置かれていた。フランス製のアンティーク食器を使い、提供されるスイーツや紅茶。洋食器メーカーのタケノリにオーダーして作成した「星」をモチーフにした食器類が、オーナーの並々ならぬこだわりを感じさせる。ここまでこだわると、素人が見てもお金に糸目をつけてないのだけはわかる。このオーナーは尋常ではないくらいのお金持ちなのだろうか?
照明も、星や月をモチーフにしたオレンジライトが、優しい光を店内に灯している。飲食ができるだけではなく、テイクアウトができるスイーツや珈琲豆も販売しているようだ。
キャットタワーにいた筈のモカが降りてきて、リビングテーブルの上に飛び乗ると、僕が読んでいるチラシにちょっかいを出してきた。「だめだよモカ!」軽く嗜めたがモカはお構いなしで、片手でチョイチョイと、チラシに軽い猫パンチを繰り返す。僕は仕方なくモカを抱っこして、テーブルから床に降ろした。床に下ろされたモカが、今度は僕の足にちょっかいを出し始めた。やれやれ、困った女の子だ。
ちょっかいを出すモカを、片手で相手にしながら、A4サイズのチラシに記載された顔写真付きのカフェオーナーからのメッセージを黙読した。
「このチラシを手に取って見て下さった皆様に、まずは感謝を申し上げます。この土地で私は生まれ、幼少期を過ごしました。今は亡き祖父から譲り受けたこの土地に、お洒落で贅沢なカフェをオープンさせることが、私の長年の夢だったのです。
極上のスイーツを作る当店専属のパティシエと、こだわりの珈琲と紅茶を提供する当店専属のバリスタが、皆様のお越しをお待ちしております。また、従業員は接客マナー等、きちんと教育しておりますので、安心してご来店下さいませ。スタッフ一同、いつも温かなおもてなしをさせていただきます。cafe salon de The amas d etoiles オーナー香月響子。
「ほぅ、女性のオーナーか、なるほどな」メッセージを読み終えた僕は呟いた。香月響子は目力の強い逆三角形の顔に、おでこを出した黒髪のセミロングで、体型は細身の如何にもやり手という感じの人だった。「試しに珈琲だけでも飲みに行ってみるか・・・で、場所は?」
僕はチラシの右端に記載されていた地図を見た。大体の場所は把握したけど、もう少し詳しく調べるならGoogle検索で「地図」を見るのが一番だ。僕はスマホを使ってカフェの場所を調べた。僕の住んでいる所から、カフェまでは歩いて20分程、と言ったところか。こんな近所に、カフェがオープンしてたなんて知らなかった。僕は基本が引きこもりだし、カフェなんて誰かと一緒じゃなければ、入る機会はほとんどない。
場所も確認できたし、僕の気が変わらない内に出かけてみよう。取り敢えず、今日はもう遅いし寝るか。テーブルの上のデジタル時計に目を向けると、時刻は12時を回っていた。いつの間にか、僕の足にジャレついていたモカも流石に遊び疲れたのか、ベットの上で丸くなって寝ている。
僕は洗面所に行って歯磨きをした後、ベットの上で寝ているモカを猫用のベットに移動させると、ベットに潜り込んだ。部屋の明かりを落とすとカーテンの隙間から、外の明かりを微かに感じた。「おやすみ」僕は、いつの間にか眠りに落ちていた。