第四部 98
こずえはその後も変わりなく貴史に接してきた。特に馴れ馴れしくするでもなく……いや、もちろん下ネタ攻撃は日常的だが……美里に対してもいつも通り仲良しの関係を保っていた。オムライスデート後に特段何かが起きたというわけでもなかった。
──まあ古川も大変だってことはよっくわかった。
貴史にとってはそれだけのことだった。口には出さないが高校進学してもこの関係はずっと変わらないものだろう。人間いろいろ事情ありなのはわかっているし、大事件でも勃発しない限りはこのままでいいんじゃないかと思っている。
──さってと、現実問題はこれからだ!
残り二日間、ひたすら卒業式の事前準備に明け暮れる日々。
天羽、難波、更科との三名とも、卒業証書授与時の仮装についてそれなりに打ち合わせはした。一応「仮装」という枠までは用意されているのだが、各クラスの評議コンビが何に化けるのかについては、現在のところ機密事項とされている。もちろん貴史も美里も決して口には出さない。放課後ダッシュで自宅に戻り、貴史宅の車庫で美里と組んで毎日獅子舞もどきの練習に取り組んでいるなんてことは、絶対に言えない。
「準備はどうだい皆の衆」
放課後、男子評議三人の中に迎え入れられ中庭で会議が行われた。天羽が鼻の下をこすって問いかける。
「万端だな」
「ほう、ホームズはやっぱりホームズかよ」
「と、言いたいところなんだが衣装がな」
あっさり手の内をばらした難波だが、これは仕方ない。難波イコールシャーロック・ホームズである以上、それ以外の仮装を期待することなぞ出来はしない。
「ホームズさ、衣装で悩んでるんだよ。ほら、シャーロック・ホームズの鳶のマントあるだろ。あれがなかなか手に入らないというか、あっても高すぎて買える金額じゃないんだよ」
更科が助け舟を出した。
「そうだわなあ、あんなコート手に入れられるわけねえよ。難波、どうするんだよ」
「方法はひとつある」
両腕を組み、足踏みする難波は、貴史を見た。
「この学校内でただひとり、俺の理想とするコートを羽織った奴がいる」
その一言で何を言いたいかがわかる。
「ああ、立村な」
「あいつ今日も例のコートで来てたよな」
立村のファッションセンスは入学当時から少し青大附中の生徒とはずれているところがあった。決して奇抜な格好というわけではなく、過剰に礼儀正しすぎるといった方が正しい。校則に違反するわけでもないのだが、あまりにもかっちりしすぎていて「中学生らしくない」と評価されてしまう。もっとも南雲率いる規律委員会からは立村の感性を評価されていて、評議委員長就任時記念号の「青大附中ファッションブック」ではわざわざ写真撮影までされていた。冷ややかな笑いが多かったことは頷ける。
「あいつがいればすべてが丸く収まるんだが」
「てか、ホームズ最初から立村がいる前提でホームズ仮装考えてただろ?」
更科のけらけら笑いつつ問いかける姿に、少しむっとしたのか難波は黙った。
「けど、あいつ風邪ひいてないだろ。じゃあな、ちょっくら立村に頼んでコート借りるか」
「いやそれも避けたい」
矛盾したことを難波は答える。
「そうしたら俺がホームズ演じることがばれるだろ」
「いやとっくの昔にみなばればれだと思うがなあ」
貴史の言葉なぞ聞いていない。難波はぐるぐる回りながら、
「できれば卒業式の入場の時だけあいつのコートを借りることはできないか?」
「無断借用か?」
天羽も驚いた口調で問いかける。
「それしかないような気がする。俺は中途半端な格好で出るのは嫌だ。仮にもかのシャーロック・ホームズを演じる以上はな。そして立村のコートはまさに理想そのものだ。羽飛、『奇巌城』覚えているだろう、ビデオ演劇を。あの時の立村はまさに、ホームズのステレオタイプを体現したものだった。俺は今、改めてそれを」
──熱いぞ難波、悪いがこの場の雪が溶けるぞ。
結局話し合いの結果、貴史は難波のために一肌脱ぐことにした。
「わあった。俺が立村のコートこっそりお前のとこに持ってくからな。ただしあとであやまっとけよ。あいつにぶっつり縁切られても知らねえぞ」
しばらく四人で打ち合わせという名の馬鹿話に興じたあと、さすがに身体も冷えてきたので中庭から脱出しようとした時だった。
「おい、あれ見ろよ」
難波が顎でしゃくって巨大な石の固まる一隅を指差した。
「南雲じゃねえ?」
「それはわかる、けどあの面子、いったいなんだ?」
声が届かない距離ではあるが、南雲を囲む二人の女子がなにか不穏な雰囲気を醸し出している。体型のフォルムでひとりは誰だかすぐにわかったが、もうひとりが解せない。
「ねーさんじゃねえの」
「ねーさんだってのはわかる」
誰もが奈良岡彰子のことを「ねーさん」で済ませているところが怖い。
「じゃああとひとりは」
「さあ、近くで見るか」
天羽が含み笑いをしながらちらと貴史を見やった。
「ここは悪いが四人で高見の見物と行くか」
難波、更科も天羽に続いて大きく頷いた。
「そうだな、これはチェックしないとな」
「義務だよね」
三人が頷き合う理由がよくわからない。どうもこいつら三人は南雲を囲む泥沼三角関係に興味津々のようだった。南雲と奈良岡が学内一のラブラブカップルだったこと……あえて貴史は過去形で認識しているが……、しかし南雲は以前一年上の先輩とかなり高度な付き合いをしていたとのこと、さらに貴史しか知らない事実もあって奈良岡が現在想いを寄せているのが自分自信だということ。できれば関わりたくない内容だらけではある。
「羽飛、お前も来るだろ」
「盗み聞きするのか? それちょいと趣味悪いだろ」
「いや、羽飛、これはお前の義務だ」
難波があっさり切り捨てた。
「今お前はD組の代表だろう。クラスの不穏な雰囲気を感じた段階で事実関係を確認する必要がある。あの二人はD組の生徒で、いろいろと噂も漂っているはずだ。本来なら評議委員の立村が担当すべきだがあえてそれは何も言わない。とにかく、こっちに来い」
「けどばれたらどうするんだよ」
さすがに貴史も人の恋路を邪魔する気はない。たとえ南雲が虫の好かない奴であってもだ。人間、それは終わってしまうような気がする。
「しつこいようだがこれは評議としての義務だ、行くぞ」
難波の強引さに負け、貴史は巨大石の三人組が語り合っている場から反対側の中庭出口で、上靴にくっついた雪を払った。天羽たちのあとをついて反対側の一年廊下までそそくさと歩いた。
──知らねえぞ。こんなのが評議の義務なのかよ。立村、まじで地獄だったのかもなあ。
評議三人が足を止めたのは、一年D組のあたりだった。窓がかすかに空いている。外の雪も外はだいぶ溶けかけているが、中庭はまだざっくり積もっている。特に座れる石の並んでいるあたりはすっかり黒く染み付いた雪が固まってい
「俺たちもしゃべってる振りしような」
「しゃべってるだろ」
不毛なつっこみを返しつつ、壁に持たれた。難波が小声で説明する。
「この場所は意外と声が聞こえるんだ。俺も今までは意識していなかったが、廊下で偶然たむろっているといろいろな情報が入ってくる。お前はD組だし気づいていたと思うが」
「いいや、まさか」
考えたこともない。難波は勝ち誇った顔で反り返った。
「この場所は俺たちもなんとなく集まりやすくてよく秘密会議なぞしたものだが、実は筒抜けだということも多いらしい。まあ意識してこのあたりに張り付く奴なんかよっぽどのことでもなければいないがな」
しっ、と指をあて、難波は天羽と更科、ついでに貴史も輪に呼び寄せた。
「手帳を開け。それで指差しながら何か相談している振りしろ。ただ口は聞くな。そのままだぞ」
言われた通り旨ポケットから手帳を開き、意味もなくページをつついた。ちなみに貴史の生徒手帳は一度も中に書き込みをしたことがない。単なる身分証明書以外の何者でもない。
難波の言う通りだった。
とんでもないこれは筒抜けスポットだった。
──あきよくん、ありがとう。
どういう流れでこの三人が集っているのかがわからない。表情ももちろん伺えない。ただほっこり笑顔を保ったまま奈良岡が女好きミーハー野郎の南雲に語りかけているのだけは想像がついた。
──私ね、もうこの学校を卒業するけれど、どうしてもふたりに伝えたかったんだ。
「ふたりって誰だよ」
またしっと難波、天羽に制された。更科が囁いた。
「ほら、南雲の本当の彼女」
「ああそっか」
だいたい見当はついた。奈良岡はさらに語りづづけている。途中で、
──奈良岡さんも、なんで私なんか呼び出したのよ。
大人っぽい口調の、いかにも南雲の彼女としては完璧な女子の声がする。
──私、今まであきよくんといろいろ噂されていて、きっと水菜先輩には迷惑をかけていたと思うんです。確かに私は、あきよくんとよいお友だちだったし、今でも大切な人だと思っているんだけど、でも違うんですよ。
「あきよくん、かよ」
「ねーさんはそう呼ぶんだよ」
天羽と更科が言葉を交わす。
──あのさ、彰子さん、俺、決してその、あの。
──それで、あなた、何言いたいの。
南雲の慌てっぷりが伝わってくる。あの狐っぽい髪型と一緒にきざなポーズをしながら、どうやって奈良岡に返事しているのだろう。貴史の記憶する限り、中学二年から三年修学旅行終了までの南雲は奈良岡べったりで愛に溢れていた。周囲の南雲ミーハーファンたちが激しく嫉妬するのと同様にだ。
水菜さんと呼ばれた女子の台詞がずいぶんと蓮っ葉だが、これはやはり三角関係のもつれだろうか。そうなると場合によっては貴史が割り込む必要が出てくるのかもしれない。まさかとは思うがこの評議三人組、貴史にそこまでの可能性を読み取って連れてきたということか。それとも評議同士ではごく普通のことなんだろうか。
──私は、ふたりがこれからも楽しく過ごしてほしくって、だから変な誤解がこれ以上続かないようにって、それだけを伝えたかったんです。
奈良岡は聞かれていることを知ってか知らずか、さらに天使の言葉を放つ。
──だから、二人に仲良くしてほしいってこと、それだけをきちんと伝えたかったんです。周りの人たちは今だにあきよくんのことを誤解している人もいるけれど、本当は誰よりも水菜先輩のことを大切にしていているってことを、私から伝えたいんです。
思わず四人で顔を見合わせた。
「なぜ、愛のキューピットしてるわけ?」
「さあ?」
「身辺整理?」
みな好き勝手なことをつぶやいているその時だった。
──奈良岡さん、ありがとうって言いたいところだけど。卒業する餞別としてアドバイスしとくわよ。
いかにも不良っぽく、テレビドラマの口調で水菜先輩と呼ばれた女子が答えるのが聞こえる。
──あなたが噂に違わぬ保健委員の天使だってことはよっくわかったわ。秋世もしつこいくらい私にそれ言ってたし。
──そんなことないんですが。
──水菜さんやめろよ。
いかにも三角関係の泥沼状態。隠れている貴史と評議三人組は手帳で自らの鼻を隠しさらに壁へ張り付く。
──あなたたちが二年間付き合ってきたってことはみんな知ってるしそれでどうしたというのはどうでもいいのよ。今はお互い秋世と付き合ってるのは私だし。
──水菜さん!
完全に南雲はかやの外。「しゅうせい」と南雲の名前を呼んでいるのがいかにもといった感じではある。
──私もそれ、知ってました。
──だったらもっと本音でぶつかってきたらどうなの? 綺麗事ばっかり言ってないで。最後なんだから私もきっちりと落とし前付ける気はあるわよ。
「まじかよこれ、修羅場だぞこりゃ」
天羽が肩を露骨にすくめて囁く。
「どう決着つけるんだ、あいつ」
たぶん南雲に対しての言葉だろう、台詞は難波だ。
「逃げられないよなあ。年貢の納め時かな」
のほほんとしたままの更科が貴史に囁く。
「知ったことかよ」
──南雲よかねーさんだ、こりゃどうする。泣かされるか。
これは場合によっては貴史がダッシュで中庭に駆け込む必要がありそうだ。評議三人組の判断は正しかった。とりあえずアキレス腱を伸ばす運動をする。
奈良岡の声は全くなだらかなままだった。
──ごめんなさい。あ、ごめんねあきよくん。私の、これが本音です。だって。
一旦黙った後、ゆっくりと、
──私の友だちはみんな、いい人ばっかりなんです。あきよくんももちろんいい人。そんないい人が選んだ水菜先輩が、悪い人だなんて絶対に思いません。私、それは確信しているんです。
出た、奈良岡の十八番、「私の友だちはみーんないい人」攻撃。
密かにつぶやいているのは貴史のみ。
──彰子さん、俺、そんないい奴じゃないって! 何度も言ってるだろ!
──あきよくんは気づいてないだけだよ。誰よりも友だちを大事にして、家族のみなさんを宝物のように守っていて、私だけじゃない、ナッキーや時也とも友だちでいてくれた、そんなあきよくんのどこが悪い人なの? それ、水菜先輩もわかっていると思うんです。
「ナッキー? 誰だそりゃ」
「さあ?」
天羽と難波が首を傾げる。
──私の友だちには幸せになってほしいし、できればその人につながる人たちにもみんな連鎖してほしい、それが私の願いなんです。水菜先輩、いやな思いさせてしまったらごめんなさい。でも、このままあきよくんと水菜先輩が誤解されたままお付き合いしていくのを見るのはどうしても私が我慢できなかったんです。それと、あきよくん、ひとつだけお願いなんだけどいいかな。
──何?
寂しい答えの南雲に、明るい口調で奈良岡は答える。
──卒業式、最後の打ち上げ。きっとあきよくんは家族のみなさんのことがあって参加できないってことなのかもしれないけど、私はできればあきよくんと一緒に笑顔で卒業したいです! ほんのちょっとだけでもいいから、顔を出してくれると嬉しいな。
──あ、そ、それだけ?
どもっている。情けない奴だ。
「ははん、そういうことかねーさんは」
小声で天羽が納得顔をしつつ解説する。
「どういうことだ」
「つまり目的は、ねーさんがだ、南雲をD組の打ち上げに参加させたいってことなんじゃねえの」
「はあ?」
貴史も意味がつかめず戸惑うが、即座に難波が引き継いだ。
「羽飛、言ってただろ。うちのクラスとD組とで卒業式のあと打ち上げやると」
「ああ、そうだな。B組だけなんだよなあ」
A組とC組は諸事情のため打ち上げの話に乗ってこれなかったという現実がある。天羽と更科がにやりと笑った。
「その時、南雲が参加できないらしいという話を本人からちらっと聞いたが」
「ああ、家族の裁判かなんかがあるらしいぞ」
詳しいことは覚えていないが、やたら面倒なことがあるらしい。
「もちろん家庭の事情ならしょうがないが、あいつが打ち上げ出ないとなるとしらけるだろうな」
「知ったことかよ」
「そっか、そういうことな」
更科がまとめた。
「つまり、ねーさんはほんのちょびっとでもいいから打ち上げに顔を出してほしくて、でも自分と付き合ってたことがひっかかりになってるんだったらそんなことがないって言いたくて、それで今わざわざ現在の彼女呼び出して取り持ってるってわけか」
──なんのためにんなことやる必要あるんだよ。
評議三人組の密かなる推理をよそに、中庭の三人組はまとめに入っていた。
──奈良岡さん、ありがとう。これからは堂々と付き合うわよ。ただ、しつこいようだけど。
水菜先輩の怖いお言葉が響いた。
──私はあなたの善意溢れる言葉に、ものすごく傷ついた。
──ごめんなさい。私。
──あなたには一生わからないと思う。あなたがものすごくいい子だということは理解しているし理屈ではわかるのよ。でも、あなたの善意は私も傷つけたし、たぶん、秋世も、またあなたが気づいていないたくさんの人も傷つけているはず。それだけは覚えておいてちょうだい。それじゃ、秋世、行くわよ。
これ以上ばれる可能性のある場所に居座る気はなかった。貴史は評議三人組と連れ立って素早くその場を離れた。生徒玄関まで戻り外靴を取り出したとき、身体がまだ震えていることに今更ながら気づいた。とりあえず美里には言わないでおこう、それだけは決めた。