第四部 97
霜柱立つ日まで 97
こずえが「お妾さん」の子であることをなぜ貴史に言う必要があるのか。
それもこんなやたらとうまいオムライスを食わせた上で、だ。
「そいで、なんでお前そんなこと言い出す?」
「あれ、羽飛馬鹿にしたりしないんだ」
「なんでするんだよ」
少なくとも見下したいとは思わない。青潟大学附属中学ともなれば、それなりに人間関係の裏表や生まれの複雑な事情など、把握できてくるものだ。立村の家庭環境の理解不能な形もそうだし、最近だと霧島姉弟の殺伐とした関係、その他噂で小耳に挟んでいることであればありとあらゆる情報が飛び交っている。こずえもそのうちのひとりに過ぎない以上貴史も差別する必要が全くない。
「要するにお前の父ちゃんいないってだけだろ」
「いるよ、失礼な」
「違う、いることはいるけど一緒に住んでねえってだけだろ」
「そういうこと。わかってるじゃん。そんだけなのよ」
こずえもオムライスのスプーンを加えつつ、口に物が入っているまま話し続けた。
「お妾ってことはさ、要するに本妻さんがいるってこと。本妻さんがいるってことは要するに日陰の身ってことよ」
「お前には全然似合わねえなあ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん、さっすが羽飛!」
──空気に似合わないこというよなあ。
「まあね、あんたにうちのめんどくさい事情説明すると二十四時間拘束することになっちゃうプレーになっちゃうし、そっちの趣味私ないから置いとくとして」
下ネタなのか微妙な台詞を残した後、
「あんたみたいにあっさり納得してくれる奴ばかりなら世の中あっさり上手くいくもんだけど、ほら、人間凸凹いろいろあるじゃなないの。あんたもいろいろわかってるんじゃん」
「凸凹はわかるがな」
「エッチだねえ。けどそういう話のわかる奴ばかりじゃないからさ、今日こうやってあんたに相談したいわけよ」
「何がだよ」
ようやくこずえも本題に入るようだ。貴史は皿の隅から隅まで綺麗に平らげた後、
「言ってみろよ」
誘って見た。
「実はね、このこと美里に内緒にしてるんだよね」
「お前それ言ってたじゃねえの」
こずえは少しだけ言いづらそうな口調で声を潜めた。
「けど父ちゃんがいないってことは」
「だからいないんじゃなくて一緒に住んでないの。あ、厳密に言うとさ、住んでる時もあるけど今は住んでない。来るだけってことよ」
「よっく話、わからねえ」
でも美里に話せない理由はわかるような気がする。もともと美里は過剰に潔癖なところがある。菱本先生の結婚にまつわるよしなに絡めてもそれは感じる。こずえに菱本先生の順番間違えた結婚の話を詳細説明していないのはそこに理由があるわけだ。結婚前は清らかに、というのが美里の思い込みだとも言える。
「美里にはね、面倒な説明全然してなくて、父さんがいろいろな事情あってなかなかうちで住んでられないってことだけ言ってる。もちろんお妾さんとか昼メロみたいなことは言ってないからね」
「じゃあ今まで通りじゃあなんでだめなんだ?」
「引越し絡んでるからねえ。今まで私もばらしてなかったけど、高校に入るとほら、クラスの住所録作り直すことになるしさ。できればぎりぎりまで隠しておきたいけどばれるのは時間の問題って気もするしね」
「ああ? なんで隠せる?」
「一応、前の家はからだけど、名義はまだ残ってる」
ややこしい家である。貴史には理解不能の環境にこずえが育っているということだけはよくわかった。
「でも、美里も私んちに遊びに行きたがってるし、私も隠し事したくないし。どっちにしろ美里には引っ越したことだけは言うよ。けどね、そのマンションに住んでいる人がどんなだかを聞かされたらきっと、ショック受けるよね」
「有名人が住んでるのか?」
言葉に詰まったこずえは、しばらく考えて、
「まあそんなとこ。うちの母さんと同じような環境の人が多いってこともあるけど、もちろん私の方から説明なんてしないよ。けど、うちの学校、いろんな仕事についている親が多いからこれも時間の問題でばれてしまうと思うんだ」
「ばれちゃあ、まずいか。まさかそんなめんどくせえ事情持ちばかりじゃあねえだろ」
「ないけどね。ただ土地代とか建物の見た感じからして、いかにもお金持ちっぽく見えることは確かだろうね。お金持ちなのはうちの父さんであって、母さんじゃないんだけどさ」
──どっちもどっちだろが。
やはり貴史には意味不明だ。父親が金持ちということは母親も子どもも一緒だと思うのだが。
こずえは面倒な説明を飛ばしどんどん話を進めていった。
「あのマンションに住んでいる人がどういう系統の人が多いかってのは、わかる人にはある程度わかると思うんだよね。ある程度お金持ちだけど、いろいろ面倒な事情がある人とかさ。うちの場合は親子三人私、弟、母さんだからさ。めったに父さんはうちに来ない」
「よくあるパターンじゃねえ? 単身赴任ってのはどうなるんだ?」
「好意的にとってくれたらそうだろうけどね。とにかくさ、私がいろいろと面倒な立場に立っているってのは理解してもらえると助かるよ。美里に知られたらたぶん、不潔がられるかもしれないしね」
──不潔、か。
貴史はまじまじとこずえの顔を見据えた。
──美里が、いくらなんでも三年来の友だちをだぞ、不潔って言うか?
「違うよ、私は毎日身体を隅から隅までちゃーんと洗ってるよ。いつでもチャンスOKって風にさ。私が言いたいのはそういうことじゃない」
にやにやしながらこずえは頬杖をついて続けた。
「美里の性格あんたよっく知ってるよね。結婚する時はお互いチェリーとバージンで結ばれなくちゃ嘘だとか、赤ちゃんは愛の結晶だとか。決して下ろしそこねて仕方なくとか、お互い別の相手に捧げちゃってて実は経験者でしたとか、美里そういうの絶対認めない性格なんだよ。あんたもわかってるじゃん」
「そういえばそうだな」
いつだったか、聡子姉ちゃん相手にバトルやらかしていた時の美里の顔を思い出した。あれから成長したとは思えない。
「そういう純情さってのが美里のよさだとわかってはいるよ。けどさ、現実問題そんな綺麗事で男と女生きていけるってわけでもないじゃん? 雰囲気に流されたとか、悪いとこでしっぽりとか、いろいろあるわけよ。羽飛も大体わかるでしょ。おかずメイトたちにあんただってお世話になってるわけだし」
「古川、その言い方なんとかならねえの」
力なく突っ込む。
「男と女さらけ出しちゃえばいいじゃんよ。とにかく美里って子は夢見る乙女のまんまだからこそ美里なんだわ。けどその美里にまとわりついている私がよ。いわゆる正規の結婚で生まれた子じゃなくて、しかもうちの弟とも父親違ってたりしててややこしい中、受け入れられると思う? 私は無理だと思うなあ」
「お前、勝手にそう思い込んでるだけじゃねえの」
よくよく聞いてみるとこずえも結構自虐的だと思う。美里が極めて清らかな乙女……見た目はお世辞にそうは言えないが……であることは確かだが、いくらなんでも三年来の大親友をいわゆる太陽あたる場所で生まれたわけではないという理由でぶっちぎることがあるだろうか。そういう判断をするということは美里に対する侮辱でもないかとすら思う。
「美里に聞いたらきっとおんなじこと言われるね」
こずえも同意した。わかってはいるようだった。
「美里はたぶん口ではわかったって言ってくれると思うんだ。そのくらいはわかってる」
噛み締めるようにこずえは語る。
「でもね、女子の場合は理屈じゃあないわけ。これ、男子には何度説明してもわかんないことだと思うんだけど、それこそ生理的にだめってとこがあるのよ。私もさ、昔はそのことでずいぶん泣かされたよ」
「どんくらい昔だよ」
「そうだね、五年くらい前って奴?」
つまり小学校時代か。小学四年くらいだとなかなか難しいかもしれない。こずえがどういう環境の小学校に通っていたかはあまり聞いたことがないが、貴史たちと同じような公立小学校だったとしたら否定できないこともない。
「やっぱり、小学生でもわかるもんよ。本人はわからなくても、親がね。それぞれ変なこと吹き込むのよ。あの子はお妾さんの子でふしだらな生まれだとかさ。色を売り物をしてるとかさ、弟とは父親が違うとかさ、まあひとつひとつは否定できないことだから言い返すのも難しいと。面倒なことも多いわけ。それでもさ、青大附属に入ってからは」
言葉をはっきり切り替えた。
「みんななんだかんだ言って賢いよ。たぶん誰かかしらは私のめんどくさい家庭事情知ってると思うし、少なくとも菱本先生は全部知ってる。けど、誰も私のことをさ、妾の子だとかふしだらとか言う奴はいなかったよ。お互いすねに傷がある身なのかもしれないけどさ」
「いやあ普通言わねえだろ」
貴史がつぶやくとにっこり笑って肩に手をかける。すぐに話した。
「いやーん、羽飛やっぱ男前! さっすが私の三年間命かけて惚れた男! 男を見る目はうちの母さんから確実に受け継いだね」
「そういう話か」
「とにかくさ、美里はなんにも知らないわけ。これが一番大切なとこよ」
きっぱりと言い切った。
「美里は私の事情なんて全然知らない。父さんがいないのは死んだか単身赴任かのどちらかだと思ってる。うちの母さんがNO.1ホステスだってこともたぶん知らない。生活苦しくってアルバイトしてるって程度でごまかしてるからね。けど、これから先は美里も否応無しにいろいろなこと知ることになるよ。たぶんね」
「あのなあ、古川、お前にしてはずいぶんまどろっこしいよな」
貴史は首をひねった。
「お前さ、そんな俺に愚痴ってる暇があったら、さっさと美里とっ捕まえて今喋ったこと全部話したほうが早いんじゃねえの。そりゃさ、いろいろな家庭事情があるのはわかるし、お前さんも相当苦労したんだなあと同情はするぞ。あ、同情っつうのが嫌いなら別の言い方もするけどな。けど美里からしたら、どこぞの誰かさんから噂で聞くよかお前の方から全部聞かせてもらったほうが早いんじゃねえかって気がするぞ」
「あのねえ、さっき言ったことあんた耳からスルーしてない?」
こずえは呆れたようにため息をついて続けた。
「美里はきっと素直に受け入れてくれる。そういう子だよ。けど本心は不潔だと思うかもしれないよ。どういう事情があったにせよ。それでもし美里が冷たくなったりしたら、まあ私も傷つくよ。美里本人が一生懸命受け入れようとしてくれたにもかかわらずだめだったってことだったらさ、やっぱダメージでかいよ。ロストバージン失敗した時以上かもね」
「経験ねえくせに」
ぼそっとつぶやいた。瞬間「隙あり!」と額を叩かれた。
「んで、お前が隠したい気持ちはわかったんだが、それと俺のすることってのは何か関係あるのかよ」
オムライス分の要求があるとは思うのだが見当が全くつかない。こずえは両手を組み、覚悟を決めたように口を切った。
「あるよ。あんたにしかできない」
「だからなんだよ」
「美里のフォローなんだけどね」
少し黙ってまた続けた。
「私も、少しずつ様子見ながら事情を話すつもりではいるよ。あんたの言う通りさ。やっぱり他人から聞くよか私から話を聞いた方が少しはましだからね。けど、もしそのことを知って美里がショックを受けたりしたら、そんときは頼りになるのがあんただけよ」
「俺がかよ」
まあ否定はしないが。こずえは大きく頷き両手を拳にして、
「本当だったら彼氏の立村だろうけど、どうなのよあいつ、あいつ美里と別れ話してるの」
「美里からは聞いてねえのか」
「全然、ただ立村の顔みたらたぶんそういうことなんじゃないのて思ったけどね」
意外だった。こずえに話していないことが。
「あいつとはクラス英語科だしたぶん三年間あの調子で付き合ってくことになるだろうね。けど、別れたら美里の慰め役頼めないしもともと話がきっと噛み合わないよ。立村はある意味私の事情を理解できると思うからさ、かえってね」
「はあ?」
なぜ立村がここで関わってくるのかがわからずまた問い返した。
「立村の場合、家の事情がうちと似たように入り組んでるみたいだし、いわゆる花街の事情についてもまっとうな理解はしてる。珍しい奴だよ。母さんがおっかないらしいけどね」
「ああそれはわかる」
二度程拝見した猛女を思い出す。
「芸者修行に出た花森さんともつながりがあるみたいだし、たぶん立村相手だったら私の事情ぺらぺらしゃべってもすんなり話がつくよ。けど、あいつに話しても意味ないし、もう美里と別れたがっている以上は意味なし。私もこれからどうなるかわかんないけどもし、美里が私のことでずったずたに傷ついていたら守ってやれるのって結局羽飛だけなのよ。変な意味じゃないよ。私とは友だちづきあいしなくたっていいけど、でも私の母さんの生き方は決して不潔でもなんでもない、ひとりの大人の生き方なんだってことだけ伝えてもらえるとすっごい助かるんだ」
「まだ決まってない未知の世界だってのに、なに先回りしてるんだよ」
こずえらしくなかった。貴史には戸惑いだけが残る。
「そうだよ、先回り。けど今しか言えないよ」
こずえは繰り返した。
「まだ引越しのことがばれてなくて、噂も飛び交ってなくて、羽飛も私のうちのことを軽蔑しないで見てくれてる今でしか、約束してもらえないよ。あんただってこれから先考え方が大幅に変わるかもしれないじゃん? 人間どういうふうに変わるかわかんないもんだからさ。けど、私は今のこの瞬間、自分がぶっこわれないうちに美里のことを頼んでおきたかったのよ。美里を罵倒して縁を切っちゃうかもしれないけど、せめてさ、あの子のことを守ってやれる奴から私の本心を伝えてほしいんだよ。わかるかな、あんた」
──わからねえよ。
そう言い返したかったが、残念ながら腹の中にオムライスが収まってしまった。
「どう、約束してくれる?」
「オムライス分は約束する。けどな古川、お前少しストレス溜まってるんじゃねえの」
「発散しようよ、たとえばファーストキスとか」
にやつきながら冗談っぽく誘うこずえに、貴史はお冷を突き返した。大丈夫だ。単純にこいつは貴史と中学最後のデートをしたかっただけだ。何も自分のしんどい事情を打ち明けて、重たい約束させようなんて思っていないはずだ。