第四部 96
貴史の仕切りと美里のフォローもうまくかみ合い、着々と卒業式打ち上げパーティーという名の三年D組お楽しみ会の準備は進んでいた。南雲の余計な一言も結局のところ奈良岡彰子がうまくとりなしてくれたようで最後はおとなしくなったようだ。
──振られた彼女になだめられるってのも情けねえよなあ。
お互い様、としか言い様がないのだが、不本意ながら一枚噛んでしまっている貴史にとっては知らんぷりを決め込むしかなく、美里にも同意された。
「彰子ちゃんなりに、南雲くんのことは気にかけているみたいだし任せていいよ」
「けどなあ」
美里には奈良岡からの謎の告白について一言も伝えていなかった。口をつぐむ。
「卒業するとそれっきりになっちゃいそうだからって、心配してるんだよね」
「それでいいんじゃねえの?」
別れ話はついているということだろう。過去を忘れて前に進んでどこがいけないのか。
美里は少し考え込むような素振りを見せたが、
「人によりけりじゃないの。私たちには関係ないし、それより例のあれ、今夜も練習しに行っていい?」
すぐに獅子舞準備の話へ逸らした。やる気まんまん過ぎるのは美里の方だった。
立村の様子は変わらなかった。むしろ拍子抜けするくらいだった。
──あいつ、俺がどんなに気、遣って話したか全然考えてねえよなあ。
性格上さすがにそんなことはないと思いたいが、その行動を観察する限り全く変化がないのだからしょうがない。南雲や一部の男子たちとは静かに談笑していることもあるが、貴史には一切自分の方から話しかけようとはしない。休み時間はあっという間に姿を消しているし、放課後も脱兎の如く教室を飛び出していく。結局のところ立村にとって、三年D組はいること自体耐え難かったのかもしれない。ということは、
──俺たち、美里と一緒にしゃべるのもやっぱ、しんどいのかも。
そんな結論に達しそうになり、かなりがっくりくる。いったいなんだったんだろうこの数カ月は。結局立村に振り回されっぱなしの卒業式になりそうだ。いやはや。
菱本先生からも、
「お前、さすがだな。よくクラス全員の前で立村をうんと言わせたな」
お褒めの言葉をいただいた。終わって見れば実はたいしたことなかったような気もするのだが、
「やっぱ、これが俺の実力ってとこよ」
ひとりきり威張ってみせた。まあ、菱本先生ひとりしかいない場所だからこそできることでもある。できればあとは立村が素直に打ち上げ参加してくれればいいのだが、南雲発言もあるし他の連中もいろいろ事情持ちが多いだろうし無理は言えない。ここばかりは様子見に徹するしかないような気がする。
「羽飛、ちょいと」
卒業式三日前。ほとんどやることもなく午前上がりでみな教室から出ていこうとした時だった。古川こずえが貴史を呼び止めた。美里が何かの用事で先に出て行った後だった。
「なんだあ?」
「悪いんだけどさ。ちょいと今日、付き合ってもらえないかなあ。昼飯はおごるよ」
「いや別に飯を一緒に食う分にはいいけど、学食か」
コートを羽織ったこずえが、さっと時計を覗き込み、
「ちょっと取り込んでてねえ、学校の外でちょこっとだけ話をしたいんだけど」
「なんかまたクラスのことで面倒な話、あるのかよ」
こずえは戸惑った風に目をきょろきょろさせた。
「そうとも言えないけどまあそうだよね。少し話しておきたいことがあるんだけど、ちょこっとだけ時間がほしいんだよね。えと、あと、このことは」
小声で耳元に囁きかけてきた。
「あまり、他の人に知られたくなくってさ。大丈夫、連れ込み宿にしけこんだりしないからさ」
「アホか。それだったらまあ、どっかそのへんで食うとこ探すか」
こずえが持ち出す内容の多くはクラスの女子たちの裏事情だったり、弟分である立村の本心であったりとか、確かに貴重な情報が多い。美里ではうまく食い込めない女子たちの面倒くさい話もこずえだと比較的楽に聞き出すことのできる力もある。清濁併せ飲んでいるといえばいいのか。
──まあいいだろ。古川が見つけた情報ったらまためんどくせえもんかもしれねえしな。どうせ俺が今んところ三年D組代表になっちまったんだから、きっちり頭に入れとかねえとあとで足掬われるかもしれねえしなあ。
「ラッキー! これから羽飛とデート、デート!」
「人聞き悪いこというなっつうの」
わざとらしくはしゃぐ古川こずえの横顔に、ふと、真面目なものが走ったように見えた。気のせいだろう。ありえない。
こずえは校門を出てそのあとまっすぐ青潟の商店街をくぐり抜け、しけた雰囲気の喫茶店に貴史を案内した。いわゆる昔の「純喫茶」といった雰囲気で中高生が立ち寄るような雰囲気ではない。夜になったらたぶん酒の入ったスナックに姿を変えるのだろう。学校の先生に見つかったら吊るし上げ食いそうな気はする。
「お前なあ、ここ、まじで大丈夫なのか」
「大丈夫よん。ここはうちの母さんの友だちがやってる店なんだ。たまにね、ここで遊んでくんだけど内緒だよ。美里にも言ってないんだからさ」
入り口は黒い扉で中がのぞき込めない。一応、ランチセットは用意されているようだがカレーライスと味噌汁セットしかない。
「カレーでいいよね」
「しかなさそうだよなあ」
「オムライスって手もあるよ。まあいいや、今日は私のおごりだもんね、贅沢しちゃいな!」
──女子に奢られるってのも情けねえ。
もちろん払うつもりでいる。財布にはランチ代五百円分はちゃんとある。
中に入るとすぐに「いらっしゃーい」と明るい呼び声が聞こえる。同時に「あーらこずえちゃん、今日は彼氏と一緒?」と、いかにも常連っぽい雰囲気でのやり取りが始まる。かなり派手目の化粧をした四十代以上は確実にいっているであろう女性がこずえと和やかに語らっている。
「彼氏にしようと、これから告白タイムなんだけど、協力してくれる?」
「いいわよ。じゃあオムライスがいい?」
「お願い!」
あっという間に注文が決まり、こずえは店の最奥へと誘った。どうでもいいがなぜトイレのど真ん前の席を選ぶのだろう。入口側に会社員らしき男性がひとりでもくもくとカレーを飲み込んでいる様子が見えるが、そこから離れたかったとしてもいくらなんでも。
「お前なあ、トイレのど真ん前ってのはデリカシーねえだろ」
「いいじゃん、それが臭い仲だってことで」
こずえは意に介さず、自分からお冷を二人分もらってきて、
「ここのオムライスは美味しいから楽しみにしててよ。とりあえずごはん来る前にいうこと先に言っちゃうよ」
こくりと、お冷を一気に飲み干した。コートを脱ぎ、手袋をおいて、背を伸ばしてきっちり座り貴史と向かい合う。
「なんだよいきなり見合い話みたなかっこうしやがって」
「まあ、見合いだよね。そんなもんだよね」
自分に言い聞かせるようにこずえはつぶやき、
「中学卒業するにあたって最後の告白やらせてちょうだい。答えがどっちにせよ、ひとまず一通り話、させてもらっていいかなあ」
──また年中行事みたいなことやるのかよ。
年がら年中こずえには愛の告白をぶちかまされてきている。そのたび「俺の愛はすべて鈴蘭優ちゃんに捧げられているんだあ!」で逃げているが、その延長戦だろうか。こずえにはそこまで思ってもらえてありがたいと思うし、その上で貴史の友だち……美里であり立村でありクラスの連中であり……を面倒みてもらっていることには感謝しているが、鈴蘭優への愛を超えることはありえない。よって、「ごめんな」の一言で終わる。
「答えは一緒だぞ」
「わかってるよそんくらい。あんたの愛は鈴蘭優だもんね」
「じゃあわかってるなら別の話しようぜ」
「だから、今から話すこと、全部聞いてよ。それからだよ」
ケチャップと鶏肉の混じり合う甘い匂いが漂ってくる。腹の虫が鳴る。
──古川、なんつうか、何が目的なんだ? それよか早く食いてえよ。
「噂になる前にはっきり伝えておきたかったんだ」
まだオムライスは出来上がらない。古川こずえだけがひとりでしゃべり出す。
「たぶんさ、これから先私に関していろんな、そうだね、めんどくさい話がいっぱい流出してくると思うんだ」
「下ネタ女王の名前だけでなくてか」
「それ悪口じゃないじゃん、褒め言葉だよ。んなことじゃなくってさ」
吹き出しつつもこずえはさらに続ける。
「羽飛は修学旅行四日目のこと、覚えてるかなあ」
「ん?」
忘れもしない、停学覚悟、入れ替わりの夜を。壁に耳あり。貴史は頷いた。
「あん時、私、言ったじゃん」
「何をだよ」
「うちの母さんのことをさ」
一瞬記憶をまさぐってみる。なんとなく聞いたような気もするが、
「悪い、俺には今頭に詰め込んでおかねばなんねえ知識がいっぱいで、どうでもいいことは忘れてるんだ。天才の定めなんだわな」
「あっそ。どうでもいいことねえ」
失礼な言い草かもしれないが事実でもある。こずえは仕方なさげに肩をすくめた。
「じゃあもう一度話しとくよ。うちの母さん、いわゆる水商売だってこと、言わなかったっけ」
「そっか、思い出した、そんなこと言ってたなおめえさん」
実は忘れていたわけではなかったけれども、いくらなんでもクラスの男子からそんなこと言われたくなかっただろうと思って知らんぷりしていただけだった。
「なんだ覚えてたじゃん。ありがと。まあ単刀直入に言っちゃうとホステス。けどすごいんだよ、ナンバーワンだったんだよ! あんたたちが連想しているやらしいイメージと違って、うちの母さん超プロフェッショナルなんだよ。なんてったってうちの母さんが呼ばれた席で仕事の話が百%バンバン決まっちゃうんだからさ。これかっこいいじゃん?」
「仕事の話って、なんだそりゃ」
一般的な「ホステス」のイメージとなると、ご指名を受けたホステスさんが客、一般的には男性客のそばに張り付いてお酌したりいちゃついたりのイメージが強い。中学生とは縁のない世界だし、美里が知ったら「やらしい!」くらい言いかねない。
「羽飛、いい加減接客業における先入観捨てなさいよね。人を楽しませたりさ、気分よくさせたりさ、話を聞いてあげたり合わせたりさ、すっごく勉強が大切な業界なんだよ。職業に貴賎なしってことあんた学校で習ったじゃん? それ忘れなさんなよ。それとホステスさんに限らず芸者さんもその他接客関連い携わるすべての人たちに対しても、見下すなんて最低な態度とったらあんたのあそこぶっちぎるからね。第二の阿部定になんかなりたくないよね」
「わかった、よくわからねえがお前の母ちゃんがプロフェッショナルだってことはわかった」
昼間、オムライスを待ちながら話す会話ではない。やっと出来上がったのかふっくらしたオムライスが目の前に届いた。しかしなぜ、ケチャップでハート型がでかでかと書いてあるのか、貴史にはよくわからない。すぐに崩して口に運んだ。まじでうまかった。
「ね、おいしいでしょ、私の言ったことに間違いないのよね」
「食い物についてはお前が正しい」
一気にかき込んだ後、頼んでないのにホットココアが運ばれてきた。
「おい、ココアって」
「子どもにはカフェイン良くないからってことじゃないの。さあ、腹いっぱいになったところでさっきの話の続き行くけど、いい?」
「わかった。お前の母ちゃんプロだってとこまで聞いた」
こずえは口を紙ナフキンで乱暴にぬぐい、小さく丸めた。
「私はそういう母さん見て育ってるから、どこがいけないのとか、どうして見下されるのかとか、謎でなんないわけよ。なんも恥じることないじゃん。うちの学校も母さんの職業知ってて私合格させてくれたし、別に悪い仕事なんてしてないわけよ。そこんとこわかるよね」
「そうだわな。お前正しい」
「羽飛さっすが私のダーリンねえ。そうなんだけど、世の中ちっちゃいとこしか見てない奴が多すぎて最近頭痛いのよ。そいでね、実はこの前、私引越ししちゃったのよねえ」
「はあ?」
初耳だ。全然そんな素振りを見せなかった。
「今まで親子三人身を寄せ合ってちっちゃな家に住んでたんだけど、今回母さんがお店を卒業して専業母さんになっちゃったこともあって、学校の近くのマンションに引っ越したのよね」
──確かこいつ弟いたはずだな。
ということは父親は同居していない、というわけか。
「結構お嬢さまっぽいおうちなんだけどね。ただまあなんていうか私のキャラに合わないとこに引っ越しちゃったもんだからさ。まだ学校の子には詳しい話してないけど、これからいろいろ情報が流れてきたらまあなんつうか、面倒なことになるかもしれないと、そういうことなんよ」
「なんだその面倒なことっつうのは」
引越ししたのだったら卒業アルバムの住所だって書き換えねばならないだろう。いろいろと準備が必要なような気がするのだが、
「美里は知ってるのか」
「卒業の時に話すよ。引越しパーティー予定。羽飛もおいでよ。3Pはなし」
「あのなあ」
気の抜けるようなエロネタを飛ばされるの離れているのでさらりと流す。
「けど引越ししただけでこんなオムレツ奢らねばならねえほどまずいことなのか? まじうまいけどなあ」
「まあ、いろいろあるわけ」
突然こずえは首を激しく振った。
「ああもうめんどくさい、言っちゃうよもう。要するにうちの母さんは、お妾さんとか言われちゃってるわけ。あんた、さすがに『お妾』ってわかるよねえ。ちゃんと夏休み中昼のメロドラマ見て勉強してるよねえ」
「いや見てねえからわからねえ」
──だが、『妾』の意味はわかる。
初めてこずえの言葉の重さが伝わってきた。口の中であふれるケチャップのしょっぱさと、目の前で色気なしでぺらぺらしゃべるこずえの表情と、店のけだるい雰囲気。すべてがじっとりと肩にのしかかってきた。
「そう、言い忘れてたけど、これ美里をふくむ他の連中には絶対言わないもらいたいんだけど約束してもらえる? 事後承諾で悪いんだけどさ。もし私のうちに来てくれるんだったらその時は『えー!なんでお前引越しなんて大切なこと言ってくれねえんだあ!』って大ボラこいてもらえるともっと嬉しいよ」
茶化すようなこずえの口調すら、今の貴史には息苦しすぎた。貴史の記憶する限り、「お妾さんの子ども」はテレビドラマの中でたいていいじめられるキャラクターとして描かれていたはずだった。こずえのような女子ではたぶんなかったはずだった。