第四部 92
しばらく美里と菱本先生との言い合いが続いていた。もっとも優勢なのは菱本先生の言い分であり、美里もけたたましく言い返してはいるけれども決定打がない。貴史がぽっかんと口を開けているあいだ、菱本先生は同じことを飽きずに繰り返した。
「清坂はもしそんなことしたら立村が屋上から飛び降りるんじゃないかと思っているのかもしれないが、そこまで人間弱くないぞ。それに自分の違いを認められない程、立村は人間的に問題あるか?」
「その言い方すっごく失礼ですけど半分は当たってます。もし立村くんにそんなことしたら、本気でなにしでかすかわかりませんから、ほんっとうに!:」
「でもなあ、クラスのみんなは羽飛がトップに立つのを希望しているんだよなあ」
「先生の思い込みか一部の女子の抗議かわかりませんが私は納得行きません!」
「だったらこのままでいいと思うか? ずっと立村が傀儡状態で卒業する形でいいのか? 羽飛が結局何もしない帰宅部扱いされて終わってもいいのか? どちらもいい友達だろうし両方惨めな思いさせたくないだろう?」
「どうして惨めってことになるんですか! もうわけ全然わかりません!」
美里のきれっぷりも観察する分には面白いがそろそろここで、展開の主役になるべき貴史として何か発言しなくてはいけないような気がした。貴史と立村との問題であって、外野である美里と菱本先生ふたりでこれ以上盛り上がられるのはなんだかわびしい。それに、
──まあ、菱本先生も、俺のことそれなりに買ってくれてるんじゃん。
ありがたいことと受け取っておきたい気持ちもなくはない。美里が勢いで口走ったことだが、
「こいつがクラスのトップになるってことには文句言う気全くありません」
のなら、それもありなのかもしれない。美里は少なくとも、貴史の能力をしっかり評価してくれているというわけだ。面と向かってはなかなか言ってもらえないのが面白くないのだが、美里の性格上それはしかたない。
問題の焦点を絞ったほうがいいんでないかという気がしてならない。」
挙手して話に割り込んだ。
「先生、質問」
口論中のふたりが貴史をけげんな目で見た。
「俺の意見っつうのはどうなったわけ?」
「あ、ごめん」
「そうだった、悪いな」
菱本先生は貴史に向かい、改めて膝を叩いた。
「それならお前はどう思う? 清坂は大反対なんだが、羽飛は」
「俺は条件つきならオッケー」
つり上がった目で美里が睨む。無視する。
「先生、先生がやりたいことってのは別に立村をお前無能だからさっさと消えろって言うんじゃねえだろ」
まず確認したいことを尋ねた。
「当たり前だろ」
「そんじゃ、もういっこ。俺がトップ扱いされたらどう考えても立村の奴いじけちまうと思うんだけど、それ避けるためにはどうしたらいいと思う?」
「どんな立場であってもお前たちが立村の友だちであることを証明すればいいじゃないかと俺は思う。真心は必ず通じるはずだ。ヒエラルキーがイコール友情を壊すものではない」
菱本先生も真剣に返す。貴史は頷いた。予想通りの言葉だ。
「それ、信じたいんだけどなかなか厳しいと思うんだ。俺の考えなんだけど」
貴史は美里をちらっと見た。明らかにぶちぎれ寸前。たぶん廊下に出たらカバンでぶん殴られることを覚悟しなくてはならなさそうだ。
「それ、卒業前の最後の一週間だけにしてもらえないかなあ」
「一週間?」
美里と菱本先生が同時に発した。貴史は缶コーヒーを片手に持ち、振って見せた。
「そういうこと。俺の考えをまとめたんで、美里、頼むからしばらく黙ってろ。それと菱本先生もしばらく口挟まねえでもらえると助かる。俺の頭にあること全部、言い切るまで黙っててほしいんだ」
「なによ、生意気」
「だから、話終わるまで黙れよ。あとからだったらいくらでも殴られてやるから」
美里はカバンをそっと抱えて、武器にする準備をしている。菱本先生は前かがみの上半身をさらに、ガラスのテーブルにぶつかりそうなくらいにして、
「わかった。言いたいこと吐き出してみろ。受けて立つ」
細い息を口から吹き出すようにして答えた。
──最後の一週間だけだったら、俺はやれる。
美里たちの言い合いを聞いているうちにいつの間にか勝手に頭の中でまとまった案がある。どうしてかはわからない。いつもだったら貴史も美里と同調して立村の名誉を守りたいと訴えただろう。しかし、菱本先生の言うことも一理あるし、何よりも貴史がまだ、やり遂げていないことを行うのならば、これしかない、そういう気がした。
──最後の最後、俺が責任をきっちり取るために、だ。
三年間、ずっと逃げ続けてきて傍観者でいたゆえの、決着だった。
貴史は切り出した。もちろん缶コーヒーはテーブルに置いた。
「俺の考えなんだけどな、立村が三学期以降やる気なくしちまっていることと、なんとかクラスに戻ってきたけど腫れ物扱いされていてなんとなく浮いていることとか、女子たちが不満まんまんだってことは、やっぱそうだろって思う。俺も反対の立場だったらたぶん同じこと思うんじゃねえかって気がするしな」
まずは自分なりのまとめをば。
「けど美里の言う通り、立村にそのまんま事実突きつけてどうするよってのもある。あいつの性格だとまたいじけちまうのは目に見えてるし。いくらあいつが英語答辞やってくれるからったってな、クラスの評議委員でありながら結局別の奴、まあ俺か、俺に役割全部ぶんどられちまって落ち込まねえわけないよ。先生も男だしそのあたりのプライドわかるだろ」
約束通り菱本先生は黙って頷くだけだった。
「だろだろ。その一方、あのなんだ、俺をめちゃくちゃ贔屓してくれちゃってる女子連中は気持ち的に立村をおろしたくてなんねえんだろ。生理的に嫌いっていう例のあれで、な美里。あ、お前しゃべんなよ。頷くだけにしろ」
不満そうに美里もその通りにした。
「たぶん先生言いたいのは、そのまんまだと卒業式が壊れちまうってことじゃねえの? 俺もその点はありかもなって思うし、先生の夢の、クラス一丸ハッピーでって雰囲気にはまずはならねえよな。わかる、わかる」
美里がまた口を開きそうになるので睨んでおき続ける。
「だから、どうすりゃいいのってことなんだがさ。今んとこ俺たちがやるべき仕事ってそう、あんまりねえよ。なんとか文集も印刷会社に持ってったし、せいぜいあれか。俺たちやることったら、卒業式の証書受け取りくらいだろ。それはさすがに俺と美里がやるってことで話進んでてあいつも文句言わねえけど、もうひとつ大きなもの忘れてた」
「何それ」
「だから黙ってろっての。あれだよ。あいつが一番嫌っている大イベントあるじゃねえか」
「まさか」
小声で美里がつぶやく。聞かなかったことにした。
「そう、卒業パーティーって奴」
菱本先生も手をぱしりと打った。
「だろ、だろ? 俺、間違ったこと言ってねえだろ? 立村の性格上、卒業式のあとみんなで盛り上がってパーティーやろうなんて気には絶対ならねえよな。先生、俺も中学卒業するの今回初めてなんでよくわからねえけど、去年の学年は確か、すげえ派手に店借り切ってパーティーやったんだろ? 全クラス集めて」
立村からちらっと聞いた。本条先輩からの情報とも。
「ああそうだな。あの時は親御さんでレストラン経営している生徒がいて、そこでせっかくだしと快く店を貸してくださったんだ。あれは特殊パターンと考えたほうがいいぞ。それに、口をはさんで申し訳ないが、卒業パーティーというのは去年だけだ。本条の企画と一緒に駒方先生の定年退職慰労も兼ねたイベントだったから、特別だったんだ」
詳しいこと聞いていなかったのでそこのところは拾い損ねた。それなら同じ手は使えないということか。貴史は頭で仕切りなおした。
「そっか、わかった。ほんとはそれでさ、他の評議連中とも協力してイベントやろっかって思ってたんだ。けど今からレストラン持ってる親を探すなんて無理だしなあ」
とぼけて時間稼ぎをする。何か良い手立てはないものか。
「けど、まあ俺としては卒業式のあとなんもしたくないってのはないんで、せめてみんなでさ、集まってさ、パーティーとまではいかなくてもどっかでお楽しみ会みたいなのやりてえなって思ってたわけなんだ」
「お楽しみ会かあ、それならできるんじゃない?」
美里が口をはさもうとするが、これは無視だ。約束破ったの気づいていないようだ。
「できるけど立村は絶対やりたがらねえってのもあるだろ。けど俺たちとしてはどうしてもけじめとしてやりたいのも事実なんだ。先生も、酒とタバコは入らねえけど混じりたくねえ?」
「酒とタバコがないからこそ混じりたいな」
「だろだろ? 俺としてはそこんところも含めて切り盛りしたいってのは確かにあるんだ。立村がやりたくないことだけど俺はやりたい。それだったら、最後の一週間それを俺が全部背負うってのはどうだろ。それだったらあいつも無理やり自分のやるべき仕事取られたとは思わねえんじゃねえか?」
「確かに」
美里がつぶやいた。見逃してよいレベルのつぶやきだった。
「それに、それ以外クラスをまとめねばなんないこと、ねえよ。だったら最後の一週間だけ俺にちょうだいって頼んでもあいつのことだから、まあいっかになるよ。先生としたら俺がこのまま裏方ってのも哀れだしってのもったんだろうけど、俺は別にそれでもいい。けど先生の立場として俺のことをもっと打ち出さねばなんねえってことであれば、そういう手、使ったらどうかなって思うわけ。どうだろ、俺の発想なっかなかじゃねえ?」
黙りこくったままのふたりに、貴史は腰に両手を当てて反応を伺った。
自分でもまだやりきっていない感じはしていた。
確かに立村を教室に呼び戻しはした。できる限りのことはしたつもりだ。
何度も同じことを貴史は思う。
クラスの中が落ち着いた……まあ一時期の告白の嵐には閉口したが……のもそれはいい。女子連中がおとなしくなったのも、美里がため息をつかなくなったのも、まあよしとする。
菱本先生の理想の形ではないかもしれない。立村が最後まで心を開くとも思えないし、今はいるだけでいいと考えている。そのことだけであれば美里と同意見でつっきるつもりだった。
ただ、ひとつひっかかっていた。
──まだ、俺は逃げてるのかもな。
入学してまもなく評議委員に立村を即座に推した時と同じように。
──俺はまだ、立村が評議だからやりたい放題させてもらってるだけなのかもな。
──だから、最後の締めはやらなくていいと思ってたのかもな。
最後はどうせ立村がひっぱるんだからという決めつけがどこかにあった。
結局、ひっぱりたくないという後ろ姿を貴史はずっと見ているわけであり、それで苛立ちも全くないわけではない。だったら、手を出したっていいんじゃないだろうか?やりたいようにやらせてもらっても、いいんじゃないだろうか。
自分でも気づかなかったぴくぴくした感覚が、ずっと美里と菱本先生とが会話しているあいだ胸のあたりをつついていた。
──やっぱり、このままじゃだめだ。俺にはまだやることが残ってる。
しばらく菱本先生は両腕を組んでいた。美里も黙っていた。
「一番、立村も納得する形だな。確かにな」
「そうだろ。だからこの件、悪いけど今ここにいる三人の秘密にしてもらいたいんだ」
まだ美里は口を利かない。
「先生から言い出すのはやっぱまずいと思うんだ。あいつは菱本先生の言うことだったら正しいことでも絶対ノーだからな。けど、俺だったらある程度タイミング測って、クラスの奴らの前で納得させられるように持ってける。そのくらいは付き合い長いから読む自信ある。その上できっちり、一週間だけ俺にもらうよう頼む」
「立村がノーと言ったらどうするんだ」
腕を組んだまま菱本先生はねっとりした目で尋ねた。
「それならラッキーじゃん。一緒にやらせるさ。それはそれでいいだろ。クラス一丸になる別るーとのチャンスだし。けどまず、そうならねえと思う。あいつは自分がどう思っていてもよっぽどのことがない限り、この提案蹴るとは思えねえよ。その上で俺がやりたいようにやらせてもらえるんだったら、最後の一週間、先生が目指しているハッピーエンドに持っていく。できるかどうかはわからねえけど、たぶん、近いものにはできると思うんだ。立村だけは無理でも、他の奴らは満足できるように、もってけると思うんだ」
美里がようやく口を切った。
「わかったよ、貴史。あんたのやりたいようにやりな」
どこぞの映画の姉御のような口調だった。古川こずえ向けのものともいう。
「私、ずっと立村くんのことばっかり考えて反対してたけど、そうだよね、あんたもまだ決着ついてないとこってあるもんね。立村くんのことは高校に入ってからでも私たちなんとかできるし、ここはあんたのやり残してること、ぜんぶやっちゃいなよ」
「美里?」
蓮っ葉な口調に思わず問い返す。古川だったらわからなくもない言い方なのだが。
「先生、そういうことでしょ。貴史のことを考えろってことって」
にこりともせず美里は菱本先生に語りかけた。
「この中で一番決着ついてないのって立村くんじゃあなくって、貴史だってこと。そのためにあえて、やらせたいんでしょ。わかりました。だったら私は、こいつの考えを尊重します。文句言いません。立村くんがまた変なことやらかしそうだったらその時は首根っこ捕まえて引きずり戻します。一発二発ひっぱたくかもしれませんけど、傷害扱いしないでくださいね。せいぜい親呼び出しのみでお願いします」
菱本先生は美里に片手を差し出した。握手、だった。
「清坂、ありがとう。よくわかってくれた。それと羽飛」
もう片方の手を差し伸べた。貴史にだった。
「羽飛、お前の提案はそのまま任せる。お前ならできる。俺のためにもう一度ハッピーエンド作り、お前のやり方でとことん突き進んでくれ!」
握り締めた時の手の暖かさが伝わってくる。貴史は大きく頷いた。最後の一週間に向けてカウントダウンが腹の中で始まった。