第三部 81
給食を食い終わり、貴史はすぐに教室を出た。
「羽飛、一緒に文集のページ張りやってくんないの?」
明るい声で玉城が呼びかける。一緒にいるのがこずえ、そして金沢、水口、もちろん美里もいる。
「悪い、あとで手伝うけど、ちいと今日は用事あるんだ」
「つまんないの」
こずえがわざとらしくつぶやいた。美里に向かって、
「羽飛のレイアウトって独特で感動しちゃうんだけどなあ。昨日だってそうじゃん? 金沢の書いた落書きみたいなのをページの角にぺたぺた張って、めくったその指のところに当たるように設定してるんだもん。おっと思うじゃん? 編集の天才かもよあんた」
どうも休み時間や授業の隙を狙っていろいろ組み合わせている文集のレイアウトが思いのほか大好評らしい。この点は三年D組の芸術頭、金沢も同感らしく、
「そうだよ、さぼれないのかよ」
また頭の痛いことを言う。褒め褒めされるのは気持ちいいが、それどころじゃない。
貴史は美里に目でちらと合図を送った。わかっているかは期待しない。たぶんわかるだろう。
「また明日手伝うから、わりいな」
「え、今日の放課後はだめなの?」
つっこむ玉城に今度は美里がささやいた。
「今日の放課後は評議委員会と生徒会の集まりがあるの。貴史にも出てもらわないと困るから。明日ね、明日」
──やっぱりわかってるじゃねえの。
美里のフォローもあってとりあえずは三年D組の教室を出た。
──難波の奴、そうとうめげてるな。
詳しい色事ネタを確認したわけではない。ただ、今朝ロビーで語らった際の難波がいつになく気取りやホームズの仮面をはずしたように見えてならなかっただけだ。噂に聞く通り霧島ゆいへの気持ちもそれなりになくはないのだろう。それに。
──更科も言ってたけど、本気であいつ、自殺を止めに行ったのかよ。
想像がつかないが、本当なんだろう。そこまで本気で惚れられるか。しかも、アイドルつぐみちゃんではなく、アマゾネス美少女霧島ゆいに対してである。
──やっぱ、人間わからねえなあ。まあいっかあ。
最近自分の想像を覆す出来事が続きすぎて頭が痛い。評議連中の裏の裏を日々見せ付けられると、改めて立村の根性が自分の思っていた以上に座っていたことを思い知らされる。一年、二年、三年とこうも見た目以上のすさまじい連中とやり取りしてて、さらに本条先輩を代表とする先輩たちとも交流を深めていて、立村の中ではきっと大混乱をきたしていたのではないだろうか。ほんの少し触っただけの貴史も、いわゆる悪酔いしそうになるのだ。立村のような神経過敏野郎にとっては相当、きつかったと思う。
──やっぱなあ、立村は少し様子を見るのが一番いいのかもなあ。こんなきっつい環境にぶち込まれて、『大政奉還』とかわけのわからんことやらかそうとしてど顰蹙買っちまって、それで頭ぐっちゃぐちゃになったとしても、あいつの気持ちとしちゃあ当然だよな。俺もやっぱ、あいつにひでえこと言っちまったけど、こんな環境にいたらそりゃ、めげるよな。
とてもだが、あの気品溢れる生徒会長佐賀はるみ、アマゾネスの天才霧島キリオ、この二人に立村の歯が立つわけがない。立村にはかわいそうだが、そっとしておいたほうがいいと貴史なりには判断していた。もう何も言わず、静かに。ただ天羽の思いやり通りに、けじめをつける意味で今日の最終決戦には沈黙の形で参加させたほうがいいとも思う。
──天羽も言ってたもんな。「あいつに期待しちゃいない」ってな。そりゃそうだよ。もう負け試合だもんな。ただ、評議の連中は最後の最後まで立村を評議の仲間として一緒に戦いたいと思ってるだけなんだもんな。もう、どうしようもねえよなあ。
貴史は一呼吸置いた。今ここでできるのは、難波と組んで天羽の友情からくる想いを伝えるだけだろう。その場にいてもらいたい、それだけなのだから。
難波がすでに給食準備室の前で腕を組んで待っていた。下げられた給食の鍋やステンレスの食器が山積みされている。まだ匂いが残っている。今日は豚汁だった。
「遅かったな、行くぞ」
「お前迎えにこねえし」
忘れていたのだろう。あまり突っ込まず貴史も歩き出した。ちょうど入れ違いに例のポニーテール娘が教室を出て行くのが見えた。貴史たちとは反対方向に歩き出したので気づいていない。運が良し。
「ということは、誰もいないってことだな。行くぞ」
細かいことは言わず、難波はすぐにE組、正式には「教師研修室」の扉を開いた。
「俺が先に入る」
貴史が返事をする間もなく、先に難波が足を踏み入れた。もちろん貴史もそれに続く。
立村は立ち上がってふたりを見ながら窓際に向かった。見た感じはあまり変わっていない。浮かんだ表情も最初は驚いていた様子だが、すぐにいつものポーカーフェイスを作り直している。背を向けたくても礼儀上できないといった風に、露骨に避けているのが見え見えだ。わかりきっているから傷つくわけがない。貴史が今度は先に、立村の立っている窓辺脇の机にそのまま座った。逃げ道をふさぐ。挨拶してみた。
「よ、元気」
「ああ」
戸惑う表情で、それでもかすかに笑みを浮かべて立村が答えた。後から難波も近づいてきて、貴史の前にある机の椅子を引っ張り出し腰掛けた。わざわざ膝を組んで謎の投げキッスをしようとしている。何をしたいんだかわからない。
沈黙を作る気、さらさらない。このまま一気に進むことにする。貴史は尋ねた。
「あのさあ、立村。いつ帰ってくる?」
「帰る?
また一歩引くような顔で、立村がかすれた声で問い返す。予想通りだ。怖がっているのが見え見えだ。そういえば立村が学校に戻ってきてからまともに話したことなどないに等しいのだから、よそよそしいのも無理はない。悪いがそれも読み込み済みだ。
「美里がうるせえのなんのってな。ああ、お前知らねえか。さっきな、天羽がしゃべってたけどな、今日臨時の評議委員会と生徒会役員との話し合いがあるんだとさ。で、お前休んでる間さ、美里が代わりに出ろってうるせえからしかたなく受けちまったんだけどな。俺、評議のことなんか全然わからねえだろ? なあ、難波」
若干、嘘が混じっている。実際話を持ってこられたのは昨夜の電話だ。だが立村がそのことを知ったら、たぶん傷つくだろう。できればたまたま、顔を合わせたから頼まれただけであって本当は立村に頼みたかった、っぽい雰囲気を出したかった。この辺も計算はしている。難波の顔を見ながら奴の相槌を待つ。
「わかってもわからなくても話の核心がつかめればいいことだ」
難波はぶっきらぼうに答え、また投げキッスポーズを決めた。なんだこいつとつっこみたい。そういう趣味なのか。貴史は続けた。
「どうせたいしたことじゃあねえとは思うんだ。三年も最後だし、女王様集団の生徒会にまあ、最後のご挨拶ってことで集まるんじゃねえかって聞いているけどなあ。だろ、難波」
「なわけねえだろ」
難波がぴしゃりとはねつけた。そのまま立村をじっとにらみ付けている。窓辺で様子を伺っている立村も静かに見返した。ため息を小さくついて、
「何かあったのか、難波」
穏やかに尋ねてきた。
「天羽から聞いたんだったらわかるだろ」
「聞いたといってもどこまで本当かわからないしさ」
確か天羽は昨夜の電話で、立村が協力を申し出た旨の話をしていたような気がする。当てにしていないという前提ではあるが。全く関心がないわけではないのだろう。ただ、天羽の目的が現状をなんとかしたいというよりも、立村を最後の最後で仲間として受け入れたいという、そこまでは気づいていないらしい。
難波は言葉を選んでいるようすで、舌で何度もちっちとリズムを取った。両手を机に置いて、立村に座ったまま向き直った。
「要するにだ。この前のとんでもねえ出来事がきっかけでだ。天羽がつるされてるってわけだ。立村、そのくらいは聞いてないのか」
「聞いてる。でも」
「女子評議はみんな使えない奴ばかり、男子連中もアホばっかり、そんな評議委員会を誰もこれからは全校生徒、信じませんぜよ、とばかりに生徒会長および取り巻き連中が、天羽の過去を暴露しようとしてるわけなんだ。お前そのくらいは想像つくだろ」
「ああ、そうだな」
不意に立村が困った表情で貴史の顔を見やった。こいつが助けを求める時によくするしぐさだ。笑いかけてやった。少しだけほっとした。ここから少しだけ、立村のかつての評議委員長らしさが垣間見え始めた。つまり、リーダーシップともいう。
──こいつも、最後までこういう風にやってりゃいくらでもごまかせたんだろうがなあ。運、ねえよな。全く。
たぶん評議委員会でも、難波たちに向かって情報収集していたのだろう。教室に入ってきた時のおどおどした態度とは打って変わり、立村の表情には凛としたものが浮かび上がり始めた。三年D組の教室ではめったに見られないもので、貴史も実はあまり感じたことがないものだった。
「例の事件と生徒会と、どういう関係があるんだ」
「つまり、天羽はな、今まで西月とのごたごたでもって男としての株を落としてるわけだ。俺は全くそう思わんが、女子連中の間では終わってるわけだ」
「でも、どうせ卒業なんだからそれまではさ」
「お前わかってるだろ。前期評議委員長やってるくせに、なに寝ぼけたこと言ってる」
難波はいらただしげに舌打ちした。
「つまり、西月の行動が天羽のせいだってことで、生徒会連中はたっぷりいやみを言いまくろうとしてるってわけだ。しかもな、今回はな、評議以外にもな、元生徒会の三年連中も登場する。もっとむかつくことに、希望者の一、二年も覗きにくる」
「希望者ってなんだ?」
「希望者とはつまり」
ここで難波は言葉を切った。親指で立村を指した。
「来年以降の生徒会参加希望者とも言う。すでに現在の生徒会は来年に向けて人材集めしてるってとこだ。まあ俺たちがやってきたことを、これから生徒会がお株奪ったってとこだ」
納得顔で立村が頷く。どんどんリーダー面していくのが見える。
「要するにだ。俺たちの恥さらしを全部、生徒会役員連中は他の連中にアピールしたいってわけだっての。まあ俺たちはかまわん。お前の言う通り、四月からはサヨナラだ。だがな、評議委員会ってのが今まで言われていたのと違っていかに使えねえところなのかってことがばればれになると、もう、今までのようなのりではやれねえよな」
「今までの乗りったって、それはしょうがないだろうし、でも新井林が」
「さあな。お前はもう投げた奴だからどうでもいいんだろうな。しかも生徒会は女子連中ばっかりだ。頭の悪いどっかのばか女子とは違って、あいつらは頭が働きすぎる。天羽もめいっぱい防戦してるがぎりぎりってとこだ」
「天羽もかなわないほどってことはないだろう」
難波の挑発に立村は間髪要れずに切り返す。貴史も難波の性格を知らないわけではない。投げキッスを連発しているとはいえ、秀才ぞろいのB組在籍でそれなりに賢い奴だ。立村と比較しても成績にしろ頭の回転にしろはるかに超えている。しかしそれに冷静に問い返す立村も、貴史からしたら無理しているように見えなくもないけれども、ほぼイーブンの戦いのようにも伺える。
難波は指で机を叩いた。臨界点到達寸前。立村の目つきもいつもの穏やかさが消え、きりきりと引き絞られたような眼差しに変わってきた。
「どれだけ俺たちが正論を吐こうとも、あいつらは女子連中を味方につけてるわけだ。今までは評議委員会ががしっと真中押さえていたから多少ばたばたしようともなんとかなったがな。今は先生連中も、全校生徒のみなさまも、評議委員会がやってきたことの八十パーセントを取り上げて、全部生徒会の手柄にしようと決めてるわけだ。特に俺たち三年世代のばかっぷりをみりゃあ、誰もがそう思うよな」
「難波、お前、何が言いたい」
声を抑えて立村が問いかける。
これはまずい。かなり、ものすごく、えらく、きている。
──やべえ、ここでなんとか押さえねえとまずいだろ。俺の二の舞だぞこりゃ。
難波が何故喧嘩腰なのかを説明しないとまずい。
もちろん立村も分かっていないわけではないのだろう。
難波が霧島ゆいにまつわるさまざまな出来事に巻き込まれていることも貴史以上に理解しているに違いない。たぶん普段の穏やかな立村だったらそれなりの対応をしているだろう。だが今の立村は自分のことだけで精一杯の状態だ。かつての評議委員長としての振る舞いを取り戻しつつはあるけれども、まだ、難波のことを思いやるところまではたどり着けていないように見えた。難波だけではない、天羽がなぜ立村に話をしに行ったのかその意味すら勘違いしているように見える。
──あいつらはただ、こいつと一緒に最後の最後まで心中したいだけなのによ。
──こいつは自分の力が足りないからってだけでそれを無視しようとしてるってわけだ。
──そりゃあねえだろ。お前が無能のまんまでもいいって、難波だって、天羽だって、更科だってそう言ってるのにな。しゃあねえ、俺がここでこいつを引っ張り出すしかねえよ。
「立村、よくわからねえけどよ」
貴史は思いっきりゆっくりと言葉を挟んだ。難波がむっとした顔で貴史をにらんだが脳天気に流した。
「とりあえず難波や美里が言うには、俺もそのなんだ、臨時の評議委員会に参加しなくてはならないんだとさ。冗談じゃねえよな。けど、しゃあないよな。お前が出ないんだからな。代行をださねばなんないってことでな」
──だから、お前にも出てこらわねと困ると、そういうわけなんだ。
言いかけたところで立村が遮った。感情の篭らない、冷ややかな口調だった。
「代行じゃないよ。俺が思うに、羽飛、お前が三年D組の評議にふさわしい」
──だからそういう問題じゃあねえだろがあ。
直接言えないもどかしさ。言葉を飲み込む間に立村は首を小さく振り続けた。
「秋から実際そうだろ。羽飛のおかげで、今、三年D組、まとまってるだろ」
「立村、何考えてるんだ?」
──なんだと、こいつ、おい。
さっきまで難波に向けていた光線が、今度は貴史に向けられた。
あの凍りついた眼差しが、あの時と一緒だった。
貴史は身構えた。立村は窓際から離れると、目線を合わせたまま教卓に向かった。そのままじっと見返した。きっぱり言い放った。
「だから、本来の役割として出ていくべきだと思う」
ひと呼吸、ふた呼吸、み呼吸。
ゆっくり心中で数えた。
──ここで切れちゃ、この前とおんなじだ。なんも変わらねえ!
自信がなくておどおどしているだけのこいつにとって、与えられたあまりにも重たい地位はきっとしんどかったことだろう。そのことに気づかなかった貴史は確かに悪い。
だが、それ以上にこの三年間一緒に過ごしてきた天羽たちの友情をあっさり無視していいのかとも思う。立村には脅したりぶん殴ったり怒鳴ったりしても全く効果がないことを、貴史自身三年間よく理解している。ただ、このどうしようもない馬鹿野郎でも一緒に語っているとほっとするまれなる人物だということも貴史は肌で感じている。こいつは自分が思っている以上に、いい奴なのだ。評議委員長だとか女子の趣味の悪さとかそういうところを差し置いても、貴史は立村とこれからもしゃべっていきたいと思う。天羽たちもきっと同じはずだ。その気持ちをないがしろにしてほしくはない。どう切り出せばいいものか。
ゆっくり、穏やかに、調子を狂わせないように。
できるだけやわらかく聞こえるよう、貴史は呼びかけた。
「それって逃げじゃねえのか?」
真正面から見据えて、それでもゆっくり、ふわふわ、やんわりと。
イメージは奈良岡彰子でいく。
「三年間、立村を評議として選んだのは、悪いけど俺たち三年D組一同だと思うんだよなあ」
立村は無表情のまま首を振った。かすかに笑みが浮かんでいる。
「羽飛が俺を推薦したからだろ。推薦されたら受けるしかないだろ。受けたら自動的に三年間持ち上がるのが、今までの評議委員会のシステムだったんだから、仕方ない」
そのまま今度は難波を見据えた。難波の血走った眼差しを立村は冷静に受け止めているようだった。
「だからだよ、難波。そういう間違いを正すために俺は評議委員会から生徒会への『大政奉還』をたくらんだ、って言ったら、怒るか? 本来評議委員になるべき人間がなれなくて、なるべきじゃない俺が三年間いついてしまった。それが根本的な間違いだったと思うんだ。難波もそれは、そう思うだろ」
──やべえ、頷いちまうじゃねえかよ。
誰もが感じていた事実を、立村本人が目の前で言い切ってしまっている。
否定してほしがっているのは見え見えだ。だが難波の性格上どうでるか、はっきり言って危険極まりない。
貴史は息を呑み、ふたりの視線を交互に伺った。難波、しくじるな。感情におぼれるな。よくわからないがシャーロック・ホームズは沈着冷静だったはずだ。
「思わない」
しばらく沈黙が続いた後、難波がどすの利いた声で答えた。
立村がふっと戸惑った風に唇を開きかけた。
「立村がどう考えようが俺の知ったことじゃねえ。だがな」
難波は貴史をちらと見た。すぐに立村へと戻した。続けた。
「本来あるべき姿とか言ったって、そんなの知るか。俺が知ってるのは、この三年間の評議委員会だぞ。それ以上の何物でもない。同期の野郎面子は俺と天羽、更科、それと立村、お前だ。それ以上何か変わったこと、あるのか? それ以外のバージョンなんて、想像する必要、いまさらあるか?」
──よっしゃ、難波、よく言った。パーフェクト、よくやった!
ガッツポーズしてやりたいがさすがにそれは控えた。何度も貴史は難波の背中で頷いた。また意味不明の投げキッスを見せ付けてもこれは許せる。難波は立ち上がり、立村をちらと見た後、貴史に向かい、
「じゃあ、そんなとこで」
あっさり声をかけ、最後に言い残し、扉から走り去った。
「とにかく、放課後、評議委員会と生徒会の臨時会議がある。場所は三Aだ。とにかく来い」
チャイムが同時に鳴った。戻らないとまずい。三年D組は一階からだと果てしなく遠いのだ。貴史は立ち上がった。ふたりだけの空気がまだ重たかった。困り顔で難波の去った後を眺めやる立村に、貴史も何か言い残さなくてはならないような気がした。
「とりあえず、俺もあのなんだ、そのなんとかに出るから、お前も来い。難波言いたかったの要はそれだけみたいだぞ」
立村はじっと貴史を見据えた。
「お前もか」
──しゃあねえだろ。お前来るって言ってねえし。
そこまでは言えず、貴史は明るく頷いてみせた。
「まあそういうとこ、じゃな」
片手を挙げ、貴史は扉を開け放った。廊下に出るとまだ豚汁のあぶらっぽい匂いが漂ったままだった。お代わりしたい気持ちに駆られた。腹が猛烈に空いた。廊下を駆け出した。幸い杉本梨南とはすれ違うことがなかった。
──あいつどうするつもりだろな。
すべて言うべきことは伝えた。天羽たちの心意気も、難波のぶきっちょながらも友を思う気持ちも。そして貴史も、
──お前がどんなにへましてめげてたとしても、選んだのは俺たちなんだ。お前を責めたりなんかしねえ。まあ全員じゃねえかもしれないけどな、少なくとも俺と美里は絶対にお前をぶちのめしたりしない。まあ、あと、古川とか、あの気障野郎とか、あと、たぶんまだたくさんいるぞ。なあ。
頭がぐちゃぐちゃになりかき回されているようだ。三階まで一気に駆け上り、貴史は教室の後ろ扉からこっそり戻った。やっぱり授業が始まっていた。にらむ国語の先生に向かい、
「すんまっせーん、ちょっと修羅場で」
へらへらしながら謝っておいた。本当は「ちょいとやぶ用で」と言いたかったのだが、舌が回らなかった。自分が正直すぎて困る。