第三部 78
奈良岡彰子と約束した放課後は、すぐにやってきた。
「ねーさんねーさん、どこで待ってりゃあいいんだ?」
まだこずえと話をしている奈良岡に話しかけてみた。別に隠すような内容じゃないだろう。思った通り奈良岡はにこやかに答えた。こずえにも頷きながら、
「うん、それじゃ、そうだね。すぐ行くから待っててね」
──すぐ行くったっておい、後ろにあいつがじろっと見てるぞ。
南雲の視線がやたらと痛いのが気になってならない。一応あいつの彼女である奈良岡がなぜ、貴史に楽しげに語りかけるのかわからないのだろう。
「あ、あきよくん、ごめんね、明日ね」
きわめてあっさりと、それでもあったかく声かけする奈良岡に実は追っ払われている南雲。普段なら貴史も「ざまみろ」と笑いたいところだが、不本意ながら同情の念もある。どうせ先輩女子に手を出して二股かけている奴なのだから自業自得だろうが、ここまでさらっと流されるのも男子としては面白くないに違いない。
「それじゃあ、また、彰子さん、明日は俺と遊んでよ」
しかたなくといった風情で南雲が東堂と一緒に教室を出て行く。ここで眺める限り、未練ありありに見える。穏やかなつながりに見えるけれども、どこかひっかかるものがある。
──あのふたりなんかあったのかよ。なあ、立村?
こういう時、立村が側にいたらそれなりの分析を述べてくれるだろうに。単細胞を自認する貴史としてはこれ以上何もわからない。
「じゃあね。こずえちゃん。また明日ね!」
「あれれ、今日はなんで羽飛と? えー、私も連れてってよお」
できれば今回に限りそれが望ましい。貴史が奈良岡の様子を伺うと、
「ごめんね。今日だけは羽飛くんにお願いしたいことがあるんだ。明日また、話すね」
ちっとも動じない。やはりこの女子は怖い。改めて思う。にっこにこのあんまん笑顔でありながら実は自分のやりたいことをとことん通す。文集事件の時もつくづく感じたが、このクラスで一番自分の意思を押し通しているのは奈良岡じゃないだろうか。
「あーあ、つまんないの。ねえ羽飛、彰子ちゃんのこと押し倒しちゃだめだよ。男は本能があるからね、彰子ちゃんも気をつけてね!」
「行ってきまーす!」
おどけるように答え、「さ、いこ!」 と貴史の背中を押していく。つられるように足がひょこひょこ動く。廊下にはまだ帰りを急ぐ同学年の連中がうろついている。珍しい組み合わせなのかなんなのか謎だが、やたらと女子たちからの視線が突き刺さる感じありだった。
玄関を出て、奈良岡は空を見上げた。
「あと、もうちょっとなんだなあ」
「何いきなり」
「だって、青潟の景色をこうやって眺めていられるのって卒業式までだし。私とすいくんは青潟を出て行くことになってるから、つい切なくなっちゃう時あるんだ」
「ああ、そっか、お前らそうだもんな」
すでに医師養成進学専用高校に推薦入学が決まっている奈良岡の立場を思い出した。忘れていたわけではないのだが、奈良岡そのものに関心が湧かなかったというだけでもある。
「水口ともそれ話すのかよ」
「うん、話すよ。すいくんも合格したはいいけれど初めての寮生活で、どきどきしているみたいなんだ。私ももちろんそうだけど、不安っていうよりどんな素敵な友だちが出来るのかなってそれが楽しみなんだ。私の行くところ、みーんないい人ばっかりだから、きっと大丈夫だよってすいくんにも話してる。羽飛くんも、もしすいくんが元気なくしていたら励ましてくれるとうれしいなあ」
「そだな、そうしとく」
しばらくつられるように、奈良岡とぐだぐだ話を続けていた。奈良岡に従って歩いていくと、なぜか校舎裏の雑木林にたどり着く。青大附中の生徒にとって珍しい場所ではないのだが、意外と貴史は立ち寄ったことのないところでもあった。雪が浅く積もっているが、道がきっちり雪かきされているので歩くには苦労しない。一歩横道それても歩けないわけではない。
「ねーさん、んで、用って何だよ。すっげえ聞きたかったんだけど文集のことか」
「ううん、違うよ。でもそのことも伝えなくちゃね」
奈良岡は立ち止まった。くるくると辺りを見渡す。
「ふたりっきりでよかった」
──あ?
「私、どうしても卒業前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「俺に、何?」
両手をがっしり肩に置かれた。笑顔の質が変わっていない。そのまんま、
「私、三年間、大好きだったのは、実は羽飛くんだったんだってこと、やっと気づいたんだ」
緊張も何もない、ただ目の前にあるのは笑顔満面のみ。
「ちょっと待て、お前さ、どうした、何かあったのかよ」
「ないよ。ただ卒業前にちゃーんと、羽飛くんに伝えておきたかっら今日お願いしたの。あー、すっきりした! ありがとう、聞いてくれて! 最高に幸せ!」
聞き間違えようのない辺りの静けさ。わさわさ上の方で木々の葉がすれるざわめきのみだった。奈良岡彰子の口から発せられた言葉の意味がまず、信じられない。
「あのさ、ちょい、ちょっと、俺がまだ展開についていけねえんだけど、ねーさん」
「びっくりさせちゃった? ごめんね。そうだよね」
「そうだよねっててか、俺の記憶間違ってねければ、お前、確か、彼氏って奴いただろ?」
「あきよくんのこと、言ってるの?」
全く持って動揺のかけらも見せず、奈良岡は頷きながら、それでも肩から手をはずさない。
「もちろんあきよくんのことは大好きだよ。でもね、『好き』の意味が違うんだ。そう、『LOVE』と『LIKE』の違いって言ったほうがいいかな。でも、『LOVE』ってのも違うなあって感じする。私みんなのこと『LOVE』だから、そうすると、なんていえばいいのかなあ羽飛くんに対してって。日本語も英語も難しいね」
「そういう問題じゃねえと思うだけど、まあいいや。あのなあねーさん、お前さんが今俺に言ったことってのは、世間一般じゃいわゆる『告白』って分類をなされちまうと思うんだ。そうだろ? そうだろ?」
「うんそうだよ」
あっさり認める。ようやく肩から手をはずしてもらえて少し貴史も楽になる。
「ってことは、普通彼氏って奴がいたら、そりゃまずいだろ? これを『浮気』とか『二股』とか、まああんましいい言葉じゃ言われねえだろ。そうじゃねえの?」
「うーん、そうなんだろうなあ。私とあきよくんとはすっごくいい友だちだと思ってるよ。でも、付き合うとかそういうのとは違うのかもしれないなあって最近思ったんだよ。みんな知ってると思うけど、あきよくんにはちゃんと本当に好きな人がいるしね」
「ああ?」
──みんな知ってると思うって、なんだそりゃ? ッてことは何か? 南雲の奴、ねーさんに自分の本命がいること平気でしゃべっちまってるってのか?
信じがたい新事実。貴史が知る限り確かに南雲は一学年上の先輩と結構すごい付き合いをしているとは聞いている。ただクラスの公認彼女である奈良岡彰子とはプラトニックな純情付き合いをしている。いわゆる「二股」だ。ただし、そのことを奈良岡は知らず、ひたすら一途に南雲のことを信じている、そういう展開ではなかったのか。さすがにそこまでしゃべることも出来ず、貴史が舌をあわあわ」させていると、
「修学旅行が終わってからかな。あきよくんがいろいろ考えるところあったみたいで別の先輩とその、お付き合いし出しているというのは知ってたよ。でも、ちゃんと私とも友だちでいてくれたし、本当に大切にしてくれたんだ。それはうれしかったな。でもね、私、あきよくんがその人とお付き合いしていて、全然腹が立たなかったんだ。なんでかな、わからないけど応援しようって素直に思えたの。だってあきよくん、家でいろいろ難しい問題があるらしくて悩んでいて、そういうことをしっかり受け止めてくれる人は東堂くんくらいしかいないし。女子で出来るのはたぶんその先輩だけなんじゃないかなって思えたし」
「何度も言うが、ちょっと待てねーさん」
貴史は頭を抱えて首を左右に動かした。
「ほんっとに申し訳ねえんだけど、今、俺、新たなる真実が溢れすぎていてどうしていいんだかわけわからねえんだよ。あの、それで、お前が俺をいい奴だと買ってくれたってとこまではわかった。それすげえうれしい。感謝感謝。だけど、それと南雲の二股とのつながりがよくつかめねえんだ。何か? 南雲に二股されてそれで俺に乗り換えたくなったとかそういうわけじゃ、ねえよな?」
たぶんそういう女子ではないと思いたい。最初の印象と大幅にイメージがずれつつある奈良岡だが、根本の「まっすぐでいい奴」の部分だけは変わってほしくない。もしそうなら「嫌い」の分類をせざるを得ない。
奈良岡はこっくり頷いた。
「びっくりだよねえ。私もあまり、話うまくないから分かりづらいよね。羽飛くん、今ここで全部話していい? 立ったままだとまずいよね」
「いや、いい、悪いけどな、俺も聞きたい」
頭が冷えると少しはすんなり今の状況も受け止められそうな気がする。貴史は何度も深呼吸し、少しずつ頭の中を整理するようつとめた。奈良岡彰子の笑顔は全く持って変わらない。日常の延長上で語っているに過ぎないような気がしてきた。
「私が羽飛くんを好きだったのは、中学入学式の時からだったんだ。確か隣りになったよね。席が。その時いろいろおしゃべりして、なんかいいなって思ったのは覚えていたんだよ。その後クラス名簿もらって最初に覚えた男子の名前が羽飛くんだったんだ」
──そりゃ俺、目立ってたからな。
両腕組んで、まずは何度も頷く。ありがたいことではある。
「そのうち美里ちゃんやこずえちゃんたちと仲良くなって、そのつながりでクラスのみんなと仲良くなっていったんだけど、その頃の私はみんな出会う人みんないい人ばっかりだったから、誰か特別な人が好きって気持ち、わからなかったんだ。たぶん、今思えばなんだけど、私の中では羽飛くんと美里ちゃんのコンビが素敵過ぎたから、なおさらだったのかなって思う。こずえちゃんには申し訳ないんだけどね。羽飛くんの恋人にって意識してなかったんだ」
「古川がなんで出てくるだかよくわからねえんだが、まあいっか」
「それでね、あきよくんが私のことを気に入ってくれて、小学校の頃の友だちも支えてくれたりして、なんとなくそういう付き合いっぽくなってったのが二年の頃。あきよくんは素敵な友だちだったし、今でもその気持ち全然変わってないんだ。でもね。やはり本当のこというとあきよくんのことを私は素敵な友だちとしてしか認識できてなくて、恋してるって気持ちとは全く別だったんだなってことが、三年になってからわかったんだ」
「三年、ってのがいわゆる、修学旅行後ってことか」
「そう。覚えてる? あの頃まではきっとあきよくんは私のことをそういう意識で見てくれていたんだと思うんだ。でも、だんだんいろいろな話をしていくうちに、お互い違う価値観なんじゃないかな、本当にお付き合いしたいのは別の性格の人じゃないかなってことが、私も、あきよくんも感じてきたんじゃないかって気がなんとなくしたの。他の人には言わなかったけど、たぶんお互いにそれ分かっていたんだよ。だから、ある時期から、あきよくんは今高校にいる人とお付き合いし出したいんだよ」
「それ、あいつに気づいたこと言ったのかよ」
「言わないよ。見ていればわかるしね。でも、その時本当だったらすっごく涙が出てしまうんじゃないか、悲しくなっちゃうんじゃないかって思ってたけど違ったんだ。すっごくほっとしたんだ。私もだけど、あきよくんが一時期いろいろと元気なくしていた時と重なっていて、その彼女さんと付き合い始めた頃からどんどん元気になっていったことがわかったんで。ああ、あきよくん、よかった、本当にこれで今までのあかるいあきよくんに戻って楽しく過ごせるなって。もちろんそんなこと言わないけど、これからもあきよくんの友だちとして応援していこうって思ったんだ」
──美里も似たようなこと、言ってたな。女子の流行かよ。
「私にはたくさん、素敵な男子の友だちがいるし、みんないい人ばっかりなんだ。あ、今度青大附高に入学してくる名倉時也って子、私の小学校時代の同級生で不器用だけどすっごくいい子だから羽飛くん仲良くしてあげてね。とにかくみな大好き。でもね、その中でひとりだけ、何か違う、私の中で特別な人がいるって、その頃やっと気づいたんだ」
「まさかそれが」
「そうだよ。それが羽飛くん」
奈良岡は片手を肩に乗せて力強く頷いた。
「三学期に入ってからいろいろなことがあって、改めて羽飛くんのことをいろいろ考えてみたんだけどね。私にとって羽飛くんの存在は本当に特別なものだったんだよ。いつも会うたび元気がもらえるし、おしゃべりしていると気持ちがすうっと楽になるし。クッキー食べてもらえるとすっごくうれしいし。最近はすごく嫌われそうなこと言っちゃってその時は思い切り落ち込んだりしたし。でも、羽飛くんと話している時に私も他の女の子と同じようなどきどきした気持ち味わえたところ見て、やっぱりそうなんだなって、わかったんだ」
「どきどき、かあ?」
まじまじと奈良岡の顔を見やる。確かに幸せ一杯の笑顔だが、その中に「どきどき」感は感じられない。そもそもその感情の中に「ときめき」が入っているのだろうか。
「そう。うまく言えないけど。でも、勘違いしちゃ困るんだけど」
突如、奈良岡はまじめな表情に戻った。笑いが消えた。にらんだように見えた。
「私、絶対に、美里ちゃんから取ろうなんて思ってないんだ」
「美里?」
「そう。今日このことを話そうと思ったのはそれもあるんだよね」
また笑顔を戻した。
「私、羽飛くんには美里ちゃんがいることわかっていたし、もしふたりが付き合ってたらきっと全力で応援できたと思うんだ。ふたりがお似合いだからってわけじゃなくて、ふたりだからこそ、きっと私もめいっぱい幸せな気持ちになれたと思う。私美里ちゃんも大好きだしね」
「またいつもの誤解かもしれねえけど、俺と美里は」
「うん知ってる。でも私言いたいのそれとはちょこっと違うんだ」
明らかに語るトーンが違う。このムードは確か、以前も感じたことがある。身構えた。
「立村くんと美里ちゃんが付き合い始めて、私も最初はよかったなって思ってたこともあるんだ。美里ちゃん立村くんのこと真剣に想って泣いてたこと知ってるから。でもね、美里ちゃんが立村くんに関わっていけばいくほど、すごく辛い思いをして元気なくしているのが、見ていて私、悲しくなってたんだ」
「おい、悪いが俺の親友を罵倒するのはやめろよな」
「わかってる。羽飛くんが今でも立村くんを親友だと思って心配してるのはわかってる。でも、これ、私が嫌われても言わなくちゃいけないことだから」
ぞわぞわ、今になって寒気が走る。
「この前のロングホームルームで羽飛くんは美里ちゃんと一生懸命がんばってたよね。テーマは立村くんのことだったけど、教壇から必死に美里ちゃんを守ろうとして一緒に並んでいた時、ああやっぱり、この二人が一緒にいると、私もうれしいんだって涙が出そうになったんだ。いろいろ大変なことがあってもあの二人が必死なら私もめいっぱいついていこう、応援しようって心から思えたんだ。なんでだろうね。加奈子ちゃんとのこともいろいろあったけど、美里ちゃんが思い直して手を差し伸べてくれた時、私、本当は思いっきり泣きたかったんだ。立村くんに縛り付けられていた気持ちが羽飛くんによって解かれて、やっと、あの、一年の頃の笑顔一杯の美里ちゃんに戻れたんだって。すごい魔法だって、私、本当に、本当に」
いきなりその瞳から涙がこぼれ始めた。ぎょっとする。
「私、本当に羽飛くんが男子の中で一番好きだったんだってやっと自覚できたんだよ。こんなすごい魔法使いがいて、大好きな美里ちゃんを救ってくれた。こんなすごい人を私は三年間ずっと好きでいたんだってこと、すっごく誇りに思えたんだ」
肩を軽く揺さぶられた。かくんかくん揺れる。
「羽飛くん、お願い。これからも美里ちゃんのことを守ってあげてね。ふたりが笑顔で仲良くしてくれることが、私だけじゃない、他の人たちも幸せにしてくれるんだから」
目をこすり、「あ、お母さんに怒られる」とハンカチをすぐ取り出す。改めて拭きながら、
「まだ、立村くんのこととかいろいろ問題が残ってることはわかってる。文集のことも私は納得してるよ。でもね、これ以上美里ちゃんが立村くんに傷つけられないように、羽飛くん全力で守ってあげてね。羽飛くんにとって立村くんは親友なんだってことはこの前のことでよく理解しているけれども、もうとばっちりが美里ちゃんに行かないようにしてほしいんだ。美里ちゃんが元気になると、私も、他のみんなもうれしいんだから。お願いね」
「あのさ、じゃあ、結局俺は何をすりゃいい?」
「美里ちゃんを守ること!」
どしっと肩に両手がかかった。貴史は天を見上げた。そこには白い太陽らしきものが雲にかかってきらきら光っていた。