第二部 76
「それでだ。羽飛。お前にこれから考えてもらいたいことがあるんだがな。あ、これは清坂も一緒なんだがな」
美里に叩かれた部分をさすりながらジュースを飲みつつ、貴史は菱本先生の話を聞いた。
「まずだ。俺が思うに、立村がこのままD組でゆったり過ごすことはまだ難しいという意見が圧倒的なんだが、お前はクラスの様子みてどう思う?」
菱本先生の言葉は貴史のストライクゾーンをもろ突いていた。
「そうだわな。俺もこのことはすっげえ考えてる」
両腕組んで本当に考えた。美里が胡散臭そうにこちらを見ている。
「あいつ、俺と美里見て全力で逃げたからな」
同時に美里も頷き、口を挟む。
「そうなんです。先生見てなかったと思いますけど、立村くん、私たちが近づいてきた時に顔色変えておびえていたんです。ねえ貴史、確かさ、南雲くんと一緒に教室までは来たよね。南雲くん立村くんから英語のリーダー予習ノート受けとってたし」
菱本先生もなぜか意味ありげに頷く。
「だからだな。やたらと英語科の先生方がお前ら珍しく完璧な訳文で答えてたとか言ってたが」
「とにかく、先生おちゃらけないでください! 今、立村くんはE組にいるんですよね。杉本さんと漫才みたいなこと話してるんですよね。それだったら私思うんですけど、立村くんをこのまま放っておくことできませんか? もちろん出席日数とかそのいろいろと難しいことはあるかもしれませんけれども、それなんとかなりませんか」
美里は両手を膝に乗せたまま菱本先生を見やった。しっかりと見据えた。それに答えようとはせず、菱本先生は貴史に向き直った。
「どう思う、羽飛? 清坂は立村をしばらくそっとしておきたいという考えだ。俺個人としてはできれば立村に教室へ戻ってきて欲しい。いや、できれば首根っこひっ捕まえてでも連れてきたい。俺はお前たちの熱い気持ちを知っているからこそ、直接立村にその真実を伝えたい。そうすればあいつのかたくなな気持ちもたぶんほぐれるのではないかと思うんだ」
「そうだよなあ。そうしたいのはやまやまだけどなあ」
貴史も答えを迷う。実際その通りだとは思うのだ。美里のような悠長なやり方など本当はまっぴらごめん、そう言い切りたいのも山々ではある。ただ、そこから先、どうすればいいかと考えるたび悩まざるを得ない。立村の面倒くさい性格を承知しているからだ。いったん恨んだら絶対に許さない。かたくな過ぎるあの性格を扱える人間が、今青大附中にはせいぜい狩野先生しかいそうにないというのがなんとも言えずしんどいところだ。カムバック本条先輩と叫びたいところだ。
「先生、俺思うんだけどな」
とっくり考え、貴史は口を開いた。
「あいつ何言っても自分のやりたいことしかしない奴だし、菱本先生が全力で引きずり込んだとしてもたぶん全力で無視すると思う。俺も手、焼いてきたしそれはすっげえよく分かる。だから、正直なとこ言うと、俺たちが何かできるってことねえんじゃねえのって気がするんだ」
美里がまた、信じられないものを見るような冷ややかな眼差しを投げる。
「もちろん先生だったらまだいろいろやることあるかもしれねえけど、生徒としての俺たちがやれることってのは本当にちょびっとしかねえよ。ほんとは俺も菱本先生と組んであいつを引っ張り出していろいろ聞き出したいことある。けど、それよか最優先で考えねばならねえことってのは、クラスを整えるってことじゃないかって気がしてきたんだ」
「クラスを、整える、ってどういうこと?」
美里が問い返す。胸張って答える。
「お前も知ってるだろ。女子連中が立村のことすっげえ嫌ってること。この前のことでだいぶ言いたいことは言い合えたけど、肝心要の立村とはまだ面と向かって話し合いしてねえってことだし、あの中に飛びこんだってしょうがねえだろ」
「まあね」
美里は短く答えた。
「そりゃロングホームルームではなんとなく分かり合ったような雰囲気にはなっちまったけど、本当のとこは違う。それじゃどうすりゃいいか。とりあえずは立村がいつ戻ってきてもいい環境作ることじゃねえかって気がするんだ」
「あんたできると思う? 三年間ずーっと同じ状態できたんだよ。いくらあと一ヶ月あるったって雰囲気を丸ごと変えるのは難しいよ」
「わかってるって言ってるだろ! けどあのまんまのクラスだと立村は意地でも戻ってこない。下手したら卒業までE組にもぐりこんでるかもしれねえし。それならいわゆる天照大神を引っ張り出すような雰囲気作るしかねえんじゃねえ、とか思うんだ」
「誰が腹出して踊るのよ」
「別にストリップしろとは言ってねえよ。けどな、俺なりにうちのクラスは居心地よくて、あいつが戻ってきても噛み付いたりなんかしねえよってことを証明できさえすれば、きっと覗き込みにくるんじゃねえかと正直期待はしてる」
「羽飛、お前の言いたいことは」よくわかるんだがな」
菱本先生が割り込んだ。
「あと二ヶ月とか言ってきた俺が言うのもなんだが、そりゃのんびり過ぎやしないか? もう少し俺たちの方で働きかけたりすることもできるんじゃないかと思うんだが」
「そう出来てたら俺だってそうするって。俺だって今朝あいつの面見るまではそう思ってたよ。けど、立村の奴、本気でびびってたんだ。俺の顔を見るだけでも恐ろしいとかいって逃げ出しちまったんだ。あのまま俺がE組に乗りこんでいったら、きっと学校にも来ないんじゃねえかって気がどうしてもするんだ。今、やっとこさっとこあいつ、学校に来てくれたわけなんだから、そこはしっかり押さえたいよな。保健室ならぬE組登校でもいいってことだったら、しばらくその手で行くってのはどうかなって俺は思うんだ。先生、美里、どう思う?」
しばらく沈黙が続いた。美里だけがちろちろと貴史の様子を伺う。菱本先生は貴史と同じく両腕を組んで俯いていた。やがてゆっくり顔を上げた。
「クラスのことについては賛成だ。お前の言う通りクラスの連中も気持ちがまだついていけてないかもしれないしな。羽飛が本気でそのあたりを取りまとめるつもりならば、俺は任せる。ただ、俺は担任としてやるべき仕事がまだまだある。そのまま放置しておくわけにはやはりいかない。俺なりに立村にはなんらかの働きかけは続けていく」
「あまりへますんなよ」
小声でささやいたところを美里に思いっきり叩かれた。菱本先生は聞こえない振りをしてくれたかのようだった。
話し合いを終えて、ふたりが生徒指導室を出た時、静まり返った廊下で貴史はもう一度振り返った。
「先生、どうもな。とりあえずはこんなとこじゃねえの」
「お前みたいな生徒ばっかりだったら俺も苦労しないんだがな」
「どうだか」
小声でつぶやく美里を軽くぶつ振りをしてやった。
「まあまあ清坂もあまり、羽飛をいじめるなよ。お前らの呼吸が合っていることはよっくわかっているが、やはりやりすぎは禁物だからな」
「先生わかってますって。それより、立村くんのことですけれども、よろしくお願いします」
「まるで親みたいな言い方だなあ。そうだ、そうなんだな」
菱本先生は、ふと気がついたかのように貴史と美里を見据えた。
「お前ら、立村の家族なんだな」
校門を出て、だいぶ暮れかけた空を眺めながら美里がしみじみとつぶやいた。
「なんか、すとーんって腑に落ちた」
「何がだよ」
ゆっくりと、さっぱりと、遠くへ視線を向けたまま、
「私たち、立村くんの、家族なんだよ。友だちっていうか、お兄さんとかお姉さんとか」
ひと呼吸置いて、やっと貴史の顔を見た。
「どうして早く、気づいてあげられなかったんだろうな。立村くんが望んでたのって、付き合うとか付き合わないとかそういうことじゃなくって、兄弟姉妹みたいな関係だったんだってこと。ほんと、ばっかみたい」
空から静かに雪が降り始めた。美里の言葉をそのまま受け止めていいのか貴史には判断できなかった。昨日の出来事をもっと細かく聞きだしたくとも、何かを悟ってしまった美里には無駄なような気がしてならなかった。今この瞬間、もっとも美里に意味のない言葉が「恋愛」だということだけは、なんとなくわかった。
──第二部 終──第三部へ続く