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第二部 75

 その日はただ沈黙が続いていた。

 ──立村、あいつ結局どこ行きやがったんだ。

 ちろちろと噂だけは流れてくる。

「さっき、ちらっと見たけど、E組のほら、あの杉本さんって子のとこに座ってたよ」

「保健室登校って奴? 情けないよね。結局びびって来られないんだね。アホじゃないの」

「あれだけ騒ぎ起こして、どの面上げて来いってのよね」

 女子たちの噂話はかなりの部分において真実が多い。最近貴史が感じつつあることでもあった。南雲が他の男子連中に能天気な語りをし続けているのも、むかつくくらいはっきり聞こえる。

「ああ、りっちゃんからさっきノートもらったよ。お前らも、見る?」

「うわあ、感謝感謝。神様仏様立村様ってとこだよなあ。なんでこんなに分かりやすい訳なんだろうって、感動すら感じるぞ。なんとか早くクラスに戻ってきてもらわねえと俺の英語の三学期の成績、まじまずいんだがな」

 ──お前ら、立村を完全な自動翻訳機としか見てねえよな。

 そんなわけがない、本能でそれも分かっているつもりだった。南雲の思惑も貴史は決して読み取れないわけではない。こうやって軽く語って、立村が戻ってきた時に入りやすくしてやろうという思いやりなのだろう。承知している、わかっている、でもだ。

 ──それは、俺と美里がやることだろ。

 美里はおとなしかった。しばらく、こずえ相手にも何も話そうとしなかった。


「さってと。清坂、それと羽飛、悪いが今日は残ってもらえないか。話があるんだ」

 もやもやしたまま時間が過ぎていく中、気がつけばまた放課後だ。菱本先生もいつも通りに帰りの会を終わらせた後、初めてふたりに声をかけてきた。

「先生、なんですか?」

 他の連中がいわくありげにふたりを見つめて教室から出て行くのを待ち、菱本先生は首を振った。やはり、何かがあると見た。

「大切な話があるんだ。今日は生徒指導室を押さえてある。説教じゃないが、まあ似たようなもんだ。行くか」

 貴史は美里を顔を見合わせた。美里の表情にはかっちかちの何かが浮かんでいる。

「行くか」

「うん。あ、先生、行きます」

 理由は聞く必要がない。聞かねばならないのは、理由そのさらに向こうの話。


 まっすぐ三階に向かい、すぐ生徒指導室へ促された。あのいざこざからそれほど日が経っていないはずなのに、はるか昔の出来事にも思える。あの日はひたすら泣き顔で立村の様子にはらはらしていたのに、今はすこぶる冷静に菱本先生の後ろをついて歩いている。

 菱本先生はすぐふたりをソファーに座らせた。部屋の温度も適度に暖かい。オレンジジュースを二本取り出して渡した。

「もう少し別の味もあればと思うんだが、まあありもんでがまんしろよな」

「贅沢言いませんから。それより、先生、今日のお話って」

 美里がまだこわばった顔で問う。貴史も頷いて促す。

「まあ大体、誰のことか俺はわかってるけど。ただ状況がわからねえと」

「そうだ、お前らふたりにはこれから、力を借りないといけない状態になったんだ。清坂も、そのことは大体わかるな?」

 いきなり美里に問いかける。頷く美里をつつき、貴史は改めてささやいた。

「なんだよ、なんかあったのかよ」

「これからわかるから黙ってて」

 手元のジュースをテーブルに置いたまま、美里はがっちりと手を組み合わせたまま菱本先生を見つめていた。菱本先生も美里の正面に座り、自分の分のジュースを握った。プルトップをはずしておいた。一気に飲んだ。

「立村のことだがな」

「E組とかにいるんだろ」

 すぐ遮った。女子たちの噂を再確認するためだ。

「さっきうちの女子たちがしゃべってたけど、あいつ今、あの教師研修室とかいうところにいるんだろ。今E組って言われている島流しのクラスに」

「羽飛、それは違う。島流しというよりも、ひとりでゆっくり勉強する必要のある生徒たちが集まる場所であって、差別の対象とは違う」

 ──あのむかつく女子がひとりで追っ払われている場所だろ。けどなんで。

 杉本という女子と一緒に立村が仲良くおしゃべりしていたらしいとも聞く。正直、考えたくない。

「説明するとだ。立村は確かに教師研修室にいる。何かしたわけじゃない。ただ本人が自主的にそこに行って、しばらくひとりで落ち着きたいという意思表示をしたんだ」

「立村くんが、ですか?」

 美里がからむ。唇を噛んでいる。泣いてはいない。

「清坂には辛い現実だろうが、そうなんだ。俺もすぐ教室に行ってじっくりあいつと話をした。三年D組の連中がみな待っていることを再度伝えたつもりだ。だが、やはり怖いんだろうな。がんとして首を振ろうとはしなかった」

「それなら、立村はこれからどうなるんだ?」

 貴史が食い下がる。

「はっきり言って、出席日数足りるのかよ。あのままE組に篭ってたら」

「それは大丈夫だ。学校にいる以上出席には入る。授業もほとんど三年のカリキュラムは終わっているから補習プリントに徹していればそれでいい」

「それでいいのかよ、本当に?」

 問い返すしかない。確かに立村は学校に戻ってきてくれた。菱本先生の説得に応じたのかどうかは知らないが戻ってきて、一度は三年D組の教室へ足を踏み入れようとした。だが、

 ──あいつ、俺たちを見て逃げただろ?

 がっしりと爪が刺さったような痛み、どうしてくれよう? 共感を求めたくても隣の美里はかたくなな表情を崩さない。

「清坂、どうする? 羽飛に話すか?」

「はい。私の方から話します」

 じっと、貴史の横顔を見つめるようにして、美里はきっぱり答えた。

「立村くんのことを守りたいという気持ちは私も、貴史も、一緒ですから」

 その手で自分の分のジュースを貴史に渡した。

「私、立村くんをしばらく放っておこうとおもうんだ」

「はあ? 今朝、お前そんなこと言ってたけどなんでだ?」

「だから、今朝、見たでしょ?」

 いらただしげに美里は言い返してきた。

「立村くんはきっと、私たちのこと怖がってる。だから、菱本先生にもこれ協力してほしいんですけど、立村くんの気持ちが落ち着くまで、ずっとE組にいてもらったらいいんじゃないかなって、思ったんです」

「なんでだよ、お前なんかあったのかよ」

 貴史の問いに、美里は大きく頷いた。貴史の腕を引っ張った。

「だから今から話すって言ってるじゃないの」 

 ──その言い方ねえだろうが。

 先生がいるから黙らざるを得ない。ふたりきりだったら思い切りどついているかもしれない。どこか美里の態度には違和感ばりばりなのだが、それはあのロングホームルームの時も同様だったから驚きはない。

「ええと菱本先生はどこまで知ってるんですか?」

「今朝、狩野先生から一通り伺ったんだ」

「すぐ連絡入らなかったんですか」

「ああ、狩野先生なりにいろいろ考えてくださったんだろうが」

 ぴんときた。あれだ。今朝のことだ。貴史は割り込んだ。

「先生、もしかしてさ朝、狩野先生が先生に話しかけてただろ、あのことか?」

 貴史の顔をまじまじと見つつ、菱本先生は両腕を組んで頷いた。ため息をまた吐く。

「なんというか、お前ら二人はタイミングがよすぎるな。だから、名コンビなのかもしれないがな」

 またジュースに口をつける。

「今から話すことは、お前らが立村の親友だからあえて打ち明けることなんだ。それと、清坂も偶然関わっていたことというのもある。このことを通じて、これからお前らがどういう判断をするかが、俺としては少し気になるんだが」

「安心してください、先生。私、そのこともちゃんと考えてます」

 美里が何度も菱本先生をなだめるように声をかける。その上で貴史をもう一度覗き込んだ。

「昨日、私、近江さんの家に車に乗っていったじゃない? その後のことなの」

 痺れを切らしたのか、自分からぺらぺらしゃべり始めた。もう、黙って聞くしかなさそうだ。菱本先生も完全に美里へ舵を預けている。狩野先生の件で相当参ったと見える。


「近江さんのお姉さん、つまり狩野先生のうちなんだけどね。いろいろ近江さんと部屋で話をしてたら、杉本さんから電話がかかってきたの」

「ああ? あのむかつく二年の女子かよ」

「あんた先生の前なんだからやめなよ。近江さんとこに遊びに行くってうちの親にも伝えておいたのがよかったんだね。最初杉本さんは私に連絡をしたかったらしくてうちに電話かけてきたの。そこでうちの親が近江さんの電話番号を教えて、そこからまたかけなおしてくれたらしいの」

「ああ? 話全く読めねえんだけど」

「頭働かせなさいよ。昨日見たでしょ。立村くん、杉本さんと一緒に帰ったってこと」 

 ──そういえば、手、引っ張ってたな。

 冷ややかに貴史たちを無視して突っ走っていった姿が目に焼きついている。美里の語りは止まらない。

「あの後、立村くんはね、杉本さんを連れて汽車に乗ろうとしたんだって」

「汽車に乗る? あいつ品山だろ? 汽車、そりゃ乗るだろ?」

「ばか! あんた本当にもう少し頭冷やしたらどうなのよ。いきなり下級生連れて家に帰ろうなんて普通思う?」

「わからねえ、もっと説明しろっての!」

 埒の明かないふたりの会話にやっと大人の菱本先生が割り込んだ。

「漫才見ているほうが楽しいんだが、現実は厳しいんだ」

 手付かずのまま並んでいるジュースを手に取り、今度はそれぞれに両手で手渡した。

「立村は、二年の杉本を連れて、家出しようとした。一言でいうとそういうことなんだ」


 ──家出かよ!


 手で受け取ったジュースの缶が冷たい。美里はそっと膝に抱いている。貴史はただ握り締めている。

「家出って、あいつ、けど今日来たぞ? 見たぞ?」

「だから、連れ戻されたの。ってか、厳密に言うと杉本さんに止められたの」

「なんでだよ」

 美里は冷静を装うように、ジュースの缶をなでながら続けた。

「杉本さんの話でしかわからないけど、立村くんはもう杉本さん連れてどこか遠くに行くとか言い出してきかなかったらしいの。杉本さんしっかりしているし最初からそんなの付き合うつもりなかったけど、立村くんの話し方が普通じゃないってこと見て取って、まずなだめようと思ったみたいなの。それで、いったん立村くんの機嫌を取りながら駅まで行って、交通費用意するという言い訳してすぐ、私に電話をかけてきたの」

「なんでだよ」

「あんたその相槌やめなさいよ。杉本さんとしては家出に反対。でも、立村くんを押さえることはできそうにない。そこで頭を働かせて、いったん汽車で適当なとこで往復して頭を冷やしてもらってさっさと立村くんを品山に帰そうと考えたみたい。立村くんも杉本さんとしゃべっている時ほっとしているからね、少し遅くなって帰った程度で済めばいいんじゃないかって思ったみたい」

「そっか、お前一応は公認の彼女だもんな」

「殴るよあとで。いったん三桜行きの鈍行に乗って往復するだけでなんとかなるから、帰ってきた時に私が駅のホームで待って、無理やり正気に戻させるという方法を考えたんだって。だから、青潟駅に三桜からの汽車が何時に到着するかを細かく調べて私に電話してきたの。私に、迎えに行ってあげてほしいって」

「正気かよあの女」

 全身で力を込めてにらみつけ、男子たちへの罵倒の嵐。それが女子の先輩に対してはなんと気遣い上手なことか。ある種の処世術を見背つけられたような気がした。

「いい加減にしなさいね。けど、私、そんなことして立村くんが反対にぶちぎれることのほうが怖いと思うのよ。あんたもそう思わない? もしよ、もし私が駅で待っていて、むりやり立村くんを引っ張り出して、たぶんその時の勢いでひっぱたいたりなんかしたら、もう修羅場じゃない? 立村くんもう何するかわからないよ。ただでさえ家出するつもりでかっか来ている時に、私なんか行ったらどうなるの」

「まあそりゃそうだ」

「でしょでしょ! だから、私なりに考えて、杉本さんにすべて任せようと思ったの」

 ここで美里は声を潜めた。もちろん貴史にも、菱本先生にも聞こえる静けさが漂っている。

「杉本さんにはなんとかうまく立村くんをなだめてほしいって伝えたの。たぶん杉本さんにだけは立村くん、心許しているし杉本さんも賢いからなんとか無事にすむんじゃないかなって。もちろん本当に家出になっちゃったらどうしようとは思ったよ。でも杉本さんに限ってたぶん大丈夫かなって」

「大丈夫じゃねえだろ」

 立村が家出するところまで追い詰められたのは分かる気もする。だがなぜ、あの嫌われ毒ガス発散娘の杉本梨南を連れていくことに拘ったのか、その意図が全く見えない。相手が美里なら分かる。少なくとも彼氏彼女の間柄なのだから、行き着き先がいわゆるそのあのなにかであってもショックはあるが受け入れられるものはある。だが、あんな性格の悪すぎる杉本を連れていって何か楽しいことでもあるのだろうか。ふたりきりでそれこそ不純異性交遊などの匂いが一切感じられない、それもまた情けない話ではある。

「そこまで私も何にも考えないで電話に出てたの。そしたら、私が気づかない間に近江さんのお姉さんがその情報を学校にいた狩野先生に連絡して、狩野先生がすぐ戻ってきて、私を問い詰めて、それで」

「おい、狩野先生がかよ。あの、虫も殺せそうにないあの先生がかよ」

「そうなの。私もびっくりしたよ。狩野先生、すぐに時刻表調べてその汽車の到着時刻確認して、一目散にタクシーで先回りするため走っていっちゃったの! もう、あの行動力に私と近江さんただ絶句。近江さん言ってたけど、狩野先生ってプライベートでもいざという時のつっぱしりっぷりが普通じゃないんだって。結婚する時も」

「ちょい待った。他の組の担任の結婚話なんか聞きたくねえよ。俺は菱本先生だけで十分腹いっぱいだ」

 誰も笑えない内容だけに美里から露骨に無視された。

「とにかく! それで足がついちゃって、杉本さんは途中の駅でタクシー乗せられて帰されたし、立村くんは三桜駅から特急で狩野先生に付き添われて戻されたってわけ。そこから先は私もわからないけど、学校側では内密に処理されたってことで、いいんですよね、先生?」

 菱本先生はまたため息を吐いた。かなり、めちゃくちゃ、参っていると見た。

「そうなんだ。俺も実はこの話を聞いたのが今朝なんだ。狩野先生から片手間のような感じで事後報告を受けたが、あくまでもこれはたまたま狩野先生がふたりの乗っている汽車に乗り合わせて、大事をとって連れ帰っただけという展開なんだ。だから、補導したわけでもない。本当にたまたま、ということにはなっている。その後、立村の家まで送っていって、狩野先生はお茶をご馳走になり帰った。それだけのことになる」

「ってことは、家出っておおっぴらにはなっていないということなんですか」

「そうなんだ。どういう話を立村と狩野先生がしたのかはわからないが、あいつなりに考えるところがあって学校に戻ってきてくれたというのはあるんだろう。だが、まだ精神的に不安定な状態だということは見て取れた。あの二年の杉本も、こう言ったらなんだが、通常では考えられない行動を取ってくれたおかげで警察に見つからないように内密の処理ができたと、そういうわけだ」

「杉本さん、ほんとすごいですよ! 先生、あの子については褒めてあげてくださいね。どれだけ立村くんをなだめるのに苦労したのか、想像するだけでもかわいそうですもん」

 初めて菱本先生は吹き出した。

「さっきちらっとE組であのふたりの会話を聞いたが、関係者でなければまじで笑える内容だとつくづく思った。ああいう会話が楽しいと思える奴は貴重だろうなあ」

「絶対ありえねえ! あんな性格最低の女子が、なんで立村のお気に入り子なんだあ?」

「貴史、もういい加減にしないと」

 次の台詞はなかった。美里が立ち上がり、思い切り貴史の足を蹴り上げたからだった。

「羽飛、悪いが、俺は止めないぞ。反省しろよ」

 教師の顔していたはずの菱本先生も、笑いをこらえながら厳しいジャッジを下した。


 ──けど、まさかかよ?

 三人がふと笑顔になった瞬間、さっと刺さる矢。

 ──立村の奴、そんなに、そこまで、俺たちから逃げたかったのかよ。

 昨日のふたりの背がまた浮かび上がり、消えた。手のジュース缶を握り締めた。

 ──美里も、笑いながら話せることかよ。あいつ、お前よりも、あの最強最凶性格最低女子を選んで逃げたんだぞ。なぜ、なんで俺を蹴って遊んでられる?


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