第二部 74
長すぎる一週間だった。
いろいろなことがあり過ぎた。
それでもまだまだ卒業式まであと二ヶ月。
──そうだよなあ、あと二ヶ月もあるんだよなあ。
次の日、貴史は早めに学校へと向かった。雪はまだまだ残っていたけれども、無理すれば十分自転車で走り抜けられる程度の道だった。美里には声をかけずに突っ走った。遅刻はするわけもないが、やはり先生と打ち合わせをする場合には気合つけて起きないとまずい。八時前に到着し、急いで職員室前に向かう。菱本先生は季節感関係なく早起き野郎なので、捕まえるにはベストな時間帯でもある。
「先生、おっぱよ」
「ああ、羽飛か」
とはいえ眠そうな顔をしている菱本先生でもある。肩を並べて職員室に入る。意外にも中は暖かかった。先客がいるかと思いきや珍しく狩野先生が席について書類を眺めていた。
「狩野先生おはようございます」
「おはようございます、あの、よろしいですか」
遠慮がちに、静かに、狩野先生が菱本先生の元に近寄った。隣にいる貴史に軽く会釈をし、また狩野先生へ、
「お伝えしたいことがあるのですが、少しだけお時間よろしいですか」
いかにもお人払いを、と言わんばかりの目で貴史を見つめた。どうもこの先生は貴史にとって相性があまりよくない。好き嫌いの問題ではなく、波長が合わないと言ったほうが近いのかもしれない。授業が分かりづらいとかそういうのでもない。むしろ、かんたん過ぎて物足りないとか、あっさりし過ぎていて深みがないとか、そういったイメージだ。一方で立村が極端に懐いているのは、感覚が正反対だからだろう。あそこまで菱本先生を毛嫌いするのだから、違う価値観を持っていそうな狩野先生を評価するのは当たり前のことかもしれない。
「じゃ、先生、あとで教室で、失礼します」
こういう大人の話題に無理な割り込みはしないが勝ちだ。さっさと職員室を出ることにする。すれ違いで教頭先生が現れ、
「やあ羽飛くん、おはよう!」
と張り切った声で挨拶をしてくれた。ずいぶんと有名になってしまったものだ。
「教頭先生おはようございます!」
もちろん、ため口は叩かずに挨拶しておいた。
三年D組の教室にはかばんだけが置いてあり、人気はまったくなかった。
たぶん部活の朝練だろう。いまだに三年生が必要とされる場もそれなりにあるということか。とうとう三年間部活動とは縁のなかった貴史にとっては、理解できるようでできないところもある。まずはジャンバーを後ろのロッカーにかけて、それからストーブにぬれた手袋をかけて干した。
──それにしてもなあ、今日、あいつ来るのか。
かばんを机の上に置き、その上に座り、しばし考える。
──美里の前であんなことやらかしてたら、ただでさえ女子から総すかん買ってるってのに止め刺されてしまうじゃねえか。どうするんだあいつ。俺ももうかばいきれねえぞ。
立村の謎の態度がどうも解せない。南雲の言う「杉本さんに告白していた」という説がガセネタだということくらいはわかっている。あれは南雲なりに、立村が教室へ戻ってきやすくするためのはったりだったのだろうと思う。貴史からするとあれば、そんな色恋沙汰がきっかけではない。ただひたすら、三年D組から逃げ出したい、拒絶した目つきそのものだった。拒絶された中には自分もいるし、もちろん美里も含まれている。今まで立村に対して多少なりとも好感を持っていた相手も含めてとなったら、このままだとクラスすべてを敵に回してしまう可能性もなくはない。
貴史自身はかまわない。ああいう奴なのだ、ああいう行動しか取れない奴だ、だからこちらで受け入れる覚悟はある。おそらく美里も同じだろう。しかし、クラスの連中はどうなのだろう。いくら立村が懸命にクラスのために尽くしてきたと認めても、全力で本人から拒否されたら、そりゃ面白くないに決まっている。
──なんとかあいつが戻ってきやすいようにしとかねばな。ちっくしょー、それにしてもな、狩野先生が割り込んでこなければなあ、俺なりにいくつか提案とか作っといたんだぞ。寝ないで考えたんだぞ。あーあ、立村、卒業式終わったらとことんお前と白黒勝負つけるからな。それまでは生き延びろよ。
教室の後ろ扉が開いた。振り返った。
「よ、おっはよ」
呼びかけてみて凍りついた。クラスメートではない。異形の……いや、それは女子に失礼な台詞かもしれない……雰囲気をたたえた女子がひとり、教室を覗き込んでいた。
「あ、誰かになんか用?」
間抜けな台詞しか出てこない。誰か。そう誰かはわかる。しかし、何しに来たのかが貴史にはつかめない。
「おはようございます羽飛先輩」
一本調子の感情のない言葉で、その女子は戸をあけたまま一礼をした。白いショールを羽織り、二つ分けの長い髪、確かに昨日見た女子に違いない。貴史の苗字を知っている。
「立村に用か?」
思わず口走ってしまった。その女子が誰かを把握したら、当然セットでくっついてくるのは奴しかいない。
「いいえ、清坂先輩に会いに参りました。まだいらっしゃいませんか」
「美里はまだだけどな」
まだ美里が来るには早すぎる。そのあたりは把握していない女子とみた。
「わかりました。失礼しました」
また丁寧に礼をし、背を向けようとした。背中の白いショールとふたつ分けにした髪の毛が揺れている。貴史は机から降りた。呼び止めた。
「ちょいと、待てよ。杉本、だったか」
「私のことをご存知でしたか」
──ああ知ってるわな。学年トップの成績取っていながら、現生徒会長をいじめるだけいじめて、学校側では中学卒業後追い出す予定っていう札付きの奴だってことをな。
杉本梨南という名前まで知っていた。立村が、この上なくやさしい眼差しで見守る唯一の女子であるということも。美里が、杉本にだけはかなわないと唇を噛んで見つめているということも。貴史からしたら、なぜこんなマイナスだらけの女子に自分の親友がのめりこむのかが理解できない相手でもある。
杉本梨南は感情のまったく見えない顔のまま、貴史の目を一直線ににらみつけた。妙な部分に力が入っているようだ。違和感が正直ある。
「そうにらまないでもいいけどなあ。あのさ、昨日、立村と一緒に帰ったろ。あのあと、どこ行った?」
「お答えする義務はございません。あるとすれば清坂先輩のみでございます」
──ございます、ときたかよ。
立村も相当のゲテモノ好みなのだと思わざるを得ない。噂には聞いていたが、貴史の知る限りの女子において、こういう気持ち悪さを感じさせる相手はいなかった。もちろん性格がよくないとか、嫌いとか、そういう感情だけならいろいろいる。しかし杉本梨南にはそれ以外のなにか、近づくだけでもわっとしたバリアのようなものが存在している。言葉遣いが変わっているとか、目つきが鋭いとか、そういうもの以外のどこか、できれば一生付き合いたくないタイプの雰囲気と言えばいいのだろうか。本当だったら一切関わりたくないが、親友のためだ、しかたあるまい。さらに尋ねる。
「あんまり言いたくねえけどな。あいつの親友としてやっぱ心配なんだよなあ。せっかくクラスであいつのことを心配してるのに、なんで逃げちまうのかとか、いろいろ三年でもあるんだよ。そいで、俺なりに聞いてるんだけど、あいつ、ちゃんと家、帰ったのか?」
「たぶん帰ったはずです。品山までお付き合いしたわけではございませんので」
ふと、杉本が目線を揺らした。どことなく言葉を濁しているようにも見えた。
「で、別の噂もあるんだけどな、立村に何か付き合いかけられたとか、そういうのもあったのかよ。あ、これな、あんたを責めてるんじゃなくて、立村をクラスでこれ以上浮かさないようにするためなんだけどな。協力してもらえないか」
「そういうクラスだったのですね」
あきれたように杉本は言い放つ。貴史としてはこれこそ、なぜ杉本梨南が学校を追放予定という判定を成されたのかがわかるような気がしてきた。先輩に対する言葉遣いがなっていない、という意味ではなく、接する相手を一瞬のうちに嫌悪させてしまうといった言動が一番の理由じゃなかろうか。美里やこずえは結構彼女を買っているらしいが、男子に関しては杉本をよく言う奴を聞いたことがない。
「その言い方、ねえんじゃねえの」
「立村先輩がお逃げになりたくなる気持ちが少しだけ理解できました」
まったく目を逸らさず、力も顔と唇、すべてに込めて杉本は言葉を次ぐ。
「私は下級生ですので三年の先輩方がどのようなことをなさってらっしゃるのかは存じませんでした。おそらく立村先輩に問題があるのではと感じておりました。そうでなければ清坂先輩があれだけ尽くしてらっしゃるにも関わらず、あんな行動をなさるわけがございませんので」
「おい、あんな行動ってなんだ? あの、まさか立村やっぱり付き合いかけたのか」
「付き合いという下品なお言葉はおつつしみのほどを」
まったく口調も眼差しも変わることなく、杉本の罵倒は続く。
「ですが、今、羽飛先輩とお話させていただきましてよく理解いたしました。こういうクラスに三年間いらっしゃったのであれば、立村先輩が逃げ出したくなることも当然のことでございます。また清坂先輩がいらっしゃいましたらお伺いいたしますが、立村先輩がもう二度とこのクラスに戻ってこられなかったとしたらそれは仕方のないことかと存じます。ご承知くださいませ。それでは失礼いたします」
「おい、ちょっと待て、言い方にもほどがあるぞ!」
だめだ、これはもう完全に切れた。女子に手を出すのは最低だとわかっていても、この女子、杉本梨南に対してだけは「例外」マークをつけてぶん殴りたい。もちろんそんなことは許されないし耐えざるを得ないが、これだけ言いたい放題されたらクラスの連中が激昂するのももはや当たり前に思える。もしこの女子がクラスの一員だとしたら、杉浦加奈子レベルの問題ではなく、ためらうことなくクラスから追放するだろう。風の噂によると杉本梨南をかばう声はほとんどなく、一瞬のうちに二年男女問わず佐賀はるみ生徒会長の味方としてついたという。現在E組という離れ小島に流されても、誰一人人権侵害だとかそういう申し立てをせず、当人の親すらも甘んじて受け入れていると聞く。戦っているのはピエロのようなこの、杉本梨南ひとりだけとも。もっともだ。
「お前さ、立村からどんなこと聞かされているかわからねえがな、うちのクラスは必死にあいつのことを仲間にしたいって思ってるんだ。クラスのありがたみを感じられないあんたなんかにはわからねえかもしれねえけどな、懸命に、立村は俺たちの仲間だと受け入れようとしてるんだ。美里だって、あんたとのくだらねえ噂を吹き込まれて落ち込んでてもいじめなんかに発展しないようにって一生懸命押さえてるんだ。普通だったらリンチされて吊るされてもおかしくないこと、あんたしてるって、理解してんのかよ」
「何をおっしゃってらっしゃるのやら」
馬鹿にしきった顔で杉本が答える。これこそ火に油を注ぐと言う。ショールを引っつかんで投げつけて踏みにじってやりたいが、そればかりは必死にこらえる。
「下劣な想像をなさってらっしゃるのでしたら、お答えするつもりはございません。ただこの件だけは申し上げておきます」
きっぱり、全身の力を振り絞るように杉本は言い放った。
「この中で立村先輩の求めているものをお持ちの方は、清坂先輩と古川先輩以外、どなたもいらっしゃらないということがよくわかりました。能力を認めず、くだらぬ『ありのままの自分』などを褒められて、喜ぶ人間がいますか。私は、決していないと思います。もしこのクラスに立村先輩をお戻しになりたいのであれば、先輩が求めているものを何か、お考えになることが先決なのではございませんか。時間が無駄でございますので、失礼いたします」
──この女、ちょっと甘くすればつけ上がりやがって!
新井林がぶちぎれ、佐賀がこてんぱんにやっつけたかった気持ちがよくよく分かる。美里にもこの言葉を突きつけてやりたい。いい加減この女をかばっている女子たちに目を覚ませといってやりたい。自信を持って死刑判決出してもいい女子がいれば、こいつしかいない。顰蹙承知で言おう。いじめられて当然といえるのはこの杉本梨南以外にいない。
「貴史、いい加減朝っぱらからエキサイトしてるんでないの!もう、何考えてるのよ」
いきなり後ろから両耳をぱしんとやられた。手袋の感触で柔らかい。
「おい、お前いつのまに来てたんだよ」
美里が毛糸の帽子をかぶったまま、えらくとんがった眼差しで貴史をにらみつけていた。
「あんたには関係ない話なの。下級生いじめるのやめなさいよ。あ、ごめんね杉本さん。来てくれてよかった。私から行くつもりだったんだ。ごめんね」
杉本梨南のにらみつける眼差しが美里に向かう。美里の口調も貴史にぶつけるものとは全く別の柔らかさが漂っている。
「清坂先輩、お見苦しいところを失礼いたしました」
「貴史も悪気ないんだけどね。立村くんのことで今、頭、かーってなっちゃってるの。ごめんね。それでね」
すばやく美里は杉本のショールをそっと押すようにして窓辺に連れて行き、ひそやかな会話を交わしていた。とってもだが追いかけるつもりなんでなかった。あんな嫌悪感ばりばりのにおいを持って接してくる女子とは、金輪際付き合いたくない。人の気持ちを感じずに罵倒し、その上で人の思いやりを丸ごと否定する女子など、人間として決して認めたくない。
──けど、なんで立村はあんな女子のことを。
──美里もなんで、受け入れられるんだろうか。
むしゃくしゃする。さっさと自分の席について、貴史は机に教科書を全部詰込んだ。
「おっはよお、あれ、羽飛どうしたの、いつものさわやかさがないわねえ、抜きたりなかったりする?」
いつものさわやかな朝の女王登場。古川こずえがぐるっと教室を見渡し、他の女子たちにも手を振りながら席についた。貴史の下に駆け寄ってくる。いいタイミングだ。言ってやった。
「あのなあ、古川」
「はいはいなーに」
「あの、杉本って女子、なんでお前ら女子めんこがるんだ?」
廊下の窓辺を見やった。美里が杉本に手を振っていた。
「男子と女子のかわいいと言う概念、違うからね。あんたにはわからないか」
一人ごちたあと、古川はつぶやいた。
「自分とおんなじところがあって、絶対隠さなくちゃってことをあの子は丸出しにしてくるからね、男子は見たくないかもしれないけど、女子としてはそういう不器用さがかわいく思えちゃうんだよ」
「全然わからねえなあ。立村も、そういうとこ気に入ってるのか」
「さあね、ただ」
大きくため息を吐いてこずえも答えた。
「お互いにどうしてほしいかがわかりあってるから、馬が合うのかもしれないね。杉本さんは立村が何をしてほしいかがわかるし、立村は杉本さんのしてほしがっていることが奇跡的にわかってしまう、それは大きいよ」
「ぜーんぜん、あいどんとんとのー」
肩をすくめ、美里が教室に入ってくるのを待つ。まずは昨日の首尾を確認したい。
「美里、ちょいと来いよ」
「ごめん、あとで詳しく説明する」
つれなく自席に戻った美里は、他の女子たちに話しかけるでもなくかばんから荷物を取り出し始めた。朝自習のプリントをつまみ上げ、何も言わずに専念し始めた。
──明らかになんかあったな、あいつ。
貴史は立ち上がった。すぐに美里の席に駆け寄った。さらさら書いている朝自習プリントを取り上げた。
「なーにまじめぶりっこしてるんだか、ちょいと来いよ」
「何よ、もう」
それでも貴史の顔を見上げると、納得したように頷いた。
「わかった。ちょっとだけ説明しとくね。けど、このことはまだ誰にも言わないで」
教室の窓際で、外のきらきら光る雪の塊を見つめ、美里はゆっくり言葉を発した。
「立村くんのことだけど、今は杉本さんに任せておいたほうがいいかもしれないよ」
「はあ? あのゲテモノ女にお前何言われた?」
「失礼なこと言うんじゃないの! あんたもなにかっかしてるんだか。男子って変よね。あの子本当に性格のいいかわいい子なのに。とにかく、さっき杉本さんは立村くんの様子を心配して私に報告しに来てくれたの」
報告、たって、美里からしたら恋敵だろうに。よくわからない。
美里は首を振った。
「男子ってこのあたりほんっとによくわかんないみたいだけど、女子同士ではね、わかるものなの。もしかしたら立村くん、もうしばらく学校に来れないかもしれないくらい、参っちゃってるってことなのよ。だから、それだったら、どうしようかって
「来るまで待つしかねえってことか。んで、あの杉本とかいう女が」
「ちょっと貴史、その女、って言い方やめなさいよ! とにかく、立村くんが来てから、一緒にとことん話そうよ。けど、今はまだ杉本さんしか話の出来る人がいないみたいなの。私だって話、いくらでも聞いてあげたいんだけど、どうしてもだめみたい」
「お前最初からあきらめててんのか?」
少し苛立つ。あの救いようのない札付き女に美里が負かされるのを見たくはない。
「あのな、よっく考えてみろ。美里があの女に立村取られたままだとすっとどうなる? せっかくあと二ヶ月あるってのに、立村は女に狂っちまって結局最低野郎のまま卒業する羽目になっちまうと、そういうわけだ。せっかくあれだけ俺たちが大演説繰り広げたってのに、水の泡だ。ってことになるととにかく捕まえて話、する機会何とか作らなくちゃなんねえってことじゃねえのか?」
「あんた、そうしたい? 立村くんと、語りたい?」
「当たり前だろ? お前はどうなんだ?」
貴史の問いに、美里は唇を噛みつつ、顔を上げた。
「うん、私も、言いたいことあるよ。とにかく機会、作ろうね」
美里がそこまで話した時だった。
前扉が開いた。
──立村?
たまたま目線が扉に向いていた。開いた時目が合った。
「立村!」
「立村くん!」
顔色が真っ白で、どこかしょぼくれた表情で、そこに立村は突っ立っていた。
斜め前で扉を開けたのは南雲だった。入りかけて、きょろきょろしている。まだ立村はひとりだけぽつんと立ち尽くしたまま、おびえた風にこちらを見ている。
言葉よりも身体が動いた。美里と一緒に駆け寄った。最初に何を声かければいいだろう。最初にこいつにしなくてはいけないことはなんだったのだろう。いっぱい考えていたくせに、すべて忘れてしまっている。美里だけが駆け寄りながら叫んでいる。
「立村くん、どうしてそんなに馬鹿なのよ!」
横の南雲を押しやり、貴史もそのままの言葉をぶつけた。
「立村、なんで逃げたんだよ! 俺だって」
──話し合えば、わかるってことあるだろ? 何でお前、ひとりで逃げちまうんだよ!
目の前の立村が、一歩、退いた。まずい、このままだと逃げられる。声をかける前に立村の声が細く聞こえた。
「ごめん、少し離れてくれるか」
──ちょっと待てよ。また逃げる気かよ。
踏み出した。立村のコート越しに、肩に手をかけた。冷えていた。美里が手を伸ばし、真正面から話しかける。
「言いたいことあれば、言ってくれればいいじゃない! そんなわけわからないことしないで!」
何度も、何度も、この三年間声かけし続けてきた言葉、やはり届かない。無駄だと分かっていても貴史は言い続けるしかない。美里と一緒に。目の前の立村がおびえたようにふたりをきょときょとと見ている。大丈夫だ、受け入れられる、全力で貴史はどうしようもなく震えているこの親友を守るつもりでいる。美里だって一緒だ。それだけをなんとしても伝えたかった。
「そうだ、お前、何も言わねえで行くんじゃねえよ!」
──いくらでも、仲間が待ってるんだ。あの札付き女よりも、誰よりもこのクラスの連中はお前のいいとこみんな知ってる、お前のして欲しかったことじゃねえかもしれねえけど、でもお前がそのままでいいってこと、わかってる、だから、こっちに来いよ。
立村が貴史の手を静かに振り払った。下から見上げるようにして、貴史と美里を見た。
「りっちゃん、どうした」
側でぽかんとしている南雲のジャンバーを片手で握り締めるように「ごめん、出直してくる」と声をかけ、ゆっくりと貴史と美里を見つめた。硬直している。
「後で話す。ごめん、悪かった」
それだけ言い残し、立村はくるりと背を向けた。あの日と同じように全力で廊下を駆け抜けていった。追えなかった。南雲が冷ややかに貴史に目を向け言い放ったからだった。
「あちゃー、せっかくりっちゃん来てくれたのに、英語の予習ノートだけ残して帰っちゃったよ。どうすんの。クラスのまとめ役としてどんなもんなんですか。一方的過ぎるのって男も女も受けないと、思いますけどね」