第一部 7
──修羅場だね。
「だな、クラスの女子みてえだな」
古川こずえの呟きに相槌を打ったら、いきおいよく叩かれた。
「あのさ、この状況、羽飛理解できてる?」
「痴話げんかって奴か?」
「そんな甘いもんじゃないでしょうが」
アパートの一室ではまだ、女性の激しい金切り声が響き渡っていた。
両隣および真上の住人にはおそらく丸聞こえだろう。
「あんたわかってるでしょ。いったいどうしたらいいかってことくらい、気付いてるよね! 私が何度も電話してもうちにいないし、いたらいたで私が話し合いしようって言っても、結局『子どもたちがくるから今日はだめだ』の繰り返し。毎日毎日『子どもたち』を呼び寄せておいて、私の中の『子ども』は関係ないわけね。ここにいる『子ども』は毎日でも守に会いたいって言ってるんだよ! 今、ずっと、永遠に守といたいって! よその子どものことばっかり考えて、あんたが本当に可愛がってあげなくちゃいけない『子ども』のことはどうでもいいわけ?」
これはさすがに聞かれたくない内容だろう。
「菱本先生、まさかか?」
「一目瞭然」
感情なく、こずえが答えた。
「羽飛、どうする?」
「立ち聞きするってのは卑怯だろ。ブザー押すぞ」
今度は拳骨で肩のところをぐりぐりやられた。女子の腕力だからたいして痛くはない。
「羽飛、あんた、どうなると思う?」
「どうなるったって、しょうがねえだろ」
もちろん貴史も気遣いが必要と思わないわけじゃない。どうも菱本先生の彼女がいきなりやってきて、いきなりヒステリーを起こしているのだ。また、菱本先生も学校では先生の面を見せているが、一歩校門を出たらあとは一市民だ。当然、彼女だっているだろうし、それなりにいちゃついたりも、けんかもするだろう。
たまたまその場に立ち会ってしまったのは災難だが、逃げ帰るわけにもいかない。
「美里もそろそろ追っかけてくるだろうし、帰るわけにもいかねえだろ」
「あのねえ、羽飛」
こずえは貴史の片腕を無理やり引っ張った。二の腕の中間あたりをつねった。
「痛えなあ!」
「こんなに筋肉ついてるんだからちょっとくらいいいじゃないの。さ、帰るよ」
「帰るったって美里どうするんだよ!」
部屋から響く「守」と呼ばれる誰かを責める声は止まない。なぜかその合間に流れるべき男性の声はなかった。黙っているのか、打ち消されているのかわからないが、この部屋の中に菱本先生は確かにいるはずだ。黙って、一方的な罵声を聞いているはずだった。
無理やり絡む手を振り切って菱本先生宅のブザーを鳴らすほど貴史も反対する気はなかった。こずえの手前なんとなくいきがっては見たけれど、確かにあの場は菱本先生も気まずかろうし、仲良く先生生徒同士で盛り上がるわけにもいかないだろう。ここはやはり、出直してくるのがベストな選択に思えた。
ただ面白くない。
決断を下したのが、こずえということがだ。
アパートから離れ、まずはこずえに一言、
「暑苦しい、離れろ」
腕を振りつつ伝えた。
「いいじゃんちょっとくらい、恋人気分味あわせてよ」
「あれを観た後でお前もよく言えるよな」
悪いがこずえのイメージする「恋人」と、男子連中の考えるそれとは全く異なる。貴史からすれば「恋人」というのはイコール束縛に他ならない。友だち同士の恋愛話を聞かせてもらえればそういう認識は、自然と形作られるもの。甘く幸せなイメージよりも、日々バトルと化す男女それぞれの価値観のぶつかり合いが重苦しそうだ。
仕方なさげにこずえは貴史から離れた。自転車の鍵を外し、貴史の隣に並んだ。二人で道を占拠する格好で、時折すれ違う通行人が窮屈そうにすり抜けていく。ハンドルがあっという間に太陽に熱せられて握るだけで手の平が汗で濡れる。
「まず美里が来るのを待とうよ。たぶん、スーパーで買い物してから来るはずだから、同じ道を通ってここまで来るよ」
「違う道を通ってくるかもしれねえぞ」
もちろん美里の性格上そう思わざるを得ないところもある。
ただこずえに言い切られるのがかなり面白くない。
「じゃあ待ってようよ」
言い返すのが面倒で、貴史は黙って自転車を通りすがりのパチンコ屋駐車場に留めた。
腹が鳴る。
「ちくしょう、腹減った」
「ガム、あげようか。ストロベリー味だけど」
「いらねえ。腹持ちのいいもんが食いたいだけだ」
あっそ、とこずえはバックから出しかけたガムをポケットにしまった。一枚だけ手元に残したガムを口に放り込んでいた。口元をくちゃくちゃやっている様子を見ていると、さらに空腹感が胃に刺さった。
──だから、苦手なんだわな。
こずえは決して悪い奴ではない。むしろ気心の知れたいい女だとも思う。
三年D組の下ネタ女王であるとともに、敵を作りやすい美里の側でフォローしつづけているその姿は、素直に尊敬できる。いきなり「羽飛、今朝のマヨネーズどうだった? よく絞れた?」などとかまされると頭突きしたくなることもある。こういう軽口叩くことのできる女子の存在というのは貴重だし、さりげなく円滑に進むように立ち回ってもらえるのもありがたい。へたしたら美里が一部の女子たちから集中砲火を受けそうになっても、そこをうまく防弾ジョッキの如くくっついてくれているのがこずえだった。
立村に対してもそうだ。「あいつは弟にそっくりだから」はこずえの口癖だが、毎日手間のかかる弟をしっかり仕込み直そうとやっきになっているのが妙に笑える。たぶん立村に対する性教育の約七割方はこずえが行ったに違いない。
──けどな、やなんだな。
性格がいや、というわけでは決してない。そんな奴と曲りなりにも一夜……誤解を招く表現だが……を過ごすことはできない。同じ部屋で二人きり馬鹿話なんてできやしない。
隠すことなく入学当初から貴史にラブコールを送ってくるのにも、今はもう慣れた。
それでも、なにかがひっかかる。
貴史はこずえに手を出した。
「悪い、やっぱり食うわ。腹干からびそう」
「最初っからそう言えばいいのにねえ!」
してやったり、勝ち誇った表情でもって、こずえはガムをバックから取り出した。
もったいぶって、一枚指先に引っこ抜き、キスをガムのつつみ紙に。
「私の愛と一緒に、めっしあがれ!」
「うわ、重てえな」
笑って流した。口に放り込み奥歯で噛んだ。なんだろう、この激しい苛立ちは。原因なんてどうだっていいが、妙にきりきりする。
「あ、美里来たよ」
気の抜けた声で、こずえが指を指した。
「早く迎えに行ってやんなよ」
口の中に広がる甘ったるい唾を飲み込み、貴史はこずえの指図通り、自転車を全力で漕いできた美里に手を振った。同時に近づいた。
「あれ、貴史たちここで待ってたの?」
「いや、ちょっとな。のっぴきならねえ事情があってなあ」
「なあに? 何か忘れ物したの? あ、私買ってきたの、冷たいゼリーなんだけどちゃんとドライアイス入れてもらったからまだ溶けてないよ。たくさん買ってきたから、四人でちゃんと三個ぐらい食べられるよ」
一方的に喋り、途中大きく呼吸してはまたまくし立てる美里の顔を見た。
「あのな、美里」
嘘は言わない。貴史と美里、それが互いの繋がりだ。
「菱本先生とこにな、女が乗り込んできてて今、修羅場。ってことで脱出してきたってわけ」
確かに、事実ではある。
「どういうことなの?」
ドライアイスをびっちり詰め、かなり重そうなビニール袋に貴史は手を伸ばした。
「お前買いすぎだろ。こんなに食えねえだろ」
「いいじゃない! あんたいつも十個くらい一気に食べるじゃない」
言い返した後、首を傾げた。汗だくの額から涙のように一滴流れた。
「修羅場って、何かあったの?」
「そ、今すげえ怒鳴られてる」
詳しく説明してやろうかとも思う。どちらにせよ、こずえの一存で一時退却したのだから、三人揃ったところで今後の行動計画を改めねばならない。
まず改めて菱本先生の家に向かい、そ知らぬ顔して「こんちわー」と叫ぶか。
それとも黙って帰って、あとで言い訳するか。
貴史としては前者の道を選びたい。かえって土壇場のキャンセルの方が、先生だって面白くないだろう。たとえ彼女に乗り込まれていたとしても、だ。
「ねえねえ、何があったの? 菱本先生に彼女、やっぱりいたんだ?」
「あの歳でいなくちゃなあ。母ちゃんたちも気、もんでただろ」
「でねでね、貴史、彼女ってどんな人? 可愛かった? 美人だった?」
重たいビニールの手提げを持ち直した。
「顔はわからねえ、ただ、声だけだ」
「えー、じゃまだ、挨拶してないの?」
こずえが駆け寄ってきた。自転車は置きっぱなしだ。
「美里、ちょっと、説明するから」
ふたりの間に無理やり割り込む格好を取り、こずえは肩を竦めた。
「ねえなあに? 貴史が言ってた修羅場って? 先生、どうかしたの?」
「うん、ちょっと用事があったみたいで、まだ彼女さんと話してるみたいなんだ」
こずえはさらさら述べた。
「そうなんだ」
「けど、話し合いが長引きそうだし、私たちは今日、おじゃましちゃいけないと思うんだ」
「ねえねえ、どんな話してたの?」
美里に聞かれてこずえが黙り込む。言えばいいんだ、
「子どもがどうとか」
言いかけたところでこずえがきっと睨んだ。
「そんなのわかるわけないじゃん。彼氏と彼女なんだよ。身体の相性の話かもしれないじゃん!」
──子どもがどうのこうの、だろうが。
口には出せなかった。こずえが貴史の持っているドライアイスセットのゼリーを引っ手繰ると素早く取り出し貴史に手渡したからだった。それも三個ばかり。
「さあ、召し上がれ。悪いけど今日はキャンセルしようよ。うちら三人組で夏の遠足しようってことで、いいじゃん」
「おいおい」
「で、私がこれから電話かけるからさ。美里、悪いけどちょっとそこで待ってて。羽飛に先生へごめんメッセージ伝えさせるから」
美里が近づいてくるが、こずえはきっぱり命令した。
「自転車三台あるじゃん。さっき美里、買い物してきてくれたばかりだし、少しここで休んでなよ。私も役得だしね」
そんな言い訳、誰が信じるか。無理やりひっぱられ、片手のゼリー三個分を取り落としそうになりつつ貴史はこずえに連れられていった。赤い電話ボックスだ。
歩きながらこずえは呟いた。
「羽飛、美里の前で、赤ちゃんのことは言っちゃだめだよ」
「なんでだよ」
赤ちゃんのこと?と言われてもぴんとこない。そういえばさっきの女性もやたらと「子ども」を連呼していたが。
こずえの声トーンが落ちた。頬が真っ赤にいつのまにか焼けている。
「美里ってめちゃくちゃ潔癖じゃん。もし本当のこと知ったら、美里、絶対、菱本先生に普通の顔して接することできないよ」
「接するって、なんだよ?」
全く見当がつかない。貴史が尋ねた。
「第一なあ、本当のことったら、なんだ? 菱本先生のことを『守』って呼ぶ彼女がいるってことだけだろうが」
「あんた何にも話、聞いてなかったのかなあ」
テレホンボックスの前で立ち止まった。
「あの彼女さん、なんでいきなり先生の家に来たかわかる?」
「だから、彼女だからだろ」
「彼女がなぜ、彼氏に『来るな』って言われているにも関わらず来ちゃったの?」
「それはお前の方がよくわかるだろ」
黙ったこずえが無表情のまま目線を貴史にむけた。
「そうだよ、わかるよ」
首を思いっきり振った。
「だってあの彼女、妊娠してるんだよ。教え子の『子どもたち』よりも自分のおなかの中にいる『子ども』って言ってたじゃん」
「なんでだよ」
目眩は暑さのせい。足元がふらつく。こずえは畳み掛けてくる。
「それにさ、菱本先生、うちらが三人遊びに来ること知ってるじゃん。ってことは、彼女自慢でもする気なければ、呼ばないよね」
その通りだが、頷くのはいやだ。こずえに頷きたくない。
「なのに、いる。彼女はいるんだよ。どうしてだと思う?」
貴史の返事がないのを了解の合図と取ったのか、こずえは答えを口にした。
「菱本先生、彼女を妊娠させちゃったんだよ。結婚してないのに、先に赤ちゃんできちゃったんだよ。けど、彼女と話し合いがすんでなくって、おっかけられてるんだよ。決着つけろって言われてるんだよ。きっとさ」
「おいおい、古川お前想像力、どこまで広がるんだよ」
「想像力の問題じゃないよ。あの時の彼女の言葉が正しければさ」
こずえは肩越しに美里を覗き込むようなしぐさをした。左側に身体を傾け、すぐに戻した。
「美里の性格、あんたよく知ってるよね。女の子を大切にしないで、妊娠させちゃって、しかも結婚を迫られている担任の先生を、美里が尊敬できると思う? 百歩譲って、『愛し合ってるから赤ちゃんができた』って言うならまだ納得するかもしれないけどさ。今の菱本先生の状況だと明らかに」
「予定してなかったってことかよ」
「そう。彼女は菱本先生にできちゃった結婚を迫ってる。菱本先生はうちらが遊びに来ることを理由に彼女から逃げようとして時間稼ぎしてる。けど彼女はそれを見抜いて、乗り込んできて、イエスかノーかを答えさせようとしている。そういうことよ。どうする? そんな深刻な話をしている相手にだよ。ゼリー持ってのこのこと遊びに行けると思う?」
黙るしかなかった。
「立村と違って美里は菱本先生大好きじゃん。なのに女にだらしなくって妊娠させちゃってパニックになっちゃってる馬鹿な男だってこと知ったら、きっと軽蔑するよ。美里は男子にまだ夢みてるからね。男ってしょせん、結婚なんてしたくないんだってこと、私は知ってるけど美里はそんなこと思ってもみないからね」
「じゃあ聞くがな、古川」
貴史は押し止めるため、尋ねた。
「お前、どうしてそこまで想像できるわけ?」
「当たり前じゃん」
平然としてこずえは答えた。
「うちが、似たような形だったからねえ。見慣れてるんだよね。父さんと母さん、私をおなかに持った時、同じようなやり取りしたんだって。結局父さんが年貢を納めたのは弟ができたからね」
──ああ、んなこと言ってたな。
確かこずえの母は、青潟歓楽街のキャバレーでナンバーワンホステスの座を守りつづけつつ、暖かい家庭を気付いている女性だと。修学旅行の時、こずえの自慢話として聞かされた記憶がある。ちゃんと父もいるという話を聞いた。
──けどそれとこれと、どう繋がるんだ。わっけわからねえ。
「じゃ、私、菱本先生に電話かけてくるから。悪いけど十円貸して」
手を出しおねだりするこずえに、貴史は朦朧とした意識のまま、十円玉を手渡した。