第二部 68
長い長いロングホームルームが終わり、貴史は美里にひきずられるように生徒玄関へ向かった。さすがに誰も止めるものはいなかった。
「とりあえず、これからどっかで細かいこと話そうね。学食行こっか」
能面をやっと取り外したのか、美里がかすかに笑みを浮かべながらささやいた。貴史も異存はない。というよりも、そうしないとまずい。
すばやく靴を履いて外に出る。下校ラッシュが一段落したのか玄関にはほとんど人がいない。部活動の生徒も見当たらない。三年ならともかく下級生たちがうろついていないのが解せない。
「先生たちも大変だよね。菱本先生、臨時の職員会議とかいろいろあるみたいだし、赤ちゃんの面倒見ている暇ないよね」
「そうはいかねえだろ。帰ったら赤ん坊泣いてるんだぞ。哺乳瓶くらいはくわえさせるだろ」
風が強い。空も真っ白、横殴りの雪が吹いている。
「うわあ、これ大変だよ。帰り、バスものすごく混みそう」
「そうだなあ。少し止んでからにすっか」
たとえ路が見えなくなるほどの猛吹雪であっても、二時間ぶっ続けのロングホームルーム総括をしないまま家路に着くというのは貴史としても納得がいかない。ずっと教壇でふたり並びあっていたにもかかわらず、美里とはほとんど会話をしていなかった。最後の最後で怒涛の説得をされてしまったけれども、実際膝を突き合わせて話し合ったとは言えない。一対一でないと、分からないことも多い。
「あのな、美里」
「なによ」
毛糸の帽子……貴史の母が清坂三姉妹と姉との四人にプレゼントした白いもの……を耳にかぶせるようにかぶり直し、美里は答えた。
「とりあえずお前が言う通りにするけどよ、まじでどうするつもりだよ」
「それを今から考えるんじゃない」
寒さで口が動かないのか、美里は言葉が少なかった。珍しい。何も考えていないだけかもしれない。まずは何かあったかいものでも飲もう。食おう。それからだ。
四時十五分前。大学生たちの数も高校生も、もちろん中学生も少ない。
珍しく奥の広々としたテーブルを占拠できた。たいていのテーブルはノートとかいろいろなもので押さえられていて、座るのに気が引ける雰囲気なのだが。
「ここなら誰もいないしね」
貴史は缶コーヒーの熱いのを、美里は紅茶を紙コップで、それぞれ用意した。コートを脱いで脇に置き、まずは一口啜った。
「あーあ、喉渇いたよね」
「全くだなこりゃ」
帽子もすっかり雪でぬれている。手袋も重ねて置く。すっかり水浸しだが気にしない。窓辺から見える木々は白く覆われ、全く止む気配が感じられなかった。
「貴史、あんた怒ってるんじゃない?」
落ち着いたところで美里が問いかけた。いつも通りのさっぱりした口調だった。
「私がいきなりわけわかんないことしたとか言って」
「当たり前だろが。ったく、予告しろよな」
「できるわけないじゃん。でもまあいっか。まずは第一段階突破だよね」
「俺もまずお前に聞きたいことあるんだがな。先に聞くぞ」
美里はすぐに頷いた。
「いいよ、あんたに話、ほとんど振ってなかったもんね。それは悪かったわ」
「お前さ、なんで杉浦に謝った?」
ぴくん、と美里が身体をこわばらせる。紙コップを置いた。首をかしげた。
「なんでそんなこと聞くのよ」
「俺が一番謎だと思ったとこそこだもんなあ。どう考えたってあそこはお前が折れるとこじゃあねえだろ。杉浦がガセネタ流していたってことあれだけきっちり証明できてたんだから、容赦なく叩きのめすのが美里のやり方だろ」
正直、立村の今後やクラスの女子連中のまとめ方とかそれはなんとかなるという気がなんとなくしている。根拠がないにしてもそれなりの自信はある。単純に男としての気合でしかないが、あることはある。ただ美里がなぜ、完全勝利を目前にしていた杉浦加奈子との決着をなあなあにしてしまったのかだけが、どうしてもつかめなかった。
「しょうがないことよ。私なりに判断したことだし」
「答えになってねえぞ。よっく考えてみろ。杉浦が一方的に立村に関する噂を流しまくってC組の女子連中通じて菱本先生にガセネタ伝えて、そこから立村怒鳴られていじけてってめちゃくちゃな展開なんだからな。立村が下手打ったとしても、結局は犯人が杉浦だってもってってどこいけなかったんだ?」
貴史も今更とは思っている。菱本先生が意図的に杉浦への反感を抑えようとしていたのはうすうす感じていた。クラスが再度分裂するのを避けるためだったのだろう。だがどうしても美里がなぜ、あの場で謝ったのかだけがつかめないままだった。
「しょうがないって言ってるでしょ。菱本先生は立村くんのことを中心に考えた結果、ああいう流れにしようって決めたんだから、乗っかるしかないもん」
「乗っかるってなんだよ」
「つまりね」
美里は指を立てて説明し出した。雪が降り続く中、一部の席で勉強している大学生数人を除いて、ほとんど誰かの来る気配はない。
「目的はひとつよ。全員仲良く卒業したいってことだけ。本当はそのまま知らん顔して通せればよかったけど、玉城さんがあんなこと言い出して、にっちもさっちもいかなくなってしまった状態じゃない? あんたもわざわざ目立つところであんなことしちゃって責任取らねばならない立場じゃない? 菱本先生としてはどっちも両方片付けたかったのよ」
「それがこれか? 俺が立村の代わりになれってか? まあ決まっちまったことだしぐだぐだ言いたくねえけどな」
「あんたにやってもらいたいのは、とにかくクラスの玉城さんたち代表のめんどくさい人たちを黙らせてほしいってだけよ。それとクラス文集のこと。結局時間オーバーでそこまで進まなかったけど、あれで彰子ちゃんも納得したと思うし、班ノートを使うなんてことはしないって方向に持ってけると思うんだ。下手に別の奴が立ち上がったら、菱本先生のことだからまた言いくるめてしまうかもしれないじゃない? あんたならその点納得でしょ」
「お前もたまには頭働くな。そうだわな、そうだよ」
美里は不満そうだが、実際その通りなのだからしょうがない。
「クラスっていうか、菱本先生のなだめ役って言ったほうがいいと思う」
「あ、そっか」
鋭いところをついてくるものだ。美里は完全に復活している。これなら楽に話を進められる。ロングホームルーム中の美里は明らかに自分の感情を凍りつかせたまま仕切っていた。
「菱本先生なりに立村くんをなんとかしたいってのは伝わってきたし、クラスのみんなも言いたいこと言い切ったみたいで少しは落ち着くんじゃない? 本音言っちゃえばもう少しなんだかなってとこもあるけどそこはがまんするよ。それよか、明日以降のことなんだけど、立村くんが学校に来た時どうするかってこと、考えなくちゃ」
「んだんだ、そうそう、それだわな」
もっともだ。美里冴えすぎている。
「立村くんはこんな話し合いで盛り上がっているなんてこと全然知らないままだよ。あんたのこと逆恨みしてるかもしれないし、あのお母さんに怒鳴られているかもしれないし。でもここは私たちが謝ったり話し合ったりすればなんとかなるところだよ。できればね、国枝くんとか須崎くんが話してくれた、立村くんを評価する男子たちの声を直接伝える機会がほしいなって思うんだ」
「それはあるな」
確かに、一理ある。立村のいじけっぷりが半端でない以上しょうがないところもあるが、クラスの評議として、評議委員長としてそれなりの実績を挙げてきたことは証明された。菱本先生や女子たちが首を傾げていたとしても、今、この段階でやり遂げたことは確かなのだから、それを伝える必要はやはりあるんじゃないかと思う。
「なんとかならねえかな」
「まずは、立村くんに学校来てもらなわいと。もし明日来なかったら、私、手紙書く」
美里はまっすぐ、口をいったん結び、貴史に告げた。
「立村くんとはなかなか話し合いうまくいかないかもしれないけど、手紙だったら伝わるかもしれないし。あんたの性格上そういうまどろっこしいのやだってのはわかるけど、私はそっちでやってみようと思うんだ」
「めんどくせえよ、手紙なんてそんなかったるいの。はっきり言っちまうほうがいいだろが」
でもまあ、美里の話も間違っているわけではない。女子らしい心遣いなんだろう。
貴史は立ち上がり、腹持ちよさそうなものを探すことにした。とりあえずはカフェテリアのコロッケ二枚くらいは食いたい。
「今食べたら、夕ご飯たべられなくなっちゃうよ」
「帰るまでに十分空くにきまってるだろが」
美里の制止を振り捨てて、貴史はカフェテリアへトレイを持って向かった。青潟大学学生食堂では、カフェテリアで組み合わせて自分好みの定食をこしらえることができるのだ。今日はまず揚げたてのコロッケ三枚を小皿に載せて、百五十円支払った。
水を汲んでいる時だった。
「ちょー大変、今、中学で大事件勃発!」
「ん? どうしたのよ。あんた遅かったね」
カフェテリアの厨房で、入れ替わりに入ってきた男子学生……学生アルバイトらしい……が別のアルバイターに大声で話している。貴史にも丸聞こえだ。ただ美里のいる席には届かない。いつものように席が隅っこだったらまた別かもしれないが。
「いやな、中学の先生とこに用事あってちょこっと寄ってきたんだ。したらな、たまたま職員会議にぶつかっちまって話できねえの。しゃあねえから帰ろうとしたら、たまたま保護者かなんかが駆け込んできたんだよ。どっかのおばさん。血相変えてさ、俺に聞くんだよ。数学科の先生がいるかどうかまじめな顔してさ」
「数学科? 誰だろそれ」
「俺の卒業した時にはいなかったんじゃねえかな。わからねえし事務室に連れてったら、まあ大変なの。そこで保護者まだいてさ、土下座してんの。で、その俺が連れてったおばさんがすっげえ勢いで怒鳴りちらしてんの。お前の娘が人殺ししようとしたんだぞって」
──人殺し?
貴史は耳を澄ませた。ぶっそうだ。昨日同じくの親呼び出しをやらかした貴史だが、さすがに「人殺し」とののしられはしなかった。
話を聞いているアルバイトの女子学生も、プラスチックのお盆をふきんでふき取りながら声を潜める。
「うわ、生徒同士のけんかって感じじゃないよね」
「俺もよくわからねえけど、職員玄関で靴ゆっくり履き替えながら様子伺ったんだ。どうも女子同士の大喧嘩で、ひとりがかっとなって傘振り回したらしいんだよ。当たり所が悪かったのかどうかわからねえけど、職員会議やってるってことは相当の大事じゃねえ? 俺たちの頃も結構ばたついてたけど、さすがに殺しはねえよ」
「そうだよねえ、でもさ、中学生同士のけんかってよくあることじゃん! 女子同士だともしかして、好きな男子の取り合いだったりして」
「うわあ、それまじかよ。でもありがちだよな。職員会議沙汰になる恋愛なんてたまったものじゃあねえよなあ」
笑い声が聞こえる。水を流しながら話はいつのまにか、知り合いの恋愛沙汰ネタに移り変わっていく。他人事どうだっていい。ということで貴史はコロッケをつまみながら席に戻った。
「貴史あんた、だらしない! ちゃんと座ってから食べなさい!」
「何お前母ちゃんみたいなこと言い出すんだよ。ほら、お前も食うか」
むっつりしていた美里も、揚げたての匂いにほだされたのか、黙って手を伸ばした。
「あったかいね。おいしい」
「ちょうど揚がったとこだったんだろ」
ごたごたあった後でも、こうやって腹を満たすとだいぶ気分が落ち着いてくる。飲み物だけだとやはりいらつくものがある。貴史は二枚目のコロッケに食いつきながら、
「そうそう、さっきな、また俺たちみたいな騒ぎやらかした奴いるんだと」
話を持っていってみた。
「私たちみたいなのって、なになに、それ?」
「男を巡る三角関係みたいだぞ。なんでも、女子同士で取っ組み合いのけんかになり、ひとりが傘振り回して大騒ぎ、結局親呼び出しで土下座状態。なんだよ、まじで昨日の俺とおんなじじゃねえの」
「あんた笑い話にできるって幸せな頭してるね」
あきれた顔で美里はやっとコロッケを半分かじった。
「誰だろうねそれ。うちらの学年?」
「さあな。名前は聞いてねえし詳しいことわからんけど」
「もし本当だったらそれ、大事件だよ。ねえ、学校戻って様子見てみようか?」
美里の提案ももっともだ。貴史も興味がないわけではない。普段なら即、乗っかりたいところだ。しかし目を窓辺に向けてみる。雪、全く止もうとする気配なし。下手したら帰りは膝くらいまで雪がくるんじゃないだろうか。バス、走るのかという心配すら出てくる。第一、大学から中学校舎に戻るとなるとまた時間がかかる。できればこのままバスロータリーに向かいたいところだ。
「別に後でいいだろそんなの。どうせ俺たちの知ってる奴じゃねえよ」
「いやそういうんじゃなくって! そういえば、菱本先生を教頭先生が呼びに来た時、なんか変だったよね? もしかしてそのことが関係してたのかなあ」
「そういやあ、そうだ。臨時職員会議とか言ってたな」
すっかり自分らのことばかりで頭がお留守になっていたが、話をつなげてみるとたしかに見えてくる。究極の恋愛大騒動がきっかけで大騒ぎになり、学校サイドが割って入っての仲裁をせねばならないとしたら、それは職員会議もやむをえないだろう。
「はっきりしてるのは、うちのクラスは関係ないってことだよね。ほとんどあの場に全員いたもん」
「部外者は楽だよな」
「当事者は昨日でおしまいにしたいよね」
ため息を思わず同時に吐いた。
学食を出たのはそれからまもなくだった。バスがそろそろ渋滞し出すかもしれないという心配を美里がしだしたからだった。新しい雪がぴんと張ったまま重なっていくところ見ると、学食に足を運んでいる生徒自体がほとんどいないということとみた。
「明日、雪かき大変だね。雪下ろしも。貴史、あんたも手伝うの?」
「ああそうだなあ、俺もやるっきゃあねえか」
早起きして父と一緒に屋根に登らねばならないかもしれない。眠くて寒くてなんないのにたまったもんじゃない。
「じゃあ、明日なんだけど少し早く行かない? 自転車? バス? どれで行く?」
「できればチャリだけどな。道凍ったらまじ怖いしな」
「ね、バスで行かない? そこで少し話まとめようよ。私も今夜、どうしたらいいかもっと考えるから」
悪くはない、とちらと思ったがすぐ打ち消した。
「いや、やめとけ」
「なんでよ」
美里が鼻をすすりながら尋ねる。
「あのバス、玉城が乗ってるんだ。今朝、顔合わせたんだ」
「え?」
言っていいのかどうか迷うところだが、どうせばれることだ、伝えた方が楽だ。
「あんた全然そんなこと言ってなかったじゃない! どうして教えてくれなかったのよ! まさか、今日玉城さんが何か言い出すってこと、前もって知ってたなんていわないよね」
「悪い、そん通り。この点は嘘ついた。悪かった」
いきなり美里は脇に積もった新しい雪を一抱えして貴史に投げつけた。ふわりんとばらついた。雪球とは違う感覚だ。振り払い、貴史は美里の帽子めがけて軽く張り手を入れた。
「もう、なんなのよ! あったま来る! じゃあ何? 最初から今日の展開全部お見通しだったってこと?」
「それは違う、俺は単純に、玉城が言いたい放題したいって言い出したからまあいいんでねえのと思っただけなんだわな。朝だったし、立村来ると思ってたから、ま、それで片付くんでないかと軽く思ってたんだが、甘かったわな」
「なあにが甘かったよ! もう! 私どんなに昨日切り出し方法考えてたかわかってる? 文集やめさせて、立村くんひねさせないようにするにはどうしたらいいんだろうって真剣に悩んでたんだよ! もう、みんな信じられない!」
「怒るなよ美里、もし俺が玉城の話を教えてたらもっとぐたぐたになってただろ? お前も理性失っちまうし、玉城もエキサイトするしで二時間で終わらなかったかもしれねえぞ」
「私だって二時間もロングホームルーム仕切るつもりなかったもん!」
本気で殴られてかまわない内容だとは思っていたけれど、想像しているほど美里は激昂しなかった。ふわりとした雪の固まり程度で終わるのならまだよしだ。美里がコートのポケットに手を突っ込みながら、
「いつもだったらぼこぼこにしてやりたいとこだけど、吹雪に免じて今回に限り、許してあげる」
偉そうなことを言い放った。
「なあにが許してあげる、だあ?」
「結果オーライってこと。とりあえず、クラスのことはあんたに任せておけるってことだから。あとは、評議委員会の方よ。こっちは私がなんとか片をつける。がんばる」
もう一度美里は、しゃがみこんで雪を掬い取り、顔に擦り付けるようなしぐさをした。貴史に振り返った。
「立村くんのことは、絶対に守るから。ここから先も共同戦線よろしくね」
結局美里は、何故杉浦加奈子を許したのか、その理由を口にはしなかった。
──ほんとに、お前らしくねえぞ。美里。なんでそんなことしたんだ? まあどうでもいいけどな。