第二部 64
霜柱立つ日まで 64
こずえの発言を女子連中は美里以外誰も驚いていない様子だった。さては予定通りの読みだったか。美里を見ると、少しだけ口が開いていたがすぐに気を取り直したらしく、
「そっか、いいよこずえ。あんたが言いたいなら任せるから」
あっさりと受け入れた。
「おい、お前いいのかよ?」
「覚悟してるよそれくらい」
美里ははっきり言い切った。こずえがいきなり割り込んでくるのだから、自分の味方だと勘違いしているのだろうか。貴史からするとどうも胡散臭いにおいがする。三階女子トイレでかたまって何を相談していた可能性がありそうだ。これは止める必要があるんじゃないだろうか。一瞬迷った。
「よっし、それなら古川、お前に任せたぞ。ただ忘れるなよ。公平にな」
「わかってますって、しつこいと奥さんにパンチされちゃうぞ」
軽く流し、こずえはその場に立ったままじっくりとクラスメート全員を眺めやった。
「まず、一通り意見が出揃ったよね。まずきっかけは加奈子ちゃんの男子連中無視に関しての問題だし、そのきっかけとしての美里とのいがみあいだし、その間に挟まる形での立村のアホっぷりだし、それでいて実は結構仕事はきっちりしてたりしてと、話がだんだんわけわからない方向に突き進んできてるじゃん? なんかこのままだとせっかくの二時間ぶっちぎり大討論も結論出ないままになりそうじゃん? まあ私も話聞いてて、すぐに片付く問題じゃないと思うし、それ以上に当の立村がいないしね。でも、ある程度の形は作っとかないとまずいよ。明日以降立村が学校にひょっこり出てきたら卒倒するよ。逃げ出してもう二度と出てこないかもしれないよ。それじゃまずいよね、菱本先生?」
無言で頷いた。目を真ん丸くしている。ギャグっぽく演じているように見えた。
「だから、ある程度の答えは出したいんだよ。まず、加奈子ちゃんのことなんだけど、さっき怜巳ちゃんが言ったように男子連中がスルーしていたことは確かだと思うよ。第三者的に見ててもあっちゃあーこりゃあないよねって思ってたし。ただね、私も立村としゃべることも多くてあいつにもそれぞれ事情があったんだってことはうすうす感じてて、まあどうしようもないよねって思ってたんだ。そうだよね、美里?」
問いかけられて美里もふと、凍ったように頷いた。
「今初めて聞いたことと、なんとなくそういうことかなあってこととが入り混じってて私も考えまとまってないんだけどね。でも南雲の勇気あるごめんなさい宣言や彰子ちゃんのナイスフォローなんかもあって、私なりに思うこともあるんだ」
こずえはいきなり貴史に目を向け、すぐに逸らした。
「まずね、ここはすっごく大切なことだから加奈子ちゃん、聞いていい? 今日何回目の確認かわかんないけど今のことは絶対に外にもらさないから。結局立村は加奈子ちゃんに言い寄らなかったってことでよかったんだよね? 単純に、私たちが勝手に想像して勘違いしてただけってことでいいんだよね?」
──やっぱり杉浦寄りの結論に持っていこうとしてるなあいつ。
菱本先生も、玉城も、基本として女子連中はみな、杉浦を守ろうとしている。その背にのっかり、最後は美里とその他男子一同を追い詰める戦略か。割り込むべきか、迷う。その間にもこずえは語り続ける。
「それと、美里も言ってたけど単純に小学時代の友達とあいつがもめてて、そのことでいろいろあったみたいだよね。でも、それはとっくの昔に話がついたことって考えていいんだよね? 私から見ると今重要な点じゃないと思うんだ。むしろそれよか、加奈子ちゃんがいろいろあっても、なんで自分から訴えなかったのかってこと、それを知りたかったんだよね」
静まり返る。こずえの言葉には貴史も威圧されそうになる。今まで何度もこずえに先手を打たれてむかついたことがあるが、まさにそれだ。貴史なりにやりたいことはあっても、まるで透かすように準備して片付けてしまう。杉浦加奈子がぽかんとしたまま答えられずにいるのをこずえはあえて、何も言わせないように進めている。
「立村とさしで話し合いするくらいだもん、美里の理不尽たらたらなやり方に抗議しても絶対に私たち文句言わなかったよ。男子たちもずいぶんひどいことやらかしてたみたいだけど、それが誤解から来ることだってきっと加奈子ちゃんもわかってたはずだし、そのことをはっきり言い切ってやればよかったと思うよ。少なくともね、加奈子ちゃんが立村に対して頭に来た事は私もおおむね同意だもん。立場が違っていたら数発は絶対ぶん殴ってたね」
──おいおい、やっぱりこう来るかよ。
とにかく立村が路を踏み外したのは、下手に例の事件をひたかくしにしようとしたこと一点にある。そんなこと隠さないで開き直ればこんな面倒くさいことにならなかったのにと、貴史もあいつを思いっきり張り飛ばしたい。
「でもさ、加奈子ちゃん。さっき彰子ちゃんが話してたことなんだけど、もしこのことすべてぺらぺらしゃべっちゃったら、もう美里と一生仲直りできなくなっちゃうんじゃないかって思ってたんじゃないかな?」
隣の美里が、はっとした表情でこずえを見つめている。能面が少しだけ外れたように見えた。
「ううん、これさ、私の勝手な妄想だよ。美里にあんな露骨な無視されてたにもかかわらず、加奈子ちゃん全然悪口言わなかったよね? まあ私も美里側についていたからそうだったのかもとか思ったけど、怜巳ちゃんの話だとみんなに対してもそうだったみたいだしね。彰子ちゃんも言ってた通り、この話の焦点は加奈子ちゃんと立村の付き合いがありかなしかってことじゃなくて、加奈子ちゃんと美里のことがメインなんじゃないかなって私は思うんだけど、どう思う? 怜巳ちゃん?」
玉城が頷いた。言葉が出ない様子だった。
「やっぱそっか。でさ、男子連中も聞いてほしいんだけど、まずここでは立村のことは一切無視して話を進めさせてほしいんだよね。どうもあいつの話になるとさ、意見が男女真っ二つに分かれちゃって面倒なことになりそうだからさ。あとで第二部、ちゃんと片付けるからその点も安心されますよーに」
──まあ確かにな。立村のことは別になるわな。
まずはこずえが闇雲に美里の敵に回るつもりはなさそうで安心した。女子の友情の面倒くささはいやというほど感じている貴史としては、くわばらくわばら状態なのだ。
「加奈子ちゃん、なんであの時、立村との変な噂が流れたり、無視されたりしても何も言わなかったのか。それはやはり、美里と友だちでいたかったからだよね?」
また泣き出しそうな顔で、それでも顔をすっと上げて杉浦加奈子は頷いた。肩に二つ分けした髪が少し揺れていた。もともとふわふわさせていた髪のせいか、ゆれっぱなしに見える。
「じゃあさ、美里とけんかになった例の立村との件だけど、あれ、美里になんで立村の過去のことを話したのかな。きっかけはそこだよね。私も加奈子ちゃんや美里と一緒の班にいたからなんとなく覚えてるんだけど、それまではみんなで地図探しやったりおしゃべりしたり楽しかったよね。でも、一年の冬あたりから急にお互い無視し出したから変だなとは思ってたんだけど。美里もさ、確か立村のことでいろいろと刑事ごっこして情報得たのってその頃だよね。話のつじつまが合うんだよそうすると。それで加奈子ちゃんと最後の詰めを行って決裂したって落ちなのかな。私も当時はあんまり深く突っ込まなかったから、あさって行きそうな記憶追いかけてる状態なんだけど」
美里は詰まりながら答えた。
「そう、そうだよ」
「そうか。じゃあさここで古川流の推理を展開させていただくけど、みんなしばらく黙っててもらえるとうれしいなあ。男子諸君も今だけはホームズかポワロか明智小五郎か、とにかくイメージして私のこと見ててよね」
「ミス・パープルってのもあるよ」
わけのわからない突っ込みが水口から入った。拳振り上げる振りをし、こずえはさっそく推理披露へと移った。なぜか拍手が男女ともにまばらに沸いた。
「まず、加奈子ちゃんさ、どう考えても立村なんかに美里はつりあわないって思ってなかった? 今答えなくていいよ。けど私だったらそう思っちゃうよね。どう考えても美里みたいにびしばし言いたいこと言う女子と、立村みたいにおどおどびくびくして過去の記憶に襲われて悲鳴上げてる奴とじゃ、ちょっと、ねえ」
いくら弟扱いしててもそこまで言うか、と突っ込みたい内容をこずえは続ける。
「だからそんな奴よりもっと別な、ほら、隣にいる鈴蘭優マニアのそいつみたいなタイプが向いてるよとか、そういう気持ちがあったのかなってね。けど美里の立場からしたらさ、そんなの人の勝手じゃんとか思っちゃったんじゃない? あ、あんたもしゃべらなくていいって。ここは友情の話だけで進めるからね」
かなりきわどい内容だがこずえなりに気遣っているようだ。さすがに男女交際の話題に奥深く入ってしまうのは、担任教師の前でも抵抗があるだろう。美里も唇を噛んでいるものの何も言わない。ただ、さっきまでの能面ははずれ、ふだんの戸惑い顔をこずえに振り向けている。
「どんな話し合いが行われたかはどうでもいいけど、話し合い決裂。でも加奈子ちゃんは美里を嫌いで嫌がらせの話をしたわけじゃない。ただ友だちとして、ふさわしくない奴とは付き合ってほしくないよってことを伝えたかっただけなんだよね。美里を嫌ったわけじゃないし、あの後いろいろ加奈子ちゃんと話をしても美里のことをちゃんと認めるような言い方してたからさ。美里は悪くないって、一生懸命訴えてたよね。なんかそのあたりで私も妙だなって気づけばよかったんだけどごめんね。うらんでなかったんだよ、美里。加奈子ちゃんは、美里と友だちでいたかったんだよ。ただそれだけなんだよ。それが行き違いになっちゃって、でもどう話を持ってけばいいかわからなくて、ずっと黙ってるしかなかったんだよ。そうだよね、加奈子ちゃん?」
いきなり玉城が立ち上がった。そっと駆け寄り、杉浦の顔をじっと見つめる。腕を掴みやさしく、
「清坂さんのこと嫌ったって誰も文句言わなかったのに! そんな辛い思いするなんてひどいよ。どうして私たちに何にも言ってくれなかったの? 私たち、いくらでも受け入れたよ、ううん、今からだってちゃんと加奈子ちゃんのこと受け入れるよ。わかってる、今ずーっとこずえちゃんや他の人たちの話聞いててわかったけど、たとえもし、加奈子ちゃんが叩かれてた事実がほんっとのことだったとしても、私、加奈子ちゃんのこと嫌わないし、友だちでずっといるよ。間違いなんて、誰にでもあるじゃん! 許すに決まってるよ! どうして?」
また涙ぐみながら、懸命にささやきかけた。
──ってことは、玉城、立村の無実は受け入れたってことか。
実はかなりでかい出来事のはずだが誰も反応はしない。誰か騒ぎそうなものなのにみな黙ったままでいる。こずえパワーは偉大だ。同時に正義は勝つ、これも実感せざるを得ない。貴史なりに南雲には、今回に限り助演男優賞を送っておくことにした。
「あの、ごめんなさい」
かすれた声で立ち上がったのは杉浦加奈子だった。初めての発言だった。腕にからむ玉城の手をそっとはずした。
「私が悪かったんです。今までのことは」
「え?」
玉城が戸惑いながらもう一度手を伸ばす。
「南雲くんと、清坂さんの言う通りです。私に立村くんが付き合いをかけてきたことは一度も、まったく、ありませんでした」
細く、甘く、かわいらしい声が初めて響いた。
男子たちのせせら笑いが沸き起ころうとするのをこずえがたしなめる。全く効果なし。
「ちょっと待ちなあんたら。私の邪魔しないでまずは聞きな!」
「そうだお前ら、ここはまず黙れ。古川の話聞いてやれ」
やっと貴史の出番だ。急いで声をかける。隣の美里がふたたび能面に戻りそうだったのでまずはでしゃばることにした。
「じゃあなんで、早く言わなかったんだっての! あんまりだろ今まで、立村ばかりが叩かれまくってたってのに!」
「そうだ、やっぱり俺たちの方が正しかったんじゃねーかよ!」
「南雲、お前は正しいぞ!」
今までの展開がぐちゃぐちゃ過ぎて男子たちのがまんも限界に達してたらしい。簡単には黙らない。もちろん貴史も立場が教壇ではなく自分の席だったら同じことをわめいていたかもしれないが今は今だ。とにかく黙らせることに専念した。
「まずだ、まず優先順位は杉浦、よく勇気出して言ってくれたよな。それは認める。そうそう、今ちょうどスタートに立ったばかりなんだからな。とにかくみな黙れっての!」
「羽飛そりゃねえだろ? さっきから俺たち男子さんざん間違ってるとかいじめの張本人とか文句言われたけど、結局はそういうことがあった、ってことだろ?」
収拾つかず。パイプ椅子から菱本先生も立ち上がる。
「こらお前ら、さっき古川に言われただろが! 全部話を聞いてからにしろって! 杉浦も辛かったろうが、まずは少し落ち着け。さあどうする、清坂?」
美里に振った。貴史を飛ばし、何かを決めさせたそうにじっと見やる。もう美里の勝ちは決まっていて、どう考えても立村はとばっちりを受けただけで、結局南雲の得た情報は間違ってない、というこの展開。他の女子たちの叫び、
「でも、加奈子ちゃんは言わなかっただけであって、勘違いしたのはあんたらじゃん!」
「文句言うんだったら立村がさっさといえばよかったんじゃないの? 口ないわけじゃあないんだし。こうやって言い訳しなかったのが問題なんだよ結局あいつが馬鹿なだけ。加奈子ちゃんがとばっちり受けたんじゃないの!」
「噂まわしたのC組の子たちだよ!加奈子ちゃんはただ誤解されただけ、悪くないんだってば!」
話を無理やり捻じ曲げている。こんなんで話収まるんだろうか。
「美里どうする?」
「まかせて」
短く貴史の問いに答えると、美里はまずこずえに呼びかけた。
「こずえ、悪いけどここは私と加奈子ちゃんと話させて」
「わかった、いいよ」
こずえがあっさりと受け入れて座るのを待ち、ざわめく教室にいっそう響くよう美里はその名を呼んだ。
「加奈子ちゃん」
「え?」
「その噂が流れた時、全く否定しなかったことは事実だよね?」
真正面から杉浦は美里を見つめ、ゆっくり頷いた。ずっと泣き伏していた時のあどけなさはなく、すでに涙も引っ込んでいる。何かを決心したかのようだった。
「私、あの時もし、立村くんとの噂を否定してくれてたら、加奈子ちゃんのこと、許せてたかもしれない。どうして黙ってたの? それ、知りたいの」
「だからそれは美里のことを」
「そう、美里ちゃんそうだよ」
「清坂さんあんたいい加減気づきなさいよ!」
こずえ、奈良岡、玉城それぞれの意見が飛ぶ。美里は無視して、首を振った。
「私、あの時ずっと立村くんのありもしない噂の火消しし続けてきたけど、加奈子ちゃんがそんなのないって顔しているからてっきり陥れようとしているんだって思ってたの」
杉浦はこっくり頷いた。
「そう。清坂さんの言う通り。こずえちゃんの言う通り」
その後、唇をまっすぐに引き絞るようにし、大きな声で叫んだ。B組、もしくはC組に聞こえそうなくらいの大きさだった。
「だって、立村くんみたいな人、絶対清坂さんにふさわしくないもの!」
今まで杉浦加奈子が感情を露にしたのを見たことがない。もともと存在を意識したことのない女子だったといえばそれまでだが、そこまででかい声を出して叫ぶ女子とも思っていなかった。美里、こずえ、菱本先生でもおさまらなかった私語の嵐がぷつっと止んだ。
目をぎらつかせて、杉浦加奈子は少し恥ずかしげに顔を俯け、ゆっくりと美里を見つめた。潤んでいるようにも見えたが、先ほどまでのはかなげな姿ではない。むしろ、美里をなんとかして掴みたい、そういった眼差しに見えた。
「ずっとみんな、立村くんのことを一生懸命にかばってて、きっとそれは正しいんだと思います。私が黙っていたことは間違っていたんだと、今は思います。でも、やっぱり私、許せないんです。人を傷つけて平気でいる人と、清坂さんみたいな人が友だちでいるのは間違っているとしか思えないんです」
「おいちょいと待て、お前だって人傷つけて平気でいるんじゃ」
余計な茶々を入れる男子をこずえが軽く蹴り入れて黙らせた。
「清坂さん、私のこと、嫌いなのはわかってます。嘘つく人、嫌いなのは私も、清坂さんのこと知ってるから、平気。でも、私は清坂さんと仲良しにいつかなりたかったんです。こずえちゃんや怜巳ちゃんが代わりに言ってくれたことと、みな同じ。だって清坂さんは私のこと、大嫌いでも……ちゃんと私のことみんなと同じように守ろうとしてくれたもの」
「私が、守る?」
美里が戸惑ったようにつぶやいた。思いつかないのかなんなのか。
「二年の、宿泊研修の時、私がバスの中で大変なことになった時、清坂さん、一生懸命私のこと、助けようとしてくれたんだもの。私のことなんか無視したってよかったのに、私のことかばってくれて、あんなことまでしてくれて。嫌いな子にもやさしくしようとしてくれる清坂さんのこと、私絶対に、絶対に」、嫌いになんてなれないもの」
──ああ、あのことかよ。んなことあったな。
思い出した。宿泊研修二日目、黄葉山バスツアーの際突然催した杉浦加奈子を美里が落ち着かせようとして大活躍した一件、確かにあった。菱本先生は全く役立たずで、最終的には事なきを得たらしいが、その辺はあえてノーコメントにしておく。ただあの時は杉浦だけではなくて他の女子もばたついていたらしいのでみなあっという間に忘れてしまった。むしろ次の日の立村バス脱出事件の方がはるかにインパクトが強かったので貴史の頭からは全くもって抜け落ちていた。男子たちも思い出したらしく、こそこそささやき出す。
女子は黙っている。
美里が突然かくっと首だけ下げて、教卓を見つめた。
「どうした美里」
「そう思ってたんだ」
「はあ?」
小声で他の奴らには聞こえなかっただろう。貴史にしか聞こえなかったはずだ。
不意にこずえの声が飛んだ。
「美里、どうする?」
顔を上げた美里は、唇をゆがめるようにしてこずえに何かを言おうとした。そのまま五秒ほど動かず、もう一度手を教卓に着き直した。ふっと息を止めるようにし、自分に頷きかけるように頭を動かした。教卓から降りた。そのまま杉浦加奈子のもとに進んだ。
「清坂?」
「清坂さん?」
美里を呼びかける声がかすれて聞こえる。貴史だけが教壇に残されたまま、目の前の女子二人を見つめていた。美里はすっと背を伸ばし、そっと杉浦加奈子に手を差し伸べた。
「加奈子ちゃん、ごめんなさい。私がひどいことしたから。あの時に気づけばよかった」
「そんなことない、だって清坂さんは」
「気づかなくて、ごめんなさい。私が無神経だったから」」
泣かず、ただ真摯なだけ、貴史に見えたものはその姿だけだった。
美里が両手で杉浦加奈子の手を握り締め、ゆっくりと頭を下げるのを息を止めたまま様子を伺った。なぜ美里が考え方を百八十度変えて杉浦の下へ向かったのか、なぜ美里が勝ちを見極めたのにあっさり頭を下げたのか、その理由が想像つかない。クラスの全員が固唾を呑んで見守る中、菱本先生とこずえ、奈良岡彰子だけがぽんぽんとリズムのよい拍手を送っていた。なぜそれにつられてクラスの連中が手を打つのかも、手を叩かなかったのが自分だけなのがなぜなのか、探ることすらできなかった。
──美里、何が起きたんだ? お前、杉浦になぜ謝る?
こずえが知ったか顔で頷くのを、貴史はひりひりした思いでちらと見た。