第二部 61
霜柱立つ日まで 61
奈良岡彰子だけがずっと杉浦加奈子の背をなでつつ、小声でささやき続けている。
周囲が静まり返っているのでどんなに声を潜めても響き渡ってしまう。
「大丈夫だよ、みんな、加奈子ちゃんの味方だからね」
貴史は美里の顔を覗き込んだ。相変わらずの能面であることには変わりない。意識して言葉を飲み込んでいるようにも見える。
本当はここで南雲により止めを刺されるはずだったにもかかわらず、思わぬ伏兵に足をすくわれてしまうとは想像だにしていなかった。もちろん、肉を切らせて骨を断つ的な勝負の仕方を見つつ、どこかの誰かを連想したりしてむかっときたのも否定しない。ただ、目的がひとつである以上、しかたないことかと割り切ろうとした矢先だった。
──なんか肝心要のところでかかわってくるな、ねーさんは。
われらがあんまん姫の手業をゆっくり観察するしかなさそうだ。
「奈良岡ねーさん、悪いんだけど俺も状況把握できてねえんだ。悪いんだけど俺たちにもっとわかりやすく説明してくれねえか」
菱本先生がパイプ椅子に座り直すのを待ち、貴史はしゃがみこんだままの奈良岡へ呼びかけた。とりあえずは貴史が部外者の顔して仕切るしかなさそうだ。
「ごめん、羽飛くん、あのね」
立ち上がり、奈良岡彰子は片手を杉浦の肩に置いたままそれに答えた。
「今の話、全部聞いていたよ。それと、あきよくんや美里ちゃんたちの真剣な言葉もずしっと胸に響いたし。みんな、D組のことが大好きで、友だちが大好きなんだなって。だから私も何かみんなのためにしなくちゃって思ったんだよね」
奈良岡彰子親衛隊の一員である水口が大きく頷いている。教壇から見下ろしていると水口の頷きぶりが妙に笑えてしまう。こらえるのが辛い。
「それに、昨日の立村くんのことも、私が羽飛くんにけしかけてしまったところがあったからかも、って、ものすごく責任感じてるところがあるんだ。ごめんね羽飛くん」
「あ、うん、またあとでその話は」
視線が貴史に集中する。首を振って奈良岡に話を促したい。
「私ね、ここまで全部話を聞いていて、今まで自分が聞いてたこととは違っていることがたくさんあって、びっくりしちゃったんだ。特に立村くんについては怜巳ちゃんが言う通りちょっと変わった人だなくらいしか認識なかったし。こんなに、特に男子に好かれている人なんだなってこと聞いてほんとに驚いたんだよね。これ、悪口と思われてしまうかもしれないけど、私はずっと、加奈子ちゃんが被害者だったと思ってたから」
──やっぱしというかまじかよ。
南雲が席で首筋を掻いている。恐らくだがこのベストカップルはこれで完全に消滅するだろう。
「だけど、あきよくんや美里ちゃんたちの言う通り、私も立村くんが加奈子ちゃんを追いかけまわしている現場を見てないんだ。他のクラスの子たちの噂とか、そちらを信じてしまっていたのかもしれないって、ほんとそれは思った。それでも立村くんは言い訳しなかったし、それ以上にクラスのみんなに一生懸命仲良くやっていこうとしていたことくらいは気づいていたよ。美里ちゃんや羽飛くんが支えていたところも知っていたし。過去にいろいろあっても今がよければいいのかな、って、思ってたんだ」
男子一同がタイミングをそれぞれずらして頷くのが丸見えだ。
「ただね、私が気になったのは、立村くんの味方をしている美里ちゃんがどうしてうちのクラスの女子のみんなから浮いてしまってるのかな、ってとこだったなあ。美里ちゃん、一生懸命評議委員としてがんばってるのに、なんとなくだけどぴんとこない扱いされてしまっててかわいそうだなあって、ずっと思ってたんだよ。怜巳ちゃんも、加奈子ちゃんのことがかわいそうだって言ってて同感だったんだけど、同じくらい美里ちゃんも誤解されてて辛いんだろうなって思ってた」
「辛くなんてないよ」
小声で美里がつぶやくのが聞こえる。貴史にだけしか聞こえなかったのかもしれず、誰も反応がない。奈良岡もしゃべり続ける。
「今、ここで美里ちゃんが話したように、立村くんの事情がはっきりしたとしても、本当の問題は片付くのかなって、どうしても思うんだ。あきよくんも一生懸命立村くんのことをかばって話をしていたけど、もしここで立村くんの潔白が証明されたとして、ここから先、また新しい問題が生まれてしまうんじゃないかなあって、どうしても心配になってしまうんだよね」
「ちょいまて、ねーさん、つまり何か? お前さん、立村のいわゆる追っかけまわし事件はなかったものだって認識、してるのか?」
奈良岡の立ち位置が把握できていない。限りなく黒に近いグレーである、とまでは話が進んでいるけれども、まだ決定打が出ていない。第一、杉浦加奈子は泣き伏すだけで事実を認めていないではないか。
「わかんないよ。それはね。でも、誤解はあったのかもしれないなって気はしたんだ」
すぐに穏やかな表情で奈良岡は答えた。
「事件ではなくて、私たちの中でどうしても立村くんを悪者にしたくてならなかったから、勝手に誤解してしまったところがあったのかもしれないなって。そう思ったんだ。変な言い方だけど、私、加奈子ちゃんから立村くんがしつこくアプローチしていたって話を直接聞いたことはなかったんだよね。これ、立村くんがそうしていることを美里ちゃんやあきよくんが見てないってところと一緒なんだけど。もしかして、お互いにそんなことがあったなんて一言も口にしてないにもかかわらず、勝手に私たちがおはなしを作り出しちゃって、いつのまにかここまできちゃったんじゃないかなって、思ったんだ」
「ちょい待て」
援護射撃が貴史より前に、南雲の親友たる東堂より発せられた。
「ねーさん、ってことはだ。もともとそんなことはなくて、勝手に噂だけがつっぱしってしまったってことか? 俺もかなり早い段階で立村の哀れな話を保健委員会で聞いたりしてたけどなあ」
「うん、そうだよ東堂くん」
保健委員の相棒に奈良岡は頷き返した。やはり柔らかな表情だった。
「けど、否定はできただろ? 立村も杉浦も、口があるんだから。ま、立村の性格上。言い返せるとは思わねえけど」
「同じことは加奈子ちゃんにも言えるよ。すっごく、勇気がいると思う。頷くことと首を振ることは、同じくらい重たいよ。怖いもの」
「じゃあどっちもどっちかよ。結局、この問題って、立村と杉浦がお互いに否定しておけば丸く収まったってことかよ。ったくなんだよいったい。すげえかんたんな結末じゃあねえの」
東堂の、作ったような脳天気な口調に笑いが湧いた。教壇の貴史と美里のみ取り残されているかのようだった。美里は全く動じていないし貴史もどこが笑いのつぼなのかつかみかねている。南雲の親友たる東堂としてはなんとか不毛なクラス議論を片付けたかったのだろう。もともと何もなかったことを、たまたま立村と杉浦が否定をしないままなあなあ状態で流していたことが発端ならば誰も悪くない。当事者同士の自己責任に過ぎない。同時に勘違いした周りの連中も、噂を鵜呑みにしただけなのだから単にアホだっただけ。東堂の言う通り確かに丸く収まりはする。
──ねーさん、どう出るんだ?
玉城や美里のように、一気に突っ走るタイプならある程度の読みはできる。ただ奈良岡彰子だけはさすが大福姫だ。つかみ所がない。
息を詰めすぎて呼吸困難になりそうだ。ちらっと菱本先生を覗き込んでみた。腕を組んでこちらも考え込んでいる。頼りになりそうにない。
「じゃあ今の話をまとめるとだ。もともと噂でしかなかった話を、当事者の立村と杉浦がだんまり通してきたからそうなっちまっただけってことか?」
まとめてみた。菱本先生も頷いた。
「さっき美里言った通り、たまたま立村と杉浦との間に全く別のめんどくさい問題勃発で話し合いをしていた時に、余計な噂が他のクラスから立ってしまったと。互いに真実を訴える機会があったにもかかわらず否定も肯定もしなかったもんだから話がこじれたと。で、菱本先生も立村を呼び出しなんぞしたもんだから、話が杉浦寄りになっちまったと。そういうことだろ? 互いにあんまり自己主張しない性格の人間同士がかかわっためんどくさい一件ってことでまとめていいのかこれは」
「そうだな、俺が悪かった」
いきなり菱本先生ががくっと頭を下げた。またざわめいた。
「先生、どうしたんですか?」
「さっき清坂に直撃された時もかなりずしーんときたんだが、羽飛の連打でまじめげた」
大爆笑の嵐。笑いどころではないのになぜか笑うクラスの連中。
「確かに俺は、噂が流れた時に立村を呼び出して説教したんだ。全くお前らふたりの言う通りなんだが、ただ、今だから言えるが」
言葉を切った。少し考え込むように首を傾け、
「俺の発言も治外法権ってことでいいな?」
「もちろんっすよ」
飛んできたのは南雲の声だ。
「俺なりに立村のことがいろいろと心配だったってのもあってな。たまたま噂は渡りに船ということできっかけにすぎなかったんだ。お前らもわかっているだろうが、普通のやり方だとあいつ話、聞いてくれないだろうと思ってたんだが、今考えると教師失格だな」
「で、立村は否定しなかったんだろ? ですか?」
一応はロングホームルームだ。丁寧語が妙な形で入ってしまった。
「これも俺の反省点なんだが、言い訳ひとつしなかったしやっぱりだんまりだったし最後は謝ったから、そういうもんなんだと俺も思い込んでしまった。奴には本当に悪いことをしたよ。ただ、それはそれでほほえましいとも思ってしまったりしてなあ。やっぱり、若いなあ、青春だな、夕日に向かって走りたいなあとか」
笑いを取ろうとする発言なのだろうが、今度は誰も笑わない。見事滑った。
「ただその一件が、クラスの不協和音のきっかけとなっていたのなら、これは完全に俺が悪い。もっと別の切り分けをすべきだったんだ。申し訳ない。杉浦、本当に悪かった。お前も言い出しずらかっただろうし。奈良岡の言う通り否定も肯定もなかなかしんどいことだよな」
立ち上がり、杉浦に近づき、菱本先生は九十度丁寧に礼をした。
「杉浦、申し訳なかった」
顔をあげ、おびえるように首を振る杉浦加奈子に対し、菱本先生はもう一度頭を下げた。
「なんでこんなことになってるのよ」
なんとなく話が緩やか流れていてクラスの連中もみな、納得顔でささやき出している。奈良岡彰子の発言を境に、まんまるく収まりそうな気配がしている。貴史は美里に問い返した。もちろん他の奴らに気づかないように、だ。
「悪役いないってことにしたいんだろ」
「それ、違うよ。貴史、あんただって知っているよね?」
「ああ?」
目の前では杉浦加奈子が首を振りながら菱本先生に答えている。一部の女子と奈良岡彰子が再度杉浦加奈子に近づきつつ、「よかったね」と声を掛け合っている。
「だって嘘だよ全部。立村くんが言い訳しなかったからってことになるんだよね、すべて」
「奴だけじゃあねえ、杉浦だって同罪だろ」
「違うって、違うの」
不満があふれ返っているけれども、言い返す言葉が見つからないらしい。
「じゃあ、ひとつめの問題はこれで一件落着っつうことでいいか?」
軌道修正するほうがよさそうだ。何はともあれ立村が無実であり、杉浦側にも不必要な傷がつかなくてすんだのはまずはめでたいことだと思う。下手したらいじめ問題が勃発してしまい、今度は「立村を陥れた悪女杉浦加奈子」のレッテルが貼られる寸前だったのだ。立村の親友である貴史としては、ありえない噂を打ち消すためにそれもありだとは思っていた。しかし持ち出したのが南雲だというのを考えるとはっきり言い切るのはちょいと避けたい気持ちもある。それなら最終的に締めた菱本先生のおとなパワーに敬意を表するのもいいかもしれない。美里がもの言いたげなのを、教卓の後ろで足踏み直し黙らせた。
「先生、いいだろ?」
パイプ椅子に戻った菱本先生に親指でグーマーク送った後、貴史は呼びかけることにした。できれば次は美里の抱える課題、「文集中止」に持っていきたい。どう考えても悪夢の出来事しか思えない一年秋の「班ノート」を利用して永遠……かどうかは別として……に刻み込むというのは、虐待にしかならないような気がする。そう持っていけばたぶん、奈良岡も納得するのではないのか。立村だけではなくて杉浦自身の傷を考えても。
「羽飛くん、ごめんね、もうひとつだけいいかな」
慰めあう女子たちが席に戻る中、まだ杉浦の側から離れない奈良岡がいる。相変わらずのふっくらした表情だがまだ笑みは浮かんでいない。
「みんなも気づいていると思うけど、加奈子ちゃんの本当の気持ちはまだ誰も聞いてないと思うんだ。これ、わかるよね?」
のどかな雰囲気が一瞬のうちに凍りついた。奈良岡彰子はかわらない。
「ここが、私、問題なんだと思うんだよね。あきよくんは勘違いしてしまっただけだし、女子のみんなも立村くんのことを先入観持ってみてしまっただけだし。だからさっきの、誤解の話はもうこれでいいんだ。でも、もっと大切なことがあるよ」
今度は玉城の席に向かった。何も言えずに唇を噛んでいる玉城の肩に手を置いた。
「怜巳ちゃん。加奈子ちゃんがなんで言い訳しなかったのか、わかる?」
「え?」
「D組の女子のみんなのことが大好きだったんだよ」
──ありえねえ発想の飛躍だあ!
貴史だけではなく、当の本人の玉城も口をまん丸く開けている。他の連中ももちろん続いている。まさに言葉が出ない。必死に貴史も付いていこうとするが頭が追いつかない。
「男子たちのことはわからないよ。いろいろあったし。でも、加奈子ちゃんのことをD組女子のみんなは一生懸命助けようとしてくれたし、味方になろうとしてくれた。たとえそれが誤解だったとしても、だけどね。それに嘘なんて全然なかったって加奈子ちゃんは思っていたし。もちろん立村くんはとばっちりを受けてしまったのは確かだし、それによって男子のみんなが加奈子ちゃんを誤解してしまったところもあると思う。でも、そうされちゃってもしかたないって感じるくらい、加奈子ちゃんは怜巳ちゃんをはじめとするたくさんの女子のことが大好きだったんだよ」
玉城だけではない、他の女子たちが顔を上げ、何度もぱくぱく口を動かしている。
言葉も混じる。霧に過ぎないその言葉を掬い取るように、奈良岡は発する女子たちの顔をそれぞれ見た。
「そうなんだよ。だから、私、加奈子ちゃんがはっきり言えなかったことをどうしても責められない。立村くんに罪をかぶせてしまったことは申し訳ないけれど、これは全力で加奈子ちゃんの味方になる必要があると思うんだ」
すすり泣きが聞こえた。やはり杉浦加奈子の席からだった。
「ちょっとちょっと、おいおいおいおい」
今度は須崎と国枝の二人が同時に叫んだ。男子連中を代表するかのようにだった。こいつらはもともとロングホームルームでしゃべる性格ではない。それなのになぜいきなり立ち上がったのかが貴史にはわからない。
「須崎くん、国枝くん、言いたいことある?」
美里が声をかけると、
「あるあるある!」
同時に声をそろえる。他の男子たちも拍手するが南雲だけは動かなかった。
「女子の言うこと絶対変だと俺は思います!」
「言いたいことあるのか?」
パイプ椅子から問いかけるのは菱本先生だった。少し気の抜けた顔をしていたくせに、野郎ふたりが立ち上がるやいなやぴくっと身体を固まらせた。
「はい! 悪いけど俺たち男子にも時間もらいたいんですけど」
国枝がどすの利いた声で要求した。刈り上げの頭を大きく振った。大きく頷いたのは須崎だ。同様に東堂も、水口も、その他大勢も。女子はいない。
「お前らがそんなこと言い出すのはめずらしいなあ。よし、いい機会だ。言いたい放題言ってみろ! えっと、清坂、五時間目あとどのくらい時間あるんだ?」
「思ったより経ってませんけど。あと十五分はあります」
「よっしわかった!」
菱本先生はいきなり手を打ち、立ち上がった。
「じゃあいったんここで十分休み時間にしよう」
腕時計を覗き込み、壁時計を眺めた。
「最初に言った通り、今日は歴史の時間をつぶしてこのままロングホームルームに流れ込む予定なんだ。ただ百分ぶっ続けってのはなあ。途中トイレに行きたい奴だっているだろうし、話自体がもうどこに行くかわからん状態だろう。だったらここでいったん、水入りにして頭を冷やすというのはどうだ?」
「けどまだあと十五分が」
美里が言い募るのを菱本先生は手で止めた。
「その十五分がみそなんだ。今はいわゆる治外法権のD組限定議論を続けている。ふつうの十分休憩だと他のクラスの奴と話をすることがあるかもしれない。話がまとまった後ならいいが、まだ生煮えの状態で嘘か本当かわからないまましゃべってしまったらことだ。余計な問題が起きないとも限らないし、何よりも今ここにいない立村が傷つくことも考えられる。そうだろ? 清坂?」
「はい」
納得はしているようだ。
「それなら、他のクラス連中がいないうちにさっさと休憩を取っておいて、少しリフレッシュした状態でここから先のクラス討論を進めよう。俺も正直、お前たちがこんなに真剣にクラスのことや友だちを思いやっていることがわかって、心底感動しているんだ。ただ熱くなり過ぎるのも人生経験上まずいとも思うんだ。そこんとこわかってくれるんだったら、十分休憩、即入れ!」
菱本先生の号令に、まず南雲が立ち上がり教室を飛び出した。引き続いて東堂が。次に水口や金沢が、ぞろぞろと男子連中が走り出してゆく。男子たちがほとんどいなくなるのを見極めたように玉城たちが杉浦の席にかたまり、ゆっくりと集団で扉を押していった。てっきり美里の慰め役かと思っていたこずえが、一緒にくっついていったのは意外だった。
美里はもの言わず、前の扉から出て行こうとした。ひとりでだった。
「おい、美里」
「何でもないよ」
小声で答え、二階に向かう階段を下りようとした。
「トイレか?」
頷いたが、すぐに首を振った。
「貴史、悪いけど男子トイレに誰かいるかだけ確認してもらえる? 話、きっとしてるよね」
「してねえと思うけど」
さっさと済ませてさっさと教室に戻るのが男子のポリシーだ。こんな寒い中、何話すというのか。
「違うよ、きっと作戦会議してるよ」
「ああ? じゃあお前の方こそなんで二階に行くんだ? 混んでるからか? そんなにせっぱつまってるのか?」
瞬時に脳天をひっぱたかれた。静かな廊下ゆえに何も言葉を発することができない。さすがに他のクラスは授業中だ。
「女子はきっと、あそこで加奈子ちゃんを守る井戸端会議してるよ。私が入ったらきっと黙るし。でも男子は違うでしょ。男子は立村くんの味方でいてくれるんだよね?」
「まあ、たぶん」
「だったら、そこ確認してよ。私も今から頭、整理してくるから」
階段を下りてゆく美里を見送りながら、貴史は言われた通り男子トイレに向かった。美里が玉城たちを中心とするグループと危機一髪なのはよく理解したつもりだ。噂話の花が咲く場所に顔出したくない気持ちもなんとなくだがわかる。ただ男子連中がいくらなんでもそんな女子っぽいことをやらかすとは、正直思っていなかった。トイレの戸を開けるまでは。
──美里の言う通りだったぜおい……。
南雲、東堂を覗いて見事3D男子が終結しているとは思わなかった。
貴史が入ってくるのを待ち受けていたかのごとくだった。用を済ませるのもなんだか雰囲気として間抜けなほどだ。まずはさっさと朝顔前に位置し、他の連中たちの叫びを聞いた。
「おい羽飛、あのままでいいのかよ!」
わざわざ横から顔を出そうとするのは国枝だ。覗き込まれそうだ。
「俺もちょっとなあ、あの展開は変だと思うよなあ」
のんびりながらも反対側から近衛が露骨に覗き込もうとする。
「俺たちもいじめに参加したことになっちまったのは悪いかもしれねえけどな、ただ変だろ? どう考えても立村は悪くないだろ? 女子たちが立村を嫌ってるから自分たちがやってることを正当化したいだけだろ? 女子は泣けば許されると思ってやがる」
須崎がわめく。こいつと立村との設定は、確かクラス対抗リレーの時くらいだったはずだがなぜそんなに味方になりたがるのかがわからない。
「悪い、お前ら立村を守りたいのはすっげえありがたいが、頼むから覗くなよ。縮まっちまうだろが」
「羽飛のもんなど見慣れてるわ!」
しょうもない下ネタで場を和ますのがなぜか水口だ。こいつも金沢とふたり連れ立って、何か文句を言い合っている。
「ねーさんは本当のこと気づいてないんだ。だまされてるだろ、杉浦に」
「やはりそうだよな? 杉浦、何にも言ってねえよな? 謝ってねえよな? 白とも黒とも言ってねえよな?」
誰かが割り込みまた貴史の真後ろから覗き込む。
「菱本さんも完全に女子たちのペースに飲み込まれてるよな。お前は清坂の味方だからまあいいとして、このままだと俺たちが無実の相手をいじめた悪党に決め付けられちまう。これでいいのかよ!」
南雲の流した嘘情報がきっかけで、杉浦加奈子を無視する流れとなった。この事実については南雲も頭を下げている。立村も本来であれば自分が何もしていないことを訴えるべきだった。杉浦もなんらかのアクションを起こすべきだった。この件については貴史なりに終結宣言したほうがよさそうだ。しまうものをさっさとチャックに収めて貴史はまず答えた。
「話、整理しようや。まずな、最初の立村横恋慕事件は別にしよう。あれは奴も悪かった」
「はあ?」
「そういうことにしとけよ。あいつが菱本先生にくってかかればなんとかなったかもしれねえけど、奴の性格上しかたねえと思うよ。俺からしたらな。ぶんなぐりたくなるもんな」
昨日の事件をみな知っている。全員頷いている。貴史は朝顔を背に方向を変えた。男子トイレに終結している連中がみな貴史だけを見つめている。いつのまにか円陣だ。
「ただ、それと立村が今に至るまで無視こかれたり嫌われたりしていることについては、このままじゃあまずいんじゃねえか、とは思ってる。これも、わかるよな」
「同感」
金沢がつぶやいた。
「女子連中の目的は、俺たちが杉浦を無視したことを全員雁首そろえて謝罪しろってことだ。まあ、嘘を信じちまったんならごめんとあやまるしかねえよ。けど、それだったら誤解されたまんまの立村に女子連中も謝るべきじゃねえかって思うんだが、それ変か?」
「確かにな」
須崎が再度頷く。
「俺はこれから、美里と一緒に立村の名誉回復に向かって突っ走る。もともとあの事件がなかったもんだってことなら、しゃあねえ、俺と一緒にみんな謝ろうな。けど同様に立村に対してもおんなじく謝るよう俺としては要求するつもりだ。あいつが参ってしまったのはまあ自業自得っぽいとこもあるけど、このままじゃあ卒業式まで来ないかもしれねえぞ。俺もちゃんと品山のあいつん家まで言って土下座してごめんなさいするつもりではいるけどな。ただ、その手土産に女子連中がお前にひどいことした許してほしいって言ってた、くらいのことは持って行きたいんだ。んで奴を連れ戻して最終的にはクラス全員で卒業式に出たい。ってことでどうだ?」
息もつかずに言い切った。やっと言えたぞすっきりだ。
「よっしゃ。羽飛、まかせた。けど頼むから俺に最初にしゃべらせろよな」
国枝が貴史の肩をどんと叩いた。
「俺は立村に借りがあるからな。他の奴も何かかしら、あるだろ? 英語のノート以外にもな」
見ると全員が複雑な顔で頷いている。水口も俯いている。想像はつく。宿泊研修のあれだろう。
「羽飛の言う通り、例の件については全員で謝る。了解だ。けどそこからだな、頼むぞ」
「OK!」
「よっしゃあ!」
連なるみなが声をそろえて叫んだ時、誰かがトイレの扉から顔を出して覗き込んだ。
「みなさん、エイエイオーの途中でしょうが、そろそろ休憩終わりっすよ」
南雲が一声かけて、すぐに首を引っ込めた。