第二部 60
霜柱立つ日まで 60
──やべえ、こりゃえらいことになるぞ!
当然沸き起こるのは悲鳴に似た女子たちの驚きの声だった。
「南雲くんがって?」
「いじめたって何?」
「まさか、よね?」
男子たちのつぶやきは意味不明に途切れている。もちろん声は聞こえるが、女子たちのように何らかの意味が伝わるものではない、「ええ?」「はあ?」といった擬音のみ。経験上これは、どうすればいいかわからないなんとかしろ、とのメッセージだと貴史は読んだ。反応を覚悟していたかのように、それでいて全く反省の色なしの表情で教室内をねめまわしている南雲、その落ち着きっぷりには対応しようがない。貴史の隣にいる美里も半ば口を空けかけたまま凍りついている。
「みさ、どうする、どうする?」
「ちょっと待って、考えるから黙ってて!」
小声で返された。指先で教卓を叩いている様子だ。
貴史も南雲から美里、それからクラスメート全員に目を向けた。まずは尋ねるつもりだった。
──なんでそんなこと言い出すんだお前? 南雲、何したいんだいったい?
口中でもごもごしたものは、脇で金属がぶっこわれるような音によって寸止めされた。.
「南雲!」
菱本先生が椅子をひっくり返していた。
「お前今、なんて言ったんだ!」
叫びながら南雲のいる後ろの席に突っ走り、奴の机脇にに立ちはだかった。勢いで通路脇の机がかなりずれて被害を蒙っている。
「南雲、お前ともあろうものが、なんでだ? そんな汚い真似していたというのか!」 突っ立ったまま、さすがに顔を引きつらせつつ南雲が答えている。
「だから、あやまるつもりですが」
さえぎった。手で南雲のネクタイをひっぱり出し、前にぐいと引いた。当然前につんのめる南雲の肩を押さえるようにして、どすの利いた声で怒鳴った。
「あやまれ! 今すぐ、土下座してあやまるんだ!」
殴りはしない。菱本先生はもともと手を出すタイプではない。ただ南雲の態度によってはまずい、本気でぶっ千切れる。
「貴史、行こ」
美里がささやき、同時に教壇から降りた。他の連中が席から動かず騒いでいるのをのを尻目に菱本先生に駆け寄った。脇からするっと菱本先生の前に入り込んだ。
「先生、落ち着いてください!」
どう考えても生徒が教師に言う台詞じゃない。貴史も続いた。逆に回りこんだ。
「美里、左回れ、俺が右にいく」
「了解!」
両腕を押さえる作戦に出ることにした。「あ・うん」の呼吸は美里相手ならではのものだ。それぞれが菱本先生の片手を両手で押さえ込む作戦に出た。
「先生、気持ちわかるけど落ち着けよ!」
ひとり、またひとりと立ち上がり、みな円陣を組むように南雲と菱本先生、貴史と美里を囲む気配がする。一部の生徒せのみだ。杉浦加奈子を含むほとんどの女子たち……は身動きできず固まっている。
「昨日言ってただろ、暴力では何もかたづかねえって!」
「そうだよ先生、羽飛たちの言う通りだってば! ほら、ネクタイから手、離して、それからだってば!」
見かねたのかこずえが美里を押しやるようにして正面から菱本先生に語りかけてきた。貴史の顔をちらと見て、
「昨日の今日じゃん。クラス全員で話をしようよ、まずはさ!」
両手を腰にやり、片足をとんと踏んだ。
唐突に全員から拍手が沸いた。場違いすぎるが菱本先生をクールダウンさせるには十分だったらしい。我に返り握り拳を下ろした。
「悪かった。もう離していい。羽飛、清坂、ほら」
両腕を軽く振るようにした。ふたりが手を離すと同時に肩で大きく息をした。
「南雲、驚いたかもしれないが、今の俺の、正直な気持ちだ。お前の発言で俺は、たまらなく悔しくて悲しかったんだ。それだけはわかってくれ。それとだ」。
「ほら、座れ、続きだ続き」
貴史は一声立ちっ放しの連中に指示を出し、まずは席に着いてもらうことにした。こずえも手を打ち鳴らし、
「ほらほら、続き続き、はじまりはじまり!」
わけのわからない掛け声で全員を席に戻している。貴史の指示よりも効果があるというのが面白くないところだが、そんなことに拘っている暇はない。美里もこずえに両手を合わせて拝むしぐさをした後、無言で教壇に昇り、じっと菱本先生の背中を見下ろした。貴史も続いた。見下ろすと菱本先生の背中がすっかり丸まっているのが丸見えだった。
「どうする?」
「南雲くんから理由聞こうよ。それしかないじゃない」
ただ菱本先生が席に戻らないと、生徒としてはどうしようもない。
菱本先生にどつかれた時はさすがにおろおろしていたようだが、南雲もまた静かに対峙している。欠席している元評議委員長のごとく憎しみ込めてにらみはしていない。
落ち着いたまま、きっちりと頭を下げた。直角の礼だった。
「先生。この点は俺が全面的に悪いと思ってます。あやまります。ただ」
「ただ、の前にまずあやまるんだ。南雲、話はすべてそこから始まるんだ」
言い訳しようとする南雲を菱本先生は制した。肩に手を置いた。
「お前がなぜ、ひとりの女子を苦しめるような行為を指示したのか、なんで規律委員長を勤めるような人望のある奴がそんな卑劣なことを平気でできたのか、もちろん理由があるのは俺も想像がつく。もちろんこれから話は聞く。だがな、南雲。どんな理由があったとしても、人を苦しめるようなことは決して許されることではないんだ。まずはすべて、心から反省するところから始めてほしいんだ」
──理由、聞かねえのかよ。
てっきり菱本先生のことだから、南雲に言いたい放題しゃべらせた上で杉浦の悪行三昧を暴露させるつもりではと推測していた。美里が一方的に立村弁護説を語り続けていた時も菱本先生はほとんど言葉を挟まなかった。ただ、南雲が平気な面して杉浦加奈子に対するいじめの張本人であることを白状するとまでは想像していなかったのだろう。貴史ももちろん、今だに動悸が止まらない。
教壇に立ち、美里に小声で話しかけてみる。
「どうするんだよこれ、理由どころの話じゃねえぞ」
「しょうがないでしょ、成り行きに任せるしかないよ」
美里は相変わらず能面かぶったままだった。
──何様のつもりだ南雲、あんにゃろう何考えてるんだ? 指示出してただと? んなこと俺知るか。立村の親友面してわけわからねえことしたのかよ?
最初は身動きできなかった。ある程度事情を知っていた貴史ですら言葉が出なかった。もちろん貴史も立村の一件では他の男子連中に「ありゃガセだ」と伝えていたし、南雲と同じ行為をしでかしていたかもしれない。結果として杉浦を遠目で見るようなかっこうになったことも、正直否定はできない。だが誓ってもいい。杉浦をいじめろとか無視しろとかそんな露骨な「いじめ」行為をしたことはない。美里との間にブリザードが吹き荒れていたことは承知しているが、他の女子たちと同様に接してきたつもりではある。もっとも気を遣ったわけではなく立村のあれやこれやに振り回されっぱなしで女子連中の仲裁なんて手を出す気なぞない。
南雲は動こうとしない菱本先生に対し、しっかりと頭を下げた。九十度、かっちりと。
「申し訳ありません。あやまります」
「あやまるのは杉浦に対してだろ?」
菱本先生が静かに促す。南雲も顎で頷き、今度は杉浦のいる方向に身体を向けた。また九十度の礼をした。
「杉浦さん、申し訳ありませんでした」
言い終わった後、再度念入りな礼をした。ぽかんとした顔で振り返る杉浦加奈子は言葉を発しなかった。むしろ身体をこわばらせるように、机にしがみつく格好で南雲の顔を見上げている。教壇側の貴史にはその表情が確認できなかった。
「菱本先生、いいですか」
まだ騒然としている教室で菱本先生が南雲にまた近づき、何か語りかけようとしている。しかしさえぎったのは美里だった。
「先生、今日は治外法権だって言ってましたよね? 私、思うんですけど南雲くんのことも今の時間限りですべてD組の秘密にするってことでいいですか?」
「清坂、いきなり何を」
今の美里には誰も逆らえない。今度は教卓をぶったたいた。
「菱本先生、そうでなくちゃ、本当のことを誰も話してくれないと思います。南雲くんがなぜいきなりそんなことを言い出したのか、私はまったく訳がわかりません。いきなり一方的にあやまれって言われても、対応しようがないです。私、まず、南雲くんになぜそんなこと言い出したのかを全部さらけ出してほしいんです。あやまる理由がわからないと、杉浦さんも困るだけだし」
「いや違う、清坂聞いてくれ」
ためらうことなく菱本先生は反論した。
「もちろん理由がないとは思っていない。今から語ろうそれはな。ただそれと実際、杉浦が受けた傷とは別なんだ。南雲は理由がなんであれ、杉浦を他の男子たちから無視させるように指示をした、それが事実ならばいかなる理由があっても肯定できないことなんだ」
美里に向かいそこまで伝えた後、菱本先生はもう一度南雲に語りかけた。
「そのことは、わかるな」
「はい」
まじめなんだか無視しているんだかわからないが、いかにも反省しているような表情をこしらえている。貴史の目にはそう見えた。教師だましに関しては南雲も相当のプロであることを、一応クラスメートとして貴史は知っているつもりだった。
「わかったか。それなら、お前も言いたいことがあるだろう。なぜ、そんなことをしてしまったのかを心の底からざんげしてみろ。清坂が言った通り、ここで話したことは一生、決してみな外の奴には話さない、そう約束してくれるからな」
──いや、鐘がなったら一瞬で噂が広がると思うけどなあ。
機密事項なんて無理だ無理。菱本先生の楽天主義にため息をつきつつ、貴史は南雲が口を開くのを待ちわびた。ここまで大混乱の渦に巻き込んだ責任を取らせたい。いや何よりもあいつは反省なんぞこれっぽっちもしていないだろう。何かをたくらんでいる。目的あっての爆弾発言に違いない。
自席から動かず、南雲はぐるっとクラスの連中を見回した。手は腰におかず、代わりに椅子にかけた。
「じゃあ全部しゃべることにしますわ。きっかけは五月くらいですか」
──五月?
意外とずれた時期に戸惑った。やっとしゃべり声が止み、聞こえるのは南雲のひとりがたりのみとなる。美里の横顔を伺いながら、貴史はまず南雲の言葉をとっくり聞かせてもらうことにした。
「ちょうどその頃から俺と立村とは規律と評議のそれぞれ委員長候補として話をするようになってました。それまではいわゆる同級生程度の話しかしてません。これは委員会経験者だったら誰もがわかると思うんですが、誰かがなんかへまやらかした場合、すぐに上級生へ噂が広がり、場合によってはいろいろと取調べや弾劾裁判やら始まるんですが。俺がいわゆるその、今まであんまり人間関係でよい噂がなかったとかそういうことも、知らないうちに先輩がた把握していたようなんですよ。当然立村についても情報は流れまくっていますし、何せ評議委員長候補ですから、横のつながりで規律委員会の先輩方も聞き耳立てているわけです。保健委員会もそうだろ? 東堂?」
大親友の東堂に話しかけて同意を求める南雲。まじめに話しているつもりなのだろうが、ちっとも反省の色を感じない。たくらみのにおいがする。東堂も困った顔で返事できずにいる。南雲は気にせずに語り続けた。
「さっきの立村の横恋慕事件ですが、別に校則違反して違反カードの嵐になったとかそういう話じゃないでしょう。俺の聞き知る限りではもっとやばい事件が起きた時でも、穏便にことがすまされていたみたいですし。ただ、清坂さんが言ったように先生呼び出しがからんできてしまっていて、明らかにそれが事実だというように情報が流れてしまったのは確かですよ。俺も規律の先輩たちにいろいろ聞かれましたし。『お前のクラスの立村は果たして女子のケツを追っかけてノイローゼ状態にしたのか? そんな奴を評議委員長にしていいのか? やばくないか?』て感じでですね」
語り口調は軽やかだ。いじめ問題の張本人として申し開きしているようには全く見えない。貴史は美里を肘でつつきながら、それでも黙って聞き入った。
「これも委員会関係者ならご存知でしょうが、規律と評議とのつながりはすげえ濃いんです。いわゆる『クラス演劇』の衣装提供や和服の着付けとかから始まり、校則に関する情報の意見交換とか、その他まあ見えないところでいろいろあります。俺も早い段階で委員長候補だったんで、少しは自分の立場を楽にしたいという本音も、ちょこっとありました。それで、改めて評議委員長候補の立村がどんな奴かをとっくり観察したわけです」
誰も何も言わない。貴史の腹の底だけがじくじくと煮立っている。
「この段階で俺は立村の性格を細かく知ってたわけじゃないし、もともとクラスでは別グループのつながりでしたから、かなり冷酷に観察してたはずです。どうしても友達だと見る目甘くなっちまうとこありますけど、立村に対してはそれ、全然なくて。そうですね、俺としては、杉浦さんのことを横恋慕する可能性もゼロではないだろうなくらいは考えて様子見してたわけです」
なぜか誰も反応しない。美里がしゃべっている間はこそこそひそひそ話す奴もいたというのに。南雲の話術に酔わされているのか。
──絶対に落ちねえぞ、俺は!
「ただ、どう考えても立村については叩いてもほこりが出てこないんですわ。いや、さっき清坂さんの話した小学校時代のしんどそうな過去については聞いてましたよ。ただ、入学後の行動とか、クラスで何したかとか、そういう話を探ってみても単純にすげえいい奴だってことしか出てこないんですよ。ほんっと、まじで。だよな? そう思うだろ? 男子さんたち」
男子さんたち、と呼びかけられて頷く連中が大多数の男子たち。女子たちが顔をしかめているのとは対照的だ。
「杉浦さんのおっかけ疑惑についても同様です。俺もそれなりに先輩たちのつながりありますからいろいろ聞いてみましたけど、ぜんっぜんないんですよ。清坂さんの言う通りで噂が立った当初はクラスの『ビデオ演劇』真っ最中だし、第一その話って最初C組で流れてませんでしたか? 俺が最初聞いたのはC組の規律委員経由でしたよ。それからD組で話が出てきて、最後に立村が菱本先生に呼び出されて言い訳しなかったと。後で聞いたことだと、立村は杉浦さんと別の話し合いこそしていたけれども、しつこいラブラブパッションを撒き散らしたわけではないのかなってとこで終わってますがそれは確認したわけじゃあないです。ほんとのところは藪の中って奴です」
すでに南雲のワンマンショーと化した教室内。この雰囲気はかつて南雲が全校集会で、規律委員長として偉そうに演説したときの体育館内とほぼ同じだった。見た目いい加減な女ったらしでありながら、語り出した瞬間静まり女子たち中心に陶酔の眼差しと変わるあの雰囲気だ。男子の貴史はそのマジックにかからずけっと眺めていたが、今は教室内が南雲に酔わされているようだ。美里も……横で見る限り少しずつやわらかに頬が緩んでいるようだ。ぶんなぐって正気に戻したいががまんする。
「一通り立村と付き合ってみて判断した結果、どう考えてもありゃガセだろうという判断に至った俺ですが、気がつけばいつのまにか全校の女子のみなさんに嫌われているし、そのひとつが例のあれという結果なんですね。次の段階で考えたのは、なんとかして立村の濡れ衣を晴らしてやりたいと、そういうとこです。これは規律委員としてではなく個人的に、ってとこですよ」
──俺だって、美里だって、古川だってそうだろが。
奴よりはるか前に、貴史たちは立村をかばおうとしたつもりだ。何も手柄話みたいに語ることもないだろうに。むかつく。腹のフライパンがたちたち言う。
「いかにも女子たちから毛虫みたいに嫌われちまい、そのきっかけが杉浦さんのおっかけ事件ときたら、まずはそれを打ち消すのが最善、と当時チャイルド思考の俺はつっぱしってしまいました。このあたりはまったくもって俺が馬鹿だったからなので、反省してます。何度も頭を下げても足りないことだし、これからどんな展開があったとしても俺は土下座して謝るつもりです。杉浦さん、ごめんなさい!」
土下座せず、自分の机に両手を突いてしゃがみこむポーズを取った。すぐ顔を上げた。
「立村としゃべったことある奴ならみなわかると思いますが、あいつはほんと、自分のことを悪いと決め付けられてもがまんしてしまうタイプです。清坂さんとこのあたりはおんなじ意見ですよ、ほんとに。たぶんあのままだんまり通していたら、確実にあいつのこと知らない奴でも誤解しますのは目に見えています。さあどうする、どうすると俺のプアな脳みそで考えた結果、地道にあれは嘘だったと伝えるしかないのではという結論に達した次第です。清坂さんとそこんところは全く一緒の発想でしたね」
──だからお前がやる前に俺たちがとっくの昔にやってることだろうが!
だんだん南雲が何を言いたいのかわけわからなくなってきた。美里と同じ発想で立村の面倒を見ようと思ったのなら、それはそれでいいことだろう。立村が杉浦横恋慕疑惑を否定しない以上は勝手に噂が広がる。ただそれが嘘だったということは貴史もことあるごとに説明している。理由こそ伝えてはいないが、「立村があんなことできるわけねえだろ? 女子とろくすっぽしゃべれねえだろあいつ」の一言で片がつく。南雲も大げさに「いじめ」とか言って独演会するよりも単純に美里へ賛同すればいいだけのことだ。
「ただ、今の俺だったらってことで言うと」
南雲は唇の端を上げた。いったん口を手の甲でぬぐった。
「もし一年前の五月あたりに戻ることができればですが、俺は杉浦さんにロングホームルーム使って、尋ねてましたね。絶対に」
「何をだ? 南雲?」
声深く、菱本先生が問う。また手がネクタイに伸びそうだ。
「さっき言った通り、杉浦さんは本当に十一月から十二月にかけて立村に告白されて、断っても断っても追い回されていたのかってことですよ。俺がどんなにありとあらゆるネットワークを使って調べても立村がシロという判定結果しか出ない以上、あとは当人同士に聞くしかないかなと思って。そうですね。それが一番よかったんですよ。今思えば俺はせっかく規律委員やってたわけなんですから、正々堂々とロングホームルームの議題に出して、こうやって思う存分語り合って、それでさっさと片付ければよかったんですわ。そうしとけば俺もわざわざ体育後の男子更衣室なんかで、ひとりひとり捕まえて杉浦さんが大嘘吐いていたとか噂を撒き散らさないですんだんです。明確な証拠がないのに、単純に立村を叩いて埃がでないというあいまいな理由で判断したんですから、それは土下座しても当然です。俺なりに正義の味方として行動したことですが、結果としてそれは杉浦さんに対する濡れ衣だった可能性があるわけですし。だから、お願いなんですが杉浦さん」
ぞわりとした。美里が隣からつっついてきた。言葉はなく目線も南雲に注がれたままだった。貴史は腰を低くしたまま、南雲の次の言葉を待った。
「本当に、立村は杉浦さんのことを追いかけてたんですか? 本当に、立村はしつこく追い回してC組の女子たちが言うように、つきあいかけてたんでしょうか? さっき清坂さんの聞いていたことと一緒なんですが、ここできっぱり答えてもらえれば俺は自分が完全に馬鹿だったことが判明するわけですから。そこんとこ、お願いします!」
背をすっくと伸ばし、ちらと美里と貴史、そして菱本先生を見た。次にゆっくりと杉浦の下に近づいた。誰も催眠術……かけられたことないけど……にかかったかのように硬直している。うつむいたまま顔を覆っている杉浦加奈子を見下ろし、南雲はもう一度繰り返した。
「お願いします、杉浦さん」
穏やかだが、誰も跳ね返すことなどできそうにない力がこもっていた。
顔を上げようとせず、杉浦は机に突っ伏した。ふたたびすすり泣く声が教室に響く。ひとりくらい南雲を制止してもいいのに、なぜ立ち上がろうとしないのか。当然美里も見守るだけ。こずえも動かない。南雲は薄笑いらしきものを浮かべている。固唾を呑むの意味がなんとなく腑に落ちたような気がした貴史ひとり。
──お前、そういうことか。最初からそのつもりだったんかよ!
南雲は最初から謝るつもりなんてさらさらなかったのだ。
菱本先生の激昂すら平気のへいざで交わし、いかにもいじめの張本人面して自分の持ち時間を確保し、結局は美里の言葉を裏づけし直すことで杉浦加奈子に留めを刺そうとしただけだ。今の話を一通り聞いた限り、南雲が杉浦の悪口を言ったことは事実かもしれないが、そこから集団無視に対する指示を出したとは思えない。むしろ間違って認識してしまっただけであってそのことは謝罪するにしても、まず事実を知りたがっているように見せかけている。南雲が正義の味方としてうそつき女子を成敗するといった図が、今の大演説で教室中に描かれている。クラス連中の頭には天才画伯金沢ばりの見事な事件のスケッチが浮かんでいることだろう。南雲のカリスマ性でもって一気に立村の無実が判明し、ロングホームルームは次に杉浦加奈子の弾劾裁判に進むだろう。
──どう答えるだ、杉浦?
ちらと玉城のほうも伺った。せっかく勇気出してかばおうとした玉城が少しだけ哀れに思えた。悩んで立ち上がって自分の考えを訴えようとした玉城には、話の内容に同意できなくても人として共感してやりたかった。
──答えによってはまじ泥沼だぞ。どうすればいいんだ?
不意に誰かが立ち上がる音が女子席からした。
「彰子、さん?」
南雲が硬直した声で呼びかけている。貴史も、美里も、全員がその名の主に視線を集中させた。すぐに奈良岡彰子が南雲に優しい表情で頷き、杉浦加奈子に駆け寄った。菱本先生も付き従って奈良岡に、
「奈良岡、どうした?」
問いかけつつ杉浦加奈子の側に立ち尽くした。南雲、菱本先生の男子ふたりがでくのぼう状態の中で、奈良岡彰子だけしゃがみこみ、そっと杉浦加奈子の背中をさすりはじめた。
「加奈子ちゃん、もういいよ。本当のこと言っていいんだよ」
小声だが、静か過ぎてすべて聞き取れてしまう。奈良岡彰子はあんまん姫の笑顔でささやき続けた。
「みんな、大好きな友だちのことを守りたくてこうなっちゃっただけなんだよね。加奈子ちゃんはあきよくんとおんなじように、仲良しの友だちを心配して、みんなと行き違いになっちゃっただけなんだよね。わかってる。加奈子ちゃんもあきよくんも美里ちゃんも、みんな本当は、仲良しになりたいって気持ちが洪水になっちゃっただけなんだよね」
いったん顔を南雲に向けた。
「あきよくんが立村くんを大切に思って味方になろうとしたことはよおくわかったよ。本当にやさしいんだね。それもよくわかってる。でも、おんなじ気持ちが加奈子ちゃんにもあったことをちょびっとだけわかってほしいな。あきよくんのあったかな性格を私、よっく知ってるから、きっと加奈子ちゃんの思いも伝わると思うんだ。それと」
美里にもしゃがんだまま呼びかけた。
「美里ちゃんも立村くんを大切な友達だと思ってきたんだよね。だから文集作る時も一生懸命立村くんが傷つかないようにしてきたんだよね。それも今ならわかるよ。でも、加奈子ちゃんが美里ちゃんに伝えたいことも、きっと同じことなんだよ。それ、聞いてあげてほしいな。お願い」
ハブ姫、いやあんまん姫。やはり強烈な破壊力だった。
奈良岡彰子のふっくらした笑顔には、南雲のカリスマ性もかなわない。
「うん、わかった。彰子ちゃん」
美里が答えると、女子たちから拍手がこぼれた。男子たちは誰も手を打たない。
「さっすが彰子ちゃん!」
「そうだよねそうだよね! 言い分あるよね加奈子ちゃんだって!」
「立村が嫌われてるのは噂だけじゃないよ、実際観てるからだよ!」
南雲は俯き、唇をかみ締め、やがて一言だけつぶやいた。
「みんな、いい人だから、だもんな」
菱本先生が南雲の肩を抱くようにしてそっと席に着かせるのが見えた。貴史は美里とともに教壇の上でもう一度「固唾を呑む」の言葉をかみ締めた。