第一部 6
第一部 6
夏休みも八月に入ると少しだけ風が強めに空を走る。そんな感じがする。
羽飛家と清坂家との合同家族旅行も、あっさり二泊三日の日程を終えた。あっけないほど何事も起こらなかったし、渋滞にも巻き込まれなかった。美里とも旅行出発前日まではああだこうだと言い合ったりしたけれども、旅行が始まってからはすべてがあうんの呼吸で進み、結局けんからしいことも一切せずにすんだ。
──珍しいよなあ。
あれから一週間、美里とは顔を合わせていない。
避けているわけではなく、単純に貴史の遊び日程が詰まっているだけのことだ。
同じことは美里にも言えるだろう。美里の交友関係すべてを貴史が把握しているわけではない。お互い様だ。
ひさびさに腕時計のベルトを穴ひとつほど詰め直し、貴史は旅行中に買ってもらったベースボールユニホームタイプの白いシャツを被って着た。いんちきくさい英語のロゴが刺繍されていて、肩から少しだけ黒い袖が飛び出しているといった代物だ。仲良し母ふたりが
「これ、たあちゃんに似あうわよ」
「そうよねえ、あんた、着る? 着るんだったら買うわよ」
などと騒いで、あっけに取られた貴史を目の前にさっさとレジに持っていったもの。
まあ嫌いなデザインではないのでありがたく頂戴する。美里の反応はというと、
「貴史、あんた、悪いけど絶対似合わない。着る時はTPOをわきまえなよ」
という反応だが。
「貴史、みさっちゃんと会うの?」
部屋から出て階段を降りると、母が扇風機の首を自分の方に向けながら、
「そろそろ旅行アルバム作る準備、しなくちゃねえ」
これも旅行後毎年恒例のこと。旅行中に撮った写真を貴史と美里が大判のアルバムにコメントをつけつつ張り巡らしていくという作業が残っている。どうして他の家族は参加しようとしないのか、いまひとつ腑に落ちないが作業そのものは苦にならないのでそのまま引き受けている。美里も同じようだった。
「そんなのあとでいいだろ。それよか母ちゃん、俺の靴、どこしまった?」
いつものスニーカーが玄関に見当たらない。
「ほら、今日はこっちを履いて行きなさい。先生のところにお邪魔するんだから、きちっとした格好でいかなくちゃ」
母はスーパーの紙袋から、一足千円で購入したらしい白いスニーカーを取り出した。結構かっこよいとは思うのだが紐ではなくマジックテープで留めるタイプというのはどういうことだろう。小学生じゃないんだから、そんなガキくさいのはいやだ。
「どこがきちっとだよ、母ちゃん、こんなの履いて行ってみろ、何言われるかわからねえよ」
「あらあら、みさっちゃんにチェックされるのが怖いわけ?」
「はあ? 言ってる意味わからねえ」
「とにかく先生の御宅なんだから、礼儀正しくしとかなくちゃだめよ。妙にかしこまる必要もないけどねえ」
何気なく出た言葉なのだろう。ふと、汚れのない白いスニーカーを見下ろしてみて、その安っぽさと一緒に何かがぴりりと走ったようだった。
──まあいっか、めんどくせえ。
「じゃあ母ちゃん、俺の靴、洗っといてくれよな。夏だしすぐ乾くだろ」
「なんで洗濯は母さんが全部しなくちゃいけないのよねえ」
話がややこしくなる前に貴史はマジックテープをしっかりはめ直し、外へ出た。戸は開けっ放しだった。こういう夏の日はいつも、昼間だけ羽飛家の戸は開け放たれていた。
──立村も来りゃあいいのにな。
一応誘ったのだ。
──菱本先生も立村連れて来いって言ってたんだからなあ。この機会に険悪な関係解消するってのもいいじゃねえの、なあ。
もちろん立村の性格上、いくら担任の菱本先生から猫なで声で、
「夏休み、いい機会だし、お前らみんなで俺のアパートに来いよ。ジュース御馳走してやるからな。一応クーラーついているから、家の中で語るもよし、どっかでバドミントンやるもよしだ。クラスのみんな、三人か四人で組作って来いよ」
とか呼びかけられたとしても、絶対にOKしないであろうことは想像していた。
たまたま美里と古川こずえ、そして貴史の三人の空いている日程がぴたっと合ったこともあり、今日はトリオを組んで、菱本先生宅ご訪問の予定だった。
待ち合わせはいつものように青潟市美術館のエントランスで十一時。
昼ご飯は当然、菱本先生が用意してくれるのだそうだ。昨夜確認の電話を美里が入れたらしく、そのあたりの話はついていた。今から何を食わされるのかが楽しみだ。
自転車で突っ走り、エントランス前でハンドルを押さえたまま周囲を見渡すと、すでに先客ありの様子。全速力で突っ走ってくる気配、少し髪の毛が首筋まで伸びているせいか、美里と一瞬見分けがつかなくなりそうで焦る。
「はええな」
「あったりまえじゃん、おっはよ」
古川こずえ……三年D組の下ネタ女王様は両頬割れんばかりの笑顔でもって貴史に近づいてきた。おてんとさまに見下ろされてなければ、抱きついてチューのひとつくらいされそうだ。自転車を支える振りして身をよける。女子にもてるのは非常にありがたいことなのだが、こずえに関して言えばできるだけ余計な期待をさせないよう振舞ったほうがいいのではと思うこの頃だ。
「美里はまだ来てないの」
「寝てるんだろ、あいつ」
それはたぶんないと思うが、時間稼ぎにつぶやいた。待ち合わせ時刻にはまだ十分くらいある。さすがにそれまでには来るだろう。
「立村はさすがに、来ないんだね」
「あたりまえだろが。あいつは地球が滅びる最後の日が来ても絶対菱本先生のとこなんか足向けるかって思ってるぞ」
「そこまで嫌うのはちょっとねえ。まあいいけどさ。それよりあんたさ、先生とこにお土産どうするか考えてる?」
手土産のことなんかすっかり忘れていた。
「悪い、全然考えてねえよ。どうする? その辺で買ってくか」
「いいよ、菱本先生だって気遣うじゃん。むしろ何にも持って行かないほうがいいと思うな。あの先生のことだからさ、私らが来るのを待ち構えるようになんか料理作ってるんじゃないの。それか、お寿司とってたりして」
それはないだろう。気をもたせるのは悪いとはいえ、こずえのこういった会話のうまさにはいつも乗せられてしまう。確かに菱本先生の性格上、その通りだ。手ぶらで行くのがかえって礼儀だ。母が何を考えたのか安いマジックテープタイプのスニーカーに履き替えさせたのとはやっぱり価値観の違いがあるわけだ。
蝉がその辺の木々の葉っぱを破きそうなほど鋭く鳴いている。
「そろそろ夏も終り、だねえ」
「まだまだ夏休みは続くだろが」
ずいぶんしみじみしたことをこずえは呟く。時折思うのだが、こずえは普段からくだらない下ネタをかまして周囲の頭を抱えさせてしまっているのだが、時折こうやって力ない言葉を発することがある。修学旅行の時もたまたま四日目二人きりの夜を過ごす羽目になったが、一日中スケベなネタ攻撃と思いきや、結構真面目なことも語ったりしていて、貴史も少しだけこずえに対する認識を改めたことがあった。もっとも戻って来てから即、その改定は元に戻ってしまったが、当然のことだ。
「あのさ羽飛」
「なんだよ」
「美里、最近、変じゃない?」
横目で噂の当人がまだ現れないことを確認しつつ、こずえは貴史の自転車ハンドルに手をかけた。
「あいつ、いつも変だろうが」
「あんたら旅行した仲でしょが。本当に気付いてないわけ?」
──気付くも何も。そういう仲ってのはどういう意味なんだ?
貴史は額の汗を手の甲で拭った。垂れてきそうだ。
「聞き方替える。評議委員会での噂、聞いてない?」
「聞いてるも聞いてないも、まあなあ」
少なくとも立村からは最低限のことしか聞いていない。
例の「大政奉還」の件以外は。
もちろん今はまだ口に出すべきことではないんだろう。そこんところは女子に悪いが、立村の意志を尊重してやるべきだと思う。
「じゃあ、知らないんだ」
「何がだ?」
こずえは一歩横歩きし、貴史の脇にくっついてきた。暑苦しいから離れろと言いたい。
「ほらさ、評議委員会男子連中と、轟さんが夏休み中ずっと大学の学食で話ばかりしてて、美里たち女子を相手にしないって話、聞いてるよねえ?」
「聞いてなくはねえけど、それは男子としちゃあ当然じゃねえのか?」
貴史としても立村の立場上、それは当然だと思う。
まず、立村は評議委員長だ。委員長である以上、それなりに広い視野で判断しなくてはならない立場にある。たとえ恋人宣言しちまった美里を側におきたくても、自分が「委員長」である以上セルフコントロールしなくてはならない、ごくごく当然のことだ。
たまたまとはいえ、美里を仮に側において委員会関連の行事を行えばそれなりに、
「委員長だからって、彼女はべらしとくなんてやらしいよねえ」
くらいのことは言われる可能性がある。立村のもうひとつの立場からしてもその可能性は非常に高い。だからこそ、美里をあえて遠ざけておき、プライベートタイムでしっかりいちゃつく、というのもひとつの考えとしてあるだろう。
「あっそ、男子ってそうなんだ」
「男には七人の敵がいるんだ。委員会に入ったらそうじゃねえのか」
「古風なことを言うねえ、さっすが羽飛」
どこが「さっすが」なのか理解ができないが、仮にその言葉を鈴蘭優が言ってくれたならまた気分も爽やかでいられただろうに、とも思う。
「お前に褒められても悪いがあんまり感動しねえよ、美里だってな、それなりに奴とデートとかしてるだろうし」
「してるわけないじゃん!」
まだ美里の姿が見えないのをいいことに、こずえは小声で耳に張り付くような格好でもって囁きかけた。耳元が熱くなるのは、なんというか、妙に身体もかっとくるものがある。あんまり気持ちいいものではない。
「夏休み中、評議委員会の集まりはしょっちゅうあるらしいけど、結局ふたりきりで出かけたりなんて全然してないみたいなんだよ。立村もねえ、恋人宣言しておけばあとはもうえさやらなくていいとでも思ってるのかねえ。美里には泣かれるし、かといってあいつ自身には何にも言わないし」
「しゃべってるだろ、電話があるんだからな」
美里も委員会がらみの理由をくっつけて、立村に電話くらいしているだろう。そのくらいのこともできないほど、幼稚じゃないだろうに。
こずえは首を振り肩をすくめた。
「だから、あのねえ。立村とは委員会のことだっけしか話さないの! それ以外の話すると露骨に嫌な反応するらしいから黙るしかないって。電話口じゃあズボンの下の状態までわからないから反応してないとはいえないかもしれないけど、とにかく美里は思いっきり避けられてるのよ。ちょっとこれって、あんたの幼なじみとして、心配じゃない? 旅行の時、何も言ってなかった?」
「全然。立村の話なんか出てこねかったよ」
問われて気がつく。美里は家族旅行中一度も、立村の話をしなかった。
──あいつらまた、ごたごたやってるのかよ。ったく世話の焼ける奴だなあこりゃ。
旅行中ははしゃいでいたけれども、青潟に戻ってきたら気が強いくせに泣き虫で愚痴っぽい美里に戻る。そのパターンは確かにないわけではない。
「古川が過保護すぎるんじゃねえのか? 美里もそんな色ボケじゃねえと思うけどなあ」
「あんたさあ、人のこと言えるわけ?」
言葉を継ごうとしたこずえが、耳敏く左側を向いた。すぐに貴史から離れた。
「悪いけど、詳しいこと、あとで言うわ、美里が来たし」
気に入っているのだろう。白の袖なしワンピースに今日は肩からスカーフをセーラー風に巻いて結んでいた。ちょっとした夏の制服風に見える。こずえと顔を合わせて、
「うわあ、美里って白が似合うじゃん! お嬢さまって感じだよねえ」
「ありがと。雑誌でマリンルックっぽく見せるテクニックって載ってたから真似しただけ。あ、それはそうと貴史、どうでもいいけど」
言われると思った。美里が頭から足までなめまわすように見た後、
「よりによってユニホーム着て先生のとこ行くわけ?」
「新品だし礼儀にかなってるだろ」
「あんたねえ」
なんでそこで深く溜息を吐くのかわからない。美里のおめがねに叶わないとしてもそんなことは貴史にとってどうでもいい。とにかくさっさと菱本先生の家に向かって、即、何かを食わせてもらいたいというのが本当のところだった。
「さ、早く行くぞ」
「行く前にちょっと待って! こずえ、先生のとこ行く前にお土産買ってかなくちゃ!」
前もってこずえから話を聞いていたので、答えはちゃんと用意されている。こずえと同じことを貴史は述べた。
「あのなあ、俺たちは生徒なの。生徒だったら先生よりも金がねえの」
「でもお小遣い貰ってるじゃない!」
「それは親からもらったもんだろが。生徒が先生のところへ行く時は、むしろ何にも余計な気遣いせずに、楽しくぎゃあぎゃあやるのが最高の礼儀なんだぞ」
「それ、変よ。こずえ、あんたどう思う?」
話を振られてこずえも即答した。
「羽飛の勝ち。私も、今回は手ぶらで行くべきだと思うんだ。先生が来てほしいって言ったんだからさ、まずは何も持たないで言って、また別の時にびっくりプレゼントするとかさ」
「こずえも変よ! だって、ちゃんと人のうちに行く時はお土産用意しなくちゃって、みんな言わない? そういうもんじゃない?」
二対一。勝ち目なしとわかっていても美里は激しく言い張り続け、
「わかった。あんたたちが持っていかなくても、私、買ってく」
「金あるのかよ」
「あるよ、貴史みたいにこの前の旅行で私、こーんな変な服、買ったりしなかったからお遣いまだまだ持ってるんだもん。先に行きたいならひとりで行けば? こずえ、一緒に買いにいかない?」
当然こずえもついてきてくれるものだという前で言い放ったのだろう。しかし甘い。貴史もこずえの次の返事は決まっていると読んでいた。
「悪いけど私、羽飛と一緒に先生のとこ行ってる。美里、いいじゃんそんな意地張らなくたって。何いらいらしてるのよねえ」
「いらいらしてなんかない! そう、だったら私、後で行くからあんたたちふたりで先に行けばいいじゃない! もう、知らない!」
──知らないとか言って、それでもさっさと来るつもりかよ。
背を向け、自転車に乗り込み突っ走っていった美里の背を見送った。こずえも頷きながら、
「ま、美里にはあとで三分の一ずつお金返せばいいよね。羽飛、先に行こうよ」
貴史のハンドルを無理やり揺らした。こんなところで自転車ひっくり返されるのもなんだし、まずはさっさと菱本先生宅へ向かうことにした。何度か先生の家には遊びに行ったことがあるので、道が分からなくなる心配はない。美里も同じはずだろう。放っておいても来るだろう。
「わかった、じゃあ行くぞ、古川! どっちが早く着くか競争するか?」
「やるやる!」
下手な会話で陰気になるよりも、こうやって下ネタ女王様の湿気を太陽で乾かすほうがずっと楽しい。美里もそのことに気付けばいいのだが。貴史は自転車にそのまま乗り込み、こずえを置いていく勢いでギアを替えた。ペダルを踏めば踏むほど、夏のコンクリートに火花散らしそうなほど勢いを増した。
青潟市美術館から菱本先生の住むアパートまでは自転車で約五分。
国道沿いのアパートということもあって、余計な道に迷うことなく到着した。
こぎれいな薄緑色の壁の、一階の部屋だった。
「先生もさ、いいかげん二階の部屋のアパートに引っ越せばいいのにねえ」
余裕でこずえとのスピード競争に勝利し達成感を感じる貴史。
敗者のこずえが息を吐きながら建物を眺め呟いた。
「空き巣に入られやすいのはやっぱり一階だし」
「家賃安いんじゃねえの」
「それもあるけど、あっそっか。わかった」
髪の毛を指先で整えながらこずえがこくんと頷いた。
「一階だったらねえ、彼女を連れ込んでどったんばったんしても、近所迷惑にならないかもね」
溜息吐きたいのは貴史の方だが、そんなひ弱なことは言えない。片手でばしんとこずえの頭を叩いた。本気はもちろん入れない。
「お前、菱本先生の前では言うなよ。まじであの先生怒るぞ」
「へいへいわかりました! ったく羽飛ってばあ」
叩かれてもなぜかこずえの表情は変わらず楽しげだった。もう少し強くぶんなぐってやればよかっただろうか。あまり深いことは考えず、一階向かって右側の戸まで向かうことにした。確か101号室と住所録には書いてあったはずだ。
──101 菱本守
小さな文字が青いポストの枠に殴り書きされていた。
「じゃあ、呼び鈴押してよ」
「ああ? 俺がかよ」
「いいじゃん、男だし」
褒められるとたとえ古川こずえ相手でも嬉しいものだ。手を伸ばそうとした時だった。
「これから子どもたちが来るんだ、後で話すからまず帰っていろ。あとでこちらから電話する」
「守、何度同じこと言ってるわけ? そうやって時間延ばししてて、どうするのよ! 私にはもう時間ないのよ!」
ドアの向こう、窓ガラスの開け放たれたところから響いてくる絶叫に指が硬直した。
こずえが貴史の手首を押さえるような仕種をする。
「ちょっと待った」
ここは当然、待つべき場面だろう。
ふたり、台所の窓から中の様子を伺った。
「ちょっと、人の子どもよりも、あんたの子どものこと考えてよ!」
三年D組の教室で懸命に生徒たちに向かい語っている青年教師の姿と同一ではないように見えた。でもその声は確かに菱本先生のものだった。違うのはその先にもうひとり、一筋縄ではいかない女性が混じっていることだった。よくわからないが、三年D組における立村上総以上に手ごわい相手らしい。
「羽飛、いたっけ?」
こずえの問いに答えられなかった。
「菱本先生に、子ども、いないよね?」
──いるわけねえだろ。嫁さんいねえんだから。