第二部 55
教室に戻ってからは玉城と一切話をしなかった。すでにこずえを始めとする女子連中がたむろっていたこともあったし、貴史も他の男子連中にとっ捕まったりでそれぞれ暇がなかった。美里が入ってきたことすら気づかなかった。
「羽飛、まじでお前、高校行けるんかよ?」
質問はしぼりこんでこのひとつのみ。玉城と同じことだ。
「たぶん、大丈夫じゃねえかって、菱本さん言ってた」
「じゃあ立村は生きてるってことか?」
「あいつ死ぬわけねえだろが。ま、親呼び出し食らったけどな」
詳しいことは相手があることなのであえてぼかした。自分のことはいくらでも話すことができるが、立村の事情はとてもだが第三者にばらすことなんてできはしない。姉貴と呼んでも不思議のない母親に平手打ち食らわされている現場を見たなんて、友情を重んじる貴史にはとてもとてもというところだ。
「まじかよ、やっぱし」
「立村の親にぶん殴られなかったか?」
普通はそう思うだろう。心配するのも無理はない。貴史も自分がその立場におかれるまではおんなじだった。その結末のすさまじさを語るなんて今はできそうにない。
「話はしたぞ。けど、たぶん、大丈夫だと思うんだ、けどなあ」
「けど?」
金沢、水口、その他大勢が貴史を取り囲み顔を覗き込んだ。もちろんその中に立村はいない。確認してから貴史は扉を見やり、首を振った」
「あいつとはまともにしゃべってねえからなあ。しばらく、俺が動くまであいつに余計なこと言うなよ。今までの例からして、立村が何しでかすかわからねえから」
「確かに」
みな、納得するように頷いた。そうなのだ。貴史が言うまでもなく三年D組の男子たちは立村の言動が自分たちの予測をはるかに超えていることを実体験で理解しているはず、わかりきっていることだった。
席に着き、まず扉付近の席の人影を確認した。座っていなかった。
──やっぱりかよ。
覚悟はしていたが、やはり休みやがったか。
立村があれだけ母親に罵倒されて平気でいられるような性格だったら、この三年間起きた出来事の九割方はまあるく片付いていたはずだった。予想通りではある。
「起立、礼、着席」
菱本先生が入ってきて、美里の号令が飛んだ後も同様だった。どう考えても遅刻ではない。貴史はまず菱本先生の顔を見た後、美里に目を向けた。美里も立村の席をちらちら見てはいたけれどそれ以上何もしなかった。
「よっしゃ、おはようグッモーニング! 今日はと、出席取るまでもないか、立村が欠席か」
珍しく菱本先生はひとりひとりの出席を取らなかった。
朝のホームルームもとりたてて何かお言葉の準備があるわけでもなさそうだった。昨日と同じ、ごくごく普通の一日の始まりに過ぎなかった。
「羽飛くん、羽飛くん」
声ですぐ奈良岡だとわかる。昨日はひたすら「あの女」扱いしてしまった女子だが、一夜明ければ気のいい「ねーさん」として受け入れられる。
「なんだよ」
「昨日はごめんね。言い過ぎちゃったみたいで。でもあのあと、大丈夫だったんだよね」
「あ、立村なら大丈夫だった。俺もなあ、ちょこっと母ちゃんに尻ぺんぺんされたけどまあ、無事に終わったなあ。ねーさんもまああまり、気にすんなよ」
本当は少しくらい気にしてほしいのだが、それは又別の時に言えばいいことだ。
相変わらずのぽちゃぽちゃもち肌ほっぺたを震わせながら、奈良岡は神妙に貴史の顔を見つめ返してきた。
「私の切り出し方がやはりまずかったのかなあ」
「それは残念ながら否定できねえなあ。ねーさんよ」
軽く、返してみた。図星と答えたいのだがやはりまずい。
「そうだよね。立村くんには何言っても伝わらなかったんだよね」
「しゃあねえよ。ま、あいつとは中学卒業してからでもいくらでも話、できるしなあ」
──玉城もたくらんでいるってこと、もう聞いてるのかよ、こいつも。
そういえば玉城は昨日の段階で、美里を除外した女子たちに話をつけたとか言ってなかったろうか。五時間目と六時間目をドッキングさせて、とことん杉浦のことについて熱く語りたがっていることも承知しているんじゃないだろうか。聞いてみたいが玉城と内緒の約束をした以上口には出せない。確認したいだけでもやはりまずいだろう。
「そっか、そうだよね」
あっさり奈良岡は引き下がり、また両手を合わせて「ごめんね」ポーズを取ってみせた。
──やっぱり奈良岡も、わかってねえなあ。
文集企画を何とかして中止しない限り、立村が学校に戻ってくることは卒業までまず難しそうだ。まずはそのあたりをなんとか整理しないとならない。貴史なりにそのことは考えていた。奈良岡といったんふたりっきりで相談し、立村の事情を……ある程度明らかになっていることも踏まえて説明しなおし……頭を下げる必要がありそうだ。ただそうなると立村が聞きつけてかえっていじけてしまうことも想像がつく。そんなこんなのどたばたを片付けるには、今日立村が休んでくれたのはラッキーだったのかもしれない。
──いや、ラッキーじゃあねえだろ。
あわてて打ち消した。親友が大泣きして学校を休んでいる状況を「ラッキー」なんて言っちゃあいけない。
一時間目の授業が終わり、まずすることひとつめ。
「おい羽飛、ちょっと聞きたいんだけど」
金沢のしがみつきたそうな表情にいったん待ったをかけ、貴史は教室を出た。
二段ずつ階段を降り、もう一度職員室に向かう。菱本先生が戻ってきているようであればまず捕まえるつもりだった。聞くことはひとつだけ。立村の欠席理由のみだ。一分も必要ない。
「羽飛、羽飛」
職員室の扉を開くとすぐに声がかかった。菱本先生が机に書類を積み上げた状態で手招きしていた。すぐに向かった。隣の席に狩野先生はいなかった。
「あ、先生、あの」
「立村のことか?」
察しがよすぎる。頷いた。
「立村、今日休んだの、やっぱり昨日のことでめげてるんかな」
一応は職員室なので小声で尋ねた。菱本先生も同じく霧がかった声で答えた。
「風邪引いただけのようだぞ。今朝お母さんから連絡があったしな」
「あの……」
べっぴんさんか?そう尋ねようとしてさすがに口を閉じた。
「本当かなあ」
「お母さんが連絡してきたということは、本当なんだ。そうだよな」
なぜか問いかけるような答えを返したのち、菱本先生は貴史を立たせたままじっと様子を伺うようにして、
「心配なんだろ」
片手を机の上に乗せ、まじめな目でもって貴史を見つめた。
「あの人、てか、立村の母さん、やっぱり怒ってるんじゃないかなあ、先生」
「ああ? それはないと思うぞ。普通の調子で電話がかかってきたぞ」
「いや、俺立村からあの母ちゃんの話聞いたことあるけど、めちゃくちゃスパルタで、すっげえ怖い人だって聞いたことあるんだ。だからたぶんあいつ家に帰ってから、またばしばし怒鳴ったり殴ったりなんかして、それであいついじけちまったんじゃないかなって思うんだ」
「想像力たくましすぎるぞ羽飛。ま、確かに言いたいことはわかるがな。昨日はさすがにしんどかっただろ?」
大きく頷き貴史はさらに続けた。
「俺思うんだけど、立村きっとあいつの母ちゃんにぎゃんぎゃん怒られて、もう戻るにも戻れない状態なんじゃねえかなって思うんだよ、先生。もちろん昨日の話、すべてが嘘だってわけじゃないけどさ、立村をあそこまで怒ることない内容なんじゃないかって気するんだ。俺、あいつの性格知ってるからわかるけど、あんなやり方されても絶対反省なんかしねえよ。それどころか家に閉じこもってしまって、話なんか聞かねえよ。俺、ずーっとあいつにそうされてたからわかるんだ」
「羽飛、じゃあどうしたらいいと思う?」
両膝に手を置き前かがみになり、また菱本先生が問う。
「今、どうしても俺、立村と一対一で話したいんだ。できればあの母ちゃん混ぜないでさ。今度こそ手は出さないし、俺も大人になって話したいけど、ただあいつの怖い母ちゃんが怒鳴っている以上、立村は俺にも絶対会おうとなんて思わないよ。それどころか、学校にこのままだと絶対来ねえよ」
菱本先生が目を閉じ、何度か頷くのを見下ろして、
「俺、立村の母ちゃんに直接話させてもらって、今回のことはあいつと俺との一対一の話し合いであって、手を出した俺がまずは根本的に悪いんだってこと、まず伝えたいんだ。それってまずいかなあ。それから、できたら、謝ってもらえたらなあって」
「謝る?」
薄めを開けるようにして菱本先生が首をかしげた。
「立村の母ちゃんに、あいつにごめんって言ってもらえれば、少なくともなああいつ、俺たちとは話するところまで復活すると思うんだ。だめかな先生」
思わず笑いがこみ上げたらしく、菱本先生は唇をかみ締めるようにして吹き出した。
「あのお母さんがそういうことすると思うか? 羽飛、お前もずいぶんすごい発想するよなあ、ったく」
──なんだよ、俺まじめに言ったんだぞ。
親友がうずくまってしまった状態だというのに、そんなに軽く提案できるないようではないのだ。心外だった。反撃しようとした。
「貴史、あんたすっごく甘いよ」
背中で声がした。気がつかなかった。美里がいつのまにか貴史の背後に立っていた。
「お前くの一かよ」
「職員室でふざけるんじゃないの。先生、あの、いいですか?」
いったいどこから湧いて出てきたのだろう。さっさと美里が貴史の前に突き進み、菱本先生のまん前に立ちはだかった。
「ほんとに忍者だな清坂。んでなんだ。お前も、立村のことか?」
貴史の顔を最初にちらっと見て、すぐに真正面から菱本先生に向き直った。
「はい、立村くん、やはり」
ここで言葉を切った後、こくっと頷いた。自分に気合を入れるように見えた。
「あんなことがあって平気でいられるタイプじゃないんだということはわかります。けど、羽飛くんの言うようにあの、お母さんに謝らせるというのは無理です!」
「おいなんだよいきなりなあ」
「あんたは黙ってよ。それに、立村くんのお母さんが話されたことって、決して間違っていることじゃないんだって、私思います。だからそのことが間違っているって私とか羽飛くんがくちばし挟むのって、間違ってます」
「あのなあ美里、お前人のせっかく」
言いかけた貴史のつま先を、美里は即、かかとで踏みつけた。ちょうど真後ろに貴史が立っている形となるため、美里の踏みつけ攻撃も先生にはほとんど気づかれないですむ。結構悪党だ。
「わかったわかった、それで清坂はどうしたい? 代わりになる案はあるのか?」
「はい、お願いなんですけど」
用意していたかのように美里は言い切った。
「卒業文集作りを中止させてください。それが立村くんにとってもクラスにとっても一番いい解決策なんです」
貴史の脳みそに隠した案を無理やり掬い取ったかのような発言だった。
菱本先生もぱっと目を見開いた。
「立村にとっても、クラスにとっても、か?」
菱本先生のクラス文集作りに対する熱い情熱を美里も知らぬわけがない。覚悟の上での発言だろう。美里は再度頷いた。はっきりとした口調で続けた。
「はい、先生が私たちに素敵な思い出を作りたくって一生懸命文集作りに力を入れていただていることは、すっごく感じてます。私もふだんだったらD組のみんなの思い出を文集にまとめて永遠に忘れない約束をしたいくらいです」
「わかっているなら、なんでだ? 文集に載せる内容が立村にとって辛い内容だからか?」
「それもあります」
「それ以外に何かあるのか?」
「はい、私、立村くん、これ以上」
美里の肩が後ろから見てかすかに上がった。深呼吸ひとつしている証拠だ。
「評議委員長から落選してから、貴史……羽飛くんに思いっきり怒られて、お母さんにも叱られて、さらに文集なんて作ったらもう立ち直れなくなっちゃいます。私、立村くんと三年間話し続けてきているからわかるんです。もしかしたら、立村くん、最悪のことしてしまうかもしれません。あと二ヶ月しかないのに、こんなにいっぱい苦しいことが詰め込まれたら、もう学校に戻って来れなくなっちゃうかもしれません」
そこまで一気に美里が話しまくったところで、鐘の音が聞こえた。隣の狩野先生は姿を見せないままだった。ぞろぞろ授業を控えた先生たちが職員室から出て行く。各科目の道具を抱えた生徒たちもこちらを怪訝そうに覗き込みながら足早に走りゆく。いつのまにか残されているのは菱本先生と貴史、そして美里のみになった。
両膝をたたいて菱本先生は勢い良く立ち上がった。貴史から美里の瞳を上から覗き込んだ。いわゆる「上から目線」の眼差しだが、いやな感じはしなかった。
「わかった、清坂。クラス文集のことだが、立村の問題も関係しているから少し考えることにしようか。まあな、立村の性格を一番理解しているのはお前たちふたりだもんな」
次に貴史の肩を叩いた。
「だがなあ、清坂」
そのまま手を置いたまま、美里に話しかけた。
「クラス文集に入れ込んでいる奈良岡や、その他にも楽しみにしている連中がたくさんいるってことも、お前わかってるよな?」
「はい、だからこそ」
言いかけた美里を今度は菱本先生が手でさえぎった。
「だからこういうことは、クラスできっちりと話し合いをした上で決を取るべきなんだ。わかるだろ、清坂。立村が今日は休みだから本当は避けたいところなんだが、もう作るかどうか決めるなら時間もないしな。まずは、今日のロングホームルームで話し合うことにしよう。それだったらどうだ?」
「六時間目にですか?」
戸惑った風に美里が横目でにらむ。もちろん、貴史に対してだ。
「それの方が後腐れなくすむし、みんなも納得して別のこと考えられるんじゃないかと、俺は思うんだ。な、羽飛、どう思う?」
──これは、あれだなたぶん、玉城のこともまとめて片付けるつもりなんだな。
菱本先生の計算が読めたような気がした。手が肩にかかったままだ。重たい。がっちりしている。指先が少し動いているような感じがする。念のため菱本先生の目に本気なものが隠れているかを読み取ってみようとした。無念、男子ゆえにお人よしムードしか感じられない。裏なんかわからない。
「いいんじゃねえの? 俺も文集はできりゃやめたほういいんじゃねえかって気するしな」
「あんたもそう思うよね!」
拳を作って軽く振ってみる。OKの意だ。すぐ伝わった。
「わかりました。それなら今日、ホームルームで私、話をします。よろしくお願いします。あ、授業始まるので失礼します!」
──俺もお前とおんなじ授業出るんだけどなあ。そんなあせるなよ。
律儀に扉前で一礼した美里は、勢い良く飛び出して戻っていった。廊下をばたばた走る気配はなかった。急いでないのがばればれだった。
菱本先生は手をはずした。大きくひとつため息をつき、
「お前もずいぶんモテモテだなあ」
机の上の教科書を抱えなおした。歴史の教科書とノートだった。
「玉城や清坂や、とにかくいろんな女子の面倒見ないとなんないというわけか」
「そんなんじゃあねえけど。あ、朝の玉城とのことは、ありゃ別。たまたまバスで相談に乗っただけだって。美里には何も言ってねえし」
「だと思ったぞ。だから、今なあんも言わなかったというわけだ」
にやり、ひとつ、下手なウインク。
「先生日本人なんだからウインク無理無理、やめとけよな」
まずはたしなめた後、
「けど、先生のやりたいことはだいたい読めたよ」
これだけまずは伝えておいた。
「玉城の持ち出した美里と杉浦との小ぜりあいと、文集をやるかやらねえか、両方まとめて片つけたいんだろ? 俺もたぶん、先生の立場だったらそうすると思うしな」
はっとした表情で菱本先生は、持ちかけたノートをもう一度机に置いた。
「俺も正直、立村がこれ以上びくつくの見るのいやだし、できれば文集やめたいって気がしてる。それは美里と同じ意見。けど、班ノートのことになると今度は杉浦と美里とのことも絡んでくるし、それだったら立村のいねえ間にぜーんぶおっぴろげにしたほうがいいんじゃねえのかな。あいつがいたらやはりみんな、遠慮するし。それ片付いてから、立村と直接話をするんだったらすっきりするし、文集やるもやらないもどっちにしても、納得させられるんじゃねえかって思うんだ」
一年担任の先生がふたり戻ってきて自席に着いた。授業がない先生がこういう風に過ごしているのかと少しびっくりした。いきなりお茶を飲み出した。
「羽飛、お前、なんで評議委員に立候補しなかったんだって、何度聞いてるんだってことだよなあ」
ひとりごとなのか、それとも尋ねているのかわからない。貴史は数えるふりをした。
「少なくとも五回以上は聞いてる。耳たこ」
「わかった、よし、じゃ、五時間目、玉城にまずは話を振るからその流れであとはお前がし切ってくれないか? 清坂には文集について六時間目に丸々使うような説明を今しているから、五時間目使おうとしても別になんとも思わないだろ。まあ五時間目に玉城の杉浦に関する話、六時間目に文集問題、この切り分けでやってみるつもりだが、話が入り組んでいるととんでもない方向にいくかもしれないぞ。仕切りの自信はどうだ?」
「たぶん、大丈夫」
親指をぐいと突き上げ、「GOOD!」のサインを見せた。
「今までの例だとさ、俺と美里が組んで何かやらかしたことで失敗したことってぜんぜんねえよ。だから今回も大丈夫だよ。玉城が何考えてるかってとこだけ心配なとこなんだけどな。たぶんうまくいくって」
「名コンビだなあ」
二時間目、次の授業は国語の古文だった。
担任に呼び止められて話をしていたとはいえ、とっくに授業が始まっているはずだ。
「じゃ、俺教室に戻ります」
「走るなよ」
もう一度「GOOD!」で決め、貴史は廊下を全力疾走した。誰が「ろうかを走らない」なんて下らん規則守ることできるかって言いたかった。
──文集を中止させて、立村と杉浦との下らん噂が大嘘だってことを証明できればあいつがびくびくすることなんてなくなるはずだろ? それさえできれば、あとはあいつのうちに直接行って直談判したっていい。俺はただ、立村と、おっかさんすっとばしてあいつとだけ話がしたいだけなんだ!