第二部 54
中学時代最後の暴力沙汰になるところを、結局は笑い話に変えてしまった羽飛家の一族。当の本人もこれでいいのかと思うような内容だったが、
「まあそうだ。男同士ならこういうこともよくあるな」
の父発言によりすべて丸く収まった。鉄拳四、五発くらいは食らうことを覚悟していた貴史だが、母と姉の脳天気な発言、
「まあねえ、相手のお子さんのお母さんがねえ、とにかくすごくって」
「そうなんだあ、美里ちゃんとなんかいろいろあるんでしょ、その品山の子って」
「品山の方ってやはりいろいろあるのよねえ。子どもさんの教育も独特なものがあるみたいで、とってもだけどこちらの方が恐縮しちゃったわよ」
とかなんとかで、立村の母からもらった高級な和菓子を食いまくるのみで終わってしまった。
「しっかしこれ、日持ちしねえだろ」
言葉を挟むのもなんだかはばかられ、貴史は梅の花をかたちどったお上品な生和菓子をそのまま手で持ちくらいついた。あんこが甘ったるくなくておいしいのだが、貴史があまり味わったことのない舌ざわりであることには間違いなかった。
「本当ねえ」
「まあいいっていいって、おいしいってことは世界共通、悪いことないって。ねえ、それよかさあ貴史、あんた明日どうすんのよ。その立村くんって子にどう謝るわけ?逃げられたんでしょ。今の話だとしっかり土下座したみたいだけど。後腐れないわけ?」
桜の花びらをどでかくかたちどった残りの和菓子を姉は小皿に取り、フォークで細かく切って口に運んだ。
「ねえよ、あいついい奴だし、話せばわかる」
「だったらいいけど、美里ちゃんも絡んでいるから大変だよね。あーでも、美里ちゃん、あんたに急所狙うなってすっごいこと言ったんだって? うわあ、さっすがだよね」
「どっから聞いたんだよ、んなこと」
おそらく明日以降、怒涛の逆風が立村めがけて吹きまくるのは覚悟していた。今回の出来事は一応貴史が加害者、立村が被害者ではあるけれど、すでにその関係は逆転扱いされている。なにせ立村の母からそのような申し出があったくらいなのだ。救いなのは立村の公開折檻の場面を目の当たりにしたのがごくごく少数の人間のみということだった。そこにいた奴……貴史、美里、そして母ちゃんズと菱本先生……が口をつぐんでいればなんとかばれずにすむ。少なくとも貴史は立村をこれ以上つるし上げる気はない。
──けどなあ、やばいだろありゃ。
──やっぱ、文集作るのやめようぜ奈良岡のねーさん。
「あれ、このちっちゃい板切れなあに?」
「あんた恥ずかしいこと言うんでないの! 黒文字って知らないの?」
すっかりからになった和菓子の箱……木でできている……を指でさすりながらまた母と姉が語り合っている。父がその「黒文字」なる板切れを手に取り、しみじみと、
「老舗はさすが、こういうところが細かいなあ」
よくわけのわからないため息をついていた。
これから何をせねばならないのかは貴史もよくわかっていた。
──とにかく立村ときっちり話をしねばな。
あいつが逃げまくることは承知している。立村の性格上、さらりと流すこともできないだろうし、向こうから手を伸ばしてくることは考えられない。それなら貴史が徹底して話しかけるしかないとも思う。たぶんはねつけられるだろうがそんなことでめげたりはしない。謝るべきことは謝るが、ここから先クラスで立村がいじけたままでいいとは全く思っていないのだ。たとえ美里との関係がややこしいものであろうとも、貴史にとって立村は無二の親友だ。たったひとりで卒業式ぽつんと放置するつもりなんて、一切ない。
──ただなあ、奈良岡のねーさんは文集こだわってるからなあ。美里もやめさせたいだろしな。
一番痛いのは、文集委員の中に緩和剤となるべき古川こずえが混じっていないことだった。苦手な女子ではあるけれど、やはり頼りになる愛すべき下ネタ女王でもある。もしあの場でこずえがいたとしたら立村をなだめる上でもう少しなんとかなったのではないかとも思う。極端な話、あと二ヶ月を切った中学生活。菱本先生は十分時間があるとか言うけれども、貴史からしたらあまりにも短すぎる。
──かくなる上は古川に頼るかだなあ。美里のこともあるしな。
立村との関係を少しでもよい方向に持っていくには、貴史側でまず文集作成中止を持ちかけるのがベストではないかと考えている。しかし奈良岡をはじめとする女子たちがどう思うか、いやかわいそうなのはクラス全員の似顔絵を懸命に描いている金沢という説もある。難しいところだ。
──俺、単に立村と今まで通りくだらん話したり、LPのライナーノートの訳やってもらったりとかしたいだけなんだけどなあ。なんでこうも面倒になっちまったんだろ。ったく、あの野郎、明日こねばゆるさねえぞ!
一夜明け、いつものように家を出た。道は完全に昨夜の雪でコーティングされており、スパイク履いた足も下手したら滑りそうになる。さすがに今日は自転車を使う気になれずバスに乗り込んだ。美里も混じっているかと確認したがいなかった。
湿気の高く無駄に暑苦しい車内で、運よく運転手裏の席を陣取った。乗り込んでくるのはほとんどが青潟市内の高校生なので、お年寄りのために席を譲るといった気遣いをする必要もさほどない。もちろん誰か来ればすぐに立ち上がる準備はしている。貴史は窓を手袋でこすって外を眺めた。
──結構、混んでるよなあ。ま、時間あるし間に合うか。
バス利用で学校に向かう時は通常よりも早く家を出るので余裕はそれなりにある。朝七時過ぎに乗っていけば問題なしだ。到着が早めであってもたいてい教室は暖まっている。問題は眠たい、それだけだ。
「羽飛、羽飛でしょ?」
頭の後ろで声がした。停留所で女子の集団がわらわらと乗り込んできたことだけは気づいていたけれど、こっちはただまぶたが落ちているだけ。貴史は振り返って相手を確認した。
「あ、玉城か、おっはよ」
「バスなんてあんためずらしいね」
「さすがに今日はチャリに乗れねえしな」
同じクラスの女子で、最近はいろいろと頭の痛い出来事にさりげなく混じっている玉城怜巳の顔と挨拶した。そういえば昨日もしっかり登場人物の中に納まっていた。女子の間で最近はやりの、首全体に髪の毛をべったりはりつけるようなショートカットで決めている。みな同じ髪型に見える。
「ちょうどよかった、羽飛、昨日のことなんだけど大丈夫だった?」
「あ、ああ?」
寝ぼけているせいか反応が自分でも鈍すぎた。
「立村とのことなら、おまえさんも知ってるだろ、大丈夫だってな。あいつなんでもなかったみたいだし。俺もまあ、絞られたけどしゃあねえよ」
「あいつのことなんかどうだっていいって。わざと気を失った振りして同情引こうとした馬鹿なんかさ。それよか羽飛、本当に、大丈夫?」
ずいぶんしつこい。もちろん玉城が以前から立村を毛嫌いしていたことは知っている。女子受けの救いようのないほど悪い立村が、玉城にことあるごとにいやみ言われたりしていることも重々承知している。
「何もわざとじゃねえだろ。ま、よくあるこった。俺も悪かった」
「羽飛、あんたちっとも悪くないじゃん!」
いきなり後頭部をぽかんとやられた。玉城も手袋をはめていたらしくさほど痛くはなかったが、もさっとした感覚が脳天に残る。
「あのなあ、朝っぱらからなあ。公共機関の中でってのやべえだろ」
「やばくないよ。それよりあんた、ちゃんと高校進学できるんだよね?」
「あ、そっちは大丈夫そうだって言われた」
なかなかいい奴だ。玉城を見直した。単純に貴史が進学内定取り消しされたのではと心配してくれただけらしい。青大附属の校則において暴力沙汰が厳しい処分となることは、在学生徒なら誰もが知っているわけで、玉城がそれを踏まえて質問しただけのことだ。
「よかったよお、みんなうちのクラスの子、そのことばっかり心配してたよ。あの馬鹿のせいで羽飛ばっかりとばっちり食っちゃうなんて大変だよって。ああよかったよ、それ聞いてみんな喜ぶよ」
「喜んでもいられねえんだけどなあ」
貴史は頭をさすりながらつぶやいた。
正直、昨日立村を殴りつけた段階で内定取り消しの処分に震え上がっていたのも嘘ではないし、親呼び出しを食らったのも自分としてはしんどいことだった。結果が加害者と被害者逆転扱いの展開だったのには面食らったにせよ、どん底に落ちた心持ちだったことは否めない。立村には悪いがほっとしているところは確かにある。
玉城が手袋を脱いで、貴史の耳にささやくように張り付いた。
「ちょうどよかったから相談なんだけどね、羽飛に頼みたいことあるんだ」
「なんだよ、金ならねえよ、俺の愛は優ちゃんに」
まぜっかえすとまた叩かれた。今度は素手だった。
「まじな話なんだからちゃんと聞いてよね。今日の五時間目って社会だったっけ」
「ああ、歴史だな」
教科書は持ってきている。
「六時間目がロングホームルームだよね」
「ああそうだな」
「それならさ、だいたい二時間あるってことだよね」
言われた意味がつかめない。まだ眠気が漂っているようだ。
「ああ?」
「この二時間をさ、悪いけど私らに、ちょうだい?」
──ちょうだい?
玉城の言葉がつかめない。振り返って改めて顔を覗き込んだ。
「お前何言いたい? わりいけどよくわからねえ」
「だからさ、菱本さんの授業を臨時ホームルームにして、そのまま休み時間はさんで延長戦にしたいんだけど、どうかな。どうせ社会ったってほとんど話終わってるし、せいぜいやるとしたら公民じゃん? 歴史だったらたぶん菱本さんまた人生論について熱く語りだすし、雑談に使うんだったら私たちにちょこっとだけ時間わけてほしいんだ」
「なんでだよ」
頭の片隅が少し溶けてきた。つまり玉城の提案で、菱本先生担当の五時間目社会・歴史と六時間目のロングホームルームを丸ごとくっつけて、何かクラスの連中と語り合いというわけだろう。だが貴史に話を持ちかけるのはお門違いじゃないかという気もする。決めるのは菱本先生であって、貴史ではない。相談ベースで持ちかけるのは評議委員の立村が建前だが、まさかそんなことを飲むとは考えられない。そもそもあいつは今日、学校に来るのか? それが一番心配な部分でもある。
「何話し合うんだよ、まさか俺の弾劾裁判かよ」
「んなわけないじゃん。あんたをつるし上げたい奴どこにいるっての」
「立村相手だったら断るぞ」
「まさか、あんな馬鹿今更吊るしてどうするのさ」
一呼吸置いて、貴史は尋ねた。
「じゃあ何やりたいんだ、俺には全くわっからねえ」
にきびで顔が赤くはれ上がっているように見える玉城の額。わざと出しているのだろうか、ずいぶん目立つ。それでも顔かたちはそれなりに整っているし眉毛もきっちり細長く伸びている。女子としてば決してまずくはない。近くで観察してみて気づいた。ただ目つきがどうも重たい。なぜといわれると迷うのだが、どことなく背中と頭がねとっとする。
「俺通すよか、菱本さんに直接話せよ。俺、ご存知の通り脛に傷あり、しかも作ったばっかりだぞ。立場ねえよ」
「いやだからだよ。今日、これから菱本さんとこ行って、一緒に頼みに行ってくれると助かるんだけどな」
「美里通すってのはどうなんだ。女子同士ならそっちが筋だろが」
玉城は黙った。重たい眼差しがいったん閉じられ、また開いた。
「清坂さんに関係してることだからさ、パスなんだ絶対」
──美里と関係してる?
息をごっくり飲み込んだ。玉城は目を逸らした。
「あんたが清坂さんと仲いいのは知ってるから悪いと思うけど、ここできっちりしとかないと、いろいろまずいと思うんだよね」
「古川経由じゃあだめなんか?」
「ああこずえちゃんね」
女子同士のつながりもいろいろ面倒らしい。美里が女子たちとそりが合わないのは今に始まったことではないし、あと二ヶ月で片付く問題でもない。ただこずえがうまく入り込んでくれているので今まで表面化せずにすんだところもある。こずえ相手ならなんとかなりそうな気もする。
「こずえちゃんも清坂さんとの立場あるからねえ。とにかく、この件を片付けないと私たちも気持ちよく三年D組から卒業できないような気がするんだ。あんたも同じこと考えてたんじゃないかなって、昨日のこと見てて思ったんだ」
しみじみ、目を逸らしたままつぶやく玉城に貴史は問いかけた。小声だがたぶん前の運転手には聞こえているだろう。
「お前とおんなじことかよ」
「そうだよ、納得できないまま卒業したくなったんだなって。羽飛さ、ずっと立村のこと一生懸命面倒みて、へまやらかしそうな時にはカバーしてたなってこと私からしたらはっきり見えてたんだよね。それでもあんなひどいしっぺ返し食らわされて、悔しかったんだろうなって」
「まあ、当たってるとこもあれば外れてるとこもあるがな」
最初にほめられたのでついつい、甘くなる。
「彰子ちゃんもそれは考えていたと思うし、結果相手がどうしようもない馬鹿だったからあきらめるしかないってのもわかるけどさ、私たちも似たような問題抱えてるからなんとかしたいんだよね」
「似たようなって、なんかあるのかよ」
「菱本さんのとこ行ったら話す。さすがここ公共機関のど真ん中だし、誰に聞かれてるかもわかんないしさ」
それきり玉城は黙りこくったまま自分の席に腰を据えたまま窓を眺めていた。貴史も同じく倣った。窓辺の曇りガラスは結露で少し溶けている。車の数は先ほどよりもだいぶ減っている。想像以上に早く到着しそうだった。
バスから降りるとすでに雪かきも終わっていて、通路が歩きやすく整えられていた。青大附属高校の生徒や、中には大学生も混じっていた。
「さあさ、誰もいないね。よかったよ」
ゆっくりと坂を昇りながら、玉城は黄色い手袋をはめなおした。
「あんまり見られたくないからね、羽飛と歩いてるってのはね」
「ひえ、嫌われてるじゃん」
「反対だよ。あんたのファンがたくさんいるってのに敵作りたくないじゃんよ」
「もっともだ」
凍った空気に思いっきり熱い息で笑った。
「けど、ほんとに何が目的なんだ? まあ立村つるし上げじゃねえなら俺も協力するけどな、美里がなんかへまやらかしたのか? ま、お前も知っての通りあいつと俺とはいろいろ腐れ縁だからなあ、気にならねえってことはねえんだ」
「まあそうだよね。別に私も清坂さんに文句言う気はないよ」
あいまいにぼかそうとする雰囲気あり。言葉と本音がひっくり返っている恐れあり。玉城は手巻きのマフラーを巻きなおした。よく見ると手袋と同色の毛糸で編んである代物だった。ぴたっとくっついた襟足の髪が黄色く包まれているようで妙に目立った。
「でも、言っておくべきだったんだろうなと思うな、今思えばなんだけど」
「女子はめんどくさそうだもんな」
「あんたにもそう見えた?」
返事を待たずに玉城は続けた。足元の白い雪が薄くかすれていた。
「成り行きまかせでずっと三年間過ごしてきたけど、誰かが本気で動かそうと思えば動くもんなんだよね。この半年ですっごく感じたよ」
「なんだそりゃ」
女子特有の訳わからない言葉は聞き流すに限る。
「評議委員長だっていったん指名されればもう変えられないなんて、それ思い込みだったんだよね。クラスの委員はよっぽどのことがない限り立候補できないなんて、幻想だったんだよね。女子が生徒会長になったってよかったんだよね」
「あのなあ、悪いけどな、それ立村の前では絶対言うなよ。俺ほんと、あいつのお守するのめちゃくちゃ大変なんだわ」
そのことには返事せず、玉城はさらに話し続けた。
「おかしい、そう思ったら声を上げればよかったんだよね。私、それずっと気づかなかったんだ。陰でなんとかすればいいって思ってたんだよね」
「玉城、お前何言いたいんだ? しつこいようだけどな、立村のことだったら俺は即、この場から消えるからな。さすがに俺の親友にそんなことされようもんなら、切れたっておかしかねえだろ?」
もちろん軽い調子で伝えた。もちろん本音だ。もちろん確認だけだ。
「羽飛、清坂さんについてはそう思わないの?」
逆に問いかけられた。マフラーを巻きなおし、かちっと音のなりそうな眼差しで。
「まあ、美里かあ、あいつ根性だけはあるからな。多少なんかあっても大丈夫だろ」
「そうか、わかったよ。羽飛、これから私が菱本先生に話すことだけど、誰かを責めたいとかいじめたいとかそういうつもりでするんじゃないんだよ。ただ、このままだとひとり、傷ついたままで卒業してしまう人が出てしまうから、なんとかしたいだけなんだ」
「そいつ誰? 女子か?」
玉城は頷いた。坂の向こうの校舎を見据えた。
「山は、動くんだよ。絶対に」
それだけつぶやき、しっかと足を踏みしめ坂を登り始めた。
──美里をなんか吊るしたいようにしか聞こえねえけど、なあ。
貴史からすると、玉城たちのグループが美里を嫌っているのは確かに見え見えだった。言いたいことを何でも言って、納得いかないことはとことんつっこみ、男子たちとも平気でおしゃべりするような美里は他の女子連中からしたら違和感ありありだっただろう。成績もそれなりだし、見た目もこういったら何だが、やたらめかしこむくせもあるせいか、それなりにはとも思う。一年上の先輩から告白されたとか、立村以外の男子とも付き合ったことがあるらしい……もっとも小学校の時だが……とか、いろいろ色めいた話は聞いていなくもない。まあ現在の相手がまがりなりにも立村ということで、多少は同情のようなものもあるのだろう。それでうまく言っているといえばそれまでだ。
ただ、そういう風にてきぱきわめきまくる美里を、あまり好きになれない連中も主に女子中心にはいる。世の中いろいろあるのだ。こずえがたまに美里の融通きかない有様にぐちったりするのもさもありなんと思う。
ただ、幼馴染だからという理由で一方的に美里をかばうのも貴史としては間違っていると考えている。貴史なりに美里の許容範囲というのはつかめているつもりだし、ある程度だったらきっちりとけりもつけるだろう。その一方であまりにもあんまりという場合だけ手を出せばいいというのが貴史の見解でもある。
となると、今、玉城の計画しているらしい「けりをつけたい」内容も、多少美里にとっては不利な内容かもしれないが見守るほうがベストではないだろうか。一方的に反対したところで玉城たちが納得するとも思えない。ならばやりたいようにやらせてやり、ある程度めどがついたところで水入りに持っていくのがよさそうだ。
生徒玄関に着いた。すでに運動部の連中がこの寒空の下グラウンドを掛け声かけて走っているのが見える。ご苦労なことだ。
「羽飛、あんたなんでバスケ部入らないのよ」
「ああ、上下関係めんどくせえ」
よくある質問に決まりきった答えで返す。
「ふうん、そうか。じゃあ悪いけど、職員室まで付き合ってもらえる?」
「そのつもりだぞ最初っから」
数人、すれ違うたびに挨拶を交わした後、貴史は玉城に付きしたがい職員室へと向かった。校内は思ったよりも暖かく、コートを脱いでもよさそうだったが荷物になるのもなんだしそのまま移動した。玉城は黄色いマフラーと手袋だけはずした。
「菱本先生、朝早いかなあ」
「まだまだ新婚ムード残ってたら遅いんじゃあねえの?」
突っ込みながらまずは職員室の扉をノックし、覗き込んだ。いるいる。新婚ムードとは程遠い顔して、菱本先生がコートをロッカーにひっかけている。
「いるぞ、行くか?」
頷いて玉城が先に入った。「おはようございます」と、まずはすでにいる先生たちに声をかけて、貴史が入るのを待っていた。
まだ八時十分前、十分早い。菱本先生はロッカーを閉めながら振り返った。貴史を見るやまずまじめに、玉城に目をやりひょうきんに、それぞれ表情を使い分けた。
「おいおい、ずいぶん早いなお前ら。お、玉城と羽飛か。珍しい組み合わせで、どうした?」
先手を取って貴史は頭を下げた。
「先生、昨日はほんっと、申し訳ありません!」
「まあいい、そのことはまたあとでな。それにしてもどうした、玉城?」
玉城はコートを着たまま、まずはぴょこんと礼をした。
「先生、今日早く来たのは理由があるんです」
「そりゃそうだよな。言ってみろ」
女子向けの明るい笑顔で迎え入れる菱本先生。パイプ椅子と隣の先生の椅子をそれぞれ一脚ずつひっぱりだして玉城を座らせた。当然貴史はパイプ椅子を選んだ。
「菱本先生、今日の五時間目と六時間目なんですけど」
言葉をいったん切って貴史にちらりと目を走らせた。
「お願いします。杉浦さんのことでどうしてもクラスのみんなに聞いてもらいたいことがあるんです。歴史の授業を臨時のロングホームルームにしてもらえませんか」
──杉浦?
頭が凍った。意味がわからない。杉浦加奈子のことか?
「杉浦? どうしたんだ玉城、いきなり何があったんだ?」
ぽかんと口を開けた後、すぐ菱本先生の問いが始まった。
「そりゃ五時間目は俺の授業だが、一応やることだってあるんだぞ。授業にはな、カリキュラムってのがあってそうそうかんたんに変えられるもんじゃあないんだぞ」
「先生、それはわかってます。承知してるけどどうしても今、聞いてもらわなくちゃいけないことがあるんです。私、女子のほとんどに昨日の夜、許可をもらってそれでこうやって話、してるんです」
「女子のほとんどって、おいおい全く話が見えないぞ?」
貴史も同じく話が見えない。窓ガラスの結露ごしに観察しているかのようだ。もっと詳しく聞いておくべきだと反省しても後の祭り。玉城は両手を膝にのせ、ぎゅっと握り締めたまま言葉を継いだ。
「私たちが卒業するまであと二ヶ月もないんです。このままだとずっと、杉浦さんは傷ついたままでこのクラスを出て行ってしまいます。昨日の羽飛くんのこともありましたし、絶対今がタイミングとしていい時だと思うんです! 先生、私、今までこんな風に頼み込んだことありましたっけ?」
いきなり問われてまた息を呑む菱本先生。貴史もやはり釣られて呼吸を止める。隣で熱く説得し続ける玉城の顔は真っ赤だった。触れたらはじけそうだった。
「いや、なあ、玉城、まず話を整理させてもらえないか。俺も今学校に来たばかりで頭の中が大混乱しているんだ。それに六時間目ももともとロングホームルームだしそちらで片をつけることはできないのか?」
「たぶん、時間なくなっちゃいます。私、今までこのクラスでとことん本音でぶつけ合って話し合いをする機会ってぜんぜんなかったと思うんです。理由わかってますけど。時間が足りなかったとか、誰かが特定の方向にひっぱろうとして操作してて気づかなかっただけとか、いろいろあります。でも、今なら本当にほんっとのこと言って、クラスをまとめるチャンスだと思うんです」
話の途中で教頭先生が「おお、元気にやってるねえ」と声をかけて通り過ぎていった。いつの間にか狩野先生が現れ、茶色いコートを脱いでいるのが見えた。そういえば隣は狩野先生の席じゃないだろうか。このまま座ってていいのか玉城よ。
「玉城、女子に確認取ったと言っていたが、清坂には話したのか?」
黙った。不意を突かれたのだろう。
「清坂さんにだけは話してません」
「どうしてなんだ?」
狩野先生が机に荷物を置いて、「おはようございます」と菱本先生へ声をかけた。すぐに職員室から出て行った。気兼ねしたんだろうか。
玉城はうつむき、また貴史に視線をやった。女子にしては太い声で答えた。
「杉浦さんと清坂さんとの間がこじれたことがきっかけなんです、このことは。もし清坂さんにこのことを話して協力をもとめようとしたら、絶対に握りつぶされます。今までもこんなことがいっぱいあったんです。だから私も、今回だけはどうしても、きっちりと全員の前で話をしたいんです。清坂さんに邪魔されることなく、杉浦さんの言い分をすべて聞いてあげてほしいんです。特に、男子全員に」
倒置法をやたらと使いながら、玉城は語り終えた。さすがに二度目、狩野先生が自分の席を恨めしそうに覗き込んだことに気が付いたのだろう。立ち上がり、菱本先生をぐいと見つめた。
「そうか、そうだな」
貴史と玉城を交互に見やりながら、菱本先生はすぐ結論を出した。
「わかった。杉浦のことについては俺も、いつかはきちんと話をする必要があると思っていたんだ。だがこ、今だからこそ言い方を気をつけないとさらに傷つく奴が出てくるぞ。覚悟あるか?」
玉城は頷いた。にきびだらけの頬がまた赤らんだ。
「私もそれ、覚悟したからこうして話、してるんです」
「わかった。それなら今日の五時間目だが、俺からまず話をしようか。その後、玉城に話をしてもらうということでいいか? 場合によっては六時間目を使おう。ただし、今日の歴史でやる予定のところは、あとでたんまりプリントで出すぞ、覚悟しとけよ」
顔を見合わせ、玉城はようやく貴史に笑顔を見せた。同時に菱本先生にも大きく頷いた。
「先生、ありがとう! 私、やるべきこと、ちゃんとやり遂げます! わがまま聞いてくれて、先生、ほんっとにありがとう!」
──こうやってにこにこしてたらこいつも、もう少し野郎連中からも人気もらえてだだろうになあ。
全く関係ないことを貴史は考えつつ、一礼してパイプ椅子をたたみなおした。職員室から出ようとすると同時に、狩野先生が菱本先生に何かを話しかけていた。貴史や玉城にはのどかな笑顔を見せていた菱本先生だが、狩野先生に対してはどこか堅い眼差しでうつむき加減の語り合いをしていた。
──杉浦と、美里か。
黙っているつもりでいた。口をはさむつもりはなかった。
ただ予想外すぎた。
「玉城、お前、杉浦と美里のことかよ!」
「それ言ったら羽飛絶対止めるだろうなって思ったんだ。だから言わなかったんだ。ごめん」
手首に黄色いマフラーをぐるぐる巻きつけながら、玉城は頭を下げた。
「そりゃお前、嘘は言ってねえだろうけど、話の内容からしたらどう考えても立村がからむだろ? 美里だけじゃねえだろ、俺ももしかしたら」
「なんで? 私が言いたいのは、加奈子ちゃんのことを男子たちが露骨に無視していることがおかしいってことだけなんだよ」
「玉城、すっげえ誤解しているかもしれねえけど、それには理由がちゃんとあるんだ」
女子連中の誤解を貴史自身は確かに解く努力をしていなかった。男子連中は把握しているし、それで十分だと思っていた。しかし、女子たちは立村が横恋慕野郎であることをまだ信じ込んでいる。美里だけでは非力だった。
「知ってる。聞いたことあるしね」
短く玉城は答え、首をくいと一回振った。
「でも、加奈子ちゃんが悪いとか立村が理解不能だとかそういう話をしたいんじゃないんだ。私のしたいことは、そんなんじゃない」
「じゃあなんでだよ。個人のつるし上げじゃねえのかよ。なあ玉城、立村とは昨日のどたばたでかなりやばい状態だし、あいつをこれ以上ぶんなぐるようなことはできれば避けてもらいたいんだけどな、それだけはだめか?」
「羽飛、違うんだよ、私がしたいのは、立村や清坂さんをいじめたいわけじゃないんだよ。それを全部説明したいから、今、五時間目の歴史の時間をもらいにきたんだからね!」
職員室を出て、三階に向かう階段をのぼりながら玉城は手袋を握り締めた。
「このこと、羽飛にだけは前もって話しておきたかったんだ。だから、今日会えてよかった。無理につき合わせてごめんね。できたら今のこと、内緒にしてもらえるかな」
「聞かれない限り、俺、しゃべる気ねえよ。安心しろ」
「清坂さんにも?」
「ああ」
迷いはあるが、頷くしかない。事実はひとつなのだから美里が不利になることはないと信じたかった。同時に玉城の「山を動かしたい」気持ちにどこか同化するところもあった。何かをしようとしている、何かを変えようとしている。もし美里がそのとばっちりを受けたとしても、真実である限り決してめげたりはしない。いざとなれば貴史が割り込む覚悟もあるのだから。
「ありがと。じゃあ、五時間目。よろしく」
玉城は片手を振って三年D組の教室へ駆け出していった。八時をちょうど過ぎたところだった。そろそろ朝練の終わった連中が集まり出すころだ。貴史は職員玄関のロビーに向かうことにした。ロビーには椅子がある。誰かが来るのをまずは待つことにした。
──玉城が何考えてるかよくわからねえけど、立村の奴、へたしたらまじで立ち直れねえかもしれねえぞ。どうするんだいったい。美里はともかく、立村、どうすればいいんんだ?