第二部 52
「砂のマレイ」の原作者が失踪した事件については、ワイドショーでも「アガサ・クリスティの失踪事件を彷彿とさせる」とかなんとかいろいろ取りざたされていた。もちろん貴史も美里たちとその話題について熱く語っていたけれども、すでに旬を過ぎた内容でもあった。繰り返しになるものばかりを、それでも今は語りたかった。
一通り報道されている情報をだらだらしゃべっていたが原因について触れた時、
「さあ、けどいろいろあるみたいだぞ。金の問題だとか、愛の逃避行だとか」
「なによそれ、愛の逃避行って笑える」
「『週刊アントワネット』によればだ、アシスタントと作家との間で男の奪い合いとなり、結果、作家の方が逃げ出したと」
さらっとひっかかりのあるキーワードが滑り出し、あせった。「週刊アントワネット」とは地元中心にシェアを持つ青潟の経済情報誌で、挟み込まれたグラビアも過激なものが多かった。貴史も男子の端くれゆえもちろん知らないわけではない。というよりもむしろ、立村の父が編集に携わっている雑誌という方が記憶にずぶとく残っている。
美里は何も感じないといった風に流していた。釣り針投げたつもりではないけれど、食いつかれなくてほっとする。
「どうでもいいけどあんた、ファンでありながら作者の名前言えないってのはどうかと思うなあ」
「そんなのわかりきってること言わねえでもいいだろ。それにしてもなあ、原作とはぜんぜん違う話に持ってくんだろ? あの最終回以降どうやって話、つなげるつもりなんだろな」
「知りたいよねえ。私も、想像つかないよ」
しばらく美里を相手に、貴史は「砂のマレイ」映画版のオリジナルストーリーをつむぎだすことに専念した。そうやっていれば忘れていられた。」本当は「週刊アントワネット」なんてキーワードを口走らなければよかったのに。悔いてもしかたない。乗ってきた美里にまかせてふたり、語りつくした。
ノックが響いた。ふたりで顔を見合わせた。
「来たのかな」
「たぶんな」
返事もせずにまずはそのまま振り返る。同時に我が家の母、および美里の母、いわゆる「母ちゃんズ」がよそいきの格好で立ち尽くしているのを見た。エスコートしているのはもう少しで新郎となる菱本先生、なんて軽いことは言えなかった。美里がひじでつつく。つられて立ち上がり、一緒に頭を下げた。もちろん菱本先生に対してだった。
「たあちゃん、どうもね」
まず美里の母がすまなそうな顔で声をかけてきてくれた。それに答えようとする前に母が大股で飛び込んできた。隣の美里にはまず、
「みさっちゃん、ついていてくれてありがとうね」
頭をなでながらまずはねぎらい、次に貴史の顔をじっとにらんだ。顔を背けたが遅かった。
「それにしても、貴史、ほら、こっち向きなさい」
あっという間に後ろに回り、思いっきり貴史の尻を張り飛ばした。全力投球、としか言いようのない迫力だった。つんのめりそうになり、「おっとっと」とバランスを取ってこらえた。別に受けを狙ったわけじゃない。なのに身体が笑いを求めてしまったようだ。ぶん殴られることは覚悟していたけれど、何も尻ってことはないだろう。さすっても簡単に痛みは消えない。
「いってえ」
「人様に手を出すなっていっつも言ってるでしょうが!」
「ごめん」
どちらにしても今回は貴史が悪いのだからしかたがない。尻をかきながら様子を伺ってみた。思ったよりも母ふたりの様子は落ち着いているように見える。もし立村に万が一のことがあればそんな流暢なお尻ぺんぺんではすまないだろう。美里の「たいしたことないのよ」発言も、信じていいのかもしれない。
菱本先生もさすがに笑わずに母の言動を見つめていたが、一段落したと見てとったのか、
「とにかく、ふたりともそれぞれのお母さんの隣に行きなさい」
まずはそれぞれの母の隣に腰を下ろした。ため息をついてまた何か説教しようとする母をさえぎり、今度は美里の母が娘に対して質問攻めにしている。
「美里、それにしても女の子なんだから、あんた止めようとしなかったわけ?」
「女の子であってもなくてもするべきことはいっしょでしょ」
「事情はさっき職員室で聞いたけどね、あんた、なんて言ったのよ。ねえ、たあちゃん」
やはりある程度の説明はもう受けているようだった。美里の母だって、貴史が傷害事件やらかした後に大事だとわかっていたらこんな質問投げかけてこないだろう。つい、ぽろっと軽く答えてしまった。
「あの、急所狙うのはやめろって」
隣で母が吹き出した。「みさっちゃん、鋭い!」とか言いながら今度はけらけら笑い出す。いったい何なんだろうこの母ふたり。全くもって、学校に呼び出された現状を理解していないかのようだ。本当に信じていいのだろうか、立村がたいしたことないということを。
「清坂、よく、知ってるなあ。急所、狙ったことあるのか」
「女子は体力的に劣ってるのはしょうがないし、身を守るためにはしょうがないです。もっとも、青大附中でそんな心配ないですけどね。紳士であれって言ってるし」
言い放つ美里に菱本先生は笑いをかみ殺すことに失敗し、とうとう声を立てて笑い出した。ひとり頭を抱えているのは美里の母だけ。下ネタに免疫なさそうなタイプだということは貴史もなんとなく感じていた。娘がまさかそんなことさらっと言い放つなんて思いたくないんだろう。わかるわかる。しかし、この幻想は早いうちに断ち切ってもらった方が今後のためだとも、貴史は思う。心底真実味をこめて言い放ってやった。
「うそつけ」
──男の急所なんて肉体的にも精神的にもどっちも狙いたいんだろが、お前は!
さすがに、菱本先生および美里の冷ややかな視線にこれ以上の突っ込みは差し控えた。
詳しい事情はようやく菱本先生によって教えてもらえた。
「先ほど職員室でもお話した内容の繰り返しになりますが……」
まずは立村と貴史との小競り合いについて簡単にまとめた。ものすごくかんたん、である。一言も「班ノート」とか「文集」とか「いじめ」とかそんなキーワードは出てこない。単なる「口げんか」、なんと四文字でまとめてしまっている。
「貴史くんからもきちんと確認を取りましたが、要するに以前から立村くんにいろいろとアドバイスしたいことがあって、それを伝えようとしたところ口論になってしまっただけなんですね。つまりは。ただ、やはり年頃の男子ですからかっとなると見境なくなってしまう時もやはりあるわけでして」
だろ?といった風に菱本先生が貴史の顔を見ながら頷く。もちろん頷き返す。
「廊下でもう一度話し合いをしようと声をかけたんですが、なかなかそれもうまくいかなくてつい、手が出てしまった、といった状況のようです。そうだよな」
また問われる。大きく頷く。
「この件については他の同級生たちからも状況を確認しましたが、貴史くんが立村くんに言いたかったこと自体は特に問題のあることでもなかったようです。むしろ、貴史くんは立村くんと友達でいたいという気持ちから出てきた発言だったようです。ただ、こういうことは相手がありますから、準備ができていないとなかなか受け止められずらいところももちろん出てきます」
かなりかいつまんだ形での説明を行った後、菱本先生は締めに入ろうとした
「つまり、今回は、子ども同士のけんかで勇み足、というところなんですよ。ですから本来でしたらおふたりにいらしていただく必要はないと、相手方のお母さんもおっしゃっているのですが」
せっかく一番確認したい「相手方のお母さん」のところで美里の母が割り込んだ。
「要するにあれでしょうか? たあちゃんとその、立村さんのお子さんとが口げんかして、その拍子で一発お見舞い」
美里に脇で「黙っててよ!」と制止されている。ナイスプレイと言いたいところだが、この「母ちゃんズ」はいわゆる「アンとダイアナ」的心の友……美里談……なので妙に結束が固い。子どもたちの頼みなんか長年の友情には歯が立たない。
改めて菱本先生は立村の状況を語りだした。ありがたい。
「いや、実際は小突いた程度でしょうね。ただ、その際打ち所がわるいんでないかという倒れ方をしたので、僕もつい、先走ってしまった次第で」
「で、その立村くんというお子さんは」
「大丈夫です。さっき保健室で確認したところ、まったく問題がないようです」
「でもやはり、私どもの息子がしでかしたことですからきちんと謝らないと」
──それだけはっきり言ってくれよ先生。
突然身体が震え出す。寒いからではない。膝がかくかくする。足が母にぶつかると同時に今度は貴史の母が菱本先生に食いついた。顔を覗き込むとどうも真剣な表情で頭を下げようとしている。さっきまで美里の「急所発言」に盛り上がっていた同一人物とは思えなかった。急に我に帰った。こんなふざけたこと、してられない。
「俺も、立村にきっちり謝ります。あいつ、大丈夫なんですかほんとに」
念を押した。本当に知りたいことを結局まだ、聞けていないのだ。菱本先生は膝を開き、ぽんと打ち、にやっと笑った。
「ああ大丈夫だ。たまたま腰を抜かしただけだと言ってたぞ」
美里も確認するかのように、繰り返した。
「腰を、抜かす?」
「要はバランスを崩してしりもちついて、ぱたっと転がっただけだってことだ。打撲もなければ特に何かあったわけでもない。すぐに羽飛が保健室に運んだし、特に問題はないぞ。安心したか」
「別にそんなわけじゃないですけど」
──嘘だ。お前さっきまであんなにクールに振舞ってたくせになんだその顔は! おい、「砂のマレイ」の作者愛の失踪事件なんて夢中でしゃべくっていたくせに、なんだよおい。
どうみても美里の顔は、嘘まったくない、全身脱力状態にしか見えなかった。こいつもやはり、立村の本当の状況がわかっているようで見えていなかったのだろう。結局大人たちしか本当のことがわからず、ずっと子どもの貴史や美里だけが右往左往していただけなのかもしれない。
「ですので、子どもたちがちょっとだけやんちゃし過ぎただけというのは、立村くんの親御さんもよく理解してくださってるようです。ただ、念のためこれからこちらにいらっしゃるそうですので、もしすっきりしないようでしたら、その時にでも」
「ではその時に、お詫びをさせていただきますが、やはり何か、その、ねえ、そうですよねえ、やはり、程度がどうにせようちの馬鹿息子が手を出したことは事実、きちんと謝りたいものですしね」
母が背筋を正し、頭を下げている。そうだ、謝ること、もちろんそれは許されようがしまいが、きっちりする。親に言い訳されなくても、もちろんだ。
──立村の母ちゃんが来るのかよ。
貴史が思い出すのは、中学二年の秋に起きた立村との小競り合いだった。
単純に言ってしまうと、立村が美里と別れようとかわけのわからないことを言い出し、その一方で貴史にも今に近いような距離を置こうとしたことがきっかけだった。
美里のかつての親友だった藤野詩子、立村の母がかかわっているという日本舞踊関係のイベント、発表会会場にて立村を引っつかみ、軽くパンチを食らわせたといったものだった。いわば、今回のリハーサルといってもよい。貴史なりにあの時は、立村の扱いに迷った挙句、自分から積極的にフォローしていくことで何とか収めたはずだ。立村もあの時に限っては了承した。ついでに言うと美里もそれなりに立村の機嫌を取り結び、現在に至るまで「公認の恋人」を守り続けている。
その時にたまたま顔をあわせたのが、立村の母だった。
厳密に言うとその前にも一度、「どうみても姉さんだろ」とつっこみたくなるような立村の母を見かけたことがある。家庭事情もあって立村は母のことを隠したくてならないようだが、いかんせん自分の母、美里の母、その他同級生の母と違う異様な若さと派手なスーツに目がくらくらしてしまい、永遠に忘れられない領域に記憶が刷り込まれてしまった。かなり、厳しい人だということは立村本人から聞いている。
今の話を確認する限り、立村の母は貴史をののしったり責めたりする気はなさそうだ。親を呼ばなくてもいいといった発言は恐らく、貴史を前にして菱本先生が職員室で電話をかけた時に出てきたものではないだろうか。それを押し切って貴史の母プラス美里の母がここに鎮座ましているのは、ひとえに菱本先生の「校則違反」を正す為、に他ならない。
──そりゃ、怒られねえほうがいいけどさ、けどな。
貴史が立村の母と二度目の顔合わせをした時、結構愛想良くお弁当をくれて、笑顔で見送ってくれたはずだ。本当だったら立村の親友として印象よく残っているはずと信じたい。少なくとも自分の息子をぶん殴った相手を、親友と認めないなどといったことは言い出さないと信じたい。それだけは勘弁してくれと願いたい。
──すっげえべっぴんさんだったよな。母ちゃんじゃなくて、姉ちゃんだぞありゃあ。
いきなり美里の母がすっとんきょうな声で身を乗り出した。美里の目はまんまるだ。止めようにも止められそうにないようだ。
「あのう、失礼ですけれど、その立村さんの奥さんは、お若い方なんでしょうか」
「母さん!」
「黙ってなさい! とにかくあの、お若い方という話をうちの娘から聞いていたものですから、かえって私どもの話し方だと不愉快になられるかしら、なんて心配になりまして」
「失礼よ、お母さん黙ってよ!」
「うるさいのはあんたの方、とにかく黙って!」
「こう言ったら失礼ですけれど、お仕事されてらっしゃってかなり先進的な方と伺っておりまして」
「そんなこと言ってないじゃない!」
──ちょっと待てよ、おい、おばさんこんなとこで自分の娘の彼氏情報を根掘り葉掘り聞くのはやめろって!
そうだ、前から美里がぐじぐじ言っていた通りだ。立村のことを「品山のお坊ちゃん」だとかなんとか言っていて、美里と付き合っているらしいということをかぎつけつつも暗に反対めいたことを匂わせてという、あれだ。美里もそれに気づかないほどアホじゃない。懸命にテーブルの下で足をけりつけている。残念ながらガラスのテーブルなのでつま先の攻防は丸見えだ。これはまずい。助太刀するしかない。身を乗り出し美里の母に声をかけた。
「あの、立村の母さん俺会ったことあるけど、そんな怖い感じじゃ。いや、ちょっと、怖い感じかも」
だけどいい人だ、そう続けたかった。まあ「怖い」と思われなくもない人ではあるから訂正したいところ。息子の立村は心底震え上がっているのが現実だ。
母ふたり、顔を見合わせた。美里の母はもう、好奇心スイッチが入ってしまい作動停止不可能ということがよっくわかった。助太刀大失敗、面目なし。
「そうなの、たあちゃん、その立村くんて子は、厳しいしつけされてらっしゃるってことだものねえ」
美里の母は身を乗り出すように貴史へ頷きかけてきた。この人がなぜ、親友の息子がしでかした大ポカにこんな熱心になることができるのか不思議だ。いや、娘が「品山のお坊ちゃん」に手をつけられたということが許せないのかもしれない。実際は全く手もなんもついていないのに。聡子姉さんをはじめとして、立村に対する評判が清坂家であまり芳しくないとは承知している。だから美里は一切立村への想いを自分の中に封印している。かといって菱本先生をはじめとして全く情報が漏れないわけもなく、ただ立村自体の性格が把握できなくて、今回ラッキーとばかりにくっついてきたというわけだろうか。
用心深く貴史は答えた。立村は自分の親友であって、余計な文句は言わせたくない。
「うん、まあそうらしいし」
今度は貴史の母が顔を覗き込み、唇を少し尖らせるようにしてつぶやいた。もちろんトーンは落としたままだ。加害者の母だから。
「いいところのお子さんだから、うちのがさつな息子と話が合うわけないとは思うのですけれどもねえ。みさっちゃんもねえ、うちの貴史じゃあ、やっぱり、困るわよねえ」
「母ちゃん、余計なこと言うんじゃねえ」
貴史はそれだけ言い返して口をつぐんだ。何度も家で大喧嘩した内容をここで再現させる気なんてなかった。立村が「品山のお坊ちゃん」で、貴史には不釣合いな友達だということを懸命に刷り込もうとするその態度が気に食わない。ぶちぎれて怒鳴り散らし、父にぶん殴られて部屋にこもったことだってある。立村は、今こそ縁を切られる寸前だが貴史としては絶対に繋ぎ止めたい相手だ。いじけぐせがあるし、自信なんてからっきしもってないし、おどおどしているし、いきなり友達である自分たちから逃げ出そうとするところもある。はっきり言って何発でもぶん殴りたい。それでも、あいつが自分で貴史や美里に好かれたくて一生懸命努力している姿を三年間見つめてきた。今更誰がそんな奴を捨てられるというのか。たとえあいつが逃げ出したって、とことん貴史は追っかけてやる。わかるまでとことん、話したい。それが立村上総という奴なのだから。
母ちゃんズがしつこく貴史に話しかけてくるのをすべて無視しているうちに、突然ノックの音が響いた。母ふたりが現れた時とは違う、もっとかっちりした音だった。
菱本先生が姿勢を正した。つられて貴史および美里、母ちゃんズも両手を膝に乗せて余所行き顔をした。
「はい、どうぞ……立村くんのお母さまです。どうぞ、お入りください」
菱本先生の返事前に扉が開いた。あわてて立ち上がった菱本先生を優雅に見つめたその主はやはり、立村が日々恐怖し振り回されているべっぴんさんそのものだった。
背はめちゃくちゃ高い。しかもハイヒール履いている。長い髪をひとつにまとめ、さらりと流している。しかもその髪の毛が蛍光灯の光に反射してつやつやし過ぎている。シャンプーのコマーシャルに出てくるお姉さんのようだ。
顔はもちろん、真っ赤な口紅で決めている。どうみても自分の息子が友達に殴られて駆けつけてきた母親の顔には見えなかった。母ふたり、ぽかんと見つめている中まずはすべきことをしなくては。美里に向かい顎をあげてみた。気づいたら立つだろう。
全員丁寧に頭を下げた。立村の母らしきべっぴんさんもまた頭を下げ返した。菱本先生にまた女王陛下……見たことないが……のごとく頷き返し、次に美里へ視線を向けた。美里に向かってまた微笑み返し、耳元に何かをささやきかけた。同時にまた礼をする。美里もぴくんと身体を震わせて、挨拶らしきことをした。
次に、べっぴんさんは菱本先生をふくめそこにいる全員を見渡し、すっと背を伸ばした。片手には黒い小ぶりのバックと紙袋がぶら下がっていた。
「この度はうちの上総がみなさまにご迷惑をおかけしたそうで、誠に申し訳ございません」
最敬礼、九十度。立場逆転としか思えない。どうみても被害者が加害者にする礼ではない。
硬直していた貴史の母が、いきなり片手で頭を押さえつけようとした。
「いえ、あの、うちの息子の方が、ほら、貴史頭下げなさい」
急いで下げると立村の母はすぐに貴史の母に近づき、両手で紙袋を差し出した。
「いいえ、私のしつけがいたらなかったせいです。申し訳ございません。どうか、みなさまで召し上がっていただけますよう」
どっちが悪いのだかわからなくなるようなその振る舞い。ぞわりとする。頭を上げると今度はべっぴんさん、貴史にゆっくり頷き微笑んだ。どう考えても自分のかわいい息子を殴りつけた奴に対する扱いとは思えない。恐ろしい。何が怖いのか一瞬のうちに理解した。あの目だ。息子の立村に共通する氷を詰め込んだような、あの眼差しだ。
「立村さん、あの、それはそういうわけでは」
状況を把握するのに時間かかったのか、菱本先生がようやく割り込んできた。しかし甘い。立村が日ごろより震え上がっている母の威力を貴史は目の前でじっくり見せ付けられることとなった。べっぴんさんは改めて菱本先生にぴしりと言い放った。
「先生、どうかこの場は、私に免じて、お詫びさせていただければと存じます」
とどめの最敬礼を菱本先生に向けて行った後、べっぴんさんこと立村の母は菱本先生にエスコートされて上座……いわゆるお誕生席……に腰を下ろした。あれだけ丁寧に頭を下げたにもかかわらず、上座に案内されることには抵抗がないらしい。
──まじ、この人、怖いかもしんないぞこりゃ。
紙袋の押し付け合いが立村、および貴史の母の間で続いていた。
気がつかなかったのだが、貴史の母もちゃんと近所の和菓子屋で菓子折りを用意してきたらしい。箱は想像以上にでかい。立村の母が持ち出した菓子折りらしき袋もこれまたやはりでかすぎる。こちらも包装紙からするとかなり有名でめちゃくちゃ甘くてうまい和菓子屋の奴だと予想はつくのだが、もちろん受け取りたくない気持ちもわかる。第一反対だろう。受け取るべきは立村の母だろう。
かたくなに断り続ける立村の母は、さらに信じがたい言葉を連ねた。
「私の方こそ、うちの馬鹿息子が貴史くんによくしていただいてるのに失礼なことばかりしているようで申し訳ございません。今からみなさまに、お願いがございますが、よろしいでしょうか?」
他の連中がみなあっけにとられている。立村の母が何を言い出すのか、もう予想がつかない。頭を下げればいい話ではなくなっている。それどころか、貴史の正義が認められそうな予感すらする。いったいどうすればいいのだろう。美里の様子を伺う余裕すらない。
展開についていけない菱本先生が懸命に軌道修正しようとしている。無駄な努力だった。
「立村さん、息子さんの方ですが特に打ち所がわるいわけではなくて、少し子どものけんかが」
「ええ、よく存じております。この件はすべて、うちの上総の問題です」
──ちょい待て、やはりこれって立村が悪いことに、なるのか? まさかだろ?
まだ話を続けようとする立村の母に、さっと割り込んだのは美里の母だった。
「うちの娘がお世話になっているようで、恐れ入ります」
申し訳なさそうに頭を下げてはいるけれど、その眼差したるや実に怖い。別の意味で腹の探り合いをしているように見える。例の「品山の坊ちゃん」の親がここにいて、どういう教育をしてきたのかをじっくり観察するチャンスがきたわけなのだから当然といえば当然だろう。隣の美里が顔を真っ赤にしたままうつむいている。さすがにここで親に蹴りを入れるほど腹は座っていないらしい。
「いえ、美里ちゃんのおかげでどれだけあの馬鹿息子が人間らしく成長したか、そう考えると涙が出てくるほどです。本当に、ありがとうございます」
「こんなおてんば娘が、お宅の礼儀正しいお坊ちゃんに何か失礼でも」
「いいえ、あの馬鹿息子をきちんと一対一で話のできるような人間に育ててくださったのは、美里ちゃん、貴史くんをはじめとする青大附中のみなさまのおかげ。本当にありがたく思っております。それで、先生、お願いがございますが」
穏やかに、丁寧に。しかし菱本先生に向き直った瞬間声のトーンが一オクターブ低くなる。凄みが底に流れるかのような声だった。
──立村、お前がどれだけおっかさんにびびってたのか、なんかわかるような気がするぞ。仲直りしたらそのこともしゃべりてえよ、な、立村。
お誕生席に座りなおし、立村の母は言葉を選びつつゆっくり話し始めた。。
「うちの息子のことですが、菱本先生もご存知の通り、内向的と申しますか人嫌いと申しますか、いろいろとコミュニケーション能力が欠けているようです。この点については私も反省すべきところがございますし、何よりもあの子の側から離れざるを得なかったという事情がございますので何も言い訳できないところなのですけれども。ただ、青大附中のみなさまのおかげで少しずつですがあの馬鹿息子も大人になってきているようです。今までは一切、何を言われても泣いていじけることしかできなかった息子が、まがりなりにせよ自己主張できるようになり、一対一で友だちと喧嘩できるようになり、恋もできるようになり、本当にここまで育てていただいた先生には感謝の気持ちしかございません。ですので、今回の件に関しましては、感謝の気持ちこそあれ、誰ひとり責めるつもりなど一切ございません。その点だけ、ご承知のほどを」
──まじかよ、この人、正気かよ、ってか、なんだこりゃ。
もう、一言もない。母が隣でまだ「加害者の母」として割り込もうとするが、
「いえ、ですからその件とはまた別として」
あっさり無視された。演説は続く。菱本先生のあったかいお説教なんてもう勝ち目などない。本当だったら立村を目の前にして語りかけるための原稿を頭の中にこさえていたんじゃないだろうか。立村がなぜ、ここまで菱本先生を嫌うのかほんの少しわかったような気がした。こんなおっそろしい母に十二歳までしつけられていて、現在も定期的に教育的指導を行ってきたのだから、拒否反応ばりばりでも当然だ。
──うちの母ちゃんのとこ、生まれてきてよかった。まじで。
「今回あえてこのような席を設けていただいたのは、ひとえに私の、教育的事情に過ぎません。うちの息子には、残念ながらまだ、身勝手と申しますか、いじけた根性が染み付いているようです。先生もご存知でしょうが、自分が変われば世界が一気に変わっていく、その現実を受け入れられず他人が変わるのを指くわえて待っていると申しますか、そういった甘えがまだあります。本来でしたらそういう意識を矯正するのが親ですし、私が全身全霊で正すべきなのですが、ご存知の状況ゆえにそれもままなりません。もちろんあの子の父親にあたる人とも連携を取っておりますけれども、こういう目に見える形できっちりと学ばせるのは至難の業でもあります。ですから、今回、申し訳ないのですけれども」
いきなり菱本先生に向き直った。桃太郎が家来の犬に命令するがごとく。
「はっ、はい」
完全にポチと相成った菱本先生。硬直している。
「今からあの子に、親として伝えるべきメッセージを全力で伝えます。おそらく親と子、母と子、ふたりきりのところでは甘えもでるでしょうし、私も感情的になる恐れがございます。ここでしたらあの子の信頼しているお友達がいて、上総のことを本当の意味で心配してくださる大人たちがそろっております。あの馬鹿息子も逃げ場がないまま、もしかしたらわがままな本性をさらけ出すかもしれませんが、それでも決して嫌われることなんてないのだという事実を受け入れることができるかもしれません。簡単なことではありませんし、この一度きりですべてが変わるとも思っておりません。ですが、まったく何もしないよりはましだと認識しております。どうか、今、この場で、親としての言葉を伝えることをお許しいただけますか?」
立村の母は再度ゆっくりと面々の顔を見つめ、最後に菱本先生へ問いかけるような眼差しを向けた。はっきりとした口調で、間違ってとらえる余地のない言葉と凛とした響きに生徒相談室は包み込まれた。呼吸すら許されないような気がしてきた。
──許せないなんて、誰が言えるってかよ。
発言すらできないこの空気をあっさり破ったのは更科の甘ったれた声だった。
「先生、立村くん連れてきました」
扉が開いた。立村がうつむいたまま立ち尽くしていた。後ろに更科らしき奴がちょろちょろしていたがすぐに見えなくなった。
「上総、早くこっちに回ってきなさい」
べっぴんさん……立村の母は自分の息子に呼びかけた。
声音が完全に変わった。今まで発していたものとは違う、凄みのある声だった。