第二部 51
菱本先生は美里の分、ジュースの缶を冷蔵庫から取り出した。都築先生は入って来ず、三つ巴の事情聴取を改めて仕切りなおす形となった。
「まあ、心配だよなあ、清坂」
「慣れてます。大丈夫だと、思います」
妙なところで句点を入れるようなしゃべりかたを美里はした。
「長いつきあいだもんなあ。だいたいわかるか、あいつのことが」
「わかりませんけど、ただ、私からすると立村くん、単に寝ちゃっただけだと思います」
──何お前のんきなことほざいてやんの、いざとなったら泣き喚くの美里だろが!
見えない手で貴史なりに美里の頭をはたいてやる。もちろん超能力なんてありゃしないので美里はちっとも答えない。
「都築先生も念のため確認したみたいですけど大丈夫だって、そんな感じで」
「まあ、頭だからな、念には念を入れてってとこだがな」
ふたりの会話から推測するに、立村が病院送りになる可能性が低くなったと考えていいのだろう。もちろんそうであってほしい。ただ親を呼び出すほどの大事であることも事実だ。背負った時に微かな反応こそあったけれども、貴史が呼びかけた時はずっと目を閉じていた。そのことがまだひっかかっている。
「いただきます」
缶を受け取り、美里は静かにガラスのテーブルに置いた。開けようとはしなかった。
「どうせなら清坂、お前もここにいるか」
「もちろんです」
あっさり答えた美里は貴史の顔を覗き込んだ。
「ってことは、親呼び出しということになるんですか」
「ああ、そうだな。立村のお母さんもいらっしゃる。理由はともあれ、この学校での暴力は校則違反で、それなりの処罰が必要になるからな。羽飛にも説明していたところなんだ」
「でも、それじゃ、附属高の内定は」
言いかけた美里に、菱本先生は置いたままのジュースを片手に取り、口をあけて手渡した。
「安心しろ。そういう罰じゃない。まあ飲め」
「酒勧めてるんじゃねえんだから」
思わずつぶやくと、菱本先生の手が軽く貴史の頭に飛んできた。痛くはなかった。
「つっこみできるようだと、もう少し事情聴取してもよさそうだな。羽飛、さっきの続き話せよ。いいな」
美里が来る前にある程度口走ったけれども、それは理路整然としたものではなかった。
ただ、どうしようもなくのどが詰まってあふれ出しそうでならなかっただけの言葉のみ。
今、美里が隣で見ている前でそんなこっぱずかしいことを繰り返すのは、なんとなく抵抗がある。うまい言葉が見つからずガラスのテーブルを見下ろし、透ける自分の靴の先を見つめていた。
「あ、そうか、もう聞いたもんな。それはそうと清坂、お前は羽飛と立村とのやりあいを教室で見ていたということなんだがな、正直どう思った?」
意外と切り替え早く、菱本先生は美里に話を持ち出した。
やはり口をつけずに美里はまたテーブルにジュースを置いた。ちろと貴史を見やり、
「ずっと、私たちが話し続けてきたことだし、どっちがどっちとも言えないと思います」
「話し続けてきた?」
大きく頷き、美里は言い切った。
「喧嘩両成敗だと、私、思ってます」
何度か美里は貴史を横目で見ながら、話を続けた。
「卒業文集のことでもめるだろうってことは、先生が企画した時から私、覚悟してました。立村くんの性格から考えて嫌がるだろうってこともわかっていたつもりです。でも、立村くんのわがままを通すわけにもいかないし、三年D組のみんながまとまって卒業する方が優先かなと思って、そのまま進めていたんです」
菱本先生は何も言わずに美里に頷いていた。貴史に対しての姿勢とほとんど同じだった。正直、珍しかった。
「班ノートって一年の時のものしかなかったと思うんですけど、その中で立村くんが思い出したくなかった部分があって、本当はそれを省くつもりでいたんです。私も、貴史……羽飛くんもその時のこと覚えていたし、立村くんがいやな思いするのもつらいだろなって。でも、彰子ちゃん……奈良岡さんがそういう部分こそ本当は出すべきなんじゃないかって言い張って」
「奈良岡がか、そうか」
すでに貴史の中では苦手女子に分類されてしまった奈良岡彰子の顔が浮かんだ。決して悪い奴ではない、文集の話が出てくるまでは南雲にはあまりにももったいないお嬢だと見込んでいたのだが、もうそれは過去の話になりつつある。
「彰子ちゃんもきっと、立村くんがひとりぼっちになってしまうのをなんとか食い止めたかっただけなんだと思うんです。私も、一年前だったら彰子ちゃんとおんなじことしていたんじゃないかなって。けど、もう二ヶ月しかないし」
「二ヶ月か、お前らにとってそんなに短いのか? 二ヶ月という期間は」
「短いに決まってます!」
思わずふたりで声がそろった。もちろん「短い」の部分だけだったが。
「いやあお前ら意外と悲観的な考えしてるよなあ。老けてるぞそれじゃあ」
菱本先生がひざをもみながら、さらに美里に問いかける。
「卒業まで、確かに二ヶ月を切っていることは確かだし、卒業したらみんなばらばらになってしまうのもその通りだがな。でも立村との間をなんとかするためには十分な期間だと思うがな、ふたりともそう思わないのか?」
「先生、俺たち三年時間かけてるんだぞ」
割り込んでやった。本能だ。菱本先生は首を振り、貴史にも顔を向けた。心なしかさっきふたりっきりで話をしている時よりは日差しがほんわかと顔にさしているような感じがした。窓辺に日が差したのかとちらと思うも、相変わらずの白い雪模様に幻と気づいた。
「まだ時間がありそうだし、話しとくか。羽飛、清坂。お前たちふたりが一生懸命立村のために尽くしてきたことはよっくわかるんだ。あの不器用な立村をなんとかクラスになじませようとして、ある時は評議委員に押し込んだり、ある時は仲間内で噂を封じ込めようとしたり、大人から見てもずいぶん手の込んだやり方を考えているじゃないか。正直俺も、最近気がついたことばかりなんだがここまですごいとは思わなかったぞ。このまま社会に出たらお前ら、企業小説の主人公ばりに活躍できそうなイメージだけどなあ」
「何それ、企業小説って」
今度は貴史の方から美里を覗き込んだ。まだ手つかずのジュースをくすねようと手を伸ばすも、即座にはたかれた。やはり、もらったものは飲む気なのだ。肝据わっている。
「ただな、タイムリミットお前らの言う『二ヶ月』を切った段階でもうひとつ気づかねばならないことがあったと、そういうわけなんだよ、わかるか羽飛、清坂?」
同時に首を振った。それしかない。
「立村じゃない、お前らふたりの気持ちだよ」
──何言ってるんだ菱本さん?
美里も貴史に足で軽くけりを入れてきた。どつく意味のものではなく、「なんだろ?」の単語をつま先に詰め込んだだけの、あっさりしたものだった。
「気持ちって何ですか?」
声を低くして美里が問い返した。本当にわからないのだろう。貴史からするとなんとなくだがつかめてくるものがある。たぶんそれは美里自身の問題だ。断じて貴史のものではない。
「その前にまず清坂、ジュース飲め。飲みこれないなら羽飛とはんぶんこしろ。お母さんたちがいらっしゃる前に缶を片付けておきたいんだよ実は」
だんだん暖房が効いて来たせいか、のども渇いてくる。貴史は即座にテーブルのジュース缶を引ったくり半分飲み、美里に渡した。
「とりあえず、義務果たさねえとな」
「貴史、あんた、こういう時でも飲むもんは飲むのね」
珍しく怒鳴らなかった。美里はわざとらしくため息をつくと、受け取って一気に飲み干した。
「あーあ、おいしかった! ごちそうさまでした!」
缶を菱本先生に渡し、再度水入りとなる。
──けど、菱本先生は今まで立村が杉浦を追い掛け回していたことを信じ込んでたんだなあ。
まだ美里はそのことに気づいていない。てっきり貴史も立村の横恋慕事件が一部の杉浦応援女子たちによるガセネタであることをすべての連中が気づいているものだという前提でここまできた。それでも無視する女子たちに対してずいぶんむかつく奴とあきれたりもしていた。しかし、肝心要の菱本先生が勘違いしていたとなると、ここから先はどう動いたらいいのだろう。
二本目の缶をくずかごに入れた後、菱本先生は椅子に座り直しひざを軽く開けた。同時に今度はふたりに目線をやりながら両手をテーブルに置いた。
「なぜ、今になって奈良岡がそんなことを言い出したか、わかるか?」
「なんとなく」
「いやいや、清坂、たぶん違うと思うぞ」
美里に対しすぐに牽制をかけると、菱本先生はさらに続けた。
「奈良岡はな、素敵な三年D組の思い出作りのために言い出したんじゃないな。そう俺は思う。むしろ清坂、お前のことを心底心配していたんだというように見えるぞ。もちろん奈良岡本人から口で聞いたわけじゃないがな、あの子の性格から考えるときっとそうだろう」
──そうきたかよ。
何回目だろう。美里と顔を見合わせるのは。わからない振りをしてみるが、なんとなく奈良岡と話をしていた時にそんなふうな言葉を耳にしたような記憶がある。
「羽飛はどう思う?」
「まあなんとなく」
「貴史!」
びっくり眼の美里に貴史は向き直った。そうするしかない。
「美里が立村と付き合ってるってことでずいぶん女子からの風当たり強いんじゃあねえのってことは、まあ、ねーさん言ってたよな」
「うそ、そんなこと私、知らない!」
「古川も似たようなこと言ってなかったのかよ。あいつならもう少し下ネタくっつけて何か言いそうだけどなあ」
黙って首を振った美里は、すぐに菱本先生に噛み付いた。
「私、そんなことないのになんで彰子ちゃんが」
「いや、奈良岡の勘違いじゃない。本当は俺も、かなり早い段階でそんなのがあるんではないかな、と思っていたんだ。実は、なんだがな。ほれ、二ヶ月前ってのもなんだけどな」
ずいぶん菱本先生は「二ヶ月」という言葉にこだわる。
「まず清坂についてはこれがひとつなんだ。それと羽飛、幼馴染の心配ばかりするんじゃなくて、お前もだぞ」
「はあ?」
「お前にも、女子たちから風当たり強くなかったか?」
「例えば?」
「なんで羽飛は評議委員にならなかったのかってな、そういうことは」
「言われた」
いらいらするくらい何度も言われ続けた言葉だ。つい三十分くらい前にも、保健室で寝ているあいつからも。
「立村からも、耳たこ」
「やはりな」
「けど、これも俺が何度もそんなことねえって、何度も、ほんっとに何度も三年間」
「わかった。そういうことなんだ」
強引に菱本先生は話を終わらせた。うっすらと笑顔がにじんでいた。立村の様態がどうなのかはっきりしないというのに、ずいぶんと脳天気な態度だ。
「まず優先順位をつけることにしような。まずはさっきの張っ倒し事件。あれはどう考えても手を出した羽飛が悪い。ということでまずは謝れ。反省ももちろん」
「してるよもちろん」
急にせり上がってくるのど元の塊。忘れてはいけないのに、つい美里交えて話しているうちにお気楽になってしまった自分をののしりたい。
「だがそれとは全く別の問題が残っているんだ。ちょうど清坂もいるし立村もじきに元気になるだろうし、それからでも遅くはないと俺はD組の担任としてそう信じている。二ヶ月あれば十分お釣りが来る内容だとな。今まで班ノートだとか文集だとかまどろっこしいことばかり試してきてなんだか、まずは羽飛の土下座から始めるとするか。いいな、きっちりとさっき俺に言ったことをマイルドにして、その上できっちり謝れ。まずはそこからだ」
「先生、それなんですか。ほんっとに私、わからないんです。彰子ちゃんが私のことかばってくれたことと、二ヶ月で片付くってこととそのことがぜんぜん」
まだまだ美里は言い募っている。わかりたくないのだろうか、それとも本気でわからないのだろうか。窓辺の雪ががっちりと外の景色を消してすりガラス状態に張り付いているのと同じように、美里の中にもあのようなフィルターがかかっているのだろうか。菱本先生が立村の過去について誤解していたような、レースのようなものが。
「美里、やめとけ。あとでどうせわかるだろ。どっちにしても」
「だって、変だよそれ」
「まずは立村だっての、立村、あいつ、ほんっとに大丈夫なのかよ! 先生、さっき都築先生が立村意識あるって話、していたけど、それってただ気がついたってだけじゃなくて、まじで動けるってことなのかよ、それはっきりしねえと俺だってどうしようもねえよ」
声が震える。そうなのだ。一番知りたいところは実はそれなのだ。
「だから私も言ってるでしょが! 大丈夫だって!」
「お前医者じゃあねえだろ!」
怒鳴りはしないが苛立ちだけは伝えたい。声にため息セットで混ぜて美里に答えた。美里の顔がまたぶんむくれ出すのを菱本先生も勘づいたのだろう。両膝をたたいて立ち上がった。
「羽飛、わかった。そりゃ心配だわな。俺も直接立村の様子をのぞいてくるから、まず安心しろ。ちょっと待ってろ。保健室行って来るよ」
それでもやはり、蛍光灯に照らされた菱本先生の顔にはほんのり笑っているようなところが見られた。先生が出て行くや否や、美里はまた貴史に尻ひとつぶん張り付き、
「あんた、ほんっとに私のこと信用してないでしょ」
「そういう問題じゃねえよ。親呼び出しだぞ、親が来るってことはどうなるって」
「だから、何回説明したらわかるのよ。立村くんは大丈夫だから。いつものことよ。またいつものようにひっくり返って寝た振りして、私たちと口利かないようにしようって決めているだけよ。他の人たちは立村くんのいつものパターンにだまされてるだけ。私絶対そう思ってるから」
そこまで一気に言い放った。
「へえ、そこまで言うなら証拠なんぞあるんかよ」
「勘よ。あんたと一緒に、三年間立村くんとぶつかってきた経験からに決まってるでしょ」
なんでこうものんきなのかわからなかった。本当なら大泣きしていいはずなのだ。美里はもともと立村の彼女なのだから。いくら貴史と親友だとしても、文句ひとつ言ってもいいはずなのに、なぜこうも落ち着いているのかが見当つかない。むしろ、保健室でも都築先生にはりついて細かく言い募っていた更科の方がずっと普通の反応に思える。
「更科くんねえ。あんなにぴりぴりしてたとこ、初めて見たよ。それとあんたもだけど」
伝えると美里も頷いた。すぐ貴史へと矢印が向いた。
「打ち所悪かったら今頃救急車で運ばれてるに決まってるじゃないの。都築先生だって保健室の先生なんだもの、変だったらすぐに気づくわよ。立村くんがいじけるかもしれないからただ気を遣っているだけよ。たぶん、すぐ起きてくるわよ」
もうしゃべるのも疲れた。貴史は無視して大きく深呼吸をひとつした。
──顔、見るまで安心できるわけねえじゃねえの。ったく、女子って都合のいいことばっか信じちまうんだろうな。
拳の痛みは消えている。でもすぐに蘇る。グーパーグーパー、何度も繰り返した。
「羽飛くん、一応立村くんの状況だけど簡単に説明するね」
現れたのはふたたび都築先生だった。菱本先生も一緒だった。足早に向かいのソファーに腰を下ろした。菱本先生はどっかりと、隣の都築先生は比較的浅く。白衣のままだった。
「立村くんは意識あるわよ。それどころかすぐに起き上がれるみたい。本当に軽い脳震盪を起こしていたらしいけど、すぐに元に戻ったし特に打撲もなかったわ」
そこまで説明した後に、断言した。
「悪いけど、ご家族呼ぶほどでもないわよ、あの程度なら。菱本先生には申し訳ないんですけど、ちょっとぶつかって腰抜かして動けなくなっただけ、と判断していいんじゃないでしょうか。たぶんあまり立村くんはそういったぶつかり合いの経験が少なくて大げさにこけてしまった可能性があります」
他人事なので当然だが、ずいぶんこの人もあっさりし過ぎている。
「ほら、わかっただろ。保健の先生がそこまで言うならまず大丈夫だろ。ということで、都築先生、大丈夫そうならこの場に立村も連れてきてもらえますか」
「ええ、いいですよ。お母様がいらしてからの方がよろしいですか? それなら、連絡もらえればすぐに連れていきますよ。今、三年の男子生徒が側で様子見てますから」
──様子見ているってことは、つまりそういうことだろが。
「わかりました。それでは僕もこれから行きますんで」
美里はあっさり納得している。菱本先生も問題ないと判断しているかのようだ。しかし目の前に立村がひょっこり現れない限り、どうしても信じたくないと心で叫んでしまう。顔を出されたからといって、自分のすることはひとつ「悪かった!ごめん!」しかない。その言葉を発して果たしてあの氷の眼差しがころころと溶けて転がるだろうか。それは考えられない。むしろころころ転がったものがガラスの破片みたいに散らばってさらなる大惨事を起こしそうな気がする。子どもの頃読んだアンデルセンの童話を思い出した。あの話はなんだっただろう。確か「雪の女王」だったろうか。
「それじゃ、まずお前らのお母さんたちを迎えに行って来る。それからだ。都築先生の話通り立村はすぐに戻って来れそうだから、ここに連れてくる。それの方が羽飛も落ち着くだろ? もう少し待っていろよ」
そそくさと菱本先生、都築先生は部屋を飛び出していった。ふたりとも特に隠し事をしているような気配はなく、むしろあきれかえっているかのようにも聞こえた。もっとも相手が誰かはわからない。
美里の勝ち誇ったような「ほーらね」視線が痛かった。心配症って決め付けているかのようだ。本当ならもちろん安心したい。けど、それが少しだけ許せないだけだ。
「やべえよ、立村、ほんと、まじで」
口に出してみた。びりり、としびれるような言葉だった。
大きくため息をつき、美里は貴史の肩をたたいた。菱本先生とは違った感覚だった。立村を背負った時のか弱い指とも異なっていた。
「そんなあんたがあせることないわよ。もっとしゃきっとしなさいよ、しゃきっと」
「美里、お前なあ」
「小学校の頃なんていっつもだったじゃないの。大丈夫よどうせ、うちの母さんも一緒にくっついてくるわよ」
「そっか、そうだよなあ」
しょうがない。ゆっくり頭に手を当ててみた。後頭部をたたいてみた。ここを打てばどのくらい脳に影響が出るのか予想つかない。今は大丈夫でも、後で、と都築先生か更科かどちらかがしゃべっていなかっただろうか。記憶をたどってみるがあいまいすぎてわからない。代わりに美里の機嫌悪げな……当たり前だが……表情に何かをぶつけてやりたくなった。
「お前さあ、一応あいつの彼女だろ。もう少しな、俺に文句言うとかな、けんかをやめてとか、普通言うだろうよ」
あの時、美里も言いたいことはあったはずだ。貴史の目から見てそれは明白だった。ただ、奈良岡を黙らせることが二人の目的になってしまった以上頭が回らなかったのも当然といえば当然だ。もし言い合いの途中で美里がぶちぎれていたらどうなっていただろう。それこそ三つ巴のバトルに発展していただろうか。可能性がゼロとは言い切れない。それとも抱きついて「お願い、もうやめようよ」とばかりお涙頂戴パターンで乗り切ろうとしただろうか。美里は何一つしなかった。ただ黙って班ノートをチェックするだけだった。
「私はそんな甘くないの。おかしいことはおかしいってはっきり言うの。彼氏であってもなくてもよ」
ということは、美里なりに貴史のやり方を受け入れていたということか。それなら納得だ。ふと肩をこちらから組みたくなった。そんな雰囲気ではないのでもちろんやめた。菱本先生相手とは違う。曲がりなりにも美里は女子なのだから。
いや、女子だけど、やはり女子っぽくない。それが美里だ。
「けどなあ、いくらなんでも『急所だけははずせって言ったでしょう』はねえだろ?」
「事実じゃない。あんた、ちゃんとそれは守ったみたいだけどさ」
「かわいくねえなあ」
「鈴蘭優とは違うからね」
ぽんぽん会話が続いていく。美里はいきなり話を切り替えた。
「あのさ、『砂のマレイ』の作者失踪事件あったじゃなあい? 半年間連絡つかないから、スタッフさんたち『砂のマレイ』の続編映画できなくて困ってるんだって! 貴史、あんたその後の話、知ってた?」
──俺たちも三年間、立村と連絡つかない状態みたいなもんだよな。ったく。
一瞬そんな思惟がよぎって消えた。すぐ忘れた。
立村への不安も『砂のマレイ』作者失踪事件半年後の現実を美里と語っている間は忘れていられた。しゃべり続ける美里に、貴史はひっぱられていく。美里は貴史を『砂のマレイ』ネタでもって包み込もうとしているようだった。
部屋正面の窓べはすでに雪の白さで二重、三重に覆われていた。