第二部 50
立村を保健室まで運び、まずは片手に触れてみた。
「大丈夫か、立村?」
肩越しに目を閉じたままかすかに頷くようなそぶりを見せた。意識はしっかりしている様子だった。扉を更科に開けてもらい、立村を背負ったまま一礼した。
「さっき轟さんきたと思うけど、こういうことなんで」
貴史の代わりに即、更科が状況説明をしようとした。さくっとさえぎられた。
「どうせまたけんかでしょ? ほら、立村くん寝たふりしないで。こっちのベットに寝せてちょうだいね羽飛くん。あ、それと更科くん、菱本先生には連絡した?」
「あ、たぶん轟さんやってくれてるはず」
都築先生は貴史の肩ごしに立村を一目見るなり、あっさり笑顔を浮かべた。たいしたことないと判断したかのように見えた。貴史の目からすると全く目を開けないところに不安をびしばし感じるのだが。まずは白いシーツに立村を座らせ、そのまま横たえた。自分から寝返りをうつ気配はない。
「気絶してるのかしら?」
「いえ、さっきちょこっと反応してて」
貴史が説明しようとしたのをまた更科がさえぎった。
「確かに最初は立村立とうとしたけど、途中でばたんとなっちゃったから、もしかしたら頭打ったんでないかなとか思ったんだけど、先生」
「頭、って後頭部?」
更科が大きく頷いた。都築先生のお気楽仮面が不意に翳った。
「そっか、ちょっと見せてもらうわね。立村くん、頭は痛くない? 他のところは大丈夫?」
一応は確認をするらしく、額に手を当てたり何か尋ねたりしている様子ではあった。貴史の隣で美里が無言のまま立ち尽くしている。やり取りしているのは都築先生と立村本人、そして更科のみだった。ただ立村からの答えはなかった。完全に気を失っているようにも見える。不安げに更科が立村を覗き込み、交互に都築先生を見やっている。チワワな笑顔は封印されたままだ。
「そうね、たぶん大丈夫だと思うんだけど……」
「たぶんって、やはり断言、できないんだ」
いきなり友達言葉になる更科の口調に、都築先生との禁断の噂を裏付ける何かを感じる。ただそんなことをかまっている暇がないのが、今目の前で寝ている立村、というわけだ。
近づいてそっと見下ろしてみた。立村は再び目を閉じたまま身動きせずにいる。
「先生、やっぱり立村、病院で観てもらったほういいんじゃないかな。まじでまずいよこれ」
更科は貴史と都築先生を交互に見ながら病院送りを主張し続けている。
──けど、こいつ、反応したぞさっき。意識はあると思うぞ。
気を失ったふりをしているのか、単に眠ってしまったのか、どちらかだろうと貴史は踏んでいる。なんでもないならせめて反応しろ、そう叫びたい。でも立村のまぶたは全く動かない。
白衣姿の都築先生はしばらく黙っていたが、
「私は大丈夫だと思うんだけどね。まずは菱本先生と相談するわね。ということで悪いけど更科くん、清坂さん、羽飛くん、ちょっと部屋から出てもらえる?」」
決断を下すのに迷いがあるらしい。思わずかじりつきたくなった。
「都築先生、立村の様子、ほんっとに大丈夫ですか」
隣の美里はやはり無言だった。
「私は大丈夫だと思うけど、やはり、担任の先生と相談しないとね。あ、立村くん頭が痛いならはっきり言ってもいいのよ。立村くん、立村くん?」
再度問いかけるがやはり返事はなかった。答えを確認できないまま、美里と更科、その他の生徒たちは保健室から出て行こうとした。
「貴史、あんたも早く」
初めて美里が貴史に呼びかけた。
「いや、こいつが目覚めるまで俺ここにいるわ」
迷惑そうに都築先生が顔をしかめたが、動く気なんてさらさらなかった。
もう一度枕元にしゃがみこみ、真っ白いシーツの上で眠りこけている立村の顔をじっとみやった。さっきぶんなぐった向かって右の頬が微かに赤らんでいるようだった。正真正銘のストレートパンチはまさか、脳天まで響き渡ったのだろうか。
──立村、ごめん、痛かったよな、わかってる。
のどに謝り言葉のもちがつまり、苦しくなる。首を絞められたかのように涙がぎゅうとにじんでくる。歯を食いしばり、立ち上がり、そのまま上から見下ろした。
──俺、まだお前と話すこと、話したいこと、いっぱいあるんだ。なのに、なんでだよ。
張っ倒した瞬間はこんな大事になるなんて思っていなかったのだ。ただ追いかけて、一発食らわせれば奴も正気に戻ると信じていた。何かがあるたびいつも逃げ出す立村の雁首をしっかり押さえて、ふたりきりのところでとことん語りたかった。再起不能になるまで叩きのめすつもりなんてなかった。あれだけ手を出すな、急所を狙うなと注意されてきたのになぜあんなことをやらかしてしまったのだろう。
「あ、先生」
都築先生の声に振り返ると、菱本先生が勢いよく扉を開けて飛び込んできた。
「すいません遅くなって。おい、羽飛、立村」
「あの、立村が」
またのどが詰まる。首を振るのがやっとだった。
「大丈夫か」
肩に手を置かれた。最初の「大丈夫か」は貴史宛に、次の「大丈夫か」は立村に。最後に「意識はありますか」の問いは都築先生に。
「さっき見た限りですと、意識はあります。一応大事をとって病院に連れて行ったほうがいいかもしれないのですが、ほら、立村くん、寝たふりしないでほら起きてみて」
返事はなかった。
「そうですか、まず羽飛、廊下で待ってろ。まず詳しい話を聞かせてもらうからそれまで待機しろ。それで都築先生」
いらだった表情だが、それでも貴史には柔らかに指示を出した。都築先生を捕まえてなにやら小声で質問をしているようだった。貴史が出て行く時にはまだ、立村の意識は戻っていないかのようだった。どうみても「寝たふり」しているようには見えなかった。
廊下には三年D組の生徒たちをはじめ、一部の下級生たちもそれぞれ細かな団子状態でたむろしていた。グループといったまとまりではなく、三人程度で固まってはひそひそ話をしているような状態なのだろうか。美里が貴史を手招きした。そばには奈良岡もずでんと居座っている。思わず目を逸らした。今はできるだけ視界に入れたくない奴だった。
「羽飛くん、立村くんの様子は?」
一応保健委員の義務もあるのだろう。問いかけてきた奈良岡に、必要最小限のことだけまずは答えた。
「寝てる、気を失ってる、そのどっちか」
「気を失ってるって、そんな」
思わず息を呑む奈良岡と、その周辺の女子たちと。こいつらのせいと言っても過言ではないと思うものの、結局手を出してしまった自分の罪が軽くなるわけでもない。美里は貴史の顔を覗き込みささやいた。
「大丈夫よ、だって都築先生言ってたじゃない。寝てるふりしてるだけだって。きっとね、ちょっとぼーっとなっちゃってるだけよ。たいしたこと、ないんだから」
「お前ほんとにそう思ってるのかよ」
言い返した。美里の目つきにはまだきりきりしたものが混じっている。貴史だってもちろんそう信じたい。ただ、あいつが意地張って俺のことを無視しているだけなんだと。でも、結論が出ていない以上何も言い返せない。
「大丈夫だよ、羽飛くん。私、ちゃんと説明するからね」
「説明、ってなんだよ奈良岡」
あんまん姫はきわめて冷静に答えた。
「菱本先生に、何があったかを説明すれば、きっとわかってくれるはずだから。私、あの時、羽飛くんがああせざるを得なかった気持ち、すっごくわかるよ。だから、きっと」
「うっせえ! お前に何がわかるっての」
声を荒げて思い切り足踏みした。がきっぽいとわかっている。でもどうしようもない。貴史の背中にはさっきまで背負っていた立村の温かみと重さが残っている。目を閉じたまま身動きしない真っ白い顔とがまぶたに焼き付いている。
「羽飛くんはね、やるべきことをやったんだよ。たまたまそれで」
ぶちぎれそうな言葉をすべて聴く前に、保健室の扉が開いた。扉側に立っていた女子数人がドアにはさまれそうになり、半分跳ね返された。菱本先生だった。顔は明らかに土色に染まり、目が赤らんでいた。
「先生、立村くんは?」
美里が飛びつこうとするのを制し、奈良岡が割って入った。
「先生、今回のけんか、私たちみんな見ていたんです。あれは絶対に羽飛くんが悪いんじゃないんです。羽飛くんはただ、立村くんにわかってほしかったからああいうことになっちゃっただけなんです。D組の教室で文集作っていた私たちみんなが証言します」
「余計なこと言うんじゃねえ!」
割り込んでも無駄だった。貴史がわめこうとするのを今度は更科が肩に手をかけて止めにきた。美里だったら振り切るが、他クラスの評議委員となれば邪険にもできない、因果だ。
「私、立村くんが過去のことをきちんと整理して、もう一度クラスのみんなになじんでほしかったから羽飛くんと協力してぶつかったんです。でも、立村くんには無視されて、みんな怒っちゃって、でも羽飛くんだけはなんとかして立村くんと真剣に話をしようとしたんですよ!本当なんです」
「そうか、そうか」
軽くあしらうように見える菱本先生の言葉だった。その目は奈良岡から貴史に向けられ、また奈良岡に戻された。ばつが悪い。
「でも、立村くんは馬鹿にしたような言い方で羽飛くんを無視したんです。大げさじゃないんです。それで羽飛くんはかあっとなっちゃって立村くんを追いかけて、ってことなんです。誰だって、真心こもった言葉を無視されたら羽飛くんみたいに怒っちゃっても不思議はないと私、思うんです。本当です先生。立村くんの言い方がもう少し思いやりあれば、羽飛くんもこんなに怒らないですんだと思うんです。もちろん暴力は悪いことだと思うんです。でも、羽飛くんがそうしたくなった気持ちも、私はわかるつもりです」
最後のほうはしゃくりあげながら言い切った奈良岡に、菱本先生はもう一度大きく頷いて見せた。
「わかった、奈良岡、ありがとう。詳しいことはこれから確認するが、まずは羽飛、ちょっと来い。まずお前からの事情聴取だ。職員室にまず来い、そこからだ」
当然貴史は大きく頷いた。菱本先生からの事情聴取は望むところだった。
「それとここでたむろっている生徒は至急、下校するように!」
拍手を叩くように菱本先生は他の生徒たちにも呼びかけ、最後に貴史の肩を抱くようにして廊下をつっきって行った。いつのまにか他の先生たちが現れて残りの後始末をしてくれている。なんだか奈良岡の言葉からうまく救い出されたような感じがして、貴史は思わず大きなため息をついた。
「先生、立村の様子はどうなんですか」
「意識はある、ただ、万が一ってこともあるからな。まずは親御さんに連絡する。それから羽飛」
一瞬立ち止まり、まっすぐ貴史を見下ろした。
「今回の件は奈良岡の言う通りお前なりに正当な理由があるということはわかる。だがな、暴力はそれを丸ごと打ち消してしまうことにもなるってことは、わかるよな?」
頷くしかなかった。青大附中の原則として暴力は軽くても親呼び出し、下手したら退学に値するないようのものなのだから。今まで奇跡的に大立ち回りをやらかさないですんだのは、たまたま運がよかっただけだろう。今更ながら菱本先生の言いたいことが飲み込めた。
「うん、親呼び出しは覚悟してます」
「そうだな。わかってるな。立村の様子そのものは、俺が観た限りたぶんたいしたことはないと思う。ただ頭を打っている可能性もゼロではないから場合によっては病院で検査してもらうことになるだろうな。やはり原則は守られないとな。覚悟はあるということで、いいか」
──母ちゃん、悪い、まじごめん。
卒業間際になりとうとうやらかしてしまった親呼び出しの顛末。覚悟しているとは言ったがやはり、痛いものは痛い。右手の拳を作り直してもう一度立村に触れた瞬間を感じ直した。あいつの頬はやはり滑らかなままだった。
職員室に入り、貴史は菱本先生の机前で待機していた。
「立村上総くんの、お母様であらせられますか、あの私、青潟大学附属中学三年D組担任の、菱本守と申します。ただいまお時間よろしいでしょうか……」
しゃちほこばった言葉でもってまず立村の母に電話をかけている。その姿を直立不動のまま貴史は見つめた。さすがに貴史の姿が目に入るとためらわれるようで、すぐに席から離れるよう菱本先生が手を左右に動かした。言われた通りにもちろんした。そこから先の言葉は聞き取れなかった。
頭を何度も下げて受話器を置いた後、次にまたダイヤルを回しなおした。
おそらく、自分の家あてだろう。
──母ちゃん、いるかなあ。姉ちゃんだけかもな。また美里の母ちゃんと一緒にくっちゃべってるだろな。
ちらと菱本先生が貴史に目を向け、また受話器に何度も頭を下げているのが見えた。
──俺が悪いのは承知してる。けど、やっぱり今回は立村とのかかわりもあるよな。どう説明すればいいかだよなあ。俺、やっぱり立村の母ちゃんに土下座すべきだろうな。あのすっげえべっぴんな人、俺のことすっげえ怒鳴るかもしれないよな。
一度だけ会った、あの目がぎらぎらしている、歳のちょっとだけ離れたお姉さんのような雰囲気の、立村の母親。二年前に顔を合わせただけだが、決して忘れることのないタイプの雰囲気だった。わりとおっとりしている息子の立村に比べて、烈火のごとき激しさでもって周囲を焼き尽くしそうな母親のイメージが忘れられない。話を聞いている限りでは立村を超スパルタ教育しているらしいがやはり自分の息子を傷つけられたら冷静でいられるわけがない。
それに加えて今回は貴史の母にも頭を下げさせなければならない。
──母ちゃん、まじ、どうしよう。
ただでさえ陰で、「品山の男の子」とかばかにしている母が、そのふたりに自分の息子のやらかした罪でもって土下座しなければならないとは想像だにしていないだろう。貴史からしたら自分だけの問題として飲み込めばいい話だが、青大附属の生徒である以上親に全責任がかぶさってくるのは当然のことだ。もう一生の負い目になりそうな予感がある。自分の息子が暴力沙汰をやらかしただけではなく、その相手が母の軽蔑する地域に住む、あまり感じのよろしくないお坊ちゃまというところに、だ。
電話が一通り終わったらしい。菱本先生は貴史を手招きして耳元にささやいた。
「お前のお母さんに話をした。これからすぐいらっしゃるとのことなんだが、あの、清坂のお母さんも一緒に来るという話なんだが」
「ああ、美里の母ちゃん?」
「なんでなんだ?」
いきなり不思議そうな顔で貴史に問いかけてくる。
「いや、たぶんいつも、俺たちのことでバトルが起きると、うちのかあちゃんズはふたり一緒に行動するとこあるから、たぶん、それなんじゃあないかなと思う」
「清坂も、それ承知しているのか?」
「たぶん、いつものことだし。けど母ちゃん、怒ってなかったか?」
「ここは職員室だから、まずは敬語使えよ。怒ってませんでしたか、程度でいいからな。まずは詳しい事情を一通りお前の方から聞かせてもらう。生徒相談室に行こう。まだ少し時間があるから、その段階でまた今後について相談することにするからな」
早口に伝えた後、菱本先生はもう一度貴史の肩を抱いてささやいた。
「大丈夫だ。立村も、お前の本当に本当の気持ちはわかってくれるはずだ。そのことはきっちりと俺もお前の母さんと、それから立村のお母さんに伝えるからな」
生徒相談室の扉を開き、まず菱本先生は暖房用の電源を入れた。目の前には雪いっぱいに覆われた窓枠が光っているのが見えた。青色がかった暗みの広がる中、蛍光灯をすべて付けると一気に部屋が明るくなった。向かい合ったソファーにいつもなら自分から座るのだが、そんな気分にはもちろんなれない。貴史が立ちすくんだままでいるのを、菱本先生は冷蔵庫から缶ジュースを取り出し片手に持たせた。
「まずは少し頭を冷やせ。急いで事情聴取と行くぞ。羽飛、まあ座れ」
言われた通り、入り口側のソファーに腰を下ろした。先生も最初は正面に向かい合おうとしたが、なぜか貴史の隣に回ってきた。顔を見合う形ではなかった。
「まず、何がきっかけだったんだ? 文集のことがきっかけだったのか?」
「それもあるけど、一応は」
言葉をつむぐのにしばらく迷う。自分をかばう言葉になりそうだった。菱本先生は入学当初から貴史のことをかってくれていて、ひいきぎりぎりのことをしてくれている。なんとなくそんな気はしていた。さらに菱本先生の結婚事情も、他の生徒たちが知らないところまで把握している。将来は酒を酌み交わせる関係になりそうな予感もある。しかし、今はやはり三年D組の担任と生徒の関係に過ぎない。子どもっぽい言い方しかできないのが歯がゆかった。
「先生、ごめん」
まずは頭を下げた。
「どうしたんだ、いったい」
ふたりきりなら敬語なしでもいいと判断し、貴史は口を切った。
「俺、先生に、立村のことについては俺がなんとかするってたんか切ったけど、結局は親とか先生とかに助けてもらわねえとどうしようもねえとこまできちまったなって」
「ああ?」
忘れているのか菱本先生は首をひねった。貴史も缶ジュース……オレンジだった……を一気に飲み干したのち、缶を両手でつぶした。
「俺なりに立村ときっちり話をして、場合によってはぶん殴る覚悟も正直あったんだ。けどそれは学校の中じゃなくて、例えばあいつの家とか、そういうとこでのつもりだったんだ」
「ああ、そうか」
ゆっくり、ゆっくり相槌を打ってくれる菱本先生。事情聴取にしては、穏やかだった。
「けど、奈良岡から、やっぱりこのままじゃあまずいってことで、直接卒業式前にクラスみんなの前でけりをつけるよう提案されちまって、それで」
「奈良岡がか」
「そういうこと」
菱本先生は大きくため息を吐いた。
「俺なりに立村と話す段取りは組み立てていたし、奴の性格を考えるとまずは無事に卒業してからじゃねえかってことも考えてた。先生はあいつをクラスになじませたいってずっと言ってたけど、あいつのいじけっぷりはそう簡単になにかできるもんじゃない。だから、俺はあいつと高校に行ってもずっとしっかり付き合って行きたいって思ってたんだ。だから、そのために、時期見計らってって思ってた。けど、奈良岡にせかされてつい、俺もかっとなったっていうか、そんな感じ」
そこまで一気に言い切り、貴史は一呼吸置いた。
「先生、立村が小学校の頃いじめられてたってこと、知ってるよな。あいつが班ノートに書く前から」
菱本先生は答えず、横でじっと貴史を見つめるだけだった。さらにたたみかけるしかなかった。
「それ恨んだ挙句、あいつが当時のクラス番長と決闘やらかして、相手に大怪我させて、そいでダッシュで逃げて、その後相手に後遺症残っちまって、ってことも知ってるよな」
知らないわけがない、そう思った。噂程度でも聞いているはずだ。
まだ菱本先生は何も答えず唇をかんでいた。
「その後、そのことを直接聞いた杉浦が、立村に被害者へ謝るよう要求して、奴、露骨に断っちまって、それで美里と古川のぞく女子たちに総すかん食っちまってってことも、知ってるよな」
「杉浦がか?」
初めて菱本先生は反応を示した。ということは、まさか知らなかったのか。
「そうだよ、だから、立村は女子たちに嫌われちまったんだよ。杉浦のこと横恋慕して追っかけまわして大ひんしゅく買ったとかいろいろ噂あったけど、あんなの全部、大嘘だって俺たちD組男子はみんな納得してるんだ。あいつには言ったことないけど、それが本当のことだったからって言っても、俺はあいつのこと嫌うわけなんかねえし、他の連中も、美里も、古川も、みんなそうだ。けど、あいつそれを信じようとしねえんだ」
「羽飛、ちょっと待ってくれ。今の話、確認だが」
話の腰を折られた。
「一年の時の話だろう? 立村が、杉浦に一生懸命アプローチしすぎて嫌われてしまったという話は、あれはもしかして、全くのうそだとお前ら解釈しているのか?」
「先生知らんかったのかよ。当たり前じゃねえの。そんなのとっくに一年終了の段階で片付いている問題だっての!」
──ちょい待て、菱本先生、まさか今の今まで、あの杉浦経由の噂を信じてたってことかよ!
もう自分の口も頭も抑えられない。手足だけはがっちりホールドしたまま貴史は勢いに乗って続けた。
「そうなんだよ、先生。立村はあの事件で思いっきり女子たちに誤解されちまったんだ。俺も美里も、火消しはしたしそれなりに黙らせたつもりだけど、でもうちの女子たちだけには通じなかったんだ。そりゃそうだよ、杉浦がずっと言いふらし続けてたんだからな。けど、杉浦も被害者の友達だったんだから、そりゃ謝らせたいってのも今ならわかるんだ。だから本当は俺が、あいつの首根っこひっぱってって、例の被害者んとこに連れてって謝らせて、その上で改めて友達になろうってはっきり言えばよかったんだ。けど、俺はそれしなかったんだ。あいつに気づかれないようにってそれなりに連絡網浸かっていわゆる『緘口令』っての?ひいたよ。先生たちにも気づかれないようにってな。けど、それは信じたくない奴には通じないんだよな。ちゃんとした、事実ってか、証拠ってのが必要だったんだよな。だからあいつが一生懸命クラスの連中に尽くしまくっても、がんばって評議委員長になっても、ばかにされっぱなしだったんだ。それ、あいつもわかってるから、ずっといじけ虫モード全開でうじうじしちまってたし。結局あいつは評議委員長からも落っことされてしまって、今みたいにいるかいないかわからない状態だろ? 奈良岡、きっとあいつのことを何とかしたかったんだとは思うんだ。だから俺のことせっついたんだ。班ノートのことをきっかけに立村に、俺がずーっと思ってたこと気づかせたかったんだ。でも、それ、ほんっとは俺がずーっと前にやるべきことだったんだ。俺が、早く、あいつに本当のことを白状させて、すっきりさせて、それから親友づきあいすればよかったんだ」
「それを、立村に言ったんだな」
貴史の背中をさすってくれた。
「そう、先生の言う通り。ぜーんぶ言った。ぜーんぶ怒鳴った。けど無駄だった。あいつ、また俺から逃げようとしたんだ。ほんとはあそこで俺も、仕切り直してさあ次って持ってこうとすればよかったんだろうけどさ、けど、やっぱし、だめだった」
ガラスの机に両手を突いた。指紋がばりばりについた。
「どうすりゃいいんだって、もう俺わからねえよ」
「そういうことか」
菱本先生は肩をがっちり抱いてくれた。
「今までずっとひっかかっていたもんが、お前の話で全部謎が解けた。長かったな、三年近くもかかったってわけか。ったく、担任として俺は失格だなあ」
「何がだよ、先生、失格なんかじゃあねえよ」
「いや、お前らがクラスメートのために懸命にぶつかっていたことを俺はずっと知らん振りしてきたってわけだもんな。俺なりに立村のことを考えてきたつもりだったけれども、それよりも何倍も、何十倍も、あいつのことを仲間として受け入れてきていたんだな。よくがんばった。殴ったことはやっぱり校則違反だし土下座する必要はあると思うが、お前の心意気だけは絶対に伝える。いや、これからなんとかしてあいつに伝える必要があるんだ。羽飛、三年間、ほんとによくがんばった!」
貴史は首を振った。背中に回ったぬくもりの温度は、ついさっき立村を背負ったものは違う肌さわりのものだった。
「先生、けど、もう俺、遅すぎるかもしれねえよ」
「いや、遅いなんてことはない。あと二ヶ月あるんだぞ卒業まで!」
がしがし背中をたたいてきた。
「いいか羽飛。お前は立村に全身全霊で伝えた。それはよっくわかった。ただその伝え方が間違っていただけなんだ。これからお前のお母さんと、立村のお母さんがいらっしゃる。その時に今、俺に言ったことをそのまま、伝えてくれ。もちろん怪我の状況にもよるから許されないことも覚悟はしとけ。ただ、お前が立村のことをどれだけ大好きで、大親友だと思っていて、あいつのことを三年間大切に思っていたことはお墨付きだってことを俺が援護射撃で伝える。暴力さえなければ、羽飛、お前のしたことは決して間違っていないんだ。これからだぞ、正念場は」
ノックが響いた。菱本先生はすぐ立ち上がり、貴史のつぶしたジュースの缶をくずかごに捨てた後、「はい?」と返事をした。
「都築です」
「どうぞ」
扉を開くとそこには白衣姿の都築先生と、美里が並んで待っていた。
「立村くんの様子についてと、あと、清坂さんが」
美里は一礼し、すぐに中に入って都築先生を招き、その上で閉めた。
「私もあの現場にいました。羽飛くんだけではなく、私からも話を聞いていただけますか」
菱本先生は貴史をちらりと見て、すぐに美里へ答えた。
「ちょうどよかったよ清坂、羽飛の隣にまずは座れ」
都築先生のみを廊下に連れ出し、菱本先生が扉を閉めなおした後、美里は貴史の隣に回りこんで座った。ちょうど菱本先生が貴史の話を聞いていた位置と同じ場所だった。貴史の顔をじっとのぞきこみ、まず一言だけ発した。
「立村くん、目が覚めたみたいだよ」