第二部 49
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──俺と立村との勝負だ。
できるだけ険悪な雰囲気を漂わせないようにしようとは思っていた。
「俺な、立村」
──ちょいとお前と一対一で話がしたいんだがな。時間あるか。
本当はそういうつもりでいた。
「あのね立村くん」
──この女め!
ああ、もう戻れない。完全に貴史にとって奈良岡彰子は期間限定の天敵と化してしまった。いったいなんなんだろうこの女は。貴史がまるくおさめようとすればするほど、先読みしてどんどん退路をふさいでいく。しかもほんわか笑顔のままでだ。どうやったら黙らせられるんだろうか。奈良岡は悪意など微塵もないといった表情で、
「これ前から、美里ちゃんたちと相談していたんだけどね」
さっそく切り出した。余裕なんて全くなしだ。
「立村くん、宿泊研修のことで、本当は言いたいこと、あったんじゃないのかなって思ったんだよね。私。他の男子たちにもいろいろ聞いたんだけど、今回の文集をきっかけに立村くん、本当の気持ちを話した方がいいんじゃないかって思うんだ」
立村は穏やかに答えた。お得意のポーカーフェイスだ。もっともそれも見た目だけというのは貴史の付き合い上承知している。
「いや、俺文集にはかかわってないから、じゃあ先に」
──先に帰したいのはやまやまなんだが、もうこりゃだめだ。
もしそんなことしたら一巻の終わりだ。あんまん姫からハブ姫と名前を変えた……貴史限定……奈良岡彰子が手を緩めるわけがない。ここはもう、貴史がひとりでなんとか片をつけるしか他にない。そうだ、できれば奈良岡が納得する形で、ある程度の譲歩は引き出してだ。
「待てってるだろ!」
きつく呼び止めた。やはりポーカーフェイスは崩れずに立村が貴史に向き直った。
「あのなあ、立村。お前、ずうっとあれから逃げまくってるだろ? 俺に対しても、美里に対しても、菱本さんに対しても。いろいろ事情があるとはあん時菱本さんにも言われたし、内緒にしろって言われたからなんも言わなかったけどな。でもお前、あのまま誤解されてて、ほんっとにいいのか?」
「誤解じゃないよ、本当のことだからしょうがない」
──ひらきなおってやんの。
本来なら貴史は立村をそのまま逃がすつもりだった。少なくとも二年の宿泊研修バス脱出事件においてはまだ、学内の出来事に過ぎない。立村がとち狂ってバスから飛び出したあの事件はまだ、誰も犠牲者を出していない。厳密に言えば美里はかなり傷ついたはずだしその後貴史もかなりドンパチやらかした。もっとも菱本先生の肝っ玉をひやひやさせて若干の寿命を縮めた程度のことにすぎない。
できれば、一年の時の、あの事件にだけは触れさせたくない。
──どうか、それだけでも開き直って頭下げて、すたこらさっさと逃げろや逃げろ。
奈良岡の言葉が果てしなく続く。立村は不思議そうに見つめつつ、それでも動かずにいた。
「私も羽飛くんの言うことに賛成なんだ。そうだよ、立村くん、このままだと誤解されたまま卒業になっちゃうんだよ。みんな心配してるしね。立村くんは気付いていないかもしれないけど、みんな立村くんが嫌われたまま卒業させたくないよって思ってるんだよ」
「嫌われた?」
「ま、そういうこと。ねーさんの言う通り、お前もこの辺で言いたいこと言っちまえばいいんじゃねえの」
じりじりしながら様子を伺った。できるだけ穏便に済ませたい。もちろんあとで徹底的に白を切るようならタイマン勝負も覚悟はしている。いつかはやらねばならない。しかし、奈良岡をはじめとする女子たちの前でそんな禁句をずらずら並べて立村をたきつけるようなことは、絶対にしたくなかった。その場にいてかまわないのは百歩譲って美里だけだ。
──ここでさ、ほんとさ、さらっと流せよ。演技できるだろ元評議委員長、奇岩城のシャーロック・ホームズ、浅野の殿様、松の廊下!
それとも、ここで思いっきり奈良岡を叩きのめすのも手だ。まあ、南雲とは次の日険悪な関係になるだろうがそんなの知ったことではない。だんだんどちらに加勢しているのか自分でもわからなくなってきた。奈良岡が穏やかにたたきつけている言葉にうそはないけれど、それを自分以外の誰かに発せられるのだけはやめてほしかった。
貴史のそばで美里は黙って立村を見つめていた。奈良岡を止めるでも、もちろん支えるでもない、ただ感情のないまなざしだった。美里にしては珍しく凍った瞳だった。
「美里?」
小さく首を振った。貴史に目を向けずに、ただ教室から出て行こうとする立村だけに顔を向けていた。立村は一切美里を見ようとしなかった。ただ静かに礼を述べるだけだった。
「気遣ってくれてありがとう、それなら先に帰るから」
「だめだよ、そんなに逃げたりしたら。みんな、立村くんのこと、心配してるんだよ」
ハブはしつこい。もうだめだこりゃ。
「立村くん、もっとみんなに心を開いたほうがいいよ。美里ちゃんだって、ほら、羽飛くんだってものすごく心配してるんだよ」
とうとう巻き込まれた。最悪の展開だ。
立村の目はゆっくりと貴史、そして美里を向き、突然能面のようなのっぺらぼうな顔つきで奈良岡を見返した。
この表情を何度か貴史は見たことがあった。いつだったろう。主に菱本先生が絡んでくる場面でだった。宿泊研修もそうだし修学旅行も、数え切れない場面で見かけた。
ただ、その表情を貴史たちに向けたことはほとんどなかったはずだ。
──俺のことを、親友と思ったことなんて一度もない、か。
不意に、奈良岡が口走った言葉が頭によぎった。
──羽飛くんだってわかってるはずだよ。立村くんは、羽飛くんを親友だって思ってないってこと。
違う、今、見切られた。
──立村は一瞬で俺を切ったんだ。
奈良岡はひたすら、「クラスの女子たちも同意見」と訴えてくるけれども、あの瞬間までは一度だって無視されたと感じたことはなかった。ぶつかりあいもあったしぶんなぐったりもしたけれど、試行錯誤の上元の友だちとして戻ることができた。
だが今、立村は、菱本先生と同じ人間として貴史たちを見た。
奈良岡などどうでもよかった。
立村の次の言葉にすべてを賭けた。
完全に凍りついたまなざしで、軽蔑しきった表情で立村は奈良岡に答えていた。
「それはありがたいと思っているけど、俺には俺の考えがあるから。それに終わったことだから」
「終わってないんだよ。立村くんひとりで決め付けるのはよくないと思うなあ。いいかなあ。去年の宿泊研修以来、女子たちは立村くんがどうしてあんなことをしたのかわからなくて、みんな信頼できないなあって気持ちになってしまったみたいなんだよ。もちろん嫌うってことはしないけど、やはり、もやもやしたものが残っているのは私もクラスの女子見ていて、そう思うよ。もちろん立村くんのように、言いたいことを無理に言わないでもいい、と思っているんだったらしょうがないけど、やはりクラスのみんなは落ち着かないんだよね。三年間、気持ちよく友だち同士として卒業したいでしょう。一緒にいろいろなことがあって、おしゃべりして、けんかして、もちろん思い出したくないことだってあるかもしれないけどね。でも、うちのクラスでいじめが起こったことが一度もないってことだけは、誇っていいと思うよ。だからね、最後の最後でみんなすっきりしないことは、きちんと終わらせておきたいんだ」
奈良岡のお題目など聞こえてはいなかった。
──立村、俺とほとんどしゃべってねえくせに。
──ちくしょう、なんだよその、目は。
とってつけるように奈良岡はふたりを指しながら、静かに告げた。
「あ、これね、羽飛くんや美里ちゃんが言い出したことじゃないよ。私が思ったこと、ふたりに話しただけだからね」
もちろんそんなことを信じる玉じゃない。立村の冷ややかさがどんなものだか、いったん恨んだら最後、決して人を許さない、謝ることなんてもってのほか、そんなことを貴史はよく知っていたはずだ。
そんな立村の弱さも含めて、貴史は友達として接してきたつもりだった。
──こいつはもう二度と俺たちとつきあう気なんてねえな。
本当に、ほんっとに、それでいいのか立村!
少なくとも立村を理解しよう、つながろう、貴史も美里も同じことを思っているはずだ。
あの浜野という番長も同じことを考えていたんじゃないだろうか。二年前の出来事でも貴史はそう読んでいた。
菱本先生は言うにおよばない。どんなに邪険にされても、担任教師以上のあったかさで立村にぶつかろうとしていた。
だれもが手を伸ばそうとして、なんどもアクションを起こして、結局あの冷ややかなまなざしで拒絶され、どんなに訴えても弾き飛ばされていたんじゃないだろうか。
あんなことしていたらずっとひとりぼっちに決まっている。
今はまだ、クラスの女子たちに昼行灯扱いされるだけかもしれない。
一年の頃から男子連中の信頼は勝ち得てきたし、これからもそれがひっくり返るとは思えない。だがこの繰り返しが続けば次はそれすら失うだろう。貴史だってあっさりシカトしたっていいのだ。美里だって嫌ったっていいのだ。でも。
──こいつを何とかしない限り話は終わらねえ!
「わかった。そうしたいならそれでいいから。ただ俺はもう話すことなにもない。だから文集委員のみなさんで、話の内容をこしらえてくれないかな。それでいいだろう」
「それは意味ないと思うよ。当事者は立村くんだもの。立村くんのためにきちんと」
「俺はそれ、本当のところ、望んでないし」
立村は静かに話を終わらせた。手を扉にかけようとした。貴史は駆け寄った。
「立村、ちょっと待てよ」
立ち止まった立村の顔を、真正面から睨み据えた。
「その言い方ねえだろうが」
喉にたんがひっかかったようで声がかすれる。すぐに目を逸らすのは予想していた通りだ。声と息が奴のこめかみにかかるようにすごんでみた。
「俺たち、ずっと今日の今日までお前の望み通り放っといてきただろう。ほんとは言いたいこと腐るほどあっても、やっぱしまずいだろなってことで、俺も、美里も、クラスの連中もみんな黙ってたんだぞ」
そのまま、うつむき加減で立村は小声で答えた。
「わかってる、悪い」
──悪い?
「悪いと思ってんのか、この!」
反射的に片手が動いた。危うく頬にパンチ食らわせそうになるのを理性で抑えた。ここはだめだ。女子の前でやらかしたら別の騒ぎになる。代わりに腕をがっちり押さえた。相手が振りほどこうとするのを五本の指でがっちりホールドした。もう一度顔を覗き込んだ。伏せ目とぎょろ目のにらみ合い。低く、声を響かせた。
「けどな、それがこの状況だってのが、お前わかってねえだろうが!」
「この状況って、でも」
「俺も、美里も、菱本さんもだ。お前のことに口出ししなければ無事仲良しD組で卒業していけるだろうってことで、何も言わないできたんだ。それ、わかるか?」
きっと立村が睨み返した。火が付いた時の目だった。氷ではない。なぜかふっと息がもれたような気がした。なんでかわからない。ただ、貴史にもその熱でなにかが融けたような感覚があった。
──そうだ。こいつがしようとしてたこと、あれだけはまだばれてないんだ。
──裏・班ノートのからくりだけは、まだばれてない。
背中から熱い、竜のようなものがよじ登ってきているようだ。貴史はすべてをそのうねりに任せた。相手が氷神なら、こちらは竜神だ。とことん、滝登りのあとで一気に流し切ってやる。全身を覆った氷の鎧を溶かす、最後の切り札だ。
「宿泊研修のことだけじゃねえ! 一年時の班ノート、お前結局何にも気付いてねかったようだけどな、もう全員あのことはばればれなんだぞ」
貴史の言葉だけが教室いっぱいに響いている。
「あのことってなんだよ」
戸惑ったように立村が答える。手ごたえあり。思わず鼻で笑いたくなった。美里に振り返ると、堅い顔で貴史を見返していた。
「美里、一年時のあのノート、取ってくれ」
即、投げてよこした。「エグザンブル」だ。九月十四日のあの日記だ。
「お前なあ、ここ、改めて読み返してみろ」
立村が黙って受け取り読み返す間、貴史は一瞬たりとも目を放さなかった。表情が変わるかどうか、白い頬が赤らむか、瞳が揺れるかぬれるか、氷が溶ける瞬間を見逃したくなかった。
立村はノートに目を通したまま動かなかった。能面のまま、崩れる気配はなかった。ただ動かないだけだった。揺らしたい、釘打ちたい。背中のうねる竜が貴史を促すようだった。
「な、これ、お前が書いたってこと、覚えてるよな」
誰も声を発しない。三年D組の教室にいる誰もが自分らを見据えているはずだ。
この「裏ノート」を知らない奴ら、ほとんどが。
「これを嘘っぱちだってことで俺たち、『裏ノート』って奴をこしらえようとしたよな」
ゆっくり、誰にも聞こえるように言い放った。
一切動かずそのままノートを見つめている立村に貴史は畳み掛けた。
「あれもうちにあるけどな、俺はそんなの持ち出す気ねえよ。あっちの方が嘘八百なんだからしょうがねえだろ」
──そうだ、証拠物件は、俺ん家にある。
わけのわからぬざわめきが広がっていく。貴史の背中には火の竜以外にも、不穏な三年D組クラスメートたちの疑問符がつぎつぎと突き刺さっていく。びんびん感じる。画鋲のようななにかを、貴史はすべて立村に放った。
「お前、素直に認めればよかったんだ。あんときに」
──俺がしくじったんだ。本当はこいつを。
「そうすりゃ、今になってわけわからん二年の女に噛みつかれなくてもよかっただろ。俺も同罪だ。お前にそう言ってやんなかったんだからな。隠すことを手伝っちまったからな。
今さらながら気づいたエラーだった。
「本当だったら全部、事実関係を立村、お前に白状させて、その浜野って奴に土下座する手伝いでもして、すっきりさせて二年に上がればよかったんだな」
立村をかばおうとした結果が、卒業間際でほころんだだけだった。杉浦加奈子は正しかった。あの時杉浦が立村を「脅迫」したことに気づいた時点で、貴史たちが「勧め」ればよかった。どんなに立村が怖がっても、絶対に友達でいることを誓ってやり、場合によっては付き添ってやり、すべてを告白させる機会を作るべきだった。たとえ立村が「裏班ノート」で保身を図る小心者とばれて女子はもとより男子連中からも軽蔑されたとしても、かならず挽回できるチャンスが来ると励まし、支えるのが本当の友達としてすべきことだったんじゃないのか。事実は事実と認めても青大附属の世界で生きていけるし、決して死なせることなんてしない。全力で守ると訴えて、なぜそれを受け入れられないのか。
「俺もガキだったしそんなことまで頭がまわらなかったのはほんっと馬鹿だよ。いくら逃げたって、結局は帳尻が合っちまうんだ。俺も馬鹿だけど、立村、お前もほんっとボケだ。なんでこの段階で、きっちりけりつけようとしなかったんだよ!」
氷は融けなかった。
「羽飛には関係ないだろう」
一言だけしか返ってこなかった。
「そいで今は、こんな風にすべてが裏目に出てるってわけなんだぞ。立村、あと二ヶ月しかねえんだぞ!」
「ああないよな、二ヶ月だよな」
何度も荒れた言葉をぶつけてみる。何度も立村をゆすってみる。発すれば発するほど立村は一本調子の返事しか返さない。まるで二年のE組にまわされたというあの杉本という女子のようだった。
「だったら今しかねえってお前にもわかるだろ! ねーさんじゃねえけどな。お前このままふ抜けたままでD組終わらせていいのかよ! 三年間評議やったお前のプライド、そんなもんなのかよ」
立村が反応しそうな言葉を手当たりしだいわめいただけだった。ふと、動いた。立村がゆっくりと貴史を見据え、微かに笑った。ほんの少しだけ頬を緩めただけだけれども。
「羽飛、本当はお前が評議委員やるべきだったんだ」
あたりが静まり返った。女子たちの「そうだよ」の声が小さく聞こえる。様子を確認するつもりはなく、ただ立村がゆっくり語る言葉だけが教室中に行き渡って行った。
続けた。
「最初から、俺は評議委員なんかやるべきじゃなかったんだ。それ、わかっていて受けた俺が悪いんだ。与えられた義務は果たす。けど、クラスの本来経つべき奴は、羽飛、お前だってわかっているだろう」
ちらと教室を見渡した後、立村は扉を開いて出て行った。誰も止めようとはしなかった。貴史もすぐには動けなかった。身体が熱い以上に、頭の上を揺らいでいるような「だよね、だよね」の響きが重すぎた。
何度も立村には言われていた。
──俺の方が評議向きだって、言ってたよな。
そのたび思いっきりどやしてやったっけ。
──なあに肝っ玉ちっちぇえこと言ってるんだっての、なあ、立村、お前が評議向きでねかったらな、だーれが評議委員長になんて選んでやるっての。なあ美里?
いろいろな問題が絡まって弱音を吐きたくなっただけだとあの頃は気にも留めていなかった。菱本先生にも似たようなことを言われたけれども、単に貴史のことを買ってくれているだけだと受け取って、いい気分になっていただけだった。
しかし、今は違う。
──三年間、俺とのつながりを、ぶっちぎったんだあいつは。
一年のクラス委員選出で、あえて貴史が美里の相棒として立村を選んだことがすべての間違いとするならばこの三年間のさまざまな思い出も「間違い」になる。立村に恋した美里の気持ちも、立村の痛みを一緒に分かち合おうとした貴史の心意気も、評議委員会でおきたさまざまな出来事を奴なりに解決しようとしたことも、すべてが「あってはならない」ことになる。それでもいいのか。本当にそれでもいいのか。
──ふざけんなって、あのばっきゃあろう!
どのくらい時間が経ったかはわからない。気が付けば貴史は廊下に飛び出していた。
立村は教室の後ろ扉前を通るところだった。
「ばっかやろう、逃げるな、こっち向けよ!」
呼び止めようとしても無駄だとわかっていた。駆け寄ろうとした。とたん、振り向かずに立村が駆け出した。すれ違う連中にぶつかりそうになり頭を下げつつ階段を目指していた。
「立村、待て! 逃げんじゃあねえ立村、立村待て!」
廊下を全力でつっぱしって規律委員の南雲あたりに違反カード百枚切られたって知ったことじゃない。他の組の男子にまた立村がぶつかりそうになり、律儀にも頭を下げている。そんな礼儀を保つ余裕があれば立ち止まれるはずだ。貴史とさしで話ができるはずだ。なのに逃げる。
「いいかげん逃げたって逃げられねえんだぞ、もう、いいかげん、こっち向けっての、立村!」
三度目に立村がB組の女子にぶつかりそうになった時、貴史は右手で相手の肩をしっかり押さえた。思い切り振り払おうとした。反対側の手で奴の頭を押さえた。奴より背が高いのでそのあたりは余裕だ。きっと見返したその目を読み取ろうとはしなかった。自分の答えだけをしっかり叩き込みたかっただけだった。
久々に放った右拳のストレート感覚は、妙に冷たかった。
相手が瞬時に廊下という名のリングに沈むのを貴史は見下ろした。
自分の中のタイムウオッチがいつかのアンカー選考授業の時に似て、ぱたっと壊れたようだった。
目の前でひっくり返った立村はその直後、全く動かなかった。ぶつかりそうになったB組の女子が駆け寄り、恐る恐るひざまずいて「立村くん、大丈夫?」と声をかけているのを見た。そいつがいわくつきの女子、轟琴音であることに気づくのも遅かった。階段へ向かう流れが突然貴史と立村を円陣作ってまとまった。教室で感じたのとは違う別の疑問符が貴史を全身刺しまくった。
「ちょっと、男子同士でけんかしてるよ」
「まじ? あ、D組の奴か」
「立村と羽飛? なんでさ」
「ちょっと待て。おい、動かねえぞ」
轟がすぐそこにいたC組の更科に耳打ちをし、すぐその場を離れた。更科が改めて立村に「おい、お前起きれるか」などと声をかけている。同時に立村は頭だけなんとか動かそうとして、腰から上を斜めに持ち上げようとしている。しかし動かない。立てない。小さくうめく声が聞こえた。
──立村? おい、立村?
思わずかがむと更科が小声でささやいてきた。
「意識はあるみたいだけど」
そこまで口にした後、再度頭を支えようとした。別の女子が更科のそばに寄ってきた。冷静に更科が指示を出す。
「阿木さん、悪いけど、保健室に立村運ぶから、卒業式の件あとにするね。できればさ、保健室にベット開いてるか都築先生に確認してもらえると助かるなあ」
「うん、わかった」
阿木と呼ばれた女子はすぐに階段を駆け下りて行った。
「どうしたんだよ羽飛。立村、まじで立てないのかなあ」
目を閉じたままそれでも動こうとはしている。
「まじで頭打っちゃった? それってやばいよね」
更科が話しかけるのを立村は首振ろうとして果たせない。顔はただ白く、少しでも動くと痛みが走るらしい。何度か顔をゆがめた。貴史が手を伸ばそうとするのを更科は制した。
「立村、今から保健室連れて行くよ。だから、無理しないでいいからさ」
話しかけた後、更科は子犬っぽい表情を剥製化して貴史に告げた。
「今、トドさんが菱本先生呼びに行ってるんだ。大丈夫だと思うけどね、頭打ってたら、今俺が動かすのもまずいと思うんだ。だから、さ」
貴史はひざを付いたまま動けなかった。
──立村、お前、まじかよ、まさか。
渾身のストレートパンチだった。それは認める。
全身が滝登りする竜神のパワーに満ちていた。それも確かだ。
ただ決して、決して。
「立村、わかるか、俺だよ」
さっき殴りつけたばかりの相手に対して口走る言葉ではなかった。
「大丈夫か、おい、起きること、できないのか?」
「やめろよ、無理させたら大変だ」
厳しく更科に制された。同時にD組の連中が円陣の内側へと固まった。美里が脇に立ち尽くし、貴史を見下ろし叫んだ。
「貴史、急所と拳固だけはやめなさいって言ったじゃないの! ばか!」
そばですぐ、美里を奈良岡が支えるように肩を抱いた。
「美里ちゃん、大丈夫だよ。今から私も付き添っていくからね。羽飛くんも」
同時に美里を貴史に押しやると、更科に声をかけていた。
「更科くんさすがだね。ありがとう。菱本先生や都築先生に声かけてくれたんだね」
「そりゃ、まあその」
頭をかく余裕がある更科。
「とにかく、保健室、行かなきゃね。立村くん、意識、あるよね。あるなら返事してほしいな。自分で、動ける?」
奈良岡の言葉がすごんでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
「大丈夫だよね、立村くん、羽飛くん、今、泣きそうになってみているよ。あやまってるよ。気づいているなら、答えてほしいな」
「奈良岡さんやめなよ。今、あいつ、きっと頭が痛いんだよ。そろそろ菱本先生来るからさ、それまでこのままにしとこうよ」
「うん、でも、このままだと羽飛くんだけが悪いことになっちゃうよ。さっき私も話を聞いてたけどね、立村くんの方にもまずいことがあったんだよ、だからそのこと言わなくちゃ」
「そんなことどうでもいいだろ。今は立村、そんなことできる状態じゃないんだよ」
「でも、意識はあるよね。立村くん、返事できるよね、羽飛くん、手加減してくれたよね」
更科が奈良岡を止めようとする、しかし奈良岡は保健委員の盾でもって動こうとしない。
貴史は立村の脇で閉じられたまぶたを見つめた。かすかに動き、ぱちりと開いた。意識はあるが、貴史を認めたとたんすぐに目を閉じた。
「立村、おい、立村」
知らず知らずのうちに声が揺らぐ。
──頭、打ったなんてまさかだよな。立村。
何度も立ち上がろうとするものの動けない様子。
「大丈夫だったら羽飛くんに、大丈夫って言ってあげてほしいな」
「黙れ奈良岡!」
とうとう貴史は怒鳴った。立村の頬に顔を近づけ何度もその名を呼んだ。
「立村、大丈夫か、おい、こっち見ろよ、死ぬなよ、なあ、俺が悪かったから、頼むから起きろよ!」
──立村がどんなに俺たちを無視しようとも、俺はお前のことを見捨てたりするもんか!ああ、最初からお前が俺のことを友達だなんて思ってなくたって、たとえお前が美里のことたいして好きじゃなかったとしたって、俺はお前のことを入学式の時からいい奴だって見破ってたんだ。どんなに嫌われようとしたって、殴っちまったとしたって、わかるだろ? な、立村、俺は絶対にお前の友だちなんだって、気づけよ、な、おい、立村頼むからもう一度返事しろよ、なぜ口きかねえんだよ、おい、立村、立村。
何度か身体を動かそうとしたがとうとう立村は果てた。目を閉じたまま動かなくなった。
「やばいよ、ね、羽飛、まずいよ。都築先生も言ってたけど、頭打ってたらかえって悪化するかもしれないって!」
「黙ってろ、俺が運ぶ」
「それってもっとまずいよ、羽飛くん。更科くんの言うとおりだよ。先生たちが来るのを待とうよ」
更科と奈良岡が交互に止めた。身体が震えて涙が止まらない。声をかけ続けた。立村の背中を起こし背負った。少しずつ人がはけていき、階段に続く通路を広げてくれた。階段を一段ずつ降りながら貴史は左肩に立村の顔と手がしがみついているのを感じた。
美里だけは何も言わなかった。隣で神妙な顔をしたまま、歩幅をあわせ貴史に付き従った。立村の肩に触れようとしてすぐに手を引っ込めた。