第二部 48
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ぐだぐだしているうちになんとか五時間目も終了した。放課後の始まりだ。菱本先生もしっかり声をかけて職員室へ向かった。
「それじゃこれから文集会議やるか。奈良岡、お前は適当なとこで帰れよ」
「はーい」
手提げからよしよしとノートを取り出し始めた奈良岡を、貴史は呼び止めた。
「ねーさんちょっと、いいか」
「どうしたの」
「ちょいと」
改めて謝っておいたほうがよさそうだ。貴史は無理やり奈良岡彰子を廊下に余に出した。
「美里、お前机を少し整えとけ。すぐ始められるようにな」
「わかったやっとく」
あっさりとOKし、美里はひとりで机を向かい合わせにくっつけ始めた。
廊下は少しひんやりしていた。改めて頭を下げた。
「わりいな、少し俺も言い過ぎた」
「ううんいいよ。羽飛くんならわかってくれると思ってたんだ」
明らかに勘違いしている様子だった。奈良岡はおそらく貴史が全面協力の上、立村の説得に立ち合ってくれるもんだと思っているに違いない。
「いや、それとこれとはちょっと違うけどな。ただまあ、俺も説明すればよかったよな」
奈良岡は力瘤を片手で作るようなかっこうをし、。
「でも、羽飛くんが反対しても、私はするつもりなんだ」
「何をだよ」
とぼけてみた。まずは相手の出方を知りたかった。
「立村くんに、話すこと。きっと立村くんも、美里ちゃんのことを思えばわかってくれると思うんだ。さっきの羽飛くんみたいにね」
自信まんまんに言い放つ奈良岡彰子に、貴史は少しぞっとするものを感じた。
今まで接していてあまり思ったことがなかったので戸惑いもある。
「ねーさん、どういうことだよそれ」
すれ違う誰も邪魔してこない。みなただ自然にすれ違うだけだ。
「だって美里ちゃん、あのままだとずっと他の子たちにばかにされっぱなしで、つらそうだよ。立村くんも、きっとあんな美里ちゃん見るのつらいと思うんだ」
「あのさ、ねーさん、ひとつ聞きたいんだがな」
まずは探りを入れてみた。
「美里はどう言ってるんだよ。あいつの性格からして絶対に、立村売るようなことしねえよ」
あまり「売る」なんていい表現じゃないが、使ってはみた。
「うーん、そうだよねえ。美里ちゃんは立村くんを大切に思っているからそうだよね。私もそこまでデリカシーのないこと言いたくないよ。さっき話したのはね、羽飛くんだからなんだ。美里ちゃんをもっともっと大切にしているから、あえてね」
顔いっぱいの微笑みを浮かべて奈良岡は続けた。
「美里ちゃんには、立村くんにもう一度クラスのみんなと仲良くするチャンスを作りたいって思ったって伝えたんだ。迷ってたみたいだけど、最後には賛成してくれたよ。やはり大切な人だよね」
ここの下りがどうも、わざとらしく聞こえたのは気のせいか。もともと奈良岡は立村のことを「苦手」と言い放っていたではないか。美里には似合わないし貴史のことを親友ともきっと思っていないんじゃないかとまで、名誉毀損っぽいこと口走っていたじゃないか。あやまりはしておいたが、やはりひっかかりは捨てられない。
「ってことはだ。美里にはあいつと杉浦のことを暴露しろとは伝えてないのか」
当然、といった風に奈良岡はうなづいた。立ち止まり、お下げを揺らした。
「そうだよ。美里ちゃんきっと、加奈子ちゃんと仲直りしたいけど自分から言うつもりなさそうだもん。でもそれをしなかったらきっと、他の子たちは許せないと思うし、かならず通らなくちゃいけないとこだと思うんだよね。たぶん話の流れで加奈子ちゃんのことにも触れると思うし、美里ちゃんもつらいと思うけど、でもね、羽飛くん」
ここでいきなり奈良岡は貴史の両肩に手をかけた。えらく分厚い。熱さを感じる。
「だからこそ私、羽飛くんにお願いしたかったんだ! 美里ちゃんと加奈子ちゃんのことを仲裁できるのって、羽飛だけだもん。こずえちゃんもいるけど、今は英語の補習があるしそちらを優先させてあげたいし」
「お前さんも受験最優先にした方いいんじゃねえの」
またぶんぶんとお下げを振った。
「私のことはどうでもいいんだ! もう、美里ちゃんを悪役にして卒業させたくないんだもん。立村くんもそれさえ理解してくれれば、きっと、耐えてくれるはずだよ」
──んなわけ、ねえよ。ああもうこりゃだめだ。
この時点で貴史は奈良岡の説得をあきらめた。勝ち目はない。
奈良岡がここまで頑固だとは思っていなかった。
女子として数少ない「話のわかる奴」とは思っていたが、しかしここまで自分の意思を押し通そうとするとは想像すらしていなかった。いったい女子たちは奈良岡の性格をどこまで理解しているんだろうか。いつものあんまん姫と思い込んでいるんだろうか。
──美里も、いや南雲も。
本当ならば貴史は奈良岡に班ノートの件についてなんとか立村をからめることはやめてほしいと頼み込むつもりだった。しかしもう無駄だ。奈良岡の原動力には「美里を救いたい」という天使のような思い込みがあり、誰も正論を覆せない。しかも貴史はその美里すら気づいていない「杉浦加奈子との友情回復」をもおおせつかっているというわけだ。
事実を知ってしまえば、奈良岡もそこまで残酷なことは言わないだろうと思う。
杉浦加奈子が立村を変態扱いして信用を貶めたという事実を否定はできない。
男子たちもそのことは了承済みなのだ。
よって、立村が頭を下げて仲間に入れてもらいたがるなんてことは絶対にありえない。むしろ何で謝りたがるか、というところ一点で立ち止まるだろう。
──けど、それじゃあなぜ美里は、あんなこと言ったんだ?
戸を開ける寸前に貴史は奈良岡をもう一度呼び止めた。
「ねーさん、悪い、ひとつ頼みなんだけどな」
にっこり微笑んだ奈良岡に、貴史は小声でささやきかけた。
「できれば俺の方から切り出したいんだが、どうだ?」
「羽飛くん!」
「けど俺も、やること優先順位がそれなりにあるからなあ。立村がもしいて、話を聞いてくれそうだったらそんときに声かけようや」
「うん、わかった!」
いきなり奈良岡は貴史の手を両手で包み握り締めた。指がやはりふっくらして、がっちり手錠をかけられたような感触があった。
「ありがとう! がんばろうね!」
──これでなんとか、あいつがさっさと消えてくれれば、なんとか。
教室に戻ると立村はまだ教室にいた。
──さっさと帰れっての!
かばんに教科書を詰めているのだが、どうもこずえにつかまって身動き取れないらしい。こちらにも声が聞こえてくる。
「さあさ、早く始めようよ」
すでに班ノートが机いっぱいに広がっていた。美里と奈良岡がぱさぱさとページをめくり始めている。
「そっか、班ノートだよね。抜粋だよね。そうだよね」
心なしか美里の声は棒読みに聞こえる。
「一年の時、ほんと楽しかったよねえ。ね、玉城さん?」
「うん、そうだね、一番楽しかったかも」
いつのまにか文集とは関係のない女子たちが奈良岡を囲んで思い出話に盛り上がっている。
「ほら、初めての遠足の時、みんなでグスベリ摘んで食べまくったよね」
「うん、洗わないで食べてたよね。よくおなかこわさなかったよなって思うよ」
「それから合唱コンクール、ほんと燃えたよね。羽飛がひとりでおっきな声出してて思いっきり調子外れてやんの、笑っちゃった!」
非常に失礼なことを言われているので言い返してやる。
「ざけんなよ、俺だってクラス優勝狙ってたんだ」
「とうとう優勝できなかったうちらのクラス、寂しいよねえ。あ、そうだこれもだこれも」
美里は蚊帳の外、ひたすら班ノートのページをめくり続けていた。自分の班は「エグザンブル」といういわゆる「手本」を意味する名前だった。結局どこが手本なのか謎なままの一年で、班ノートの使命も一年こっきりだったが、今読み返すと結構笑えるものが多い。
「あ、これさ、私描いたんだよね」
「どーら」
美里から手渡され、ぱらぱら見返す。
「違う、表紙だよ、この猫」
「イラスト専門だもんなお前」
ちくり、と音がするようだ。
「中読んだか」
「まあね」
「じゃあとりあえず、何を載せるか選ぶとするか」
「そうだね。この日付以外だったらどれでもいいよ」
奈良岡彰子の目を盗み、美里は静かに貴史の下へメモをよこした。
「……そういうことな」
──十一月十四日前後の日記はすべて排除。
◇
十一月十四日 班ノート 立村 上総
誰にも言いたくない過去はあるだろう。いじめで自殺した中学生の話を聞きながら、いろいろ考えたことがある。
僕の経験したことに多少似ていたからだ。
理由はわからないが僕はずっと「いじめられっこ」といわれる人間だったと思う。そんなに人より目立つようなことはしなかったし、むしろ引っ込み思案だったんじゃないだろうか。でも、されたことは、例の中学生とほとんど変わらなかった。
特に四年生の頃は、何度も死のうと思った。
五年生の時は、学校に毎日、出刃包丁を持っていった。
六年生の時は、あぶなく人を殺しそうになった。
追い詰められると、何をしでかすかわからないと、その時感じた。
でも僕はまだ救われていた。中学は青大附中に行くことになっていたし、過去のことを気にしないで友達になってくれる同級生がたくさんいた。
過去を振り捨てることができたと思う。
でも自殺した中学生の場合、小学校から高校までずっと、加害者の同級生と顔をあわせていなくてはならない。十二年間いじめられ続けるくらいなら、死を選ぶ彼の気持が、僕には痛いほど、よくわかる。
ただ、彼には自分を殺すよりも、相手を殺してほしかったと思う。罪になったとしても、生きている方がはるかに幸せだったと思う。
本当はこういうことを書くつもりではなかった。永遠に忘れてしまいたかった。でも、このクラスの人は、きっとそういう僕の過去をも受け入れてくれるだろうと、信じている。
◇
「あいつまだ帰らねえのかよ」
ちらっと振り返ったが、相変わらず立村とこずえは椅子にへばりついたままだった。
「じゃあ他のハッピーな思い出探るとするかね。例えば入学後の平和な日々とか」
「ああそっか、そうだよね」
美里に十一月十四日の日記が含まれた班ノートを返し、貴史はさらにページをめくり続けた。めくり始めるといつのまにか記憶がどんどんよみがえってくる。一学期半ば頃の歴史授業で「氏」で呼ぶ習慣がいつのまにか女子に対して用いられたきっかけとか、初めての委員選出時の状況とか、外の雪を無視する形でどんどん桜や若葉が生い茂ってくるようだった。
「はまるなこりゃ」
「まあね」
ふたり顔を見合わせて笑った。
目の前で盛り上がっている奈良岡の……それでもお気に入りの日記をチェックはしているらしく、丁寧にメモを取っていってはいる……一年D組時代の青春譜談義が繰り広げられている。聞くともなしに聞いていた。
当時の自分の班ノートを開いて指差し語っている。
「そうそう、これ覚えてる? 初めての宿泊研修のこと。あの時みんな私のクッキーを食べてくれてすっごくうれしくて」
「彰子ちゃんのクッキーはもう、芸術ものだもんねえ」
「だからこれ、ページいっぱいに感謝って書いちゃったんだよね」
こずえはこずえで前の席にて立村にえんえんと愚痴を垂れ流している。
「だってさあ、菱本さん言うんだよ。私がさ、英語科に進めるのは、神さまのプレゼントみたいなもんだから、この三学期必死こいて勉強しろってさ。まあね、あんたみたいに語学馬鹿ならいいけどさ、私はねえ、確かに奇跡の大逆転だったと思うよ、けどさあ、わざわざ私のためにだけ英語の補習あてがわなくたっていいと思わない? 立村、これってどう考えたって陰謀だよねえ」
「なんで陰謀なんだよ」
「いやね、なんかこれ、羽飛が私を引き離したがるからなのかな、ってさ」
──妄想激しい奴だよなあ。
さっき貴史に話したことと同じ内容を繰り返すってことは、相当文集仲間に入りたいらしい。事情が許せば入れてやれなくもないのだが、こればかりはがまんせざるを得ない。貴史も美里と顔をあわせ、さらに無視を決めこんだ。
立村もなだめているようだ。いきなり声が小さくなり、聞き取れなくなった。盗み聞きするつもりなど毛頭ない。しばらくこずえは立村に八つ当たりしていたようだが、やがて荷物を抱えて、
「あんたもまだまだやることあるんでしょうが、ま、童貞早くなくせとまでは言わないけどね、せめてファーストキスくらいは狙いなさいってね」
やはり〆はいつもの下ネタ女王様らしく決めて教室を出て行った。立村もすばやく荷物をまとめて立ち上がろうとし、ふと振り返った。貴史と目が合った。ちょうど貴史と美里が並び合ってノートを整えている真っ最中だった。
──ありゃー、こっち見たぞ、来るなよ来るな! とにかく早く帰っちまえ!
ここで変にかかわってこないでほしい。
切なる貴史の祈りである。
奈良岡がひたすら女子たちと一年時代のほほえましき思い出に浸っている間に、立村が教室を出て行ってくれればあとはなんとかごまかせるのだ。これしか方法がない。
──さっき奈良岡に、俺から切り出すって話したんだからな。
美里にも伝えていない。奈良岡は貴史から例の件を切り出し、立村を説得してくれるもんだと信じている。だから自分から動こうとはしない。しかしもし、今ひたすら語り合っているうちに立村そのものがいなくなれば、そもそも声自体が掛けられない。すなわち、切り出しようがない。その間に貴史と美里は、十一月十四日付近の日記をすっからかんになかったことにして文集をまとめればいい。あとで奈良岡に「なんで? 立村くんに話してくれなかったの」と聞かれたら、「ごめん悪い、俺、すっかりノスタルジー気分に浸っちまって、肝心要のこと忘れちまった、はっはっは」とごまかせばいい。
これしかない。
「どうしたの、貴史」
「ああ、もう、一年の班ノートこのあたりを使うってことでいいだろ?」
「そうだね、あんたの鈴蘭優への愛の内容は全部載っけるからね」
美里は棒読みで答えた。
「そこらへんをまとめて、あとで後日談っぽく手書きでなんか書き込んでもらうの。一年の思い出はそんな感じでいいよね。面白いと思うよ。彰子ちゃん、一通りまとめたから、これから先生に頼んでコピー室でコピーさせてもらっちゃおうか。ページのデザインさっさとまとめておけばあとはすっごく楽だよね」
立村はすぐに背を向け、本を改めて片付け始めた。いったいどのくらい教科書持ってきているのだろうか。とにかく遅い。こずえがいればおせっかいにも手伝ってくれるだろうが、やはりひとりだ。ちらちらこちらを見ながらも、背だけはぴっと伸ばして片付けしている。
──たったと帰ろっての!
「羽飛くん、どうしたの」
タイミング最悪だ。笑顔のあんまん姫が、仲間たちと共に貴史のそばに座り込んだ。
「あ、今、ちょうど終わったなって」
適当に言いつくろう。あんまん姫は美里にもノートを指差し、
「読み終わったんだね」
微笑つつ問いかける。
「うん、使えそうなページ整理したよ。あとで貴史と一緒にコピー室に持っていってページレイアウト作るつもりだから。彰子ちゃん、受験勉強したほういいんじゃないかな」
細い声で返事をする美里に、奈良岡はさっとメモを拾い上げた。
「どーれどれ、どうかな。あれこれ、日付でメモ入れてるの?」
「うん、そうだよ。すべてのページ載せるなんてやっぱり無理だもの。ほら、貴史の鈴蘭優伝説のとこはぜーんぶ載せたよ」
貴史に目配せしながら頷く美里。
「そっか。ありがとうね美里ちゃん。でも私も、昨日ざっと目を通して使いたい日記チェックしといたんだ。私も一緒にお運び手伝うよ」
──全く、同時ねえよこの女。
奈良岡彰子に「この女」と感じたのは今回が初めてだった。とにかく立村の腰の重さにただいらだつ。話が片付く前にとにかく教室から消えれば、少なくとも今日は乗り切れるはずなのだ。頼む、頼むから、神様仏様立村様。
しばらく奈良岡彰子はメモと、いつのまにか用意した自分用のノートを取り出して日付を合わせ始めた。
「あれ、彰子ちゃん、どうしたのそれ」
「うーんとね、ちょっと気になるんだけどいいかなあ」
しばらく首をかしげ、「ちょっと見てくれるかなあ」と後ろに立っている玉城にノートを指差し、
「玉城さん、十一月ってこんなに少なかったっけ?」
「うん、ちょっとこの班の十一月って少な過ぎるよね」
しばらく頷き合っていた。すぐに美里へ向き直り、
「ううんとね。美里ちゃん、ちょっと気になったんだけど、『エグザンブル』の班なんだけど、十一月って三日分しか日記選んでないよね。八月とか三月とか、休み中ならわかるんだけど他の月が十日以上選んであるのに、少し変かなって思ったんだ」
「中学一年の、十一月?」
美里が声を抑えてたずね返した。立村の姿を意識していることは確かと見た。
「うん、そうなんだ。こんなに行事少ない月だとか思わなかったし、私もこれ、使いたいページが結構あったなって記憶あるんだ。ほら」
奈良岡彰子のノートにはしっかりと、「十一月十四日」「十一月十五日」その前後の日記が細かに綴られていた。
「私ね、覚えているんだけど、この時って確か、菱本先生がいじめで自殺した中学生の話をしてくれて、その感想をみな班ノートに書いたような記憶があるんだ。そうじゃなかった?」
「ごめん、覚えてないかも。あんまり楽しくないしそんなこと」
美里はひとりで流そうとしている。しつこすぎる奈良岡の反論。
「そうだよね、楽しくないよね。でも、私、このこと大切なことだと思って、すべての班の人たちの日記を残しておこうって思ったんだ。だからメモに残したんだけど、なんでないのかなって。美里ちゃん、残していいよね」
「うん、でもうちらの班、ページ多すぎるし」
懸命に「十一月十四日」ラインを死守しようとする美里だが、劣勢間違いなし。貴史も助太刀に入ることにした。
「ちょっとそりゃページ泥棒って言われるだろ奈良岡ねーさん、俺も正直、思い出の中になあ、自殺だとか暗い話持ち込みたかあねえよ」
「ううん、羽飛くん、それ違うって思うよ」
かたくなにかじりつく奈良岡彰子。もうここで貴史は、心の中の声で「この女」を奈良岡限定で思いっきり解禁することにした。もう、ハブだわ、この女。
「今だからこそ、これ、覚えておかなくちゃいけないことだと思うんだ。いじめによってつらい思いをしている人は、きっと今だっている。そりゃ、私の周りの人たちはみないい人だけど、いつのまにか傷つけてしまっていることだってあるよね? それを忘れないようにするためにも、私、この話は全員の意見をまとめておいてもいいんじゃないかって思うよ。ほんっとに残念だけど、そのためだったら、羽飛くんの鈴蘭優伝説はあきらめるから!」
美里が眉を思いっきり下げて貴史に振り返る。
「どうしよっか、貴史」
「しゃあねえな」
「いい? いいよね? いいよね!」
奈良岡はほっこり笑顔をこぼしながら、そばにいた玉城含め女子たちに頷いた。
「ああすっきりした!じゃあえーっと、一年はとりあえずこれで完了ってとこでどう?」
棒読みの美里がメモに「十一月十四日」と書き直し、ゆっくりと筆記用具を置いた。
「そうね、これでいいんじゃない」
まだ動こうとしない立村の気配にいらだちながら、貴史なりの時間稼ぎをたくらんでみた。とにかく早く動け、動け、動け。
「いろいろあったけどなあ。菱本さんのリクエストでは、できる限り真実を書くようにとのご沙汰なんだが、俺、真実ってわからねえからなあ
不意に美里が貴史の目をじっと見つめ、話の続きを奪った。
「D組の三年間を、ってことだったらそうだよね。二年のことだったらいろいろな話があるし、書けるんだけどね」
一年から二年に話題をそらそうとしているに違いない。うまく奈良岡が載って来てくれることを祈りつつ、貴史は首が折れんばかりに頷いた。美里も調子付いて続けた。
「そうそう、二年だと宿泊研修のことだよね!」
明るく言い切ったはずだった。
突然、奈良岡がまじめな顔に戻った。ゆっくりと女子たちに視線を向け、考えるような表情を見せた。
──どうした、なんかまずいことやらかしたか?
どうしたねーさん、と呼びかけるのもはばかられる。
美里も同様だった。
椅子と机ががらりとずれる音がした。思わず目を音のした方向に向けた。
貴史も、美里も、そして奈良岡以下女子連中も。
一斉にたくさんの瞳がひとりに刺さった。
立村が立ち上がり、背を向けたまま教室を出て行こうとしていた。
小声で奈良岡がささやいた。
「羽飛くん」
──一か八かだ!
もうここから先は逃れられはしない。
奈良岡に確かに約束してしまったのだ。
立村を捕まえて、美里のために、クラスのために説得するのだと。
どう考えても無理だと承知はしている。
全力で避けることを祈ったが、肝心要の立村がぐだぐだしているから結局自分で首を絞めるはめとなってしまったわけだ。貴史や美里が「十一月十四日ライン」を守ろうとしたが、想像以上に手ごわい奈良岡彰子の笑顔ですべて台無しにされてしまった。
残された手はひとつ、なんとしても奈良岡を介在させず、立村と貴史ふたりだけで話を完結させることしかない。誰よりも立村と近い関係で、例の「十一月十四日」を境におきた例の出来事も、貴史ならなんとか片をつけられそうな気がする。いざとなったら美里もいる。奈良岡にとどめをさされる前に、何かベストな方法があるはずだ。後は流れに任せるしかない。
「おい、待てよ立村」
貴史は立ち上がり呼び止めた。立村は扉の前で振り返り、微かな笑みを浮かべた。それが作り笑いだということくらい、貴史は三年間の付き合いでよくわかっていた。