第二部 45
文集作りのため菱本先生から呼び出され、
「羽飛、知っての通りだ。文集編集委員会開くぞ!」
職員室に入るやいなや、即机の前まで引っ張ってこられた。周囲にはぞろぞろ生徒がうごめいている中だというのに、全く気にしない。人のことなんかかまっちゃあいられないとばかり、通路ど真ん中を歩くよう言われた。
「けど、奈良岡は?」
「ああ、奈良岡は受験があるから終わってから本格始動してもらうとして、まずはお前らが引っ張ってもらう形になるが、覚悟はいいな? 鈴蘭優のコンサートの予定なんかないよな? ないな?」
「ねえけど」
菱本先生は高らかに笑い転げた。何をそう舞い上がっているのだろう。
「じゃあ、はじめるぞ。このままだと奈良岡がラストスパートおっぽり出して文集作りに熱中してしまうからなあ。それはまずい」
ーー言いたいことはわかるけどな。
三年D組の隠れたジャンヌ・ダルク、奈良岡彰子。
密かに貴史は「超注意人物」と赤丸つけている女子だ。
ーーいい奴なんだけどなあ。
いい奴同士がうまくいくとは限らない。貴史にとってのもうひとり「いい奴」とはそりが合わない可能性だって、多大にある。
「まあ、こっち座れ」
菱本先生の机まわりには社会科の教科書「歴史」「地理」および図書館で借りてきたであろう大量の歴史書が堆く積み重ねられていた。「フランス革命」「ワーテルローの戦い」「マリー・アントワネット」などなど名前は知っているが歴史のテスト問題に答えとして書き込む程度の興味しかない内容だった。
パイプ椅子を先生の真っ正面に引き寄せ、まずは座るよう指示する。言われた通り腰かける。
「奈良岡にも話したんだがな。過去の班ノートから自分たちの話をプリントアウトし、その上で全員に現在の自分がそれを読んでどう思うかを作文で書いてもらう。これを今、考えているんだ。おもしろいだろ?」
「こっぱずかしいったらねえ」
舌打ちしながら貴史は答えた。とりあえずはイエスの答えをせねばならないだろうとは思っている。
奈良岡彰子から今回の文集企画についての概要を聞いてからというものの、毎日立村の顔を見て挨拶するのがしんどかった。
ーーまだ俺が詳しいこと聞かされてるわけじゃあねえし、奴に話すこともねえよな。
「俺はかまわねえけど、他の奴は怒るんじゃあねえかなあ」
やんわりと話を持ち出してみる。
「一年の頃なんて、悪いけど思い出したくねえって奴もたくさんいるし。ま、うちの組は退学者とかいないしその点はよかったのかもしれねえけどさ。やっぱり若気の至りってのかなあ、なんか忘れたい過去ってものを突きつけられるのも、なあ。俺は一年から現在までずっと優ちゃんのファンだってことはかわりねえけど」
くっくと笑ってみる。菱本先生もつられて笑っている。
「お前はほんと、成長しないというかなんというか、変わらないなあ。裏表ない」
「けど、やっぱり中には、あの頃の自分なんか二度と思い出したくないって奴もいると思うんだ」
話を切り替えてみる。
「たとえばさ、勘違いして誰かをいじめていた奴がさ、あとでうわあってパニックになっちまって反省しているってパターンだってあるかもしれねえし、前付き合っていた彼女の話ばかり書いていた奴が実は気持ちおもいっきし冷めていたとかさ。いろいろあるぞ、三年間。だから先生、俺としたらそれは開けてびっくり玉手箱状態のどひんしゅく買いそうな気がするんだよなあ」
以上の二例、すべて実際起きた出来事である。はたして菱本先生がそこまで認識しているかどうかは謎である。
椅子の後ろを通りすがる狩野先生がちらりと貴史を見やり、去った。
菱本先生は珍しく黙って話を聞いていた。手元のコンパクト歴史辞典のようなものを指先でいじりながら、それでも貴史から目を離さなかった。
他の先生たちがうろついている机まわりから、菱本先生の席は孤立しているように見えた。誰も寄ってこない。職員室には二十人以上人がうろついているのに、貴史と菱本先生との個人面談状態でプライバシーは完全保たれてしまっている状態だ。盗み聞き、不可。
「羽飛。なぜあえて俺が、一年の班ノートなんかひっぱり出したのかわかるか?」
「唯一残っている歴史資料だからだろ?」
少なくとも貴史の記憶する限り、D組連中で二年以降文集、ましてや班ノートなんかこしらえたことはない。
「一年の時に班ノート巡っていろいろごたごたあったし、それでやめたんだろ?」
「そうだ。あの時はそうせざるを得なかったんだ」
「そうせざるを得なかった」を菱本先生はやたらとアクセント強くつぶやいた。
「お前なら当時の状況をよく理解しているだろう? 宿泊研修やら学校祭やらいろいろイベントが始まるたびにかならず何かかしらトラブルが起こったことをな」
「ドラマチックD組だよなあ。俺は好きだぜ」
ちょっと気取って言ってみる。菱本先生は無視しやがった。
「もちろんいろいろあってこその青春だ。俺も人のことは言えない。ガキの頃はかなりやんちゃやらかしたもんだ。でもな、一歩間違うといじめの温床になる可能性がないとも限らない。そういった地雷みたいなものは羽飛、どうだ、あっただろ?」
「地雷だらけ。今だってそうじゃねえか」
ーー立村にしろ奈良岡にしろ、美里にしろ。
「あと二ヶ月ちょっとでこの賑やかなD組ともおさらばとなるわけだが、正直、みな、いろいろ腹にたまっているものがあるんじゃないのか? そういう気がどうもするんだよなあ。特に最近のお前ら見ているとそう思うぞ」
「お前らって、俺?」
自分の鼻を指差してみる。ちょこっとだけ、図星だ。
「そうだよ、羽飛、毎日ご苦労さん。鈴蘭優の歌聞いてエネルギー補充するだけでは間に合わんだろ、ほんとに」
「人生そりゃあいろいろあるけどさ、先生、それと文集とどう関係あるわけなんだ? 俺にはちっともわからねえ」
気づかないふりをするのも大義だが仕方ない。
ーーまあな。世話の焼ける友達ばっか持ってたらそりゃあやつれるだろ。
立村にしてもしかり、美里にしてもしかり。
要はあの二人が仲良くしてくれりゃあ、すべては丸くおさまるはずなのだ。
現に今もこうやって貴史が孤軍奮闘し、菱本先生と交渉しているのだから。
ーーお前のせいだぞ、立村。あとでカツ丼おごれよ。
「班ノートが残っていた時期がお前ら一年の頃というのはその通りだがな。ただお前も考えてみろ。つい最近の情けない思い出振り返ってため息つくよか、二年前の出来事を懐かしく思い返した方が冷静になれないか?」
「俺は冷静すぎるほど冷静だけどな:
「羽飛みたいに一本筋の通った奴ならともかくとして、当時の子どもじみた言動ばかりしていた奴がいつのまにかいっぱしの先輩ヅラするようになり、やがて卒業を迎えるというわけだ。そりゃあみな、成長してるぞ。大人になってるぞ。いや、妙な意味じゃなくてな。いろいろ自分たちでものごとを考えられるようにもなったし、さらに言うなら責任をきっちり取ることができるようにもなった。これは大きい。他の中学の生徒たちから比べてもお前らはほんと大人に見えるぞ」
ーーそりゃ、先生の例の恋愛沙汰見せつけられたら、いやでも生徒は大人になるわな。
突っ込みたいが、自分に酔っている菱本先生にそれはできない。もちろん素面でも無理だ。
「でもな、そこまで大人になれたのはどうしてだろう? わかるか? 羽飛?」
「わからねえ」
「みっともない、なっさけない、そんな自分が土台にいたからだよ。わかるか?」
「わからねえなあ」
菱本先生が珍しく「教師」の仮面で語り出す。完全にトリップしている。こういう時は黙っているに限る。幸せなんだ。
「きっとお前らはあの頃の青臭い自分なんて死んじまったっていい、忘れてくれって思っているだろうな。もちろんその気持ちは本音だろう。でもな」
また「でもな」を繰り返す。
「試行錯誤してきた道のりは決して恥じるものじゃないんだ。間違いは人間誰でもある。特にお前らみたいな思春期を突っ走っている連中は間違えなければならない理由がたくさんあるんだ。そりゃひどく傷ついたことだってあるだろうがそれはそれで男の勲章、あ、女も勲章だな。むしろ本当に恥じるべきは過去の傷に目を背けたまま知らない振りをしつづけてきて、後でひどいしっぺ返しを受けた時のことだ。そうだろう?」
「そう、かあ?」
おぼろげに菱本先生の言いたいことは伝わってきた。
いや、これはもろ、露骨にそれだろう。
ーーてか先生、これって、もろ立村のことじゃあねえのか?
やっぱり立村を吊るし上げるための文集企画と誤解されても文句は言えないだろう。
これはまずい。
菱本先生の口ぶりからすると悪意なんてみじんもないが、例のごとく「善意の悪意」ほどたまったもんじゃないとは立村の本音でもある。
最後の最後の最後までこれでは先が思いやられる。
貴史もこのままだと、今はまだふさふさしている脳天の髪の毛が抜けてしまいそうだ。
「先生、あのさあ、単刀直入に聞くけど、それ立村のことだろ?」
一呼吸置きまた語り出そうとする菱本先生を遮り、貴史は尋ねた。
「まだ誰のこととも言ってないぞ」
「わかりきってるっこと言うなよなあ。まあいいけど」
貴史はしばらく様子を伺いつつ、周囲に聞き耳立てている奴がいないことだけ確かめ、声を低めた。特に狩野先生がいないことを最重点に確認した。
「はっきり言って立村の過去は真っ黒だってのは俺もわかってるし、奴が今いろんなところからしっぺ返しを受けていることも知ってる。先生ももちろん気づいてねえわけねえだろうし。あ、そっかあ。先生前言ってたよな。あいつの立場がひっくり返るかもしれないとかなんとかさ。聞き流してたけどもしかして先生さ、あの評議委員長選挙の大どんでん返しについて、結構早い段階で情報もらってたとか? 超千里眼だよなあ」
まずは言いたいことを一気に述べた。次に、
「先生の言う通り、立村も早い段階で過去さっさと振り返っちまえば肝心要のところで一年の女子なんかに暴露されることもなかっただろうしなあ。どっちにしても俺たち高校も同じ青潟附属だから、似たようなことが繰り替えされねえとも限らねえし。ほら、歴史はまた繰り返すっていうじゃん」
「フランス革命」の本を指差した。
「だから先生がさっさと清算しちまった方がいいと言うのは俺も賛成なんだ。俺もどっちにしろ立村とは差しで話をするつもりだし」
「お前、そうか、その覚悟は」
「あるよ。あったりまえじゃん」
菱本先生は目をまん丸くして貴史を見た。前に身を乗り出した。
「そうか、やはりそう考えてたか」
「けど、文集を通してってのは悪いけど俺は反対なんだ」
「なんでだ?」
「まず、一年の頃の班ノートについてだけど、立村以外の女子たちとの間でいろいろ面倒なことがあってさ。先生は知らんかもしれねえけど、なんというかややこしいことがたくさんあったんだよな。今のところは立村が杉浦を横恋慕してしつこく追っかけ回してそれでトラブルになっちまったってことになってるけど」
「ああ、そんなことあったな」
鼻で微かに笑っている。どうも菱本先生はあの事件を勘違いしたままでいるらしい。貴史は強調すべく続けた。
「俺たちの間ではある程度真実が行き渡っているし立村も無事評議委員のままでいられたけどな、でも実際あの時何が起こったのか真相を追求なんてしちまったら、立村以外の女子たちが犠牲になるっていうのもあるんだ。俺もこれ以上は言えんけどな」
「清坂、か?」
貴史は首を振った。
「美里だったらこんなかばわねえよ。あいつ、放っといても大丈夫だし。それよか他の女子連中に火の粉が飛んだらそりゃもう大変なことになるぞ。高校にエスカレーターで行っちまう俺たちのことだし、これからどうなるかわからねえしさ。立村はどっちにせよ英語科に行っちまうからいいけど、普通科でまたわけのわからねえトラブルに巻き込まれたらもう、負の遺産じゃあねえ?」
一気にまくし立てた。
「だからさ、俺の意見としてはまず、文集委員が班ノートの記事の中からよさげなものを改めて選び出して、それを本にまとめると。やはりやばい内容ってのもたくさんあるしそこらへんをうまく選んでいって、あとで寄せ書き形式で、菱本先生のいう過去の反省っぽいことを書き込んでいくってのはどうかって思うんだ」
「寄せ書きか?」
そこだ。貴史は畳み掛けた。三日間考え尽くした結果の提案だ。さあどうだ!
「そりゃ作文書けと言われたら書くけど俺たちそんなことで本音吐いたりしねえよ。悪いけどそこんとこは先生もわかってるだろ。立村は日本語よりも英語で書く方が好きかもしれないし、金沢は文章よりも絵を書きたいだろうし、ひとそれぞれ思い出語りするにはそれなりのスタイルがあると思うんだ。だらだらかしこまったことを書くよりも、むしろ本人の書きたいことを見開き二頁くらいになんでもありで書いてもらい、『懐かしの思い出コーナー』のところに班ノートをところどころ切り貼りして、それで書いた奴に今の心境を一言二言で書いてもらう、これの方がおもしれえと思うよ。どうかな先生」
班ノートを使わないという選択肢はまずない。
一年の過去を無理やり振り返るという、立村にとってはほとんどリンチに近いやり方をできるだけやんわりしたものに切り替えるにはおそらくこれがベストだろう。
やたらとはりきっている奈良岡彰子が受験のためしばらく席を空けるのなら、今、もうひとりの代表である貴史がぶっちぎるしかない。
少なくとも、最悪の事態は避けられるはずだ。
菱本先生は唇を少しふるわせながら貴史の話をじっと聞いていた。
「羽飛、その案、自分で考えたのか?」
「当たり前だろ」
「もうほぼ完璧なスケジューリングじゃないか」
「そりゃあ、そんくらいできなくちゃあ、卒業なんてできねえだろ?」
「もったいないな」
ーーはあ? また言うのかよ。いい加減鈴蘭優に熱あげるのはやめて勉強しろってか?
頷き菱本先生は貴史の手を軽く握った。
「そこまで言うなら承知した。羽飛、お前のやりたいやり方で文集、作り上げてみろ。文集作りの具体的な作業については相談に乗るからな。今回はお前が編集長として三年D組の花道を飾ってくれ!」
ーーやたらと大げさだよなあ。まあいっか。なんとかこれで丸め込めたかってとこで、さあ次だ!
まずは文集計画最大の難関・菱本先生の熱冷ましを成功させることができたというわけだ。
次は仲間を固めて、編集方向を完璧貴史メインに持っていく、ここだ。
ーー奈良岡が離れるのはかなりラッキーだ。あとは美里と金沢あたりを引き込むか。
気心知れた連中なら、まかり間違っても「裏班ノート事件」に関わる場所を文集内にぶち込むことはないだろう。
特に美里なら、決して。