第二部 43
年に三度、立村が人気者になる日がやってきた。
「よ、おっはよ!」
貴史が教室に入りまずは立村の席を探した。始業式の朝はたいてい、立村が男女問わずクラスメートに囲まれていて、わいわいきゃあきゃあ言われているのが常だったから。理由がわかりきっているだけに誰もやっかまない。それもお約束のことだった。
「ああ」
小声でかすかに微笑み、立村はすぐ目を手元のノートに戻した。すでに脇には十冊ほどのノートが積み上げられている。
「毎年のお仕事ご苦労さん」
「そんなでもないよ」
貴史は上から立村の机を覗き込んだ。すでに他の連中……男子しかいない……が取り囲み好き勝手なことを言っておる。
「なんだよ、それって間違いなのかよ、おいおい」
「自信作だったんだけどなあ、この訳」
「ちっ、カンファレンスとコンフージョン間違えてちゃ世話ねえわ」
鉛筆でさらさらと注意事項をメモしてゆき、ぱらぱらとめくりなおしてノート主に渡す。
「サンキュ、これで英語もオール5だ!」
「じゃあ次、よろしく」
なんと順番は南雲に回ってきたようだ。一言も貴史とは挨拶なんて交わさない。立村は大してかまうでもなくすぐにノートを一頁ずつチェックしはじめた。それにしても早い。一秒で即ページを繰っていく。ひっかかったらしいところで何かを書き入れ矢印を引いていく。約一分で見直し完了。即、南雲に手渡した。
「よっしゃ、助かった! ありがとりっちゃん!」
返事もそこそこに立村の冬休み英語宿題ノート最終チェックは続いていた。
なぜ貴史がそこに混じらないかというと一週間前に立村からノートのコピーをもらっていたからだった。
確認してはいないが、おそらく美里の手元にも届いているだろう。
わざわざ自分のノートをまるごとコピーして、郵送で送りつけてくるくらいなのだから。
特にメッセージらしきものは添えられていない。中身観れば分かるだろ、といった俺様な態度丸出しだった。
ーーま、あいつのやりそうなことだわな。
せめて一言、「新学期また会おうぜ」くらいあってもいいんでないかとも思うが、所詮男子同士、細かいことは抜き。
実入りこそ大切なのだ。
とりあえず貴史は自分のノートを手元に置き、女子連中の様子を伺った。
ーー今日は女子ども、誰にたかってるんだ?
予想通りというかなんというか、立村の側に女子は一人も寄り付いてこなかった。昨年からの展開を考えれば決して不思議なことでもなんでもないのだが、
ーーじゃあ、誰に英語の宿題、チェックしてもらうんだ?
冬休み中の英語宿題ときたらとんでもない分量の長文読解から始まり、文法の訳分からぬ問題集もセットされていて、しかもノートに問題からなにからすべて書き込まねばならないというややこしいものだった。文法の問題はなんとか機械的な処理で片がつくのだが、問題は長文だ。今年はなぜかフィッシジェラルドの「華麗なるギャツビー」ときた。正直、貴史はまったく長文なんか読んでいない。あらすじ目を通しただけで頭痛がした。ただ立村からしたらごくごく簡単な文章らしくあっさりと読みきって丁寧な訳文とストーリーへの感想文も認めていたようだ。少なくとも立村レベルの認識をしている連中は三年D組内にいるとは思えない。
「はーとーば!」
脳天気な声で断ち切られた。朝から元気な下ネタ女王様の登場だ。
「よお」
「あんた、英語のノート見せたげようか?」
「いらね。もう立村からもらってるしな」
古川こずえは年末年始まったく変わらぬショートヘアのままだった。しっかり整っているところが人工的に見えた。
「あっそっか。でもそうだよね。羽飛ならそうだよね。私もさ、昨日立村んとこに電話して、分からないところ確認したし、たぶん間違いないと思ったから、羽飛がもしもチェックしてなかったら見せたげようかなって思ってたんだけど」
「いらん。俺も決める時は決めるんだ」
相変わらず騒がしい女子だった。しばらく休み中離れていたこともあってか、今の声はそんなにざわざわとうるさく聞こえない。毎年思うのだが、なんでこずえのおしゃべりは各学期が進むにしたがって耐えがたいものになるのだろう。耳に新鮮味がなくなりマンネリ化するのか、それとももともと苦手感覚なのか、見当つかない。今はまだ、あっさり流すことができる。
「しっかしなんだな、立村も毎年お勤めご苦労さんだよなあ」
「今年は少ない方じゃないの? 女子がひとりもいないし」
貴史が思ったことをこずえも突っ込んできた。
「だからかな、私のノートをみんなが奪い合いしてるのよねえ」
「はあ?」
「だから、三学期は私がさ、ほら、英語科に行くこと、みんなにばれてるじゃん?」
ーーそういうことか!
こずえに頷くと、滔々と語り出す。
「要するに私のノートを丸写ししても問題ないってことがわかったってことよ。今までは立村が語学のマイスターだったからしょうがなくへいこらしてたけど、今年は私がいるからまあいっかってこと。英語の天才ここにもいたりってね」
「自分で天才というかよ、価値落とす奴だなあ」
「大丈夫。さっきも言ったでしょが。私、ちゃーんとマイスターのチェックお墨付きだからさ、信頼度高いよ」
ーーマイスター、なあ。
立村の、クラスメイト……男性限定……英語宿題ノートチェックはまだまだ続いている様子だった。受け取った男子たちが自分の机で消しゴムごしごししながら、指摘された部分の手直しを行っているのが妙に笑えた。
「羽飛、本当にいいの?」
「いいに決まってるだろ」
毎度恒例の光景を眺めつつ、貴史は顎が外れそうなくらいのあくびをたっぷりした。ひさびさの定時起きにまだ身体が慣れていなかった。
「よっし! 全員揃ってるな!」
相変わらずテンションの高い菱本先生は、三学期始業式仕様の背広姿で現れた。
ふだんは適当な恰好でうろうろしているけれども、やっぱり教師、決めるべき時は決めるのだ。
ネクタイがっちり締めて、ぴっと張った紺色のスーツ姿で教壇に立たれると、やはりかっこよく見える。
「先生、おっとこ前! 昨日の夜はさぞやたっぷり?」
朝にはやはりこずえの下ネタが炸裂するのがお約束だろう。誰も驚かなくなっていることが、「慣れ」だった。
「古川、頼むから卒業前にはもっと、女子らしいこと喋るようにしてくれよな。男子たち、そりゃ引くぞ」
「あーら、ごめんあそばせ」
どう考えても担任と生徒とは思えないやりとりを二、三したのち、全員すぐに体育館での始業式へと整列した。毎度のことだが先頭は美里と立村。評議委員である以上これも変わらない。たとえ、立村が委員長から滑り落ちたとしても「評議委員」である以上決して順番が変わることはない。
ーー決して。
美里のことはあえて何も知らないふりをしていた。教室に入ってからまだ挨拶もしていなかった。無視したわけではないのだが、なんとなく話をするきっかけをつかめずにいた。美術館から駅前の小路をふたり手つなぎしてさまよった夕暮れ時、互いの家の前で無言のまま別れてからまだ一度も口を利いていなかった。
話せば必ず、触れたくない一点に手が伸びてしまうだろう。
できれば、目を逸らしたままでいたいその場所に。
真ん中が折れ曲がった鈴蘭優の全身ポスターを天井に貼り付けながら、貴史はあえて美里の真っ白い顔を打ち消すよう目を慣らしていた。鈴蘭優だけのんびり眺めていれば、雪の中での美里の不思議な振る舞いをあっさり埋め尽くすことができたから。単純にどうでもいいこととして片付けられたから。
ーーなんであいつ、五人の男連中にナンパされたがったんだろか。
そんなどうでもいいこと、知らなくてもいいことだから。
始業式式典が終わり、みな手をすり合わせつつ教室に戻ってきた。広い体育館にストーブはしっかり設置されているけれども、全員の身の回りをくるむ空気はまだまだ冷たいままだった。教室こそ極楽。三年D組こそ。
「天国!」
思わずつぶやくと隣でこずえが振り返った。
「なあによ、天国って、羽飛、まさか、あの場でいっちゃったの?」
「は?」
どうも古川こずえの言葉を自然な日本語として受け取れなくなってしまったようだ。すべてがエロ言語に翻訳されてしまう。
「おまえなあ、もう少し、女らしくするとかなあ」
「色っぽくさせてよ、もう」
ーーだからお前なんか勘違いしてないか?
これ以上つっこみ合うのもばかばかしくて、貴史はすぐ席に戻った。すれ違いに美里と目が合った。自然に笑いかけてきた。なんだ、なんでもないじゃないか。余計なことを考えなくても美里は自然のまま、そこにいる。
「宿題回収するぞ、それとだ、忘れないうちに言っとくが」
しばらく学期始めに関して菱本先生のお言葉が続いた後、締めに、
「三学期のメインはまず、文集作りだ。D組の三年間を凝縮したすっごい本を作るからな! 具体的にはこれから少しずつ煮詰めていくから、みんな覚悟しろよ! 文章だけじゃなくて写真も入れることできるなら入れるからな!」
力のない拍手がぱらぱら鳴るだけ。拍子抜けしたのか菱本先生も頼りない声で、
「なんだよ、お前らまだ休みボケか?」
つぶやいていた。
ーーそっか、文集ってのがあったよなあ。
実は貴史も去年の段階で、菱本先生直々のご指名でもって準備係に任命されていたはずだった。大っぴらにはされていないけれども女子担当の奈良岡彰子を中心に編集準備をしているはずだった。ただ、どたばたしていてまったく年末年始、忘れていた事実。これから奈良岡も受験を控えている身、そろそろ貴史も動かないとまずいだろうとは思っていた。
「あのさ、ねーさんねーさん」
帰りの礼が終わり、みながばらばら去っていった中、貴史は奈良岡を捕まえた。相変わらずふくよかな大福もちパワーで女子たちと語り合っている様子だった。
「あ、羽飛くん、どうしたの?」
「文集のことだけどな」
貴史が近づくとなぜか女子たちが散らばっていく。別に、何もいちゃもんつける気はないのだが。去年の一喝が相当利いたのか。
「ねーさんそろそろ受験でくそ忙しいだろ? 俺たちが準備するから、なんかやんねばなんねえっことあるなら言えよな。受験日、いつだ?」
「来月だけど、でも、羽飛くん、大丈夫だよ! 私、最初から全部手伝いするつもりでいたからね! そのくらいで受験がうまく行かないんだったら、最初から私は受けるなってことなんだって思うから、気にしないで一緒にやろうよ!」
ーーいいのか本当に?
すでにある程度合格の目安はついているという噂だが、それでもやはり心配と言えば心配だ。落っこちても責任取れない。
「ねーさんのその根性はすげえと思うけどな、でもなあ」
言いかけるとおさげ髪の奈良岡は何度も髪をぶんぶん振った。
「ううん、いいよ。私、羽飛くんと一緒に最後のD組の仕事、できることがほんとうれしいんだから!」
ーー俺ってもてるかも?
悪い気はしない。こうやって褒めてくれりゃあ、いくらでも貴史はいろいろと応援したり手伝ったりするのになんで美里はいつもアホ扱いしやがるのだろう。
ーーだから美里、もう少し俺に対する態度を改めろってんだ。
説教してやりたいが、肝心要の美里はすでに教室を出て行っていた。
なんだかいるようでいない、存在感のない美里のようだった。
「あ、そうだ、羽飛くん。今から菱本先生のところに行って、文集のこともう一度相談しない?」
いきなり奈良岡が高らかに提案してきた。
「私も女子のみんなに原稿を書いてもらっているとこなんだけど、やはり、改めて書くとなんだか照れくさいって人が多いみたいなんだよね。なんだかそれわかる」
「まあなあ」
修羅場なんでもありの三年間だった。思い出したくないことだってあるだろう。わかる、わかる。
貴史が思いを馳せると奈良岡は勢いづいて続けた。
「でしょでしょう。私もそれ思ってね、思いついたんだけど」
にっこり、ほっこり笑顔で、
「一年の時、班ノート、書いていたでしょ。あれを使ったらどうかなって思ったんだ」
ーーおい、ねーさん、なんと言った?
貴史の頭が一瞬硬直した。
忘れかけていた単語だった。
「ほら、班ノート。一年で終わってしまったけど、あれって楽しかったよね! みんなのいろんな面が見えておもしろくって、友達になりたい気持ちになったし。どうして二年になってからやらなくなったんだろうって思うともったいなくって。私、本当だったらもう一度やろうって提案したかったんだけど、なんとなくそれができない雰囲気だったから諦めたんだ。でもね、やっぱり、あの一年書いたノート、すっごい宝物だと思う。二年のことはまだ思い出せるけど、一年の頃ってもうはるかな過去になっちゃって、あの頃の私が何考えてたんだろうってこと思うと、やっぱり懐かしいんだよね」
まくし立てる奈良岡彰子。なぜか熱い口調に貴史は思わず一歩退いた。
「菱本先生もノートは保存してるって言ってたんだ。それを使って文集に仕立てたらどうかなって思うんだ。菱本先生も班ノートをつくったきっかけが、前の卒業生を送り出すためのプレゼントにしたいってっことだったって! それ、しようよ! 私たちが私たちのプレゼント作っちゃうの。それってどう?」
ーー班ノートかよ……。
奈良岡彰子はどこまで気づいているのだろう。
同じD組メンバーだ。まったく知らないわけでもないだろう。
立村を巡る、学校間を飛び越えたどうしようもない出来事を。
貴史も、そして美里も知らず知らずのうちに覗き込んだ立村の忘れたい過去。
絡みついたいくつかの出来事と、今につながる因縁も。
いや、奈良岡にとっては立村よりもむしろ、クラスメートである杉浦加奈子とのからみの方が強烈なのではないだろうか。
美里以外の他女子にとってはそれが普通だ。
班ノートの他に「裏・班ノート」が存在していてそこで「本心」という名の虚構を作り上げようとし失敗し、未だその罪でずぶずぶに溺れかけている立村の存在。
奈良岡彰子は知らないのだろうか。
「けどなあ、それ、忘れたい過去かもしれねえぞ」
ためらいがちに一言つぶやいてみる。
「そりゃあな、ねーさんみたいに一年から三年まで満足してきた奴ならいいけどな、こっぱずかしい過去暴露で立ち直れぬ奴だっていないとも限らねえぞ」
「そうかなあ。隠すことが一番みっともないって思うけどなあ」
奈良岡はにっこり笑顔でかなりどす黒いことを言う。
「こちらからしたらたいしたことないのに、必死に隠して色をつけたりするから、結局恥ずかしさが倍になるだけのような気がするんだ。羽飛くん、そんなに知られたくない過去を隠したいタイプ? 私も、ほんとはこーんな体格だけど、それを隠したら贅肉ぶよぶよなところが丸見えだから今は、思いっきり見せちゃったりもするんだ。観たくなかったらごめんね」
「おい、見せるって?」
「たとえばね。体育の水泳の時とか」
いきなり夏の話に飛ぶ。しつこいようだが女子の話はいきなり季節を飛び越える。
「水着なんて女子としては着たくないけど、そんなこと言ってたらせっかく気持ちよく泳ぐチャンスなくしちゃうでしょ。だったら、どーんとおなかたぷたぷさせて、泳いだ方が楽しいもん。見たくないならごめんなさい、って謝っちゃうけど、でも、隠していじいじしているよりは何百倍も楽しいよ」
ーーそれは、まあ、それとしてだ。
あえてコメントを控える部分もないわけではないが、奈良岡がなぜそこまで班ノートにこだわるのかはつかめてきた。
「だから、この機会にみんな、さらけ出してしまって気持ちよくそんなことどうだっていいじゃない!って言えるチャンスを作りたいなって思ったんだ。羽飛くん、それってどうかなあ」
まったく裏のない暖かい笑顔。そこには刃なんて見当たらない。もちもちしたほっぺたと細い目と全身からほとばしるふわふわ温風。
ーーまあ、そりゃあそうなんだがな。
ーーけど、んなことしたら確実に約一名、大怪我しちまう奴がいる。
低温火傷、おそらくあいつは火脹れで転がり苦しむことだろう。
「ねーさん、その案ってな、まだ誰にも言ってねえよな」
貴史は念を押した。
「うん、まだクラスの人にはね。けど」
安心したのもつかの間、奈良岡の口からは決定打が飛び出した。
「菱本先生にはお正月に手紙書いてそのこと伝えてあるんだ」
ーーまじかよ、おい。
実は奈良岡彰子こそ、我がクラスのジャンヌ・ダルクなんじゃないか。めまいする頭の中で貴史はひたすら考えた。
菱本先生が、そんなおいしい案に乗らないわけが絶対ない!
しかも愛しい生徒たちの間からの提案ともなればもうヒューズはとんだ。黙っていてもどういう行動取るかは手に取るようにわかる。
提案ではない。もう、D組にとっては「決定事項」。
ーーまあ、奈良岡の言うこともわからねえわけじゃあねえんだ。
隠し事なんてなく、気持ちよく卒業するきっかけを作りたい。その気持ちはわかる。
貴史もそう考えていたことが、つい最近まであったから。
あの、評議委員長選挙以降の展開さえなければ。たぶん素直にOKを出すことができただろう。
しかし。
ーー立村、あいつあのままだとどうなる?
あと二ヶ月ちょっと。立村も静かに三学期を過ごせばそのまま卒業。その後は英語科へ直行。奴の痛み混じる過去を暴露する必要なんてない。
ーーけどとっくの昔にばれちまったことでもあるんだよなあ。
それも全校生徒の前で。
「ま、俺もとにかく準備するつもりではいるんだ。全然準備できてねえけど。とにかく、俺なりにがんばるからな。ねーさんも受験終わるまではまず集中しろや。班ノートについてはそれからでも間に合うぞ。どーせ、原稿そのまんまコピーして製本するだけでいいんだろ?」
貴史の言葉に奈良岡はまたふくよかに微笑んだ。菩薩のごとく、華やかに。