第二部 42
美術展そのものは古典の作品中心でちょっと退屈だった。それでもミュージアムショップでは、お年玉のゆとりでもって怒涛のごとく買い物した。
普段買えないようなものばかりだった。
「貴史、あんたね」
隣で美里が呆れ果てたようにつぶやく。
「もっと形に残るものにしたらいいじゃない。なんでこんなペーパークラフトとか水鉄砲とか万華鏡とかに手を出すの?」
「形だろが!」
「私が言いたいのは、たとえばほら、あれ」
美里が指差したのはジグソーパズルの箱の山だった。奥には完成された絵がずらっと張り巡らされている。
「パズルだったら出来上がった後、飾っておけるじゃない」
「お前よく考えてみろ。あんなあっさりした景色だとか不細工な女の顔とかそんなもんこしらえてうれしいか?」
「ああわかったわかった、あんたは鈴蘭優の顔が最優先主義なんだもんね。勝手にしなさいよ」
「普段美里の買い物に付き合ってやってるんだから、今日ぐらいは譲歩しろ」
貴史の言葉に美里は黙った。事実を認めたということだろう。
「わかった、じゃああんた、勝手に買い物に燃えてなさい。私、その辺座ってるから」
珍しく美里は貴史に張り付かず、さっさとショップから出て行った。
ーーなに一人で文句言ってるんだか。レジ行くぞ。
戦利品の山を抱え、即、会計を済ませた。
「すいません、早く」
その他特に知り合いと顔を合わせることもなかった。入り口のところで後ろ姿を見かけた三年A組関係者もいなかった。
別に見られて困るわけではないけれども、面倒を避けられたことはよかったと思う。
ーーそれにしても美里、どこにいるんだ?
ショップを出てしばらく、エントランスに向かい開いている椅子を眺めたが見当たらなかった。「その辺座ってるから」ということは、どこかで休憩しているのだろうか。それでもどこにいるのか見当がつかない。混み合っているといっても人がびっちりひしめいているわけでもない。
ビニール袋をぶら下げ、あちらこちら見渡してみる。
天井の巨大な凧が睨んでいる。いったん目線を上げてみたらチラシ置き場の前で誰かと話をしている美里を見つけた。
背中を向けているからわからなかっただけじゃなかった。
ーーあいつ、誰なんだ?
片手を上げかけて、やめた。ジーンズとジャンバーで普段着っぽく装った男性が美里に話しかけていた。
ーー高校生じゃあねえか。
かなりがっちりした体格の持ち主のようだ。背中を丸めて美里に屈み込んでいる。
ーー大学生か?
様子を伺うのではなく、ただ黙って見つめた。そいつの横顔が振り返りぎわにちらりと覗いた。いかにも野球かサッカーやっていたような面をしていた。冬なのに顔が浅黒い。あれはどうみてもスポーツ焼けが冬になっても残っている証拠だ。
しばらく美里はそいつと話をしているようだったが、突然頭を下げて背を向けた。すぐに貴史に気づいたらしい。普通の速度で近づいてきた。
「何してるんだよ」
「何でもない。知らない人」
短く返事をして、美里は貴史の手元を覗き込んだ。
「結局、こんなに買ったってわけね」
「いつ来ることできるか、もう、わかんねえだろ」
今日はたまたまお年玉が残っていたから入館料五百円の美術館へ足が向いたのだ。いわゆる「晴れの場」だ。用事でもなければこんなところにくるわけがない。
「行けばいいじゃない。いっつも金沢くんといろんなとこ行ってるんでしょ? 美術展とか誘われて」
「ありゃあ、まあそうだけどなあ」
美里には説明していなかったが、確かに金沢とは夏休み以来美術関連の催し物にしょっちゅう足を運んでいた。たまには汽車を使って出かけることもあった。しかしそれは、金沢がいつも無料招待券を用意して誘ってくれるからだった。誰も金がかかるんだったら自分から行くわけがない。
そのことを説明すると美里は驚いた風に口へ両手を合わせた。拝む恰好に近かった。
「なんで金沢くんそんなに招待券持ってるの?」
「絵の先生とかその他もろもろから回ってくるんだと。行く奴いないからって、結構もらえるんだぞ」
「そうなんだ、いいな」
美里は小声でつぶやき、腕時計を覗き込んだ。
「あんたの買い物付き合ったなら、私だって、いいよね」
「洋服はお断りだからな」
「違うよ、ちょっと待ってて」
ふたたび美里は電話コーナーに向かい走っていった。五台ほど仕切りつきの公衆電話ブースが左脇の壁に並んでいた。
忙しい奴である。
今度は貴史が一服する番だった。
ーー宿題、どうすっか。
ほとんど手つかず状態の宿題プリント処理、頭が痛い。
英語に関しては主に長文読解ということもあり、立村が用意してくれるであろう模範回答を丸写しすればいい。
数学と国語についてはさほど面倒なこともない。できれば誰か、情報を流してくれる奴がいるとありがたい。
実は大して心配していなかった。
ーーああ、けど、立村、見せてくれっかなあ。
別の問題を発見した。
ーーあいつそこまで復活してるかってだな。
毎年長期休暇中の宿題は、英語に限り立村が面倒を見てくれることに決まっていた。代わりに誰かかしらが立村のために数学の答えを渡すといったパターンだ。
今まで通りならそうなのだが、今の立村ではどうだろう。
ーーはっきり言って、干からびてるよな。
やる気のない立村が果たして今まで通りの行動をするかどうか、先が読めない。
「ごめん、じゃあ行こうか!」
すぐに戻ってきた美里は座っている貴史を見下ろすように声をかけた。
「おいおいどうしたよ」
「うちに電話かけたの」
つまらなそうな顔のまま、美里が天井を見上げた。エントランスにかかっている巨大な凧の天狗が威張っている。
「今夜遅くなるからって連絡しといたの」
「なんでだ?」
遊び呆けて怒鳴られることを先回りして避けたのか。美里にしては珍しい。
「うるさく言われるのいやだもん。当たり前じゃない。お母さんに言っといたの。夕方遅くなってからの方がスーパーのお惣菜とか安くなるでしょ。だから私が帰りにスーパー寄っていって買い物してくって話したの」
「スーパーかよ、正月の買い物がか!」
凧見て声出して笑った。美里は笑わなかった。
「夜遅くなるといろいろ聞かれるから、今日は貴史と一緒だから大丈夫でしょって言っといたの! さ、行くよ行くよ!」
ーーなんだよ勝手に文句言って勝手に移動かよ!
お腹のどこかに笑い皺が残っているに違いない。まず外に出ることにした。美里の歩き方は早いったらない。走らないと追いつけそうにない。
外に出るともう真っ暗だった。そんなに長い時間居座っていたとも思わなかったし、まだ閉館時間まで余裕があるというのに信じられない闇だ。
「お前どこで買ってくの」
「寄り道してからにするから」
さらに美里はずんずん歩いていく。美術館がぽつんと遠ざかっていくのを横目に、貴史は美里の背を追った。
「どっち行くんだよ。うちと方向違うだろ」
「駅前に行くんだから、黙っててよ」
車だけが勢いよくじゃらじゃら音を鳴らしながら走り抜けていく。足元も時々滑りそうになる。とけかけた雪が凍る直前の危なっかしい足取りで、美里が歩いていく。
「駅前で何買うんだ?」
「なんでもいいでしょ!」
なんとか追いついて隣り合う。貴史は美里の横顔を覗き込んだ。こういう時の美里が何を考えているのか、以前だったらすぐに感づくことができたのになぜか今は遠く届かない。苛立ちを隠せないだけ、とも思えない。家でまた姉妹げんかやらかして帰りたくないだけなのかもしれない。やはり立村とのことがいろいろとしこりになっている、これが一番可能性高い。
美術館から青潟駅まではさほど遠くなかった。バスを使えば五分程度で到着することはわかりきっている。ただ今日は祝日ダイヤのため、もう早いうちに最終バスが出ているはずだった。
蒼さ残る空と微かな街灯の明かりがふたりの影を鮮やかに映し出している。やはり、美里の頭ひとつぶん貴史の方が背が高い。
「福袋買いに行くのか?」
確か青潟のデパートではお正月シーズン福袋がいろいろな店で販売されているはずだった。貴史の母が嬉々として大量の紙袋を抱えていたことを思い出した。
美里が首を傾げた。
「だって余り物ばっかりだって言ってたし、そんなの手出さない」
「じゃあなんで駅前なんか行くんだ?」
目的が「スーパーの値引き惣菜」購入ならばそんな遠くへ行く必要などないではないか。家から徒歩数分の場所にスーパーもある、コンビニもある。
なのになぜ駅前へ?
口ごもる様子だが、美里は答えた。
「肝試しみたいなものよ」
「季節間違えてるだろそれ! 冬じゃあねえだろそれ!」
吹き出してしまった。言っている意味が分からない。肝試しといえば真夏のイベント。こんなに冷え込む一月の、しかもめでたい正月に幽霊と挨拶したい奴なんて、まずいないはずだ。何よりも美里は心霊ものの映画に興味がないはずだ。
「いい、貴史?」
「なんだよ」
ようやく比較的車の往来が激しい十字路に出た。こまかい雪が少しずつ降り始めた。
「今から、ひとりであの道往復してくるから、少しだけ待ってて」
吹雪いてはいない。髪にまとわりつく雪も溶けない。美里はひとつ、大きく息を吸い込んだ。
「すぐ戻るから」
ーーあいつまた走ってやがる。
貴史が返事をする前に、美里はまた駆け出した。その道だけなぜか綺麗にコンクリートが顔を出していた。
ーーまた面倒なもん、買うつもりなのかよ、ったくなんだってな。
貴史だってせっかく駅前繁華街までたどり着いたのだからそれなりに遊びたい気持ちはあった。まず、レコード店に立ち寄った。正月の記念企画としてアルバムのテープ版を購入すると、おまけに好きなポスターをもらえるという張り紙を見つけ即、鈴蘭優のものを購入した。レコードは揃えていたがカセットテープまで手が出なかったのだ。これも懐暖かいゆえにできること。その他、「砂のマレイ」映画版サウンドトラックの購入に頭をひねったりして結局買わなかったりもした。
おまけにもらった鈴蘭優ポスターは全身版だ。もう何も言うことはない。
ーー天井だな、こりゃ。
自分の部屋へ張り巡らされたポスターを一枚、剥がさねばならない。場所つくらねばならない。
店から出て、美里を探した。買い物に熱をあげていればたぶん、時間の感覚なんかなくなるに違いない。
いつものパターンからして美里がすぐに戻ってくるわけなんぞないのだ。
いそうな店は見当がつく。まずは女子好みのファンシーな文房具が並んでいる店か、もしくはアイドルの生写真やプロマイドがたくさん揃っている店かのどちらかだ。
美里は基本として芸能人にさほど興味を示さない……すなわち立村ひとすじ……のだが、女子同士の付き合いもあってよく足を運ぶようだ。
道を往復して、開いている店を覗き込もうとしたが、なぜかほとんどが休業中の札ばかり。
正月休み中は特に専門店が開いていないらしい。あほくさい。
ーーははあ、美里どこ行ったんだ? まだうろうろしてるのかよ。
振り返った。背中越しに赤い提灯がぽつぽつ照らし出されていた。完全に夜の匂いだった。
ーーあいつどこいったんだよ!
店で油を売っているわけでないとすれば、どこにいるか想像つかなかった。
ーーったく、寒いぞもう帰るぞ!
夜遅くなっていいなんてわけのわからない電話をなぜする必要があったのか、貴史には理解できない。
ーー正月は雑煮とおせち食ってりゃあいいだろ!
無理して夜のタイムサービスを利用して値下げ品を買い集める必要なんてないはずだ。
平日と比べて思ったよりも人がいない。デパート以外はシャッターが降りている店がほとんどだ。
なぜこんなところに来たがったのかその理由がつかめない。
ーー美里、どこにいるんだ?
もう一度、十字路に立ち三百六十度見渡した。
ーー美里?
背を向けたまま、美里が反対側の小路真ん中に突っ立っていた。
貴史の右手側、車がなんとか通ることができる程度で、道の奥にはカラオケボックスやラブホテルのライトがみみっちく光っていた。
立ち尽くしているのは美里だけではなく、他にも同年代から高校生くらいの男女も混じっていた。みっちりと詰まった小さな店の間にはなぜか、控えめに人が滑り込んでいるようだった。大通りでは見かけないいかにも危なっかしい雰囲気の店ばかりだった。喫茶店に入っても出されたお冷が温そうなイメージの街通りだった。
ーー立村がいたら、言うんだろうな。本条先輩がいっぱいだとか。
美里や立村には似合わず、本条先輩やあえていえば南雲あたりがうろうろしそうな、生温かい空気が小ぶりの雪に溶け込んでいる。
ーーそんな道のど真ん中にいちゃあ、邪魔だろが。
仕方ない。貴史はすぐ駆け寄った。
「美里、行くぞ、何ぼけっとしてるんだよ」
髪に降り注いだ雪が、自然と白く塊を作っている。美里は払わずそのまま振り返った。貴史の顔を静かに見つめた。驚きはなかったようだった。
「これで、五人め」
「はあ?」
「あんたは別よ、数に入れてない」
疲れたように美里がつぶやいた。顔を近づけてみて気づいた。不自然に美里の顔には赤い紅が施されていた。美術館にいた時にはつけていなかった。十字路で駆け出した時にはなかったような記憶がある。
「何の数だよ?」
「声かけてきた人たち」
平たい声の答えが返ってきた。
「美術館でひとり、この通りで立っていたら四人。私、何にもしてないのにね」
「なんかの勧誘だろ、どうせ」
「違うもん!」
妙に生白い美里の表情がかちっと動いた。いつもの眼差しに戻っていた。
「近江さんが言ったの。私が夜の街を歩いたら必ず誰かが声かけてきてデートに誘うに決まってるって。だからひとりで歩いたらだめよって」
「世の中勘違い野郎も多いってことで」
「うるさい! だから、試してみたの」
「何を試したんだよ?」
「だから、そうよ」
今度は美里がぐるりと見渡した。夜、唯一賑わいの残る小路に立ち尽くしたまま。
「ディスコに行こうかとか、その辺でお茶しないとか言われたよ。でも、断った。当たり前じゃない」
「おい、美里、何考えて」
「こんな風にして付き合うなんて最低よね。お姉ちゃん何考えてるんだろう。黙って立って声かけられるの待って、相手が好みのタイプならついていけばいいんだって。そんな出会いのどこがいいの? じっくり話もしないで、名前も知らないまま変なところに行って! 気持ち悪すぎる!」
「あ、ああそのことかよ」
姉さんのことならしょうがない。相当恋愛関係が派手なお方なのは承知している。さては美里、相当ひどい姉妹げんかやらかしてきたのか。
「けどそれとお前が今こうやって突っ立っている意味がわからねえよな」
「わからなくたっていい!」
「じゃあ、帰るぞ。早くスーパー行くんだろが。ったく美里の言うことわけわからねえ」
手で美里の頭を軽く小突いた。もちろんやわらかく、雪が落ちない程度にだ。
「寒いね」
意外にも美里は素直に歩き出した。貴史と肩を並べた。まだパウダースノーという言葉通りの雪が、街灯に照らされて交差しつつ飛び交っている。ネオンと一緒に見知らぬ男性集団がふらつきながら近づいてきた。ただすれ違っただけだった。やたらとトーンの高いしゃべり声で街のBGMが打ち消されそうだった。遮るのは風の走る音のみ。美里は真っ正面向いて能面のまま歩いてゆく。目の前には仲間内で有名な、ヨーロッパの城を思わせるある建物が立ち並んでいた。本条先輩御用達、噂では遊び人の女子たちがここでデート相手を探すと言われている喫茶店も発見した。
すれ違う男性の一人が、ちらと美里の顔を見下ろした。
「これから、お楽しみ? 相手いなかったら僕とどう?」
美里は返事をしなかった。聞こえなかったようだった。耳にしたのは貴史だけだった。
ーー世の中物好きが多いとは思うがなあ、けどしょうがねえ。こいつも外見は女子だ。
真っ黒に染まった空とネオンでかすれる残光を見上げた。はっきりと浮かび上がるオリオン座の姿を探した。見えづらかったけれども確かに輝いていた。
「美里、急ぐぞ」
貴史は美里の手を取った。握り締めた。一歩前に出た。
「何よ」
「こんなとこでたらたらしてたら、今度は補導員に捕まっちまうだろが。卒業前にそんな危ない橋なんか渡る気ねえよ!」
そのまままっすぐ、綱を引くように歩き続けた。手袋で遮断された固い手に、艶かしいものなどなかった。すれ違っていくたくさんの男たちが美里をちらちら見やるのを感じるたび貴史は、無機質なその手を握り締めた。血の通った指先を感じていいのは、美里自身だけのはずだ。
「放してよ、痛いから」
「どこが痛いんだよ、ったくわっけわからねえことばっか言いやがって!」
「違うんだってば、貴史、ほら、落としてる」
手を振り払い、美里は豪華絢爛な白い城の前でしゃがみ込んだ。
「ほら、ポスター。また鈴蘭優の、買ったんでしょ」
雪の上にはビニールで被われた筒が転がっていた。貴史のもう片方の手でぶら下げていたビニール袋から滑り落ちたらしい。
「うちに着くまで持ってくよ。あんた、そのままだったら袋破くでしょ。珍しいね貴史、鈴蘭優のポスター持っている時は両手で抱きしめてるくせに」
貴史は即、美里の手からまるまったポスターの筒をひったくりそれで思いっきりぶん殴った。
「そんなふざけたこと言ってる暇あったら、早く歩けよ! おお、俺の愛しい優ちゃん、寒かったよなあ、ごめんごめん」
「その優ちゃんポスターで私を殴るくらいだから、相当あんたも疲れてるのね」
返す美里の言葉を無視し、貴史は先頭切って走り出した。さっきは美里の背を見送るしかできなかった。今度はあいつが自分を見つめればいい。
ーー美里、なんか、正月に毒きのこかなんか食ったんじゃねえのか? ったくなあに考えてるんだか。モテモテ肝試しなんかやって相手が硬直していることくらいいい加減気づけよな!
振り返り、もう一度叫んだ。また美里が誰かに呼び止められている。世の中不思議な好みの男もずいぶんいるもんだ。
「美里、置いてくぞ! 早く来い!」
相手をあしらって走り出した美里を貴史は立ち尽くしたまま待った。
握り締めている鈴蘭優のポスター筒が少し歪んだことに気がついたのは帰宅してからだった。