第一部 37
朝なのにどしゃぶりの天気で、自転車が使えない。外は真っ暗だ。もう七時半近いというのに灯りをつけないと朝ご飯を食った気しないというのはどういうことなんだろう。
「母ちゃん、今日はもう夜ってことで学校休みたいんですが、そこんとこどう?」
無言で額をはたかれた。
「なに寝ぼけたこと言ってるの! 今日はバスが混むからとっとと学校行きなさい!」
「えー? まだ七時半過ぎたばっかりだってのに」
「こういう日はね、どこもみな車使って会社に行くから、道路が渋滞するもんなの! さあさそんなぐだぐだしてないで!」
たまったもんじゃない。とはいえ母の言い分も間違ってはいない。雪であろうが雨であろうが大抵貴史は自転車で学校に向かうのだが、年に二~三回程度どうしてもバスを使わねばならない日というのがある。台風に当たったり、猛吹雪で自転車ごと吹き飛ばされる可能性が大な時とか、そういう程度なのだが、明らかに今日は「年に二~三回」のその日に当たる。
「せめてタクシー使ってもいいとかさあ」
「稼ぎもないくせに何バカ言ってるの! さっさと行きなさい!」
朝食もそこそこにスニーカーで外に出た。鉛色の空からぼたぼた降り注ぐ雨と同時に穴の開きそうな音が傘の骨にも響く。
──たまったもんじゃあねえよなあ。
美里に声かけてから行こうかとも思ったが、あえてそれはよしておいた。
──あいつも、疲れてるだろうしな。
月曜日六時間目の表向き「菱本先生ご結婚おめでとうビックリパーティー」裏は「立村を後期評議委員に無理やり押し込むための秘策大会」、このイベントを片付けて貴史なりに満足感を味わっていた。
美里と組んで計画を立て、途中こずえに茶々を入れられたとはいえ自分の思ったとおりに事が運んだ。
ぴたりとパズルの最後一ピースまで収まったすっきり気分は、やっぱりいつ味わっても気持ちいい。
深いことを考えすぎずに、どんどん進めて行くことができるのは楽だった。
目標の最低ライン「立村をとりあえず後期評議委員」として収めておき、卒業式まで無事に過ごすことができればそれでよい。
もちろん最後の「評議委員長選出」がどのような展開になるかはわからないが、少なくとも三年連中が立村の評議委員長就任に異議を唱えていないのならばほぼ問題ないだろう。天羽や難波がそれなりに対処するだろうし、基本として人間はみな「めんどうくさがり」だ。改めて面倒なことなんてやらかさないだろう。
──けどな。
あっという間にスニーカーの中がぐしょ濡れになる。さっき一歩踏み出した時に泥の水たまりに足を突っ込んでしまったせいだ。
学校についたらストーブの前に靴下干して乾かそう。
やっぱり早めに行った方がいいということだ。
──一段落したら、やっぱし奴に文句言っとかねばなあ。
あえて今のところは知らんぷりしていたけれども、立村と美里との間のいざこざについては放っておくわけにはいかない。
ましてや後輩たちの物笑いの種になっている現実から目を背けている立村の頬を一発はたいておかないと気がすまない。
ーーそりゃ、まあ、なんだ。美里がしつこいとかうるせえとかそういうのはわからねえでもねえけどな。ただ、あのまんま二年の女子追っかけてて、評議委員長としてもそうだし、何よりもうちのクラスで浮きまくっちまうってのはいったいどんなもんだろな。あいつに少し、周り見ろって言っとかねえとまずいだろ。
菱本先生のご結婚びっくり会でも、結局立村は一人ぼっちのままだった。
祝う気持ちもないんだろうしそれはそれでいいとしても、卒業式まであの孤独ロード一直線というのは、見ている貴史の方がなんか嫌だ。
──菱本先生だって、やっぱし、いらっとくるだろ?
──やっぱなあ、もう少し、気、遣えよ。
立村の評議委員としての面子は立てた。あとは、三月までに少しでもクラスの一員としての位置づけを考えろ。そう言いたい。
──やっべえ、今度はなんだあ?
思ったよりも水のたまっていた穴ぼこに足を突っ込んでしまった。膝まで来る。もうこうなったらジャージに着替えるしかなさそうだ。
バス停でも、車内でも美里を見かけなかった。
きっと父親の車に乗せてもらって送ってもらうのだろう。
今更ながらこっそり様子を見にいけばよかったと後悔の気持ちありだ。
ーー小学校の頃はよく乗っけてもらったしなあ。
バスの進み具合も、母の予言した通りのったりのったりと渋滞まっしぐら。途中でバスを降りる高校生が乱暴に椅子側へ人を押しのけていく。満員電車で痴漢に遭うとかいうけれど、貴史の身の回りにはほとんど学生服姿の野郎しかいない。ただむさ苦しいだけだ。
小銭をジャンバーのポケットから握り出し、学校内のバスロータリーに降り立った時には全身霧吹きされた洗濯物状態と化していた。すなわち、湿気だらけのよれよれ状態ときた。数人降り立つ奴もいたが、顔も知らない連中ばかりなので会話もしなかった。もっとも、降りれば後は楽だ。ダッシュで校門まで駆け抜ければよい。八時前。余裕過ぎるくらい余裕の到着だ。
傘を振って水気を払い、生徒玄関を見渡した。
悪天候の中、それでもめげずに朝練に参加している奴らがいる。ご苦労さんとしか言いようがない。
その一方でどうやら貴史と同じように家を追い出され、しぶしぶ早く到着した奴もいる。ご愁傷様だ。
まあ遅刻しなかっただけましだ。顔見知りの奴らに挨拶をし、ずぶ濡れの靴下を脱ぎ、素足のまま教室に向かった。もちろん、ストーブで靴下だけでも干すためだ。
ぐしょぐしょの靴下を軽く絞り扉を開くと、先着者がふたりいた。
──なんでだよ、こいつが。
「羽飛か、ナイスタイミングだな」
菱本先生がもうひとりの生徒と向かい合う恰好でストーブ前に立っていた。
「あ、おはようっす」
目も合わせずそっぽを向いたまま、つぶやく奴。どしゃぶりの影響まったくなくさわやかな髪型が決まったままの奴。
「ああ、おはよ」
貴史は突っ立ったまま、まず朝の挨拶だけ軽くした。
──最悪のタイミングじゃねえかよ。
別に菱本先生がいても問題はない。ただおもしろくない奴が一緒にいるなら、無理に教室に入る気にもなれない。ただそれだけのことだ。
「じゃ、またあとで」
背を向けようとすると、呼び止められた。
「羽飛、ちょっと待て」
「はあ?」
「ちょうどふたりいるから、話が一度ですむ」
昨日、わんわん感動のあまり泣きじゃくっていた菱本先生とは思えない、毅然とした態度だった。
──なんかやべえことしたか? してねえだろ?
仕方ない。扉を締め、ついでにストーブ前に靴下を一足ずつ伸ばした。取り立てて文句は言われなかった。
「何か?」
「ああ、あ、昨日はありがとな」
ピントが外れたところで礼を言いつつ菱本先生はうつむいた。
「まさか、嫁さんが女子プレゼンツのあれでジェラシーとか、じゃねえよな」
冷やかな眼差しを向けたのは南雲の方だった。奴もいつものへらへらした態度ではないのが伝わってくる。いわば、「委員長仕様」といった真面目モードか。
「悪い、で、先生、俺に話って何?」
「お前、聞いてないのか?」
また、どこかずれた質問で菱本先生が返す。
──やっぱし嫁さんとなんかあったかな?
まったく想像つかなかった。
南雲の言葉までは。
「りっちゃんが評議委員長選挙で落選したこと、清坂さんから聞いてねえのかってことっしょ、先生?」
──ちょいと待てよ!
意味は即、把握できる。できないわけがない。
ただ、その言葉が伝わってこない。
「立村が、落ちたのか?」
それだけまず口にするのがやっとだった。足の裏がじんわりと冷えた。
菱本先生が頷いた。
「昨夜の段階で、委員長選の結果だけは聞いていた。もちろん選挙だから当落は付き物だし、それで人間性を否定するとかそういうことはない」
「そりゃ当たり前だろ」
いきなりまっとう過ぎることを口にする菱本先生に苛立ってしまう。普段の熱血ぶりとは異なる、どことなくじめりとした感触はさっき握り締めていた靴下のそれと同じだ。
「けどなんで、てか、誰が評議委員長になったんだ? あの二年の、新井林か?」
「A組の天羽ちゃん」
また、南雲がつぶやいた。まったく態度を変えていないのはこいつだけかもしれない。
「天羽? なんでだ?」
「三年評議でクーデターが起こったらしいよ。俺も詳しいことわからんけど」
「クーデターって?」
「だから、それ、清坂さんから、聞いてねえの?」
南雲は繰り返し美里の名字を口にした。
「分かるわけねえだろ! なんだ? 美里から聞いてねえのがおかしいのかよ!」
まったく動じず南雲が続けた。
「菱本先生が俺のとこに電話くれて、そいで、改めて今話をってことでここにいたんだけどね。俺も変だなって思ったの。だって、りっちゃんの親友って羽飛なのになんでいきなり俺にそのことで連絡くれたのかなって」
思わず菱本先生の顔を覗き込む。慌てて首を振っている。
「南雲、思いつきで説明するのはよせ。俺もまず先に、羽飛に電話したんだ。ただ話し中だったんだ」
「姉ちゃんが三時間長電話してただけだっての!」
事実だ。毎晩女友達とだらだら話を続けていて、父が雷を落としていたのを覚えている。
「とにかく、ふたりにまず立村を取り囲む現在の状況について、一刻も早く聞きたかったんだ。他の奴ならそう簡単にめげたりしないし、あとでゆっくり話し合ってもいい。ただ、立村だけは別なんだ。あいつだけは、人一倍早く事情を聞き出さないとまずいんだ。わかるだろ、羽飛?」
菱本先生は貴史の前に向き直った。
「今は時間がないんで、今日の放課後改めてお前たちの意見を聞きたいんだ。残念ながら、俺は、立村から信頼を得ているとはいえない。それはよくわかっている。俺が一方的になんやかや口を出しても跳ね返すだけだと思う。でも、だからといって一人ぼっちで放っておくわけにはいかないんだ」
「いいんじゃないっすか? 先生、そのまま知らんぷりしてたほうがりっちゃん、ほっとすると思いますよ」
あっさり南雲が答えた。
「俺も正直、評議委員会って何考えてるのかな、くらいは思いましたけどね。でも天羽だってそれなりに考えるところあってのことでしょうし、少なくともりっちゃんを引きずり下ろしてざまあみろってことではなさそうですし。かえって同情されたらやりきれなくてたまったもんじゃないと思いますよ。少なくとも俺だったら、知らん顔して、洋楽の話でもして気楽に過ごしていられればそれがベストじゃないかなって気がしますよ。知らんぷりが一番」
「南雲、もちろん他の奴ならそれでもいい。それだけ強い奴なら」
うつむいて首を降り、菱本先生はまたぐるりと一回転した。貴史に向いた。
「だが、立村の場合は別なんだ。以前からあいつが評議委員長という立場に置かれるかもしれないという話を聞いてから、この日が来た場合のことをいつも考えていたんだ。たぶんどこかでほころびが出た場合、どうやって支えていけばいいのかをな」
「ちょい待て、先生! この日ってどういうことだよ!」
初めて菱本先生の言葉にひっかかった。貴史はぐいと菱本先生の鼻の穴を覗き込むよう見上げた。背はほとんど変わらないのに、なぜか今だけは威圧感がある。
「先生、まさか立村が最初から、評議委員長から落っこちるって思ってたってことかよ? あいつが評議になったのって一年の時からだろ? そんときから、まさかあいつが上に立った後落っこちるとか」
「あのさ、勘違いするなよ」
冷やかな声は南雲からのものだった。
「先生はりっちゃんを評議向きじゃないって思ってたってことだろ。委員長以前として」
「なんだと! お前友だちに対してよくそんなこと言えるな! 俺に言うならともかく立村のことを」
「違う違う、俺は菱本先生の言いたいことを短くしてるだけ」
つらっとしたまま南雲は受けた。
「そういうことっしょ、先生? とにかく俺の考えは以上です。てなことで」
一礼し、南雲はかばんだけ自分の机に置き、そそくさと教室を出て行った。
かなり気まずい沈黙が流れた。貴史が教室に足を踏み入れてからまだ五分も経っていない。
「先生、どういうことだよ。俺、全然話なんて聞いてねえよ。美里からもなんも」
「そうか」
一呼吸おいて、菱本先生はゆっくり貴史に語りかけた。
「あとでお前とはじっくり話すつもりだったんだ。南雲の意見としては、とにかく放っておいたほうがいいとのことなんだが、俺はそう思えなかった」
言葉を切って、また貴史を見た。答えが欲しそうだった。
「なんで放っておいたらまずいんだよ。例えば俺とかだったらどうなん? 俺だったらなんとかなるかとか思って無視こいとく?」
「ああ、お前とならゆっくり話し合えれば大丈夫と思えるからな」
「話し合い、できるかどうかってことかあ」
あのキザ野郎が余計なことを言うから貴史も混乱してしまったようなものだ。だいぶ落ち着いた。自分のかばんを濡れたまま机に置いた。外の雨はまだ止みそうにない。窓ガラスが揺れている。
「本当なら担任としてすぐに立村と話し合いを持ちたいが、たぶん今の状態では無理だろう。だから、一番近しいとされる羽飛に話を聞きたかったんだ。友だちとして、お前は立村をどう思う? 今回のような屈辱を味わって、冷静でいられると思うか?」
「わからんけど、冷静なふりはすると思うよ」
「ふりか」
頷いて菱本先生を見つめ返した。声の裏側に焦りのようなものが感じられた。もしかしたら菱本先生も普段の熱血キャラクターを押し出すことにより、本心の猛烈な疲れをかくしているのかもしれない、そんな気がした。貴史が想像しているよりもはるかに菱本先生は立村のことを深く観察し、その上で連絡しようとしてくれたのかもしれない。直接尋ねてみるに限る。
「先生、もしかしてさ、立村が自殺するんじゃねえかとか、そこまで心配してたりする?」
軽く投げかけてみたその言葉、ストライクゾーンのように鼻の真ん中に収まったようだった。
「そんぐらい、あいつが、落ち込んでるって思ったから俺に電話してきたんだろ? ま、姉ちゃんのせいで受け取れねかったけど」
「俺の見方が間違っていればいいが、少なくとも立村は、自分ひとりでこもってしまいひとりで決断してしまう傾向がある。それは入学した頃から感じていたが後ろに羽飛がついているなら大丈夫だろうと考えていた」
「なんで俺が?」
「羽飛、まず今日の段階でお前なら立村にどう接したほうがいいと思う? 南雲の言う通りそっとしたほうがいいのか、それともこちらからもっと近づいて直接話をしたほうがいいか? 俺は一旦きっちりと話をして、とことん本音を聞きたいと思う。でもお前はそう思わないか?」
──どうする?
外の雨が止む気配はなかった。アメーバみたいに水滴が広がり窓辺から転がり落ちる。
ストーブから湯気が立っているのは、さっき乾かすためにかけた自分の靴下からだ。
──なんで天羽が委員長になっちまったんだ? それにクーデター?
途切れ途切れの情報しか自分の耳に入ってきていない。何よりも、
──なんで美里、俺にそれ連絡しなかったんだ?
姉の長電話とはいってもたかが三時間くらいのこと。真夜中でも、それこそ今朝、窓辺に石を投げて合図したって構わなかったはずだ。なのに美里は一切連絡をよこさなかった。ほぼ委員長確定とされていた立村が、予想もしない展開で落とされたのだ。美里がショックを受けぬわけがない。受けたら誰かに抱きつかずにはいかないはずだ。今まではその相手が貴史か古川こずえかのどちらかだったはず。仮にこずえが相手とすれば、当然のごとく貴史にこずえ経由の連絡が入っただろう。それが一切なく、いきなり菱本先生と南雲から告げられたというこの事実は、なんなのだ。何を意味するのだ?
──美里がもっと早く、連絡よこせば!
南雲に嫌味たらしく二回も「清坂さんから聞いてないのか?」などと告げられずにすんだはずだ。
──あいつ、何とっちらかしてるんだよ! こういう時になぜボケかますんだよお前は!
目の前で問う菱本先生よりも先に、貴史が問い詰める相手がいるはずだった。
──美里、お前なんで、どうして俺に先に言わねえんだよ!
膝の濡れた部分が冷えてしみた。
「先生、ひとまず俺、何が起こったのかを確認したいんだ」
ゆっくり、一言ずつ、言葉をつなげた。袖口で口を拭った。
「今の段階だと、立村が引きずり下ろされたのかそれとも自分から降りたのかすらわからねえし、後釜の天羽がなんで評議委員長に選ばれたのかその展開もまったく分かってねえし。俺、立村がなんでわけわからねえことばっかやらかすのかは正直わからねえけど、一通り事情をつかんでその上で話をすれば、聞く耳もたねえってことは絶対ねえと思うんだ。少なくとも、すぐに豆腐の角に頭ぶつけて死んじまうなんてことはねえよ。ただ、このまんまあいつを、腫れ物触るみたいな扱いでもって様子見するってのは俺も反対。できるだけ早くきっかけを見つけて、差しで話をすることはしてえと思うんだ。俺も、あいつと真っ正面から今まで話をしたことって、実はあんまりねえし。あいつが露骨に嫌がるから斜め、斜めって感じで付き合ってきたし。けど、もう卒業まで時間がねえのは俺もよっくわかってる。先生、悪いけど、まず一日情報収集のための時間、くれよ。まず俺なりに天羽や評議の連中と話してみて、何が起こったか確認してみる」
「羽飛、でもな」
遮った。大人が入ることのできない場を作らねば、立村は決して心を開かない。
「先生、俺を信用してほしいんだ。俺は、三年D組みんなで卒業したいしそのためになんとかしたいって、前から思ってた。そのために立村と一度はきっちり話をしねばって思ってたんだ。もちろん俺だけで手に余すようだったら、その時は菱本先生や狩野先生に相談するから。絶対。けど、まず今だけは俺に任せてほしいんだ。まだ、ここまでは、大人に入ってきてほしくねえんだ」
「お前、先生を信用できないのか?」
「してねえんじゃねえよ。菱本先生、信用してないなら俺、ここまで話すわけねえじゃん。南雲みたいに無視こくやりかたで本当はいいのかもしれねえよ。立村だって本当はそっちのほうが楽かもしれねえけど、そんなことしたら今度は俺たちがみじめだろ? 先生、三年間立村に無視されつづけて、うちの組のことをほっとかれて、頭きただろ? 俺、卒業式までなんとかして立村を三年D組のひとりとして、先生と話ができるようにさせたいんだ。でなかったらあいつ、ずっとひとりぼっちのままだよ。先生だってそれ、心配してるよな? だから、少しだけあいつの親友として時間がほしいんだ」
今まで、菱本先生を大人の教師として見たつもりはなかった。
いわば兄貴分のような存在。それでいて熱血ぶりにこちらのほうがお世話したくなってしまうようなキャラクター。
それでも「教師」であり「担任」である以上、見えない壁のようなものは確かに存在していた。
大人としての確かな、垣根のようなものだった。
それが夏休みの彼女罵倒事件目撃をきっかけに、貴史の中でその垣根が壊れた。
尊敬とか思慕とかそういうものとは違う、何か、同じ地面であがきあっている同士のような感情が細く長く続いていた。
ただそれを伝える機会はまったくなかった。あくまでも教師と生徒としてのつながりだった。
もし、教師のままで菱本先生と接するのならば、貴史は何も言わずに立村と差しの勝負に出ただろう。それが十五歳のやり方だ。大人なんて入れたくない。綺麗事で片付けられてしまうのがおち。南雲と同じ価値観のふりをして黙らせておき、陰でぶつかろうとしただろう。
──いや、菱本先生には、絶対話せばわかる。わかるはずだ。
認めさせたかった。確認させたかった。上下ではなく、横につながった本気を伝えたかった。
──対等に、話したい。
「わかった。羽飛もそう思っているんだったら、まず今日は様子を見ようか。ただひとつだけ約束してほしいんだ」
「何?」
「できるだけその事情を、俺にも話してくれないか。俺はどうしても立村の中に入れない。でも羽飛なら入っていって救うことができるはずなんだ。そのために、どうしたらいいかを腹割って俺に話してほしいんだ」
菱本先生は腕時計を覗き込み早口に語りかけてきた。
「俺は教師だ、で、担任だ。大人としてやらねばならないことがある」
「そりゃわかるけどさ」
「でも、友だちでなくてはできない領域があることも、よくわかっているつもりだ」
肩に手を置き、もう一度告げた。
「今日は職員会議がある。明日の放課後に話し合おう。ここんところは、お前が大将だ」
最後にわけのわからないことをつぶやき、菱本先生は素早く姿を消した。荷物を持っていなかったところみると、職員室に寄ってから教室に来たのだろう。貴史はストーブの上にのせっぱなしの靴下に触れてみた。熱くはなっているがまだまだ水にぬれたままだった。朝の会が行われるまで、まだ乾きそうにない。
──美里をまず捕まえることだ。
現場にいるのはまず美里だ。あいつから状況を聞き出すことが先決だろう。
立村がどんな顔で教室に現れるかはわからないが、とりあえず知らんぷりで通すと決めた以上こちらからは現段階では何も言うまい。
──ただ、やっぱり、誰かが言い出すのは時間の問題だよなあ。
立村を軽蔑しきっている女子チームが聞きつけたり、もしくは他の組経由で情報を聞き出したら……もちろん評議委員長という座は青大附中にとって特別なものなのでとっくの昔に全校生徒が知っている可能性が高い……面と向かって嫌がらせしないとも限らない。が、それはそれ、これはこれ。事が起こってから対処しても間に合うはずだ。まずは美里を捕まえてから話をせねばなるまい。
貴史は靴下を裏表にひっくり返してストーブのへりに載せ直した。素足がだんだんかゆくなってきた。じわじわくる怪しい感覚で、どうしようもなく足の指がちぎれそうだった。扉を開け放ったまま貴史は生徒玄関に向かい走り出した。