第一部 35
「次は、副会長候補、一年B組、霧島真くんの演説です。みなさん、静かにしてください!」
──無駄だろうが。
貴史がいすの背もたれにひっついて居眠りしている間、立会演説会で私語が絶えることなど一瞬たりともなかった。
なにせ隣の女子がうるさい。
「あのさあ羽飛、もっと生徒会に関心持ちなよ」
似合わない台詞だ。こずえを横目でにらんでおいた。知ったことか。
「政治といっしょじゃん、選挙権あるんだからさあ」
──なあにいきなりくそまじめになりやがってるんだ。
貴史の知る限り生徒会改選に関して熱く語りたがる奴はひとりもいなかった。
もともとD組の連中が生徒会よりも委員会に命をかけていたから当然のことだ。いきなり盛り上がれと言われたってしょうがない。
「それにしてもさあ、南雲、あんたどう思う? 規律委員長様として、今回の改選なんだけどさ」
ずっと無視を決め込んでおいたのでこずえもあきらめたらしい。南雲へ方向転換したようだ。貴史は目を閉じたままでいた。
「そうっすねえ、今のところ順当に決まるんでないのかなっと」
「順当? ほお、それは聞き捨てならないねえ」
「だって、信任投票に逆らう必要なんて今のところ全然ないし、そうだよ、彰子さん」
奈良岡彰子の相槌打つ声は聞こえない。黙っているのだろうか。
「得なことなんかあるって、まあ損得計算でいけば、何にもしないでいい方選ぶでしょうよ、ね、彰子さん」
無視こかれているのは南雲も同じようだ。
さすがに霧島ゆいの弟ということは知っている。言葉の流れる通路だけは耳に用意しておいた。
意地でも目を開ける気はなかった。
「みなさん、ごきげんよう。一年B組、霧島真です」
--なんだこいつ?
思わず腰がひっこんだ。薄目を開けて覗き込むと、壇上にはやたらと気取った面の男子がひとり貴史たちを見下ろしている。
顔を知らないわけではないが、こうやって見上げる格好になるのは面白くない。
──何様のつもりなんだあいつ。
「ほら、ゆいちゃんの弟」
「ほお」
周囲のざわめきは主に女子方面からふきだしてくるのだが、時折やじが混じったりもする。当然だ。爆竹鳴らしてやりたくなる。
なんなのだ、あの生白い顔ととんがった鼻、欧米からの転校生として乗り込んでくればまだ対応のしかたもあるのだろうが。
背丈もそんなに高くないのに、態度だけがでかい。
「世の中、南雲みたいなタイプがもてるんだねえ。よくわからんけど」
「ありがたいことで」
貴史が隣にいることを全く気にせずこずえが南雲とつっこみまくっている。
「今の時代には合わない、損なタイプだよねえ、霧島ってねえ」
「へ、ああいうタイプがひそかに好み?」
「まっさか! 男の匂い、しないじゃん」
──なんだその男の匂いっつうのは。
こずえの下ネタトークは立会演説会の真っ最中でもとどまることを知らなかった。
「やっぱり、女子を牝にさせてしまう何かがないとさ、いくら外見かっこよくてもアウトだよ。だって観てみ? 霧島を見てたらどう考えたって弟だよ! うちの弟とおんなじ!」
力強く訴えている。南雲の反応はわからない。
「男として感じるもんないじゃん! 立村とおんなじ匂いだよね。頭なでて、髪の毛整えてやって、鼻つまんでチューしてやるくらいしかないじゃん」
「鼻つまんで、チューってなんですか、姐さんそれっていったい。まさかりっちゃん相手にやってるの?」
「さすがに、それは美里に縁切りされるよねえ」
──ったく、くだらねえ。
きわどい話題を続けていても、誰一人注意する先生方はいない。
まだまだかわいいほうなのだ。
三年ならすでに半年を切った中学生活、生徒会改選なんてさほど影響はない。もともと生徒会自体に存在感なんてないのだから、勝手にすればいいだけのことだ。
二年生たちの気持ちとしてはやっぱり、霧島真という男子、面白くないものがあるだろう。
あとで直属の男子連中に絞られるんじゃないかという気もするが、貴史にとってはどうだっていい。
霧島真の全く途切れることない甲高い声は、やじや罵倒にめげず隅から隅まで広がっていった。
「僕は青潟大学附属中学に入学してから、先生たちに何度も委員会活動へ参加を勧められました。しかし、実情を知るにつけて全く興味が湧かず、今までは傍観者の立場でおりました」
──ああそうかい、こうやって挑発して何が楽しい?
「理由はさまざまございますが、一言で片付けるならばそれは」
言葉を切り、ざわめきにつばを吐きかけるがごとく、
「あまりにも委員会活動というものがレベル低すぎると感じたからです。挑発しているとお思いでしょうが、その通り、僕は先輩たちを思いっきり挑発させていただいております」
ものを投げ込んだ奴がいるらしい。先生たちがふたり、二年生席にかけより男子をひとり、連れ出した。知らない奴だった。
「どうやら、銀球鉄砲みたいよ」
こずえの解説が聞こえる。
「そりゃあまずい。目にあたったら失明の恐れありじゃん」
「どう? 規律委員長としてあれは」
「取り締まるっきゃあないですねえ。俺たちの卒業式のことを考えるとなおのことね」
「狙われるかもねえ、南雲、あんたそうとう今まで悪さしてきたからねえ」
「すねに傷のある身ですもんで」
軽口叩き合う側で奈良岡彰子の声は聞こえない。にこやかに頷いているのかわからない。
貴史としてはいいかげん、南雲に愛想を尽かしてほしいものだと思う。霧島のむかつく演説は延々と続いているが、もうここまで聞けば十分だ。
「信任投票、決まると思う?」
「でしょ? むかつくよりも面倒くさくないほうがいいに決まってるし、でしょ? 彰子さん?」
──別の女子と付き合ってるくせによく言うぜ。
突っ込みをするのも面倒くさい。だから黙っている。そこんところだけは南雲の言い分が当たっている。
だいたい、「生徒会役員になってから何をやりたいのか」という部分は誰も似たようなことを言うだけだ。
「生徒ひとりひとりが笑顔でいられる学校作りをしたい」
「本音を伝えられる環境を作りたい」
「生徒会は生徒ひとりひとりものであることを伝えたい」
多かれ少なかれ、実際達成されたとしてもたいして生徒たちにはどうだっていいことばかりだ。
貴史も決して生徒会の盛り上がりを否定しようとは思わない。が、自分たちと関係ないことには面倒くさくてかかわりたくないのも本音だ。
立村のように真剣な顔をして取り組もうとする奴もいないわけではないが、貴史としてはまず、足元であるクラスをなんとかすべきではないかと思う。
霧島の強烈な挑発演説が終わり、しばらく険悪な雰囲気が流れる中、貴史はもう一度目を閉じた。自然と興味のないことは耳から断ち切られてしまうものだった。
ノンストップでどんどん進んでいく立会演説会。
ワイドショー感覚で解説を続ける古川こずえとつっこみを入れる南雲との会話は、決して心地よいものではなかった。
誰かもうひとり混じっていればまた、貴史も自分なりの意見を堂々と言い放つことができただろう。
クラスの中ではいくらでも自己主張できるくせに、なぜか体育館では何もできずにいる。
──くだらなすぎてやる気ねえだけだって。
強がってみても、列に挟み込まれている「委員会」の匂いはどうしてもなじむことができない。
──あの弱っちい立村だって、評議委員長になっちまったとたん、ああだもんな。
おごり高ぶる性格ではない立村ですら、体育館で先頭の席に座ったとたん、果てしなく遠い奴に感じられてしまう。
ましてや、
──美里ですらも。
今まで感じたことはなかった、かゆみを覚える。
目を閉じて聞きたくない言葉をさらに耳から流していく。
「さあさあ次だよ次。どうなるだろうねえ、生徒会長もやっぱし信任で一発? それとも二発め来る?」
「そりゃ信任でしょう、俺ももう面倒なことしたくないもん」
こずえの声トーンが一段と高くなる。
「なんてったってああた、あれだけ騒ぎ起こしておいて、全生徒の約半分を占める女子たちから総すかんって可能性あるよね」
「それ以前に女子って政治に関心ないっしょ、ねえ彰子さん」
相槌を求めているが、真面目な奈良岡彰子の返事はない。
「でもでも、女子としてはやはり、親友を裏切ってつらっとした顔で開き直る子ってむかつくよ」
「そういうもんですかい?」
「もちろんだよ! 女子はね、面子とかそんなもんじゃないのよ大切なのは。いったん信じたことをあっさり裏切ったら最後、絶対、一生許さないんだからね」
「ひょえーそれは怖い怖い」
──まじで怖いな。立村やめとけ。美里振っちまうのは。
知らず知らずのうちに心で相槌を打ってしまう。
「では次に、生徒会長候補、二年B組、佐賀はるみさんの演説です」
アナウンスを無視してこずえはしゃべりまくっている。止まらない。
「佐賀さんがしたことはね、小学校時代の親友である杉本さんを裏切って男を選んだっていう、女子として死んでも許されないことなんだよ! 女子だったら同じ男子を好きだとしたら、まあ相手にもよるけど身を引くよ。友情を選ぶのがあたりまえじゃん! それをさ。友だちより男子の方が大事だって選んでさ、杉本さんがずたずたに傷ついたのに支えようとしないでさ。そんな子を女子が応援するわけ、絶対にないじゃん!」
それまで生徒担当だった放送が、いきなり先生のどら声に変わる。
「そこの三年、静粛に!」
ピンポイント攻撃で、さすがにこずえは黙った。
同時に他のざわめき組もなだらかに静まっていった。
--さあてと居眠りタイム続行だ、さてさて。
「生徒のみなさん、はじめまして。二年B組、佐賀はるみです」
貴史は再び目を閉じた。
マイクから雑音のまじりなく、凛とした女子の声が体育館いっぱいに広がった。
「私は今まで生徒会に関心を持つ機会がなかったのですが」
いったん言葉を切った。まだまだ女子中心のおしゃべりは収まらない。
「このたび思うところあって、生徒会長に立候補させていただきました」
ゆっくり、途切れ途切れに続いた佐賀はるみの言葉が突如、ぴんと引き締まったように聞こえた。
貴史の耳に、しゅっと刺さった。
「私は、誰もが自分自身でいることができるように、そして自分自身に価値があるということをみんなで伝えられるような、そんな学校生活を私はサポートする立場に立ちたいと思い、このたび立候補しました」
貴史は目を見開いた。何か興味を持ったわけでは決してなかった。いくら無関心を装おうとしても、瞼が何かにひっぱられてしまったようだった。
──畜生、眠れねえ!
初めてまじまじと観察した佐賀はるみの顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
確かに、笑っていた。
髪の毛をくるくる耳の上に載せ、背をぴんと伸ばし、語り口調はやわらかい。
鈴蘭優がたまにしている髪型だった。
──優ちゃんに似てるかもなあ。
全体としてなんとなく似ていた。少なくとも立村おきにいりの杉本梨南よりは好みの顔だった。
貴史は椅子に尻を直角に合わせて座り直した。
「私は小学校時代ずっと、自分はひとりで何もできない人間だとずっと思い込んできました。誰かに助けてもらわないと何一つ満足に出来ず、困った時は泣いてばかりいたそんな小学生でした。でも、青大附中に入学して以来、私の中で何かが変わりました」
また言葉を切り、耳元に片手を当てた。ふうっと誰かのため息が聞こえた。
「今まで私は、自分自身これは間違っているんじゃないか、これはいじめなんじゃないか、これは私にとっていやなことじゃないか、そういう気持ちを無視してきました。何も感じないようにしてきました。私がすべて間違っているんだと思ってきました。でも、ある時、どうしても納得いかないと思ったことをはっきり相手に伝えた瞬間、私の身の回りの人たちからとっても感謝されたんです。本当はずっと言いたくてならなかったのに、私と同じく自分が間違っているのかと感じ、どうしても伝えられなかったことがたくさんあるんだと、その時初めて知りました」
隣で南雲に話し掛けているこずえ、しかし返事は返ってこない。どうやら南雲もうるさがっているらしい。
「具体的な例は当事者の人を傷つけるので言えません。でも、同じことを何度か繰り返していくうちに、私の周りの人たちが少しずつ自信を持って自己主張し始めてくることに気付きました。私は決して成績もよくないし、こんな風に曖昧な言い方しかできません。でも、もしかしたら、私は周りの人たちがずっと言いたくても言えなかったことを伝える力があるんじゃないかって思ったのです」
間を置いた。
「いい子ぶっちゃってねえ」
「うるせえ、黙れ」
貴史はこずえに一言刺した。その言葉すら体育館に響くようだった。
佐賀はるみは呼吸を整え続けた。
「私には、何かができるということを知りました。今まで何もできなかったのは、自分にその力がなくて押さえつけられていると思い込んでいただけだったのです。私には、同じように自分に価値がないと思い込んでいる人たちを助ける力があるんじゃないか、って思うようになったのです。そのために、私は今からひとつ、はっきりとした公約をさせていただきます」
--公約?
ざわめいた。今までどの候補者も、「公約」という言葉を使わなかった。
「私は、今まで口に出すことができなかった疑問を、みなさんと一緒に考えていきます。たとえば、どうして青大附中の部活動は委員会活動と比較して関心を持ってもらいづらいのかとか、ずっと不思議に思ってきました。公立中学に進学した友だちに聞くと、誰も委員会活動の話などせず、サッカー部や野球部の活躍自慢ばかり出てきます。もちろん委員会活動が大切なことは私も理解しています。でも、同じくらい部活動に参加している人たちももっと誇りを持つことができるように雰囲気を変えていく必要があるのではないでしょうか。委員会に参加できる人たちはクラス三十名中十名程度です。残りの二十名は取り残されたままです。私はその、何か違うと感じている人たちの気持ちをひとつひとつ拾い上げていきたいのです。その上で、もっともよい道を見出すためのきっかけ作りをしていきたいと思っています」
──何か、違うと、感じている人たち。
南雲が軽く咳をした。それすら誰から発したものかわかるほどに響く。
──委員会に参加できる人はクラス三十名中十名程度。
──言いたくても言えなかったことを伝える力。
生々しく頭皮に言葉の針が刺さってくる。
ちくちく、貴史をつついてくる。
なんでだろう。全く関係のない生徒会立会演説会の世界なのに。
「ここまで私の話を聞いていただきまして、ありがとうございます。どのような結果が出たとしても、この場で私の考えを聞いていただけたことが嬉しいです。ありがとうございます」
佐賀はるみは一度ぴたっと動きをとめ、ぐるりと見渡した。また言葉を詰まらせ、ひとこと、
「ありがとうございます」
丁寧に礼をした後、静かに壇上を降りていった。
「ずいぶん敵を作る話したよねえ」
「どこがだよ」
拍手がぎこちなく聞こえたのは、満場一致のものではないからだろう。貴史はこずえのぼやきをさえぎり立ち上がった。
「委員会にとっては結構痛いなあ、そう思うよね、彰子さん」
脳天気に南雲が奈良岡に話し掛けている。立会演説会が終わったとたんにっこりと微笑み話を聞いている。
──立村と美里は果たしてどう思ったんだろうなあ。
振り返って誰かとこの立会演説会の内容について語りたかった。ただ、誰でもいいわけではなかった。たぶん評議委員長の立村はそれなりに思うところがあるだろう。美里も頭に来ることがあるだろう。そのことを一緒に分かち合うには、列先頭までの距離が長すぎた。貴史の言葉が口に出す前に消えるまでの温度がどんどん冷めていく。入学してからいつもそうだった。立村と貴史との言葉の熱は、いつも同じ目盛に留まることがなかった。
──まあいっか。それよか次だ次!
立村を後期評議委員に押し出すこと。最終目標はそこだ。
結論を思い出したとたん、立会演説会で刺された頭の針は即、抜き取られた。
即日開票、発表はすでに土曜の朝に生徒玄関ロビー柱まわりにて行われていた。
結果は火を見るよりも明らか。一人残らず信任投票で決定していた。
ここで不信任なんて面倒なことをする奴などいるわけない。南雲が言い張っていたけれども、その点だけは真実と認めねばなるまい。
「あっさり決まったね」
「だな」
顔を合わせた古川こずえにあっさり相槌を打った。
「女子がもう少し反発するんじゃないかなって思ったんだけどねえ。やっぱりめんどくさいことは、しないってね。保守的だねえみんな」
「知るかんなこと」
あの、佐賀はるみが訴えた強烈なメッセージを聞けば、まあこいつにやらせて見るかくらいの気持ちは湧くだろう。いろいろ裏事情があるにせよ、無理やり下ろしてやるなんてせせこましいことは考えないに違いない。
肩に手が触れてくる。払いのけた。
「やめろよ」
「敏感だねえ。もしかして感じてる?」
「くだらねえこと言ってるより、どうなんだ、進んでるのかよ、あの菱本先生の」
「壁に耳あり障子に目あり。少し黙んな」
いきなり小声になる。
「女子たちはきっちり準備進めてるよ。彰子ちゃんがはりきってクッキー作りに燃えてるしね。男子たちにもおすそ分けあるかもよ。男子はどうなのさ。なーんもしてないみたいだけど」
「電話一本で終わるような内容だろ。女子みたいに面倒なこと、してねえよ」
「あっそ。とにかく、月曜の六時間目、抜かるんじゃないよ!」
「ああまかせとけ!」
苦味が喉の奥からせり上がってくる。貴史は首を降ってとなりのこずえを追い払った。
「あとはあさってのことだろ。さっさと教室行けよ」
まだまだ、開票結果をじっくり覗き込みたい気持ちはあるのだ。しゃべっている暇はない。
──ってことで、投票結果だが。
全員が信任投票というのは分かりきったことなのだが、若干票の割れている候補者が見受けられる。
最初にチェックした相手はもちろん佐賀はるみ生徒会長だった。こずえがぶつくさ言うほど、反対者はいないようだ。しかしその一方で書記候補の渋谷名美子と副会長候補の霧島真の支持者が危うく過半数をわりそうな票数というのはどういうことだろうか。霧島については、三年C組アマゾネス霧島ゆいの弟という部分と、人を馬鹿にしたような口調の演説がマイナスに働いたこともあるだろうが、渋谷に関しては現役の生徒会役員のスライドだ。面倒くさがる投票者がなぜ支持をためらったのだろう? このあたりは少し貴史も質問してみたいところだ。相当内部でいろいろと問題が山積みだったのか?
対抗馬のいない生徒会役員改選だが、それなりに歪みがあるのかもしれない。
──どっちにせよ、めんどくせえ世界だなあ。俺は関わりたくねえな。
こそこそと陰で足をひっぱり合うグループなど、知ったことじゃない。
とはいえその一方で貴史も、月曜六時限目は特定のだれかさんの前でこそこそしなくてはならないわけだ。
──めでたいことなんだし、ま、こういったびっくりイベントも悪かねえけどなあ。
生徒玄関から教室に向かいつつ、廊下で立村を探した。
──こういうイベントにあいつが混じってねえのは、いろいろあるけどもったいねえなあ。
「羽飛、立村どこにいるか知らないか?」
貴史が知りたいことを背中から問われた。振り返るとB組の難波が分厚いコートを羽織りポケットに手を突っ込んでいた。めずらしい恰好だ。この時期にジャンバーではなくコートというのは、立村以外そういないのではないか。めがねをかけたまま指でごしごし拭いている。
「俺も探してるとこなんだ」
「ライバルって奴か」
軽口に和んで笑った。難波はすぐに頬をひきしめた。
「いいかげん二年の教室でうろうろするのはやめろって伝えておいてくれ。変質者と思われるぞ」
「はあ? なんだそりゃ」
見当つかないわけではないが、コートの下にかなりの情報をかくしていると思われる難波にはかまを掛けたい。
「この一週間、みっともねえくらい二年B組の教室前で立ち尽くしてるんだとさ。天羽や俺が何度か引き戻しに行ったけどな、全然効果なし。まったく反応しやしねえ。恋患いもあそこまできたらな。学校の迷惑だろう」
生真面目に言い放つ難波に、貴史はまたまぬけな質問を投げかけて見た。
「引き戻すってなんだあ? たとえば、誰かを追いかけまわしているとか、そういうことかよ」
「ま、そんなところだ。あいつの面子もあるから露骨にはやらない。用事ある振りして声をかけて、三年教室に向かう階段までずいいと引っ張っていくんだが、次の日の朝見るとまた同じことなんだ。さすがに何度も同じネタで呼び止めるのはわざとらしいしな。天羽、俺、更科と立村当番を行ったわけだが、もう評議男子は手が足らない。女子にやらせるわけにはいかない」
ーー美里にはさせられねえな。そりゃあ。
別の意味で修羅場になる。貴史の腹ん中も若干修羅場だ。
「じゃああいつ、今も二年の教室で突っ立ってるってわけか」
「たぶんな」
「わかった、じゃあな」
返事より早く体が動き出していた。回れ後ろして即、階段を駆け下りた。
立村の顔から様子から、リアルにその「恋煩い」状況が浮かび上がるのも、正直気色悪い。
美里の件とは別に、情けない評議委員長としての姿は大っぴらにさせたくない。
立村にとって女子とは鬼門なのだ。
──あすこまでなーんもねえとこで嫌われるってのはどういうことだよな。
三年間同じクラスで過ごしてきたが、物好きな美里に惚れられただけであとはもろに無視されている状況。もちろん女子に嫌われている男子は他にも大勢いるが、立村のように評議委員長という肩書きを持っているのにまったくその威光が役立たない奴はそうそういない。
二年A組からD組まですべての戸が開いている。B組の前に立ち尽くしていると聞いたが、
──ちょいと勘違いしてるんじゃねえのか? 確か立村が熱をあげているとかいう女子は、一階の僻地に追いやられているんじゃねえか? 前の教師研修室だったか。あすこだろ?
難波と話をしている時は気づかなかった。失敗した。ふと足を留めた。
──ん? やっぱり、立村かよあれは。
難波は嘘をついていなかった。間違えてもいなかった。
立村がとんびのコートを羽織ったままずっと、二年B組の教室扉脇に張り付いていた。
季節外れの蛾、そのものだった。
──ちょっと待てよ。いねえだろそこにゃ。
ネタがもっと共感できるものならば、どつき漫才のツッコミを担当したい。
声をかけるには一クラス分の距離、遠すぎる。
通り過ぎる女子生徒たちが、三年D組の女子たちと同じく唇を曲げて悪口を言い合っている。
「うっわー、あの馬鹿また来てるよ」
「天羽先輩たちが連れ戻しに来てるのにね、しつこい、やらしいよねえ」
──立場なんてねえじゃん。ばればれじゃん。
難波たちの心遣いをあっさり一蹴する女子の眼差し恐るべし。
また別の女子たちも、貴史のそばで同じくつぶやいている。
「いるわけないじゃん杉本さん、B組に戻ってくるわけないじゃん。もうあの人幽霊になってるのにさ」
「そうそう、成績いいから退学すぐにさせられなくって、卒業するまで待っているって話でしょ」
「でもまあ、可哀想だよね。あれでしょ? 新井林に振られて佐賀さんを逆恨みして小学校の頃からいじめぬいてたんでしょ? この前B組の子から聞いた」
「でもさ、立会演説会の時に佐賀さんが言ってたとおり、はっきりやめてって言ってから、だんだんクラスの立場がなくなってたんでしょ。私もそんなことちっとも知らなかったから、佐賀さんが一方的に親友を切ったんだと思ってたけどね」
「違うって。いじめにあってて、杉本さんの手下にされてたけど、ひとりで立ち向かったんだって。あとで本当のこと聞いてびっくりしたよね。B組の女子たち、本当のこと知らなかったから佐賀さんをずっといじめてきてたって、みな反省して泣いてたって。男子もみな、女子たちのこと怒って、もう二度とクラスでいじめなんてさせないんだって、約束させたんだって」
「うわー、それなに、何様?」
「しかもよ。しかも! 佐賀さんってさすごいんだよ。いじめられて当然の杉本さんをかばったんだよ! ふつう、いじめられたらやりかえすよね? 私の小学校六年間を返せって言いたくなるよね? 露骨に叩かなくても、無視するよね? それをだよ? 杉本さんを許すからB組に帰してあげてほしいって桧山先生にお願いしたんだよ? できる? そんなこと? 私だったら血祭りにするよ絶対!」
──立村、よりによってそんな最低な女子を追っかけてるのかよ?
噂話が猛スピードで進んでいる。あふれんばかりの情報が耳元を駆け抜ける。女子たちが……特にこずえ……
短時間でとてつもない裏ネタを仕入れてくるのには、このあたりに理由があるのだろう。
「でさ、でさ。私もあの人単なるぶりっ子だと思ってたんだけど、生徒会経由の話聞いてやっぱりこれはって思ったんだよね。ほら、生徒会書記の渋谷さんっているでしょが。あの人、噂だと生徒会長に立候補しようとしてたんだけど、藤沖生徒会長が絶対にそうさせたくないって言っててけんかになってたんだって。悪いけど渋谷さんって気取ってるってイメージだよね。本当は一年のほら、あの、おばかな先輩の弟」
霧島ゆいが哀れである。
「霧島?」
「そう、あの美形にさせようとしたんだけど、後輩に生徒会長は絶対させたくないって渋谷さんがごねたんだって。そこで藤沖先輩は佐賀さんをスカウトしたんだって。いろいろ調べて、人間ができてるって判断して。藤沖先輩って男尊女卑っぽいって話聞いてたけど、佐賀さんのことはすっごく買ってて太鼓判押したんだって」
「ふうん。だから覚悟を決めて、なんだね」
「その後、何を血迷ったか杉本さんが立候補しようとして、あの馬鹿が」
言葉を切って立村をちらっと見て、またマシンガントークに戻った。
「止めようとしてかえって火に油注いで大変だったんだから。ずっと悩んでいた佐賀さんが、このままではいけないと覚悟を決めて、生徒会長に立候補したんだって。言ってたよ。これ以上杉本さんに惨めな思いをさせたくないから、ってね」
立会演説会の二つに丸めたおだんごヘアーはまだまぶたに残っている。
後ろ姿は鈴蘭優、これだけですべてが許されるような気がする。
──古川がさんざん悪口言ってたけどなあ、女子同士でこんなに受けがいいんだったら本物なんじゃねえの。ま、会長ってのは可哀想って気もするがなあ。
佐賀はるみ、ではなく鈴蘭優の似姿への共感と言えなくもないが、貴史の本音は根本そこから立っている。
以前はかなり女子たちから総すかんを買っていたとも聞く。
古川こずえの説明で「親友を裏切り彼氏を取った女子」のイメージが強かったのだが、さにあらず。
いじめに遭っていたにもかかわらず、一人で乗り越えて結果、すべてを水に流し次のステージに向かったという、なかなか骨のある女子じゃないか。
──悪いが古川は思いっきり人を見る目がねえってことなんだな。ったく、ばっかだな。
事実は学年を越えて確認してみないとわからないものだとつくづく思った。
──んなこと考えてる場合じゃねえだろ! まずは立村連れもどさねえと、ばかまるだしだろが!
難波たちが気遣いしても無駄だった以上、貴史がさっさと三年D組に連れ戻さねばならない。
それが義務だ。事実から目を背けている以上、にっちもさっちもいかない。
貴史は一歩踏み出そうとした。その時だった。
「立村先輩、梨南ちゃんはここに来ていません。それと」
二年B組の前扉から、見覚えのある二つおだんごヘアーが現れた。もちろん鈴蘭優ではない。佐賀はるみ生徒会長だ。
はっきりと、貴史にも聞こえるくらいの声で、
「これ以上、梨南ちゃんをしつこく追わないであげてください。今、梨南ちゃんがE組にもB組にもいられなくなったのは、先輩が恥をかかせたからではないですか」
怒鳴りはしない。
ただ、周囲に響き渡る、張りのある鐘の音に似ていた。
「今の梨南ちゃんの傷を、これ以上大きくしないであげてください。お願いします」
おだんごヘアーが深々と下に下がっていく。
立村の返事は聞こえなかった。
返礼もせず、そのままD組方面の階段に向かい歩き去った。
その姿が消えるまで、見送るおだんごヘアーの生徒会長。
その頭がくるっと反対側を向いた。すなわち、貴史の顔を直撃する方向へ。
──やべっ! まじいだろこりゃあ。
無視するのもなんだし、とりあえず二本指のこめかみポーズだけ決め、貴史はそそくさとA組方面の上り階段を駆け上がった。完全に脳内では、佐賀はるみの全身像が鈴蘭優に入れ替わっていた。うちに帰ったら部屋で最新ヒットアルバムを聞こうと決めた。