第一部 34
「あんたさ、評議委員長なんでしょ、だったらそのくらいきちんとやりなさいよ!」
美里の声ではない。
貴史が教室に入ると、いきなり三名の女子たちがそそくさと席に戻った。どうやら貴史が現れたタイミングがまずかったらしい。席でまだぶつくさ文句を言っている。
「だよねえ、ほんっと、枚数くらいきちんと数えなさいよって言いたいよね!」
「ほんと。三枚目ったら一番大事なとこじゃん! それを抜いて渡すことないじゃんねえ」
よくわけがわからない。貴史は立村の席に向かった。無言で机の上のプリント資料をより分けている。机が狭いのに十種類も並べてそこでまとめようとしているのだから、無理がある。
ーー他の机使えよな。
「ほら、よこせ」
背中から声をかけ、貴史は立村の持っているプリント束を取り上げた。
「おい、そこの机、わりいけど貸してくれ」
隣の席にいる奴に声をかけた。立村も口がないわけじゃないんだから頼めばいいのに。なんで黙って自分の机だけで完結させようとするのだろう。
「あ、ごめん」
「ったく、誰かに手伝わせろよ。美里、いねえの? おい、金沢、わりいけど手伝ってくれよな。手、足りねえ」
教室に戻ってきた金沢を手招きし、もう一ヶ所机を確保した。三個所あれば十分まとめる余地ありだ。ついでにホチキスもあれば完璧だ。
「おい、誰かホチキスあるか?」
「ほいな」
金沢が東堂からホチキスを受け取った。
「じゃあ、いいや、留めちまえ。立村、まず全部まとめちまおう。閉じればそれで十分だろ」
いったいどういう内容のものか分からないので、一枚だけ手に取って眺めてみた。
どうやら高校進学に向けての資料のようなものらしい。中には英語の長文がずらっと並んでいるものも混じっている。三枚くらい、英語でびっちりというのは確かにより分けしづらいだろう。
「おい、立村、これなんだ?」
「高校進学前の自習用資料」
目を伏せたまま立村は手を動かし答えた。
「十枚もあるけどどうした?これ?」
「来週までこれ目を通しておいて、簡単なテストをやるらしいって言われた」
かすれた声で答えた。
「つうことはこれ、英語の資料かよ?」
「違う、国語と英語のミックスらしい」
「らしいってなんだ? よっくわからねえ」
立村は手を止めた。肩で息をひとつして、
「英語と国語の先生たちが同じテーマで勉強できるようにって、合同で特別なプリントを作ったらしいんだ。テストには関係ないけど、これから先勉強するためには国語も英語も両方の知識が必要だからって」
簡単に説明してくれた。金沢がぽかんとして指差しながらつぶやいた。
「え、テストに出ないんだ」
「そう」
「なあんだ、それならたいしたことないや」
貴史も同感だった。何もそんなに目くじら立てなく立っていいだろうに。
ついさっき、女子が立村にいちゃもんをつけていたのは、一枚資料が抜けていたら試験に不利になるだろうと思ったからではないだろうか?
だったら、テストに出ない、関係ないと言ってやればよかったわけだ。
立村ひとりで書類を綴じるということ自体がまず無理なことなのだ。いつもなら美里がぱっぱと処理をしているからぼろは見せずにすんでいる。しかし最近の状況を考えるとなかなか仲良くクラス内の仕事をするという雰囲気ではないのだろう。
ーー誰かに頼めよな。お前ひとりで仕事なんてできねえんだからさ。
不器用な立村がひとりでクラスの人数分、順番をまとめて渡そうとしたものの、中の数枚がぽろっと抜けたものが混じってしまったのだろう。
女子連中は立村に対して非常に厳しい奴が多いので、どつかれたんだろう。
「おいおい、このプリント、試験と関係ねえんだってよ。ま、一枚くらいなくたっていいだろ」
貴史が聞こえるように金沢へ話しかけた時だった。
「ちょっと! 立村、あんたそんなことひとっこともいわなかったじゃないの!」
ついさっきいきり立っていた女子が、プリントの束をぐしゃぐしゃのまま握り締めて再び近づいてきた。
「あんたさ、さっき私に渡す時、言ったよね。『先生が絶対やるようにって言ってた』ってさ」
こっくり頷く立村。顔には血の気がない。手もとがぶらんとしている。
「それより先に言うことあるじゃん! 試験に関係ないってなんで先に言わないのよ!」
「おい、試験とプリントとどう関係あるんだ?」
「羽飛は黙っててよだってさ、頭来るじゃん? 試験と関係ないなら私らだってそんな中の紙が一枚抜けたくらいで腹立てるわけないよ。試験にもし関係あったら大変だから、それできちんと筋道立てて抗議しただけじゃん? それをだよ? 今、そんなすぐに試験と関係ある内容じゃないって後出しじゃんけんみたいに言われたら、まるで怒った私の方が悪者になっちゃうじゃないの? ふざけないでよ! 人を悪役にして、自分ばかり被害者の顔して、どっちがどっちってのよ!」
いわゆる、逆恨みのパターンだ。
立村にはこうされるパターンが、非常に多い。
立村なりに「こうすればいいんじゃないか」と判断して行動したことが、後日相手を激怒させいつのまにか悪の張本人とされていることが。
「おい、玉城、なんでお前立村にそうつっかかるんだあ? 何もお前が勝手に思い込んだだけだろうが。立村にも言い分あるだろ? それをまず確認してから文句言えよ」
見かねて貴史も割って入ろうとする。まったく効果なし。
「羽飛が言わなかったら、私たちこのプリントを死に物狂いで勉強して、次のテストに向けて準備しなくちゃいけないって大変な思いしなくちゃならなかったんだから! すぐに、試験に出るわけじゃないってことをまず先に言ってもらえれば、私だってあとから抜けてた分をもらいにいこうとか、そういうふうにできたじゃない!それをさ、いきなり渡されて、大切なことだからとか言われたら、そりゃ誰だってこれから試験に出るって思うじゃない!」
「ごめん、悪かった」
「こうやって逃げるんだよねえ、あんた。よくあんた評議委員長なんてやってられたよね! こんなミスばっかりして、伝えるべきこと全然伝えないで、余計なばかりして、それに、クラスに協力しようとしないし! 何考えてるのかわかんないよね。ま、いいけど」
玉城がまくし立てたのち、貴史にちらっと目を向けて髪の毛をいじりながら、
「だけど、私、クラスのためを思って言ってあげてるんだからね! そのくらい理解してよね」
感情抑えめに、ちょっとだけ甘えるような口調で言い捨てた。差が露骨すぎる。唖然として見送るしかなかった。
「言ってること、変だよなあ。女子って」
そばでつぶやく金沢を放っておき、貴史は立村をせかしつつプリントを重ねつづけた。あっという間にホチキスで綴じられた束が完成した。
「美里がいりゃあな、こんなのあっという間にできたのにな。少しは愛想振りまいとけよ。あいつ怒ったら怖いぞ」
立村にしか聞こえない程度の声で囁いておいた。無言で目を伏せたまま、立村はプリントを受け取ろうと手を伸ばした。
「俺がやっとくから、お前さっさと座れ」
半分金沢に渡し、男子連中に配るよう指示をした。残りは貴史が女子のうるさ型連中に配布することにした。
頭から角を出していた天然パーマ女子の玉城の分も交換しておいた。
「頭来る気持ちもわかるがな。ま、俺も立村のもたもたしたやり方にはいらつくけどなあ」
ぶつかりあってしまっては、今のところまずい。貴史なりに本日限りは気を使わねばならない。
「ごめんね、羽飛。あんまり言いたくないんだけどさ。誰かが言わないとあいつわからないじゃん? クラスのために、誰かがね」
ーー美里も苦労してるよなあ。
身をもって感じた。玉城タイプの女子連中がまとまっていろいろ工作してくるんだったら、それはしんどいだろう。
ーーしかも、クラスのための発言なんだもんな。たまったもんじゃねえよな。
男子世界では絶対に通用しない価値観。貴史は配り終わった後時間割に目を留めた。まだ間がある。
ーー明日まではなんとかせねばな。
今日は生徒会役員改選投票日。立会演説会は六時間目。
美里が教室に見当たらないのも、立会演説会の準備をはじめいろいろと慌しいからだった。
立村が珍しく教室で、苦手な書類整理を担当していたのも、今までの事件のからみから言って自然なことだった。
詳しいことは貴史も聞いていないが、もう評議委員会において立村の位置は危ういものになりかけているらしい。
どうしようもないといえばどうしようもないことだが、最低でも三年二組の評議委員としてこのまま送り込むことだけは完璧にやり遂げたい。
ーーたぶん、大丈夫だろ?
たいしたことじゃない。今まで通り何事もなく終わり、何事もなく片がつくはずだ。
「お前なあ、誰かに頼めよちょっとくらいな。そんくらいなんでしねえんだよ」
机の上がさらになり、立村が改めて席につくのを待って貴史は一声かけた。
「美里がいねえからお前がやらねばなんねえのはわかるけどな。せめて机を借りるとかしろよ。だからほら、女子連中が余計なこと言って騒ぐんだろが」
「ごめん、悪かった」
言葉少なに答える立村に、貴史はもう一言添えた。
「お前な、美里に少しは感謝しろよ。ああいう女子だからうるせえのはわかるけどよ、あいつなりに結構陰で苦労してるんだぞ。女子連中が噛みついてくる場合大抵美里がせき止めてるみたいだぞ」
「わかってるよ」
顔を上げ、少し苛立った風に立村は答えた。いかにもうるさそうな顔で横を向いた。
青大附中の立会演説会はわりとおとなしめなものだった。
他の学校行事が公立の小学校と比較して派手な演出を行うことが多いからその静けさは目立つ。
一年の頃はそれでも候補者および応援者の演説が続き、それなりに盛り上がったのだ。
しかし次の年、なぜか応援演説というものが廃止され、候補者ひとりの熱い語りに時間を費やされることになってしまった。
なんでも、本条先輩が評議委員長の時に、わざわざ提言したのだとか。
ーー応援演説というのは第三者の思いを伝えるだけであって、かえって投票者が判断するのに邪魔になる。
むしろ候補者の語りたいことに時間を多く取った方が、正しい判断ができる。
貴史からすると「ほんとかよ?」と突っ込みたくなるのだが、本条先輩崇拝者である立村の前では怖くてそんなこと言えはしない。
「本条先輩は、ひとりひとりのことを考えてそう提案したんだと思うんだ。すごいよな」
どこがすごいのか、貴史には今だにわからない。ただありがたいのは、応援演説がカットされることによって立会演説会で拘束される時間が大幅に減った。
今までは二時間分かかったものが、なんと一時間で終了する。
本条先輩の真意はおそらく、「そんなくだらんことに時間なんか使ってられねえよかったるい」なのではないかと思うのだが。
どちらにしても、一時間で立会演説会は終了する。特に今年はほぼ対抗馬なしの信任投票で、ほとんど見たことのある連中ばかりが立候補する。
あえて言えば生徒会長候補の佐賀はるみ、および副会長候補の霧島真に関心が集中しているようだが、貴史にとってはこちらもどうでもいいことだった。
ーー霧島ったらあの、霧島の弟だろ? アマゾネスの弟だろ?
ーー学校を追い出されちまうかっこうの姉ちゃんと、それと入れ違いの弟ってのは立場ねえよなあ。
霧島ゆいの弟が、できそこないの姉の代わりに果たして受け入れられるかどうか、これは確かに見ものである。
そして。
ーー立村は立場ねえよなあ。
椅子をそれぞれ整列して持ち込み、みな座っている。背の高い貴史は後ろの方で、先頭には立村と美里が座っている。評議委員お約束の場所だ。
評議委員である以上、先頭に立つのは義務でもある。
「羽飛、どう思う?」
いきなり隣から話しかけてきたこずえ。一緒に奈良岡彰子も微笑んだ。むかつく話だが貴史の前には南雲が座っている。自然と隣り合う恰好だった。南雲は面倒くさそうにそっぽを向いている。決して規律委員長たるもの風紀を乱すまいとする態度ではない。
「なにがだよ」
「このまんま、あっさり信任投票で決まると思う?」
「当たり前だろ、面倒なことしたくねえだろ」
「私、そうは思わないんだよね」
「なんでだ?」
一緒に南雲も不思議そうに答えた。
「なんで?」
奈良岡彰子と顔を見合わせ、穏やかに笑っている。貴史だけが仏頂面のままだった。
ギャラリーが若干なりとも増えて満足したのかこずえは続けた。
「だってさ、あれだけ騒ぎがでかくなったんだもんねえ。佐賀さんが生徒会長になるかもなんて、一か月前なら誰も想像してない展開だったと思うよ」
「ふむふむ」
相槌を打っているのは南雲だ。ばかにしているのかよくわからない。
「佐賀さんって、彼氏があの新井林でしょ。新井林はバスケ部のキャプテンだし、それに立村が卒業したら次の評議委員長でしょ。そんな彼氏がいてさ、やっかまれないわけないじゃん! 女子としては絶対佐賀さんみたいな子、受け入れたくないと思うんだよね。それに杉本さんと親友だったくせに平気で蹴落としたりするんだよ! ほんとこれってむかつくよ。普通の女子なら頭に来ると思うんだ」
ーー普通の女子、な。
改めて思う。古川こずえを普通の基準として見たくない。
穏やかに相槌を打ち合う南雲と奈良岡。貴史は黙っているだけだった。
「で、問題。この会場に女子はどのくらいいるでしょう?」
「半分ね」
即答したのは奈良岡だ。
「だよねえ。で、開票して過半数を取らないと信任投票ってアウトじゃん?」
「んだねえ」
合わせる南雲の口調がうっとおしい。もちろん無視だ。
「女子たちの反感を買っちゃったら、佐賀さん過半数なんて取れないよ。演説でいくらおりこうさんのことをつぶやかれたってさ、知ったことじゃないって。学校内には杉本さんに同情してる子だってたくさんいるしね。もしかしたら今回、信任投票がひっくりがえる可能性あるかもよ」
「また選挙のやり直しはかんべんしてほしいなあ」
とぼけた口調で南雲がつぶやき、三人楽しげに笑っていた。貴史だけは無視していた。
ーーどういう事情か知らんが、面倒なことしたがらねえだろ? 普通。
悪いが体育館内には男子も半分いて、ほとんどはやっかいごとをしたがらない人種だということをこずえは気づいていない。
「これから、立会演説会を始めます。全員、静粛に願います」
放送委員のマイクから流れる声に一瞬だけ静まったものの、また言葉が溢れ出す。静粛が消されてしまう。
「開票して明日すぐ、発表なんだよね。大変だよねみんな」
まったくピントのはずれたところを心配している奈良岡彰子に、南雲がやさしげな言葉をかけていた。
「大丈夫大丈夫、明日土曜日、あさって日曜日、ひとがんばりすりゃあもう自由の身!」
「でも、選挙委員のみんな大変だなって思うよ。あとでみんなにクッキー持っていこうかな。多めに作ってきたんだけどね」
笑顔でぽよぽよした頬を揺らしつつ話す奈良岡に、南雲はとろんとした声で訴えた。
「彰子さん、そんなクッキー余ってるんだったら、俺に全部ちょうだい」
とたん隣の列にいる女子たちが冷たい視線をぶつけてきた。貴史でもわかるその眼差しのきつさ、立村にプリントの件で噛みついた玉城の目に近いものを感じた。気づこうとしないのか目の前の公認カップルはのどかに語らっている。
「彰子ちゃん、月曜のクッキーの準備で、用意してきたんだよ。南雲、あんたもいっつも彰子ちゃんに甘ったれてるんじゃないよ。見苦しいったらありゃあしない。ねえ羽飛?」
貴史はこずえの言葉に答えなかった。l
ーーなあにが、別のところで二股かけてるくせによく言うよな。奈良岡、悪いことは言わん。お前のために、水口に切り替えろ。幸せな医者になれ。
「立会演説会を始めます。まずはじめに、藤沖生徒会長から今期における生徒会活動の総括と今後の課題について発表していただきます」
始まった始まった。一時間やり過ごすか寝ておくか。貴史は椅子の背にもたれかけながら目を閉じた。
今、最大の問題は改選が終わってから中二日置いたのち、月曜日六時間目の一コマなのだからそれまでエネルギーを蓄えて置かねばならないのだ。
先頭でおそらく目をしっかり開けて聞き入っているであろう立村と、美里のために。