第一部 31
美里が翌日から勢いよくすっ飛ばしたことは誰の目にも明らかだった。
婚約時代がバラ色なのかそうでないのかあえて問わないが、菱本先生も寝不足の顔でもって、
「おいおい、清坂、あと立村はいないのか? あさっぱらから駆け落ちか?」
単なるさぼりなのを茶化していた。
「駆け落ちなんかじゃないでしょ、きっと別れ話よ」
「そうそう、清坂さんも愛想つかしたんじゃないの?」
「どう考えたって遅いと思うけどねえ」
「失われた三年間は戻ってこないよねえ」
一部の女子たちが声をひそめるふりして実はおおっぴらに囁いている。
女子連中の噂話、広まるのはおっそろしいほど早い。
「まあまあ、そっとしてやんなよ。男と女の仲は一筋縄ではいかないんだから」
たしなめているのは当然、こずえだった。
「お互いさまじゃないのよ」
「でもさ、もともと清坂さん、どっかおかしかったよねえ」
「なにがよなにが」
「あんななよなよした奴とどこがよくって」
まただ。立村を露骨に揶揄するその物言い、男子としては黙っているわけにはいかない。
「ちいと黙れよ。うるせえぞ」
むっとした顔で発言主はそっぽを向いた。先生がしゃべっている間だけに言い返せないだろう。ざまみろだ。貴史がついでに睨みを周囲ほぼ一円に効かせた結果、女子連中の緩んだ口はぴったり閉じられたようだった。
ーー美里なりになんとかしようってことだよな。
貴史が想像していたよりも早く、立村を巡る噂は全校生徒の間に広まりつつある。
断言してしまえるのはひとえに、貴史への問い合わせが休み時間中殺到したためだった。
立村に対してはみな、軽蔑の眼差しを投げるだけに留まっている。もともと何を言われても黙っている性格だし、それ以前に教室から即脱出してしまい他人の話しかける隙を与えようとしない。貴史もなんとか一声かけようとしたのだが、「起立、礼、着席」の号令が終わるや否やさっと走り去ってしまうのだ。いい方法が見つからない。
一時間目をしっかりさぼり、その後知らん顔して戻ってきた美里だけはなんとか捕まえることができた。「いい、あんたにはあとで相談したいことあるから、うちに帰ってからにする」
なにやら決意を新たにしたような堅い顔で言い放たれ、それはそれで終わりとなる。
どちらにしても、三年D組評議委員カップルの今後は今のところ不透明なままだった。
色恋沙汰には口を出さないが、友だちとしてのつながりを保つためにはもちろん努力を惜しまない。
貴史なりに、気がかりなままではある。
もちろん、頼みもしないのに情報を運んでくる相手もいる。
「羽飛、あんた昨日なんでいきなり電話を切ったのさ」
こずえにからまれると厄介なので、適当にごまかした。
「せっかくこっちが真剣に話をしている最中なのに、切られちゃ頭にくるじゃん?」
「悪い、俺もやぶ用があったんだ」
「なによそのやぶ用って。落語じゃないんだからさ、それよりちゃんとあんた、あの後のこと考えてくれてるわけ?」
もちろん考えているから、昨夜はこずえからの電話をがっちゃり切ったのだ。
それ以上伝える必要はない。
「立村とは俺なりに話すから、女子連中は口出しするんじゃねえよ。面倒になっちまう」
「もう遅いよ。もうお見事ってくらいぱーって話が広まってるよ」
ーーそりゃ、放課後ともなりゃあな。
当の本人ふたりがさっさと姿を消している状況下、部外者の貴史が口出しできる状態にはない。
「ま、古川にはこれから美里が泣きつくだろ。慰めてやってくれよな」
「ご冗談。そんなわけないじゃんよ」
意外にもこずえは笑い飛ばした。ということは、美里もあまり立村の件について口外していないということだろうか。それならそれで納得だ。一番詳しくしているのは貴史一人ということになる。
「私は評議から離れてるからね。本当に詳しい事情を知ってるわけじゃないよ。噂話クラスの情報は入るけどさ。たいがい美里へのやっかみと立村のこき下ろしだけよ。どう考えたって公平じゃあないよね」
「女子は短絡的だからなあ」
言いかけたが机の足にキックされたのであえて黙った。
「羽飛、あんた女子に対してずいぶん、男尊女卑的思想を持っているんだってこと、自覚したほういいんじゃないの。美里相手だったらぶんなぐられてたよきっと。なよついてるけど立村の方が、こういっちゃあなんだけど女性への敬意みたいなもの、ちゃーんと持ってるよ」
「あいつはアマゾネスな女子に囲まれてびびってるだけだろが」
だからなんで、と言いたくなる。人の気持ちを逆撫でしたいのだろうか。男尊女卑とかわけのわからないことを言われたって貴史としては困る。立村と比較されるのもむかつくが、奴の優柔不断な性格をいきなり讃えられてもこちらとしてはたまったものじゃない。
「ああわかったわかった。俺が悪うござんした! じゃ、もう俺には用ねえだろ。じゃあな」
「ちょっと待ってよ、まだ話が終わってないのに。あんたそんなに急いでちゃあ、あっちの方も早いって思われちゃうよ」
ーーなんだよそのあっちってな。
かまってられないのでそのまま流すと、こずえはブレザーの肘をつまむようにして貴史に擦り寄ってきた。
いやらしくはないのだが、かなり接近してきている。
「なんだようるせえな」
「美里が動いてるのはね、ほら、評議委員の改選が近いからよ。あんただってそのくらいわかるでしょが:
「評議委員のことかよ。どうせあいつがあっさり」
言いかけて黙った。
美里も、何かあるにつけてそのこと、しゃべっていたような気がした。
ーーやたらとあいつらこだわってるな。
話を聴き直す準備に切り替えた。
「結論だけさっさと言えよ。悪いが俺、すげえ忙しいんだ」
「つまりさ、立村が評議から下ろされる可能性を美里はすっごく心配してるのよ」
命令された通りこずえは結論をさっさと伝えてきた。
「今までも羽飛にお鉢がまわりそうだったのを無理やり立村にすり替えてきたようなところ、あるからね。前からだよ、ずーっと前から。美里が裏でこそこそ根回ししてたことくらい、羽飛も知ってるでしょが」
知らないわけじゃない。認めることは親友を貶めることになる。だから黙る。
「今回の一件で立村は最大のピンチに立たされたってわけよ。ま、あいつのことだからどうせ下ろされたら下ろされたで開き直るだろうけど、どっちにしても美里としては絶対やだよね。だから、評議の子たちに相談したりいろいろ走り回ったりと、まあ、忙しいのよ」
ーー追い詰められてるってわけかよ。
だからいきなり大泣きしたりしたわけだ。
「そうなのよ。だからさ、午前中美里が立村とさしで話し合いしたのは、その覚悟を問い詰めるためってことみたいなんだ。あんた、下ろされても平気なの? 評議から下ろされたら、委員長になることすらできないんだよって」
「そりゃ、無理だわな」
「もっともあと半年もないのに、いきなり下ろすなんてこともしないとは思うけど、女子たちははっきり行って浮気した男を絶対に許さないからね。ほんとのとこどうだかわからないけど、立村は堂々と杉本さんに浮気したようなものだから。美里という彼女がいるにもかかわらず」
ーーもっとも勝算ありで美里は開き直ってるがな。古川、そのこと知らんのか。
やはり、すべてを伝えているわけではなさそうだ。貴史ひとりに、本当のことを話しているだけだ。
「じゃあ、どうすれって言うんだ? こればかりは来週の委員改選を待つっきゃあねえだろ」
「方法は、あるよ」
こずえは両腕を組んだ。腕に襟元のリボンが触れ、揺れた。
「なんだそりゃ」
「選択の余地なしってことでさっさと機械的に片付ければそれでOKってこと」
目が笑っていない。まっすぐ、貴史を見上げた。一応背が高いのは自分の方だと意識してしまった。
「何を機械的にするんだ?」
「委員改選は来週のロングホームルーム。これは決定事項。はて、評議委員に立村はふさわしいのかなんて一瞬でも考えさせることなく、無条件で決めさせるようにする。これしかないよ」
ーーまたこいつ、わけわからねえこと言い出したぞ?
貴史の疑問符を認識したのか、こずえは椅子に座り直した。
「つまり、考えさせる時間をなくするのが一番いいわけよ。前期はだれそれが委員でした。後期はもうこのままいっちゃってもいいですよね、いいでしょ? はい終わり、さ、次って感じで話を進めていけばいいのよ。女子たちは立村を軽蔑しているかもしれないけど、無理やり引きずり下ろすなんてことをおおっぴらにしたいとは思ってないよ。自分に火の粉かかるのやだもん。けどさ悪口や噂話でいつのまにか悪印象が沸いて、いつのまにか美里が愛想つかすのを楽しみにしているとこはあるんだよね。女子は」
ーーお前も女子の一人だろが。
他人事のようにこずえはつぶやく。
「幸い、美里は開き直っちゃってるし、立村以外の奴と評議やりたいとは思ってないよ。だったら勢いで決めちゃって何も言わせないように進めるのが一番だと思うんだ。羽飛、そういうわけで、来週の後期委員改選、よろしくね。先走り汁、出さないように!」
ーーまたあいつに先手取られたのかよ!
じゃあね、そう言いながらこずえは教室を出て行った。
ーーそりゃな、筋道は通ってるがな。
さっきこずえの蹴った机の足をひっくりがえしたくなった。
むかつくくらい空の明るい太陽が黄色く窓辺に差し込んできている。十一月、初冬だなんて信じられない天気だ。頭の中がこのくらい明るければこのまま帰って近所の仲間とバッティングセンターにでも行くんだが、すべてがこずえの言葉で台風直前の暗黒雲に包まれてしまった。
いや、こずえの言い分は間違っていない。
仮に立村からの提案ならば協力を無条件で申し出るだろう。
美里も、浮気されようが何しようが立村と一緒に評議委員として卒業したい気持ちは強いだろう。
でなければ、美里は立村をクラスの一員として守りたいなどと言わないに決まっている。
だからもちろん、美里をサポートすることに意義はない。ないのだがしかし。
ーーなんで古川なんだ!
いつもそうだ。貴史のことを追いかけてラブアピールに専念するだけの女子ならそれはそれで対応のしかたもある。鈴蘭夕命を宣言しておけば自然と諦めるだろうし、友達として付き合うだけでいいとも思う。
しかし、古川こずえという女子は。
ーーそれ以上のことを勝手にしやがる!
なんで古川こずえは先に
「羽飛、困ってるんだけどどうしようかなあ。立村が評議のまま卒業できるようにしたいんだけど、お知恵拝借していいかなあ」
の一言がないのだろう。もちろん相談してくれることもないわけではない。どこのファーストフードで食おうかとかどうでもいいことは持ちかけてくることもあるだろう。しかし、クラスの根本を揺るがすような出来事については勝手に話を進めて、「じゃあ羽飛、どう思う?」とくる。
ーーちくしょう、意地でも認めねえからな!
却下することもできない。貴史の認識では、こずえの提案万々歳、認めざるをえない。賢いやり方なのだ。
それでも受け入れたくないのは、なんでだろう。
理由が見つからない。ただはっきりと、空気をずたずたにしたくなるような衝動にかられる。
美里にとっては親友、嫌うべき相手ではない、のだが。
教室を出て、まだ残っている他クラスの連中をあしらいながら……聞かれることの大半は立村と生徒会がらみの一件ばかりなので適当に答えておけばいい……なんとか玄関にたどり着いた。
ーーほんとこうやってみると、あいつ相当なことをやらかしたってことだわな。
立村が評議委員長どころか学年評議でいることすら危ういという現実を実感する。
もちろん美里にこんこんと説教されて反省するという落ちならばいいが、どうもそうは考えられまい。
「羽飛、おい」
靴を履き替えていると、またもや好奇心の塊・青大附属のシャーロック・ホームズに呼び止められた。
「悪いが立村がらみのことならもう耳にたこだからな、答えねえよ。優ちゃんの切り抜きだったら話聞くけど」
「相当しつこく追っかけられたみたいだな」
「まあな。しっかしなあ、難波」
スニーカーの紐を締めなおし、目を向けずに貴史は尋ねた。
「立村が評議委員になれねかったら、いったい誰が委員長やるんだ?」
ーーやれそうな奴、いねえよな。
いないからこんなに騒いでいるのだ。
「誰がって、つまりどういうことだ」
「いやさあ、俺にしつこく聞いてくるんだよ。立村の奴、自分の立場分かってるのかとか、あんな奴評議委員長なんて勤まるのかとかな。ま、自業自得といっちゃあそれまでだけど、評議委員長として他に誰か後釜いるのかよ。ああ、新井林か。けどあいつ後輩だし、立場からしたら三年選んで当然だよな? 誰もいねえだろどうせ、代わりになるやつなんかなあ?」
難波が無言で貴史を見下ろした。革靴だからするっと履くことができる。どうも最近こいつの趣味はダンディな足元に凝ることらしい。紐をいじっている貴史より早めに履き替えられる。
「ああ? なんかしたかよ、さてはお前今日も寝不足かよ。ホームズ殿」
ひとつ前の質問に返答してきた。一瞬どの質問につながる答えかわからなかった。
「今の段階では、立村が委員長になるはずだ。代わりがいなければな」
「よくわからねえなあ、何かもこもこした言い方だなあ」
「代わりがいなければ、だ」
しゃちほこばった口調で難波は繰り返した。貴史に挨拶するのも忘れたのか、すっと外へ出て行った。
ーーなんだあいつ、頭が変なとこ行ってるんじゃねえか?
すのこから立ち上がり難波の背を見送った。あいつも同じ青大附高に進学するはずだ。勉強のしすぎでぼーっとしてしまったということはまず、ないだろう。
ーーまた「日本少女宮」のビデオ見すぎて、トリップしちまったんじゃねえのかなあ。
とりあえず貴史が思いつくのはそのあたりの理由だけだった。