第一部 29
風の音がはたと止む瞬間に紛れて、誰かが車庫のドアを開けようとしている。
美里の足元に隠れる恰好でうずくまったまま。
「大丈夫、たぶんお姉ちゃんだから」
「なんでわかる」
「黙ってて。足音の感じでわかるじゃない」
ーーけど見られたらやっぱしまずいだろ。
聡子姉ちゃんのことを言っているのだろう。美里とは三つ違いで貴史の姉とは同い年。
「きっとどっか行くのよ」
「行くってこんな夜にかよ」
人のこと言えた義理じゃないが。
美里は答えずに車から降りた。外から冷えた空気が車内に流れた。
ーーまたドンパチやるのかよあのきょうだい。
三人姉妹の真ん中で上から下からつつかれることの多い美里が歳の近い姉とうまくやれるわけがない。貴史の知る限り、聡子さんと美里が肩を寄せ合って恋愛話なんぞしているところなんてみたことがない。基本として美里はプライベートな話を家の中では避けるようにしているらしかった。学校のことも必要最小限のことしか報告せず、当然立村との交際も菱本先生経由の情報のみでごまかしているはずだ。
ーーま、暗いから見えねえとは思うがな。
万が一、美里の両親だったらまた話は違うかもしれない。さすがに夜遅く車庫でたむろっているなんて気づかれたら大目玉喰らうだろう。もちろん避けたい。美里の言うことによれば聡子さんはおんもへ出かけるらしいのでうまく通りすぎてくれればいいのだが。
息を殺して耳の穴だけ大きく広げて様子を伺うことにする。
「あれ、どうしたのよ美里、またここでいじけてたってわけ?」
聡子さんの声はちょっとしゃがれていてそこがまた大人っぽい。貴史の姉と比較してみてもやはりどこか色っぽい。彼氏がいても不思議ではない。実際いるのだろう。美里からも聞いている。
「いじけてなんかないけど、さっさと行けば」
「へえめずらしいわねえ。つっかかってこないなんて、あんたがね」
ーーやっぱし、修羅場かよ。
清坂家姉妹げんかのすさまじさを直接見ることは、さすがに最近少なくなった。小学時代はとにかく取っ組み合いが多かったけれども、美里がスカートを好んではくようになってからは意識して避けているようだ。その代わり舌戦は激しい。貴史もたまに「ここまで言っていいのか?」と仲裁に入りたくなる時がある。
車のボンネットによっかかっているのだろうか。少しだけ座席が揺れる感じがする。
「たまにはひとりになって考えたいのよ。邪魔しないでよ」
「何考えてるんだか。例の彼氏のこと?」
ーーま、家族にばればれってことか、立村とのことも。
こつこつ、車を指先で叩くような音が聞こえる。
「そんなの関係ないでしょ! お姉ちゃんみたいに二十四時間そんなことばっかし考えてるわけじゃないんだから。私だって忙しいの。学校のこととかいろいろあるんだから、頭脳労働大変なのよ」
ーー頭脳労働かよ。
聡子さんの通っている公立高校は成績が中より下程度の生徒が集まる学校だ。そこを狙った嫌味と取られてもしょうがない。決して美里は意識しているわけではないのだろうが、こういった神経をさかなでしやすい発言をたまにする。三年D組の女子たちがぶち切れやすいのはそのあたりにあるのかもしれない。
「頭脳労働ねえ、何様のつもりよねえ。することはしてるくせにねえ、ずいぶん見下した態度取るじゃない?」
「別に見下してなんかないわよ。ほら、えーさん待ってるんでしょ。黙っててあげるから、行きなさいよ」
「誰が最初からえーくんのとこに行くって言ってるのよ。たまたま気になって降りてきただけじゃないのよ。ねえ」
またボンネットを叩くような音がした。たぶん爪の当たった感じからして、聡子さんの指だろう。そういえば聡子さんは今年の夏休み家族旅行中真っ赤なマニキュアをしていた。闇の中で思い出した。
清坂姉妹の戦いは、火ぶたを切られたばかり、のようだ。長期戦覚悟せねばなるまい。
「部屋が三人分ちゃんと区切られてればこんなとこにこなくたっていいのよ。なんで私ばっかり、カーテンなんかで区切られてなくちゃいけないのよ」
「だったら彼氏のとこに行くなりたーちゃんのとこに行くなりしたらいいじゃないの」
「私、お姉ちゃんと違うから」
ーーわあ、これはこれはもう火に油注ぎまくってるぞ美里!
普段なら即、割って入るべき場面だ。貴史もなんとなく頃合いを見計らって空気をかき回しなあなあにするのがいつものことだった。
しかしながら今夜ばかりはそうもいかない。黙って成り行きを見守るしかない。
「私、お姉ちゃんみたいに夜、泊まり込むなんてこと、する気ないから」
「ま、うちの親は絶対許さないだろうけどね」
美里の発言は聞こえない。黙っているようだ。聡子さんの勝ちパターンに持ち込まれたようだ。
「品山になんて泊まりにいかれたら、みな発狂するだろうなあ」
「行かないわよ。お姉ちゃんなんかと違って、変なこと考えてないもん」
「生理始まったばっかりじゃあ、そうよね。避妊のタイミングなんて読めないもんね」
突然、金切り声が飛んだ。風の音が止んだような気がした。きっと美里の激怒に恐怖したんだろう。わかる、わかる。
「何よ! そんないやらしいことばっかり考えてるから、お姉ちゃんの顔だんだん老けてきてるんだよ! 顔、シミできてるくせに!」
ーー美里、それ、ちょっとまずいぞ。それに顔のシミって、うちの母ちゃんに言ったらぶっとばされるぞ。
女子の実態を知らないわけではないにしろ、美里の罵倒には縮み上がりそうになる。
いやほんと、女子同士の世界には入っていきたくないものだと、改めて思う。
いつものバトルなのかその辺はわからないが、ただ清坂姉妹の罵り合いに関しては腹の中に何にもないことがよく伝わってきてきた。
聡子さんとも長い付き合いなのでその辺は貴史もわかる。仲良しこよしではないにしろ、彼氏のあだ名が「えーさん」だというのを知っているということは、すなわちそれなりに会話が成り立っていたからだろう。美里の彼氏が品山に住んでいることも、菱本先生経由で広まったわけだがそれなりの事情は把握されてもしかたないと思っているのだろう。美里も聡子さんもそのあたり下手に隠すことなく本音でどなりあっている。
ーーそこがうちのクラス女子と違うとこか。
「ちょっと、こっち向きなさいよ。なあにがシミ、よ。あんたなんて顔ににきび増えてるじゃないの。毎日にきびの薬べったり塗りすぎて臭っているくせに」
「ないわよ! ちゃんと治ったもん」
「あれだけ抗生物質使ったらねえ。歳取ってから影響でるんだからね。覚悟しときなさいよ。それにしても誰に見せたくて毎日鏡見てるんだか。うちの母さんと同じ遺伝子持って生まれてるんだから、努力したって限界あると思うのに、よくがんばるわよねえ」
「遺伝子だったらお姉ちゃんだって同じじゃない!」
「それにさ、あんたの彼氏この前ちらっと見たけど、何あれ、なんだかろくに食べ物食べてないようなかかしみたいな男。悪いけど、やめといたほういいよ。まだぺちゃパイの美里にはわかんないかもしれないけどね、男として、あるべきものがないんじゃないかって感じじゃんね」
ーーうわあ、聡子さん、立村の顔見てるのかよ! ろくに食べ物食ってねえって妙に受けるぜ。
笑いたい。笑えない。喉がひくつくのを必死にこらえた。
「友だちを馬鹿にするのはやめてよ。つきあってるかどうかは別として、人間として大切な友達なんだから!」
「ふうん、友達、ねえ。偽善者っぽい言い方だよねえ。あんたたち、二年も付き合ってて、お友達でごまかしてるってわけなの? ま、中学生だからしょうがないって言ったらそれまでだけど、ずいぶん優等生であらせられますこと!」
ーー美里、やめとけ。聡子さんに成績がらみのことで突っ込むのは。
はらはらしつつも、貴史は密かに美里へ指令を送った。もちろんテレパシーだが、その素質が貴史にはなかったようで姉妹げんかを止めるまでにはいたらなかった。
「私だって、努力してるんだからね! がんばってるんだから! お姉ちゃんとは違うんだから!」
「勉強なんてしなくたっていくらでもいい男見つかるのに、あんたってばっかよね。よりによって品山の男子なんかとさ」
「しつこい! なんで品山品山ってこだわるわけ? 人の住んでいるところを馬鹿にするなんて、それ、差別だよ。お姉ちゃん人を差別しちゃいけないって学校で習ってないわけ? 民主主義の教育、お姉ちゃんの高校では行われてないわけ?」
すごいつっこみだ。もちろんいくらでもひっくりがえせるが。
「悪いけど青大附属の賢いお方と違って私はおばかさんだからわかんないわよ。けど、男子とのお付き合いの仕方とかそういうのはあんたよりずっと上手にやってるけどね。成績なんかよかそっちの力を身につける方が将来役に立つと思うけど」
「なによ、そっちの力って!」
またボンネットを叩く音。今度は平手なのか、ばさばさゆれる。
「本当にあんたのことを好きな彼氏だったらね、プレゼントにあんな陰気臭いハンカチなんか用意しないわよ。それに下級生と浮気なんてしないし、誕生日だって忘れたりしない。何よりも、あんたにキスひとつしないなんて、ほんと、男として大丈夫? そう言いたくなるよねえ」
「お姉ちゃんなんかと違うんだから!」
何度目の「お姉ちゃんとは違う!」発言なんだろうか。貴史なりにそのあたりの事情をたぐって思い当たるのは、かつて美里を露骨に嫌っていた女子たちと聡子さんとの性格がかなり似通っているというところだった。潔癖すぎる美里の性格が鼻につく、というのも確かにわからないではない。女子たちからすれば美里の性格がひりひりしすぎてうっとうしいと感じる部分があるのかもしれない。同じことを聡子さんも、妹故に重たく思うのかもしれない。
「私、お姉ちゃんと違って、すぐに男子と変な付き合いなんてする気ないし。第一、絶対変よ! すぐに付き合ったらえーさんのとこに泊まるなんて。そんなことしたら大変なことになっちゃうかもしれないのに!」
「あんた勉強たくさんしてて、避妊のしくみも知らないの? ばっかねえ。ちゃんとカレンダーで計算してつけるものつければ大丈夫に決まってるじゃないの。そんなことも知らないでびくびくしてるなんてそっちの方が頭悪そうに見えるわよ。それに」
足音が響く。
「あんたさ、なんで母さんたちがあの品山の男の子のこと嫌ってるか考えたことある?」
「その品山の子って言い方、やめてよ!」
「品山であんたが生まれる前、誘拐事件が起こったってことも知らないでしょ」
「それとどう、関係あるのよ!」
聡子さんがハスキーボイスでささくれた言葉をつぶやく。
「たくさんの小さな子がね、品山付近で誘拐されてそのままほとんど戻ってこなかったのよ。犯人は捕まったけど、すべてではない。しかも、その犯人はすべて、品山の住人だったってこと。そういうことよ、わかるでしょ」
ーー聞き飽きたことだけどなあ。
あくびが出そうになるこの話題。貴史も母から耳にたこができるくらい聞かされていた。
品山地区で貴史たちが生まれる前に起こったという大規模な集団誘拐事件。しかもほとんどの子どもたちが戻ってこなかったことと、とらえられた犯人のほとんどが品山出身者であったこと。貴史からすると
「たまたまなんじゃねえの?」
くらいしか思わないのだが、母たちからすると「品山」=「誘拐犯人の巣窟」と勘違いしてしまっているようだ。単細胞すぎるその発想には、美里と一緒に呆れ返るしかない。しかも無関係な立村までも、犯罪者扱いされるというのは何か間違っているんじゃないだろうか。
美里が何か言い張っている。聞き流している聡子さん。風に吹かれてまだまだ続ける。
「美里、あんたはいっつもさ、私や母さんたちが人の悪口ばっかし言ってるとか、レベルの低い話ばかりしてるとか、ぎゃあぎゃあ言ってるけど、私からしたらあんたの方がずっと差別主義者に見えるよ。前からあんた言ってたよね。私みたいに頭のよくない学校にしかいけないなんていやだからとかさ。成績が悪いってことで見下してるのはあんたの方だよ。それに品山の子と付き合ってることをずーっと隠してきてて、ばれたらばれたでぎゃあぎゃあ泣き喚くってのはどうなのよ。そんなに彼氏に自信ああるならもっと堂々と振る舞ったらどうなのよ。そのくせ、キープにたあちゃん押さえておいてって、ずいぶんあんた保身の術使うのうまいよねって思うのよね。そういうとこが私、大嫌い」
「お姉ちゃんみたいに将来のこと、何にも考えないでふらふらしている方がずっと私、大嫌い!」
美里が叫ぶ。風がシャッターを叩く。
「それに、何よ、貴史をキープ? そういう発想しかできないお姉ちゃんたちってばかみたい!」
ーーいつものパターンだしそうおこんなよ、美里。
貴史はため息をつくだけに止めた。男子にはあるまじきことかもしれないが、「たあちゃんをキープ」発言に似たことを数限りなくされてきているので、もう慣れっこ、ぶちぎれる必要もない。
「かたっぽで品山の彼氏と清く正しいお付き合いしておいて、もうかたっぽではたあちゃんといちゃいちゃしてて。欲しいものみんな独り占めしてるくせに、威張ってるんだもんね。そりゃみんなあんたのこと嫌うよね。賢い美里のことを好きになる男子なんてそうそういないよね。あんたの品山の彼氏が浮気してるって聞いたけど、当たり前だよ。たあちゃんにっはかなわないって思ってるだろうしね。あ、そうそう、いい機会だから言っとくけど、たあちゃんと美里がくっつくんだったらうちの家族も羽飛さんちも大歓迎。みんなそう言ってるけどあんたがわけのわかんないことばっかりしてすねるから、混乱してるだけじゃないのよね」
年の功なのか、聡子さんの冷静な口調は美里をあっさり叩きのめしているとみゆる。
ただ一言、反論したいのを貴史はこらえる。
ーー聡子姉ちゃん、悪いけど俺の最愛の彼女は、鈴蘭優ちゃんなんだ。
「お姉ちゃんのばか!」
美里の声がか細く響いた。さっきとは違い、くぐもった響きがする。
「そういういやらしいことばっかり考えてるから、私、お姉ちゃんのこと、大嫌いなんだから! 何よ! 何が、貴史とくっつけって言うのよ! なんでもかんでも付き合うことにまとめようとする色眼鏡な見方って最低! お姉ちゃんからしたら男子との付き合いはそういうべたべたしたことしかしないかもしれないけど、そんなエッチなことばっかりしないでもいくらでも楽しいことあるのに! お姉ちゃんの方が本当に馬鹿よ!」
「はいはいわかりました、バージンには刺激がお強うございましたわね」
ーー刺激が強いのは俺の方だわ。
想像はついていたが、どう考えても貴史の姉よりははるかに大人だ。
「悪いけど、今夜別にえーくんとこに泊まるわけじゃないのよね、なんでもかんでも決めつけるってのもなんだけど」
車の助手席を思い切りばしりとひっぱたき、聡子さんは言い放った。
「さっき、窓に誰かが石投げたような気がしたんだけど、気のせいかなって思っただけ」
ーーおいおい、まさかばれてるのかよ!
聡子さんはそのまま家の中に戻っていった。
ーーやべえ、どうする? 父ちゃん母ちゃんにまたぶん殴られるぞ!
足音が遠くなったのを確かめ、貴史は座席にしっかと座り直した。全身縮こまったままでいると足がみしみしして痛い。まずは足首とふくらはぎをもんだ。
窓から覗く前に美里がそのまま車に乗り込んできた。顔は能面のままだった。まだ微かにしめっている美里の髪の毛が冷たい。
「やべえな、そろそろ俺、行くわ」
「貴史、あのね」
「うちの親にばれたらぶん殴られるだろ」
「大丈夫だよ。お姉ちゃん、私が弱み握ってるから。それより貴史」
何度も美里は、貴史の名を呼んだ。
「貴史、私」
不意にしめった髪の毛が貴史の喉元に迫ってきた。同時に全身そのままぶつかるように、美里がむしゃぶりついいてくる。
「おい、美里どうした」
「私、違うよ」
「あ? 何がだ?」
言葉を発するのも喉がつまってうまく言えない。膝と腕、腹、胸、すべてに絡みつく美里の全身が重たく、やわらかい。
「お姉ちゃんみたいなこと、絶対しないのに、なんで、どうして、私だけ、あんなこと言われなくちゃなんないの?」
そこまではまだ平らな言葉だった。もう一度、貴史を呼んだ。
「だからなんだよ」
「貴史、私、どうすればいい?」
両腕、しっかりと貴史の背中に絡みついた。この体勢を「抱き合う」と指し示すことは承知している。
「おいおい、美里、お前あかんぼじゃねえだろが」
しゃくりあげ出した美里の背を貴史は撫でた。そうせざるを得なかった。
ーーったく、世話の焼ける奴だぜ。幼稚園の頃からまったく変わっちゃあいねえ。
美里が泣きじゃくりながら貴史に抱きついてくることは、幼児の頃なら毎日よくあったことだった。
小学校時代だって真夜中二人きりで語り合うことは珍しくなかった。
肩を寄せ合っていつの間にか眠っていたこともあった。
決して、やましいことじゃない。
ただ違うのはひとつだけ。
ーーしっかし、もういい年なんだから美里、そう、恥じらいっつうものを持てよ。俺が立村じゃなくてよかったよな。あいつなら百パーセント鼻血出してぶっ倒れてるぞ。
しっかりと感じるでこぼこの感触が、貴史の全身に広がっていた。落ち着かせるためにだけくっつきあっているだけなのに、なめらかに流れることなく、ごつごつしたものが肌に伝わってきていた。幼い日、悔し泣きしている美里をなだめるために抱きしめたあの頃とは違うものだった。
何年ぶりだろう。ふたりきりで、暗い中密着して過ごした夜は。
青大附中に入学してから、そういえばもう、一度もなかった。
もう誰も降りてこなかった。
風が収まりつつある中、美里のすすり泣きが収まるまで、貴史はしばらくその体勢を崩さずにいた。