第一部 28
車庫のシャッターがちょうど貴史のしゃがんだ頭分の高さへ上がった。
少し音が響いたような気がする。
美里の声はしない。ただ貴史は潜り込む。
ーーばれたら血祭りだな。
やましいことをしているわけではない、とは言いきれない。
夜遅く、親たちの許可も得ずに人の家へ勝手に忍び入っているのだから。
小学生の頃だったら多少怒鳴られてもさらりと流せばそれですむ。
でも今は。
ーーったく、面倒くせえったらねえよ。
いくら女子たちの色っぽい話に興味のない貴史であっても、現実を知ってはいる。
ーーしゃあねえか。
車のライトに頭をぶつけてしりもちをついた。同時にゆっくりとシャッターが下りあたりは真っ暗闇、視界閉鎖状態に陥る。
ーー美里早く電気つけろよな。
とは、言えない。声を出せない。車のボンネットに触れながら立ち上がるしかない。
同時に車の後ろドアが開く気配を感じた。助手席や運転席だと、わりとがっしりした音がするものだが、後ろ側はゆっくり開くせいかさほど響くことがない。
「貴史、こっち」
初めて美里らしき声が聞こえた。手探りで進み、ひょいと空気をつかんでつっぷした。ガソリンと皮の匂い。車専用の芳香剤ではまったく消臭効果がない。
「閉めて」
隣でシャンプーの残り香をぷんぷんさせた美里が指示を出す。そりゃ閉めるしかないだろう。寒いのだ。
闇の中、服を通じて体温が伝わってくる。心臓がばさばさ音を立てるようで、貴史はまずゆっくり座り直した。
「お父さんたちに気づかれたらまずいし、電気、つけないからね」
「そりゃそうだろ」
シャッターの下から微かに光が白線を引いている。それだけだった。
「貴史、聞きたいんだけど」
「俺の方が先だろ」
「立村くんには連絡したの?」
いきなり方向の違う質問に戸惑った。そんなことするわけがないだろうが。こずえのかけてきた一本の電話をきっかけにここまで飛び出してきたというわけだ。立村まで手が回るわけがない。
「するわけねえだろ」
「変だね、それ」
「どこがだよ」
唇を膨らませてみる。文句を言ってやる。美里が続けた。
「だって、親友でしょ。貴史と立村くん。親友のことを最初に考えなかったの」
「ばあか、何考えてるんだ。女子じゃねえんだぞ、そんなべたべたいちゃいちゃなんてしねえぞ男同士普通はな」
事実そのものを貴史は答えた。
「奴は放っといてほしいに決まってるだろが。男の沽券って言葉知らんのかよ」
「ばっかみたい。男子は変なとこにこだわるよね」
同時に膝へ暖かいものが触れた。美里が片手で何かを膝に置いたようだ。まるっこいもの。飴だった。
「台風の音できっと誰も気づいてないから」
最初言われた意味が理解できなかったが、シャッターの物音のことだとなんとか把握した。
「貴史、もう、杉本さんとのこと、聞いたでしょ」
美里は声だけふつうのまま、語り出した。
貴史は黙ったまま、飴の包み紙を闇でひねりつつ、中身を取り出して口に放り込んだ。
「私ね、立村くんに嫌われたかもしれないんだ」
ーー嫌われた?
「おいおい、どうしたんだよいったい。お前、最近あいつといちゃつくこと多いくせになに勘違いしてるんだ? 幸せ過ぎてわけわからねくなってるだけじゃあねえのかよ」
混ぜっ返してみる。嘘ではない。美里がやたらとはしゃぎまくっていることと、立村に八つ当たりしているところとか、やはり「甘え」てなくてはできないことだろう。「公認彼女」としての甘えともいう。立村もきっと、そのあたりで許しているのだろう。そう思っていると貴史は信じていた。
「やっぱり、気づかなかったんだ」
「はあ?」
「気づかれないようにしてたからね。よかった。誰も知らないんだ」
美里がしつこく念押しするようにつぶやいた。
「この前ね、立村くん、私に言ったんだ。『つきあい』を終わりにしようって」
「まじかよ」
驚くと、気持ちがだんだんこもらない声に変わっていく。自分でもなぜそんな冷えた声が出たのかわからない。
「理由は聞いてねえのか」
「教えてくれないし、私の方でわかってることだから驚かなかったよ」
いったん声がくぐもり、また息を大きく吸って語る美里に貴史は合わせた。
「だって立村くんは、私よりも杉本さんの方が気になるんだもの。しょうがないよ」
ーー杉本、ってあの二年の女子か。
前から美里がずっと気にしていた女子のことだろう。
でも美里はその杉本梨南という女子を他の女子評議委員たちと一緒に面倒を見つつ守ってきたはずだ。
抜けがけされたのか? いや、そんなことされて黙っている美里ではない。仮に誰かが理不尽なやり方で立村にアプローチしたら最後、美里はとことんどんなやり方を使ってでも対抗するだろう。納得行かないことに泣き寝入りするような奴ではない。
「お前な、敵に塩送るようなことしてたのか?」
「そんなことするわけないじゃない! 私はただ、杉本さんの一生懸命なとことか男子たちに負けたくないってがんばってるとことか、かわいいなって思って、みんなで守ろうとしてたの。いい子だから」
「で、立村をとられたってわけか、ざまあねえぞ」
うまく言えないのだが、気持ちが全然こもらない。自分にとって立村もそうだが美里も友だちとしては最高ランクにいる存在だ。そのふたりが付き合い、うまくやっているのはそれでめでたいことだと思っていた。だが、そのふたりが「別れた」となるともっと叫びたくなっても不思議はない。外で隙間から水を流し込んでくる雨嵐に対抗して「お前らいったい何やらかした!」くらい怒鳴ってもいいのに、そうできないのはなぜだろう。場所の問題ではない。
「そんなんじゃない!」
やたらと香水くさい匂いが広がった。美里が首を激しく振っているのがシルエットで判る。
「私も、ちょっとはね、驚いたけど。杉本さんなら、しょうがないなって思ったんだ」
「なんでだよ」
「杉本さんを応援したくなる、立村くんの気持ちがわかるから」
「はあ? まったく理解できねえよったく!」
指先で飴玉の包み紙を潰して開いて裂いた。
「美里、お前な、もう少し怒れよ。なんであいつに文句言わねえんだ? 理由くらい聞くだろ普通!」
「見え見えだよ、立村くんが杉本さんのこと、好きで好きでしょうがないんだってこと、みんなわかってる」
美里が運転席のヘッドに抱きつくような仕草をした。
「暇さえあればE組に潜り込んで杉本さんに話しかけてるし、最近は休み時間ほとんど付ききりだったし、杉本さんがいやがってるのに帰り道一緒に帰ろうとしたりしてるんだもん。立村くんが新井林くんとうまくやっていこうって決めたのも、杉本さんが新井林くんと犬猿の仲だから取り持ってやらなくちゃって男気だしたからに決まってるもん。杉本さんが二年以降評議に選ばれなくなってしまってからは尚更立村くん、ずっと杉本さんのことばっかり考えてるんだよ。そうだ、知ってる? 立村くん、修学旅行で杉本さんに、豪華な手鏡持って帰ったんだよ!」
「ちょっと待った! これだけ証拠揃っていて、お前なんで奴を絞り上げなかったんだ?」
ーーいつもの美里なら、もっと激しく立村を攻め立てたはずだ。仮にも彼氏彼女の関係なのにだ。なんでだろう。美里らしくない。
貴史の知っている美里ならば、それだけ浮気の証拠が上がっているのなら手加減はしない。とことん怒鳴るなり締め上げるなりするだろう。
もちろんその後は、反省しているであろう立村にお灸をすえたのち、めでたく嚊天下の道を歩むだろう。
「できるわけないじゃない」
美里は答えた。ようやく目が慣れてきたのか、隣で美里が何かを抱きしめている様子が伺えた。
「もしそんなことしたら、立村くんは一生私を許さないよ。立村くんにとって杉本さんは特別な存在なんだなってこと、付き合う前から気づいてたもん」
「付き合う前って、おい、二年の頃からか?」
「そうだよ、六月頃」
時期まできっちり答えた。
「あの頃、立村くん、杉本さんのことで一生懸命走り回っていて、なんとかして他の男子やクラス担任の桧山先生から守ろうとものすごい努力してたもの。あの立村くんがだよ? 新井林くんに文句言ったりいろいろしてるんだよ。信じられないよね。何かあると私よりも杉本さんばかり手元に置いてところ構わず褒め称えるの。だから、私、立村くんと付き合ったの」
「はあ?」
何度目の「はあ?」だろうか。
話が飛びすぎるのはいつものことだが、意外過ぎる。
「このままだったら、立村くん、杉本さんとくっつくなって思って。だったら私も後悔したくないなって思ったの」
「なるほどな」
納得した。美里がなぜ予告もなく立村とくっつこうとしたのか、謎が解けた。先手必勝、これが美里のやり方ならあっぱれだ。
「けど、やっぱりだめだった」
また美里が髪の毛を貴史の頬にぶつけてきた。
「立村くんは、どんなことしても、やっぱり杉本さんのことが好きなの。もう、止められないんだ」
それでも泣いてはいなかった。
「今日も、それで」
「何があったんだ?」
本当はそれを最初に聞きたかったのに、美里の一方的な会話展開によってあさっての方向に飛んでいってしまった。
「生徒会長に杉本さんが立候補しようとしたんだって」
「二年だったらそれでいいんじゃねえのか? 投票されるかどうかわからねえけど」
「それを、立村くん、全力で止めようとしたの」
ーー止める?
「生徒会の奴らが迷惑がって、立村に泥かぶってもらうよう頼んだんじゃねえのか? 藤沖あたりが」
「そんなこと知らない! 杉本さんだってがんばって、なんとか認められようとして、生徒会でやりなおそうとしてたから、私も、ゆいちゃんも、小春ちゃんも応援してたの」
「またかよ、その応援とやら」
「黙ってよ! 立村くん、私たちにそれをやめさせようとして、なんとかして杉本さんに生徒会役員選挙に立候補させないようにしようってしてたの。でも、そうしたらそうしたで、大変なことになっちゃった」
「さっき、古川から聞いた」
話を取った。いい加減今度は貴史が話したい。
「あいつの過去が暴露されたんだろ」
「そっか、こずえが話をしたんだ」
納得した風に美里が頷いた。
「話、早いね」
美里からの話で大体流れがつかめてきた。
ーー立村は二年の害虫と称されている杉本に惚れていた。
ーー美里はそのことを付き合いかける前から知っていた。
ーーその後いろいろあったが今日まですべてかくしてきた。
ーーなのに生徒会役員選挙を巡るごたごたですべてが暴露されてしまった。
外から吹きすさぶ風がだいぶおさまりつつある。微かに叩くガレージのシャッター音に守られながら美里はまだ言葉をつなぐ。
「私、その現場見てないからわからないし、他の子たちが教えてくれたことしか聞いてないからわかんないよ。でも、聞いて、しょうがないなって思った」
「ずいぶん冷たい言い分だなあ」
「冷たくないよ。そうだったら私さっさと立村くんと別れてるよ。杉本さんのことが死ぬほど心配で、明日からきっとみんなから軽蔑されることわかってて、それでしたことなんだからしょうがないよ。それに私も、杉本さん守りたいって気持ちは、わかるし」
「あのなあ、美里」
思わず口を挟みたくなった。
「こういっちゃなんだがな美里。お前異様なほどその杉本って女子のことにこだわってねえか?」
「そりゃこだわるよ。だって杉本さん、一生懸命でかわいくて」
「そこになんでお前こだわるんだ?」
「杉本さんには、今、本当に好きな人がいるんだもん」
美里は言い切った。
「他の学校の男子なんだけど、その人に好かれるため一生懸命おめかししたり話し方を練習したり、葉牡丹の花を鉢ごと抱えて持っていったり、とにかく健気なの。あの子を嫌う男子には理解できないと思うけど」
ーーははあ、そういうことな。
美里が冷静に話をしている理由がだんだん見えてきた。
要は立村の失恋が確定している以上、どうあがいたってしょうがなかろうとお釈迦様のごとく微笑んでいるだけということだ。
一瞬でも美里の精神状態を心配した貴史が馬鹿だった。
こいつがそんなやわな女じゃないことは、百も承知だ。
ーーどっちにせよ、浮気したアホな立村を美里は尻にしくため我慢してると、そういうわけか。
「じゃあ立村は、自分が振られてるってこと知ってるのかよ」
「承知してるみたいだよ。だって立村くん、その男子と交流会で仲良しだもん」
美里の口からはさらにわけの判らない言葉が飛び出す。
「この前のリレーで立村くん、走る特訓をするためその男子に連絡取って、協力してもらったみたいだよ。私が聞いたわけじゃないけど、なんとなくそういう噂聞いてた。その男子、元陸上部で長距離走ってて、一回新井林くんと勝負して勝ったことあるくらいなの。だから、立村くん、何とかしてトレーニングしなくちゃと思ってその男子に」
頭の中に白い光が入って、今までのどうでもいい恋愛話が消去されたようだ。
フィルムが消されたかのよう。
「おい、今、なんて言った」
「だから杉本さんの好きな男子と立村くんが仲良くて」
「そんなことじゃねえ! あいつがリレーの特訓した相手が、その杉本の片思いの相手ってことか?」
返事は返らないが頷く気配は感じた。空気がぬるく動いた。
「あいつ、そんな奴とこそこそ走ってたのかよ! どっかで練習してるとか言ってたのはそれかよ!」
てっきり、過去の因縁を水に流すべく、懸命に頭を下げているものだと思っていたのに裏を返せば、自分の惚れた女子の片思い相手になぜか近寄っていたとは。奴の発想は今に始まったことではないが、よく理解できない。なぜ、それを言わなかったのか、なぜ、そう伝えようとしなかったのか。膝に力が入る。思わずくしゃみを二回する。
「静かに! 聞こえるから」
「けど、なんだよ」
「とにかく立村くんは、杉本さんが喜ぶことなら何でもしてるの。そこでその男子と話をしたら、その話題を杉本さんに持っていくし。チャンスがあれば取り持ってあげたいと思っているみたいよ」
「わけわからねえ、いったい何やってるんだお前ら? お互い惚れてるのか嫌われてるのかわからねえのかよ。それで互いに、ライバルはいい奴だからって褒めあって、結局近づこうとしないってわけかよ。イエスかノーかはっきりしろよ」
本当は貴史も別の意味で文句をたらたら言いたかった。
結局、立村は何も解決しないままここにいるということになる。
罵倒されて、過去が暴露されてしまい、身動きがとれずにいる。
自業自得と言えばそれまでだ。
だが。
車がまたふたりでがたんごとん揺れる。
肩が触れ合うほど側にいるのに、言葉だけが水平に行き来するだけ。
美里も泣いてない。貴史も怒鳴ってない。
闇の中、時折感じるぬくんだ空気を求めつつ、ふたりはふれるぎりぎりまで側にいた。
小学生の頃だったら決してめずらしくなかったふたりきりの語り合いが、夜許されなくなってから何年経つのだろう。
時が経つのを忘れて語り合うところまでは同じだけれども、こんなに心が封鎖されたまま言葉を交わす夜は今までなかった。
うちあけ話のはずなのに現れるストーリーは似非物語。
少なくとも貴史には、そう見えた。
決してそんな似非物語を好む美里ではないのに、なぜか立村に引き込まれる恰好で登場人物の一人に紛れ込んでいる。
隣でしばし黙っている美里は、貴史の知らないところでものを思う女子のひとりに変貌しようとしていた。
ーー美里、なんとか言えよ。言うことあるだろ!
こんな似合わない芝居に立ち会わされるはめになった貴史も、たまったものじゃない。
すべてが嘘で塗り固められているなんて、ありえない。
立村を捕まえて、これは一度、首根っこ抑え込んで強制尋問せねばなるまい。
そうでもしないと、貴史が今度は許せない。
「美里、とりあえず明日、どうするかだ」
「うん、明日以降、だね」
「立村をどんな顔して迎えるつもりだ?」
「何事もなかったって顔で」
「できるのかよ」
「できるよ、それくらい。二年間がまんしてたんだもん、そのくらい平気だもん」
美里がそこまで言い切った時だった。
いきなりシャッターの開きかける音がけたたましく響いた。
斜めに刺さった街灯の光が、白線から長方形に広がった。
「貴史、あんた、潜って」
美里に促され、貴史は大急ぎでしゃがみこんだ。美里ひとりが外に出た。そこで気がついた。美里はピンク色のネグリジェに白い手編み風のカーディガンを羽織っていた。もろ、寝間着、湯上がり姿だったというわけだ。立村がこの場にいたらどれだけ鼻血噴いていただろうか。想像する前に現実へと引き戻され、貴史は改めて背中を丸めだんご虫ポーズに徹した。
ーー密会かよ。
そんなわけないのに、第三者が混じった瞬間それは別の意味となる。それだけは全力で避けたかった。