第一部 26
文集作りの計画については、奈良岡彰子とこっそり練ることにした。
もちろん立村のこともある。奴は相変わらず評議委員会やら次期生徒会改選の準備に駆けずり回っているし、ほとんど教室で話すこともなくなった。また金沢に早い段階で文集用に肖像画を描いてもらうために話を通す都合もあった。なにせ三十名分の顔だ。いくら天才少年画家金沢の腕でもすぐには用意できないだろう。こだわりもあるだろう。
奈良岡にその点を説明するとすぐに飲み込んだのか、
「そうだね。今度金沢くんと三人で相談しようね。まだ卒業なんて先だし、今からそんなこと心配しているなんてって他の子にも思われたくないし!」
内緒話に関しては納得してくれた。やはりこのあたり美里でなくてよかったと思う。
別の意味で面倒だ。
しかし、奈良岡も現在彼氏持ちの身。
人の恋路にくちばしはさむ気はしないがそれでも、奈良岡のあったかい性格を知れば知るほど、どうも理解しがたい。
ーーほんとに、奈良岡のねーさん、知らないのかよ?
ーー本当に、南雲が何やってるのか、知らんのか?
興味なんか一センチもない貴史でも、南雲の女遊び伝説はいやというほど流れてくる。
ーーこの前は水菜先輩と一緒に駅の裏通りを歩いてたらしいぞ。
ーー裏通りってしってっか? いわゆる街合ってとこだって聞いてるぞ。
もちろん、噂に留まっているから南雲は現在、規律委員長の座を守っていられるのだが。南雲が一応奈良岡彰子にベタ惚れしてアプローチし、自分の彼女にした後の展開についてはみな驚くばかりだった。むしろ現在の遊び人全開の姿が自然に思えてならないのが本音だ。
「ほら、羽飛くん、これ食べる?」
放課後、玄関のロビーで呼び止められ、いきなりクッキーを差し出された。
食い物はどんな時でもありがたい。もちろん食う。三枚つかんだ。
「しっかしさ、ねーさんこれうめえな。どうしたんだよ」
「うん、昨日たくさん作ったから余っちゃったんだ。食べてくれたらうれしいなって思って」
だったら他の奴、たとえば女子たちに配ればいいもんだと思うのだが。口に入るとバターのくっきり利いた適度なしょっぱさが心地よい。あまったるいだけがクッキーではないというつぼをうまく抑えていると思う。もちろん追加でかじる。
「お前さ、医者になるよりケーキ屋目指した方が、才能開花すると思うぞ」
「おいしい?」
うれしそうに、ゆらゆらする頬を抑える奈良岡。
「ま、そういうこと」
「よかった!」
相当感激したのか、奈良岡は何度も頷いてお礼を口にした。
「ありがと。羽飛くんにそう言ってもらえるからうれしいな」
「おだてられたら俺まじで全部食っちまうぞ」
「いいよ、羽飛くんにあげるよ」
そのまま箱ごと差し出された。真っ赤な紙箱にレース風のナフキンがかかり、その中に大きくまん丸いクッキーがたっぷり詰め込まれている。形は崩れていない。少し湿気っているがかえってケーキを食べているような感触があってなめらかだ。もらっていいのならそりゃあもう喜んでいただくが、そこでふと尋ねた。
「他の連中には食わせたのか? あとで俺が恨まれるのはやだぞ」
「うん、みんな一個ずつ。でもこんなにいくつも食べてくれたのは羽飛くんだけだよ」
またにっこり微笑む奈良岡。思わず貴史は手元のクッキーを見下ろした。
奴らの舌がおかしくなければ、それはやっぱり遠慮したとしか思えない。
ーーまさかとは思うがな、奈良岡、本当はあいつに持ってくつもりだったんじゃねえのか?
その「あいつ」の名を出すにはやはりためらいがある。
男子たちの間でも、奈良岡彰子の外見にそぐわぬ愛らしさを守りたい気持ちが、クラスメートの一存としてどこかにあった。
「ううん、いいよ。私、喜んでもらえる人に食べてもらいたいから!」
奈良岡彰子はもう一度大きく手を広げて、貴史の手元に差しだした。
「おうちで食べてね。みんなで分けてもいいし! 美里ちゃんと一緒でもいいし!」
腕時計を覗き込み背中を丸くし、
「これから保健室当番なんだ。じゃ、またね」
ころころ転がるように駆け出して行った。
放課後はやたらと腹が空く。持ち帰るなんてもったいないことはしない。一気に食いまくった後貴史は入れ物をそのままくずかごに捨てた。
ーーまじで奈良岡、うまいもんこしらえるよなあ。
美里からも聞いたことがあった。
奈良岡彰子は見た目大福のまんまる姫にも関わらず、男子たちの引きが途絶えることないという。女子たちが頼るのはわからないでもないが、一部ではファンクラブが存在するという噂には驚いたものだった。後日、これも南雲がらみの噂で、
ーー奈良岡さんを我が物にするがために、南雲はライバルである他中学の不良野郎に頭を下げたらしい。
とかなんとか。どこまで本当かわからないし鵜呑みにするほど貴史も馬鹿ではない。しかし、女子イコールやはりお菓子作りのようなかわいらしい趣味を持っていてほしいというのはどこかで本音でもある。美里ではまず考えられない言動を奈良岡彰子はためらうことなく愛らしく振る舞ってみせ、それが男心をそそる、というのもわからなくはない。
ーーったく、よくわからねえけど、しっかしだな。
不釣り合いにせよ一時は惚れ抜いた女子を今は堂々と忘れたかのように浮気して平気な南雲の態度を、理解したくない一方でわからないわけでもないとも思う。
ーーけど、やっぱりな。ありゃあねえだろ。
街合、とは古い言葉だけど、その意図することは理解しているつもりだ。
ーーやることやってて、それで教室では彼女扱いかよ。いいかげん奈良岡もあのたくましい腕で一発ぶん殴ってやれってな。
断言しよう。ひよわな南雲はぶっ倒れることだろう。そのくらいしなくては、おそらく南雲は目が覚めない。せっかくこしらえてくれたおいしいクッキーを無視されて、しかたなくクラスメートの貴史に渡して喜んでいる、いじらしい奈良岡にはそのくらいしてもいい権利がある。
クッキー一箱と言ってもずいぶんボリュームがあるものだ。
帰宅部の貴史だからそのまま家に帰ってもよかったのだが、なんだか腹が重たくなると動くのが面倒になってくる。誰かかしら暇を持て余している奴がどこかにいるはずだ。委員会なり部活動なり、そういう奴を見つけてしゃべるのが貴史の放課後ライフだった。
たまには混ぜてもらうこともあるが、たいていは勝手にその辺へ座ってなにかかしらつっこんでいるだけだ。決して主役に立つことはないが、それでもいつのまにか和やかに時は過ぎる。
立村と美里が戻ってくるまでその辺をうろついていてもいい。職員室で仲のいい先生をナンパしてしゃべっていてもいい。ひとりで物思いに耽る以外だったら結構すごし方もいろいろあるものだ。
「菱本先生、あのさ、文集のことだけど」
話す目的は持っているので、職員室に向かい菱本先生を捕まえた。
教科書と地図、その他よくわからない書類を大量に広げて頭を抱えているところに声をかけた。もろ、妨害である。
「羽飛か」
「先生もずいぶん悩んでますねえ」
さすがに他の先生たちがうろついている中、軽く声はかけられない。
最低限の敬語は使う。適当に椅子を借りて座った。
「お前も職員室好きだなあ」
「時間つぶし。それよか、奈良岡から聞いたけど、文集のことだけど」
「ああ、あれな」
三者面談のことを忘れてはいないが、とりあえずは知らんぷりをしておいた。
「奈良岡が羽飛と組みたいと話してたからな。お前もいいだろ?」
「はい、問題なし。で、奈良岡にも話したけど」
「いきなり、さん、付けか」
「でねば、先生あとで怒られるだろ? まわりの先生たちに、どういうしつけしてるんですかって。生徒としてこれでも気、遣ってるつもり」
にやっと笑い頭を小突かれた。
「全員の顔の似顔絵を金沢に描かせようと思ってるんだけど、それいいですか」
「ありがちなアイデアだが、いいアイデアであることは確かだな」
金沢といえば絵。パターンではあるがそれに乗っかりたくなるだけの才能はあるのだからしかたない。貴史は頷いた。
「で、担任命令で悪いんだが羽飛」
「なんですか」
菱本先生は顔を緩ませたままあっさり告げた。
「文集についてはお前が全部指揮をとれよ」
「はあ?」
「言葉通り、そういうことだ。原稿をまとめるのは奈良岡がちゃっちゃとやってくれるだろうしそういうこまいことは無理するな。それよりも羽飛に頼みたいのは、三年D組の奴らが本気でぶつける気持ちをそのまんま文集に載せられるよう、工夫してもらいたいんだ」
「なんですかそれ」
菱本先生はもしかして、結婚からの逃避願望が強いんじゃないだろうか。
やたらとこの前から貴史をけしかける。
クラスの中心に立てとか立村を補佐に回せとか。やけっぱちで暴れたい気分としか思えない。
「つまり、文集なんだ」
小声で囁いた。ざわめきで包まれていて、防音状態完璧だ。
「本当は一年の段階で一度文集を作りたかったんだ。だが運悪くいろいろなことがあって果たせなかったわけなんだが、それはしかたない。あの段階では誰かが犠牲になってしまう可能性が高かったから俺も諦めた。だが今はもう、みなある程度耐性がついているから多少辛い気持ちが目覚めても立ち上がれる。それを指揮するのは羽飛、お前だけだ」
ーー先生、本当に頭大丈夫かよ。
職員室の奥に見覚えある顔がちらついている。殿池先生の脇に美里がうろうろして何かまくし立てている。気になるが今のところは無視する。菱本先生も気づいていないようだ。
「今回の目的はクラスの記念で、奈良岡とか水口とか、とにかく青大附属を出て行く連中のためにもってことだろ?」
そう奈良岡も話していた。疑っていない様子だった。
「奈良岡にはそう話してある。実際嘘でもないからな」
「でもほんとは、この恨み晴らさでおくべきかってことか?」
もう地が出てしまう。いたしかたなし。菱本先生もいやがらなかった。
「羽飛、忠臣蔵なんて知ってるのか」
「常識じゃん」
くすりと笑う。
「俺は浅野内匠頭じゃないが、言われてみればそうだな」
「関係ねえけど、一年の評議委員会クラス演劇、立村が浅野内匠頭で松の廊下やったの覚えてたってのもあるけど」
ふたり爆笑した。先生もしっかりあのビデオはチェックしていたようだ。
「ナイスキャストだなあ。評議委員会もあのまま演劇部にスライドすればいいのになあ。去年の奇岩城もよかったぞ。ほら、二年の新井林がイジドール少年で怪盗ルパンがA組の天羽、それでレイモンドが清坂で、きわめつけがホームズが」
「先生、それもうオチわかってるから、いいって!」
かならず評議委員会作成のビデオ演劇は、何かの形で全学年に放映される。一年の時は確か給食時間で、予想していなかったのか立村が顔を真っ赤にして教室を出ていったのを覚えている。二年の時は自習時間に視聴覚教室でいきなり放映された。この時はいろいろ事情があったことも関係して、流れている間お通夜状態だった。シャーロック・ホームズ立村も、レイモンド清坂美里も、一言も口を利かなかった。
と、菱本先生が不意に口をつぐんだ。
「浅野内匠頭とホームズか」
「えれえマニアックな役だよなあ」
「羽飛」
いきなり堅い声にあわてて背を伸ばす。
「はい」
答えると、菱本先生は小声で囁いた。
相変わらずざわめきやまない状態だが、身体を屈めるように手で指示をし、耳を近づけた。
「これから一ヶ月くらい、しばらく立村の様子に気を配ってくれないか」
「はあ?」
「羽飛にしか頼めないんだ」
何を言い出すのだろうか。保護者でもあるまいし。第一、同級生にそんな気なんて配られたらむかつくしかないだろうに。貴史が言い返す準備をしている間に菱本先生が説明を始めた。
「お前は立村の親友だと言い切っただろ。だから頼むんだ。お前の目から見て立村の様子が明らかにおかしいと感じたら、即、俺に教えてもらいたいんだ」
「あいつもともと変わってるじゃん、そんなこと言ってたら」
菱本先生は首を振った。ちらと、殿池先生と語り合っている美里に目を向けた。
「もちろん男同士プライドもあるだろうし、大人に言いたくないこともあるだろ。野暮なことを言うつもりはないが、今回だけは立村を少しだけ注意して見ていてほしいんだ。たとえば、そうだな」
目を背けずに首を傾げた。
「これから先、評議委員会関係かそれとも生徒会関係か、なんらかの形でトラブルが起こった時、立村がやたらと落ち込んでいるとかつっかかるようになったとか、そういう状態だった場合に、俺にこっそり教えてもらいたいってことなんだ。言葉は悪いがスパイだな」
ーー自分で言っちまってどうすんの。
関係ないところで思わず笑った。こういう裏表のない菱本先生の性格が好きだった。
「そんなことねえと思うけど。でなければ年がら年中あの調子か」
「悪い、言い方を変える。たとえば立村が清坂とけんか別れしたとか、評議委員長から外されたとか、そういうようなとんでもないことが起こったときに、少し気を配ってやってくれってことなんだ」
「先生、それありえねえよ。どっちも」
なんだかほっとした。そんな絶対にありえない展開を想像していたならば、それは間違いだと思う。まだ殿池先生と真剣に語り合っている美里をちらっと見て貴史は笑いかけた。
「ここだけの話だけどさ、立村、美里に最近いろいろデートの誘いかけてるらしいし、評議委員会だってなんか毎年恒例のしゃんしゃんしゃんで委員長決まっちまいそうだし、生徒会とは会長の藤沖と仲良しこよしだし、なんかうまくいくんじゃねえの? むしろ、立村が後期委員長になっちまってからの方が大変そうな気、するけどな。ま、先生が心配することねえよ。大丈夫大丈夫、中学生のことは、現役中学生がよっくわかってるの。安心しなさい」
事実だった。
美里に最近立村が積極的に声をかけて、何やら空いている日を懸命に確認している姿を、ここ数日見ることが多かった。もちろん美里も予定を確認して囁いている様子だが、今のところなかなか空きがないらしい。デートの予定調節と言っていいだろう。
評議委員会の件についても、例の「大政奉還」問題も少しずつ片付いてきているらしいときいている。立村と藤沖との関係も問題なし。難しいことはわからないがおそらく問題なく片がつくだろう。
第一、評議委員長から滑るなんてこと、あるわけないだろうに!
貴史たちが入学してから一度も、評議委員長リコールなんてとんでもない展開が起こったことなんてないしこれからもまずないだろう。去年の今頃、確かに後輩の新井林と評議委員長の座を奪い合ったようだが、無事立村が勝利を収めて年功序列の意義を守った。
今年はそんなライバルもいるとは思えない。なら問題はないだろう。
ーー菱本先生、まじで、ぼろぼろに疲れてるんじゃねえか。
ーー取り越し苦労って奴じゃあねえの?
改めて思う。結婚するってことは、心身ともに疲れ果てる行為なんだろう。
女子どもが幸せの象徴として認識していることは、実をいうと男子にとって地獄の始まりなんじゃないだろうか。悪いが貴史は結婚なんてノーサンキューだ。改めて思った。
「取り越し苦労なら本当にいいんだがな」
菱本先生は弱々しく笑った。
職員室を出て、ロビーに向かった。生徒玄関そばのゴミ箱をあさっている男がひとりいる。誰かと思ったら南雲だった。何かを拾って広げていた。
ーー南雲か?
嫌な奴に会ってしまったが、仕方ないので無視して通り過ぎるつもりだった。
いやおうなしに覗き込む。
赤い紙箱とその中のレース紙ナフキンをつまんでいた。
ーー自分の彼女だって自覚はあるんだな。
さっき貴史が捨てたゴミだった。奈良岡彰子から受け取ったクッキーの空き箱を拾っているとこみると、それがどういうものなのか、それは理解しているのだろう。横顔を覗き見ると無表情なまま。珍しく真面目な面である。
「あのな、これ、奈良岡からもらったクッキーの入れもんだってこと、わかってるんだろな」
思わず口に出た言葉。ひっこめられなかった。
「なに?」
南雲は貴史をじっと見た。目だけがやたらと脂っこく見えた。
「さっき、誰も食ってくれなかったからって俺に全部クッキーくれたんだ」
「なんだと?」
かすかではない。かなり動揺している。その証拠はがたついた目つき。喉仏が動いている。
「人のことなんか知ったことじゃねえが、せっかく作ってくれたもん、喜んで食ってやれよな」
すっきりした。貴史は背を向けて三階へと戻ることにした。南雲からけんかを売られることもなかったし、ただそのまま通りすぎて終わった。
ーーせっかく彼女が作ってくれたってのに、いらねえって断っておいて、あとで別の奴の口に入ったと思ったとたんむかついてるんだもんな。ひでえ奴だ。
どっかの彼女といちゃついている間に、本命とされている彼女は懸命にクッキーを焼いてくれた。あんな真っ赤な箱に入れる相手ったらやっぱり南雲だろう。それをあっさり拒否されてしまい、行き場をなくしたクッキーはいたしかたなく貴史のもとへきたということだろう。こういう場合はやはり、誰かがはっきり言ってやるべきだろう。もともと天敵同士の南雲相手なら貴史も遠慮はしない。露骨にはっきり伝えるに限る。