第一部 24
高校への内部進学内定日は十一月半ばと聞いている。さすがに親も顔を出して騒ぎ立てることの多いこの頃、貴史はのんびりと進路面談を受けていた。
三十人学級で放課後一日五人ずつ。すでに親を含めた三者面談は終わっているし、実質進学先は決まっているようなものなのでいたって気楽なものだ。
「羽飛、の、今の成績では」
咳払いをわざとらしくし、おどけつつ菱本先生は成績書類を指差しつつ話し掛ける。
「まあまあかなというとこか」
「普通科なら問題ないって話だけど」
「こら、その言い方まずいぞ。公立高校試験で面接ある学校だったら、お前の喋り方一発で落とされるぞ」
「俺、青大附属から出る気ねえし」
ばかっぽく語っていられるのもひとえに、貴史の成績が全く問題なく青大附高に進学できるレベルへ達していたからだった。別に勉強をしゃかりきにやるわけでもないし、得意科目があるわけでもない。ただ、赤点……平均点の三分の二がボーダーライン……を獲ったことは一度もないし、成績不振による呼び出しも食らったことはない。
単に容量がいいと言われればそれまでだが、もともとの実力がにじみ出ているだけだと貴史は思う。こういっちゃなんだが、立村や南雲には一度も総合順位で越されたことがない。
「しかしまあ、問題ないからなあ。あえて言えばもっと何か、熱く燃えるものがないのかってくらいだな」
「俺、冷えてる? 冷たい?」
今度はがしっと頭を捕まれぐりぐりされた。
「全く、お前と話していると真面目な話もどっか言っちまうなあ」
「俺と先生の仲じゃん」
くそ真面目な話などする気はなかった。
──さあてと、どのあたりで切り出すか、だな。
四時半過ぎ、最後の面接生徒。始まる前に蛍光灯を全部つけた。
「とりあえずだ。高校進学内定については何度も言うが十一月に出るから、それまでは大人しくしてろよ。あ、大人しくするのは卒業するまでだ。羽飛、あんまり馬鹿やらかすなよ」
「すげえ失礼だよなあ」
菱本先生なりに教師の威厳を保ちたいのだろう。もっとも例の彼女のどたばたをしっかり観察してしまった貴史からすると、何やっても無駄だと言ってやりたい。
──菱本先生のお祝いの会なんだがさてさてどうする。
今のところ、ご婚約および結婚式情報は母を中心に聞いているだけだ。
もうばればれだというのに、なぜか菱本先生は生徒たちへかたくなに口を閉ざしているようだ。立村に貴史たちが話をした段階でもう噂解禁にしたこともあり、あっという間に情報は駆け巡った。貴史が知る限り、菱本先生ファンだった下級生が大泣きしたとか、他クラスの女子に熱い告白の手紙を渡されたとか、いかにも色男っぽい話が駆け巡っているが果たしてどこまで本当なのかはわからない。
「先生、ところでさ」
「悪い、今日は俺の話を先に始めていいか?」
遮られ、貴史は黙った。普段は薄くベージュがかった教室の天井が真っ白く映る。蛍光灯のせいだ。かすかな窓辺の明るさが溶け込んでいて、テレビの中にいるようなまぶしさだ。
「はあ」
「羽飛、お前ずっと三年間部活動しなかったのはなんでなんだ? これなあ、前から不思議に思っていたことなんだ」
「もしかして思い悩んでいたとか、そんなことでか?」
他の連中から問われる言葉のひとつだった。菱本先生は忘れているようだが、貴史の記憶では宿泊研修、修学旅行、その他いろいろな場面で同じ質問を投げかけてくる。答えは単純なのでさほど困らない。
「だってさ、優ちゃん追っかけられねえし」
「優ちゃん?」
「鈴蘭優ちゃん。すっげえ可愛いだろ。この前の夏もコンサート行ったんだ」
菱本先生は暫く額に手を当てていた。
「言ってたな。羽飛、修学旅行でも似たようなことをな」
「前々から同じこと言ってるじゃねえかよ」
貴史は笑い飛ばした。何度もしつこく聞かれるのは確かに面倒だが一番納得してもらえる答えでもあるし、むしろ模範解答のQ&Aを引っ張り出したに過ぎない。
「鈴蘭優以外に何か理由ないのか?」
「あとはさあ、やっぱし、上下関係面倒だし。好きな奴らと好きなように球追っかけるなら燃えるけど、なんとか部に入って先輩連中に怒鳴られて、後輩に威張りちらしてってのはどうかと正直思うし」
菱本先生はさらに首をひねっていた。
「お前運動好きだろ?」
「好きだけど封建制度は嫌い。だから、委員会もやだったしな」
立村みたいにはなれない。これも変わらない。先輩にべったりくっついてからかわれたりしている姿を見るにつけ、死んでも男の沽券に関わる行為はするものかと決意したものだった。もちろん美里には言わない……わけもなく言いたい放題ばかにしまくり顰蹙買ったのだが。
「けど空いてる時間あるからいろんなとこ行くしな。たとえば金沢とこの前美術館ツアーに引っ張りまわされたし、この前は小学校の連中と朝から夜までオールサッカーやったし、先月は祭りがあったから神輿とかいろいろ町内会のおっさんたちっと練習したし」
「……当然、その中に勉強という選択肢は入ってないわけなんだな?」
「もちろん。そんな暇ねえし」
今度は正真正銘頭を叩かれた。
「ったく、ほんと羽飛、お前がこんなにすくすく育った理由はどこにあるんだろうなあ」
「いいもん食ってるからじゃないかなあ」
しばらくくだらない話をやりとりしていた。
たぶん菱本先生とは卒業するまでこんな調子で語るのだろう。
考えてみれば、問題児として小学校から送り込まれてきた貴史が、青大附属中学に入ってから殆どトラブルを起こさずにきたこと自体奇跡に値する。
敵がいないわけではないし、むかついたり殴り合いしたりすることも皆無ではないけれども、それ以上に居心地が良すぎる。言いたいことを言えばちゃんとまともな返事が返ってくるし、教師連中もほとんどが大人のくせに話のわかる人間ばかり。
小学校時代の友だちにそう話すと、まったくもってありえないというような顔をする。
一発二発ぶっとばしてこそ男の本懐、そうのたまう奴もいるくらいだ。
──羽飛はすっかり、牙抜かれたな。
勘違いしたことを抜かすアホもいる。そういう奴にはたっぷり鉄拳をお見舞いしてやり黙らせる。
牙なんか、抜く必要のない奴になんか、抜かなくたっていいのだ。
牙、そんなもの、どこに。
「羽飛、ひとつ、相談がある」
「何?」
言葉は飾らないけれども足は組まない。きちっと椅子に腰を据えてがっちり足を踏ん張り答えた。
「最後の半年なんだが、三年D組の団結を完璧なものにするために、羽飛、協力してくれないか」
「なんだよいきなりマジでさ」
からっと返事するが、菱本先生は姿勢をただし、両手を机の上に置き、前のめりで貴史に顔を近づけてきた。
「本当は三年に上がった段階で話すつもりだったんだ。そろそろ、お前も本気を出す時期なんじゃないのかと、俺も思っていたんだ。まあその、いろいろあったようだが、ちょうど今がその時かと判断したというわけだ」
「ちょい、先生、待った」
手で遮るポーズを取りつつ、貴史はゆっくり言葉を切りつつ確認した。
「一応、うちのクラスには、評議委員長がいるってこと忘れてるわけじゃあ」
「それは承知だ。立村のことも含めて、だ」
「それちょっとまずいだろ? いくらなんでも立村の立場がねえよ」
何度か似たような勧められ方を経験している。クラスメートを始め他クラスの奴らにも。
しかし、それはありえないことだと断ってきた。
──第一、俺が立村を評議に推薦したんだぞ? あいつが仕切ってなんぼだろが!
「まず聞け、つまりだな」
菱本先生は暗くなりつつある窓の向こうに目もくれず語り始めた。蛍光灯が外の明るさにあっさり勝ちをおさめている室内で、貴史はしかたなく本気で聞いた。
「お前には夏にも話したけどな。クラスがまとまっているようで実はみなばらばらなのが三年D組の現状なんだ」
「そんなこと聞いてねえけど」
覚えてないだけだろ、そう先生は軽く流した。
「いろいろ目立たないところでトラブルも起こっていたんだろうとは思っていたし、わざと見逃していたこともないわけじゃあない。たとえば修学旅行の時みたいにな」
──非常に、思い当たる節あるな。
怖いのでどういうことかは確認しないでおく。
「ただ、どうも修学旅行が終わってから妙にみな、落ち着かないとは思わなかったか? 羽飛、正直なところ、どう思う」
問われて答える。条件反射。
「まあ、いろいろあるんだろうなあ」
「例えばだ、清坂のことだが」
──美里?
「どうも女子たちの間で、いろいろあるらしいな。男の俺にはわからないが、永年の幼なじみの羽飛にはどう見えるんだ?」
──ははあ、そこか。
菱本先生の目は節穴じゃない。てっきり立村のだらしない態度にぶち切れたのかと思ったのだが、女子たちの陰険なやり口もちゃあんと見抜いていたというわけだ。
「先生、鋭い」
貴史は頷き、同じく鼻を付き合わせた。
「けどありゃあ、一年の頃からずるずるきたってことだけどなあ。どうして早めに手を打たねかったわけ? 先生?」
そうだ、美里がクラスの女子たちと距離を持っていたことをどうして菱本先生は早く気付かなかったのだろう。クラスの評議委員だし、それなりに目立つ立場だしというのもあったのか。そこのところは聞きたかった。
「一、二年の頃はそれでも古川とか、奈良岡とか、それなりに仲良しもいただろう。それにお前もべったり張り付いて」
「張り付いてなんかねえけどなあ。先生こそ誤解してるぞ」
「まあ話を聞け。清坂のことならお前が一番よく知ってるってのが両家ご家族の認識だろ?」
「誰そんなこと言った?」
「お前のお母さんだ」
──母ちゃん何考えてるんだよったく!
今度は貴史が頭を抱えた。脳天気な家族を持つとこちらが参ってしまう。
「清坂の性格上、そのまますんなり話し合って仲良くなるとは考えられないだろ。かといってこのまま放っておいて、ずたずたハートのまま卒業するのも違うだろう? 羽飛が陸上大会の時に懸命に男子をまとめようとしていたが、ああいう奴が今のところ女子にはいないんだ、あ、いるか」
自分であわてて確認している。
「今のところは女子たちも表立ってわあわあ騒いでいないし、男子連中もまあ大人の対応をしつづけているが、なんかなあ。正直なところ、俺の理想としている三年D組の信頼関係とはほど遠いんだ」
「青春ドラマは遠い日の物語って奴よ」
はたかれるかと思ったが、手は飛んでこなかった。
「そうだな、お前らにからかわれるくらい熱かったけどな。誇りをもってやっていることだ。勝手に言えよ」
「先生大人なんだから拗ねるなよ」
小声で呟いた。
「けど、先生の言う通り美里が女子連中とあんましうまくいってないのは事実だし、それにひっぱられるように立村もいろいろ嫌がらせされまくってるし。俺もこりゃあなんとかせねばとは思ってたんだ」
「一肌脱ぐ、覚悟はあるか?」
「そんな寒いことしたくねえけど、ただ俺としてはクラスをまとめて明るく卒業したいってことに関しては大賛成」
けどさ、そう付け加えた。
「けどうちのクラスのトップは立村だろ。あいつを無視して俺が先頭に立つってのはやっぱしまずいと思うんだ」
菱本先生は返事をしなかった。ただ貴史の目をじっと覗き込んでいた。顔が黄色く見えた。
「立村が最終的には評議委員としてまとめるのが先だろ」
「羽飛、違う」
首をかすかに、しかしはっきり振った。
「今、この時期に舵取りするのはお前、羽飛が適任なんだ」
「けどさ、先生それ言っちゃあおしまいじゃあ」
「本気で言っているんだ」
小声ながらも荒い口調で菱本先生は畳み掛けた。
「社会に出ると強いリーダーシップを持っている奴、影響力を持っている奴、サポーターとして力を発揮する奴、いろいろな個性の持ち主と出会うんだ。それでわかるのは、自分自身に適した役割や職業につけないと、その人は事実よりも低い評価しか得られないものなんだ。たとえばお前が今だに部活動やら委員会やらに参加しないままでいるのなら、はっきり言ってそれはもったいない。もう三年の半分終わっている今言うは遅すぎると承知しているが、羽飛、お前には人を動かしていくだけの器量がある。どんなに隠していたくてもそれは周囲からはまる見えなんだ。そうだろう? なぜお前は一年最初の評議委員選出の際に立村を推したんだ?」
「そりゃあ」
言いかけた。言葉を飲み込んだ。言えなかった。
「清坂と立村を両思いにしたかった、それだけだろう?」
「ああ? 先生、それなんか妄想広がりすぎ」
「俺が言ったんじゃない。他の奴らおよび学内の先生たちが共通で感じた意見だ。もちろん俺もだ」
「だからなんでそういう発想になるんだよ、先生、やべえよちょっと。なんか精神的にしんどいことがあったんじゃねえの?」
頭に来るよりも、菱本先生のわけわからぬ発想についていけない。さらに菱本先生は言葉を繋ぎ、貴史を押す。
「ついでに言うなら、部活関係者からの激しいアタックにも関わらず部活動も委員会もやらなかったのは、単純に清坂の側で見張る必然性を感じていたからだろう? これはご家族のみなさまも含めて同じ意見だ」
──母ちゃんたち、帰ったらおぼえてろよ!
おそらく菱本先生の妄想ウイルスは、羽飛・清坂両家の母からもたらされたものだ。
「なんで俺が美里のこと見張ってねばなんねえの? 女子なんか見てて、どこ面白いんだよ。あんなうっとおしい連中」
「羽飛、俺はな」
菱本先生の眼差しは揺らがない。
「人間関係の修羅場をどっさり経験しているんだよ。恋愛関係もな。おかげで人間を観る目は磨かれた。生徒たちの個性や能力などを把握できるようになるもんだよ。羽飛もよく知ってるように、俺はほんっと、女子関係では手を焼いてきたからなあ。わかるだろ?」
にやりと笑った。目を逸らせず、一瞬の催眠術にかかったかのよう。
頭の角っこで何かが走る。
「羽飛。お前が清坂を守るためにいろいろな立場を無意識のうちに避けてきているなんて言われても、まあわからないだろうしわからなくたっていいんだ。俺もお前と同じ時には感じられなかった。だが、このまま目立たないままずるずる卒業していくのだけは、なんとしても避けたい」
「先生、本当に、なんか具合悪いんじゃねえの?」
自分の言葉に酔っているようにしか思えない。もし相手が南雲のようなむかつく相手だったら一発張り倒して席を立っているだろう。しかし菱本先生の殺気じみた様子がどうもひっかかる。恋愛問題の修羅場だとかなんとか言うけれど、無事嫁を貰う形になったのだから、一応はおめでとうといえるのではないだろうか?
「立村を評議から下ろすってんだったら俺は断る」
「もちろんだ、そんなことは考えてない。立村も俺にとっては大切な生徒だ。あいつは自分の限界まで本当によくがんばっている。お前に言われなくてもわかっている。ただ、これは資質の問題なんだ」
ゆっくりと留めを刺した。
「立村は助けられながらその力をばねに進むタイプだが、羽飛、お前は自分から人を巻き込んでひっぱっていけるタイプだよ。評議委員会では立村の個性もうまく生かされているようだが、三年D組というクラスをまとめていく力は羽飛の方が上だ。クラスの連中が立村に八つ当たりしているのは、あいつのやり方がまずいからじゃない。本来トップに立つべきお前が自分の仕事をしてないからみないらだつんだ」
「仕事してねえだと?」
「このままだと、小学校の頃と同じく清坂はひとりぼっちになるぞ。羽飛しか味方のいない一人ぼっちにしたくないだろ? 羽飛、俺の言いたい意味が今すぐわからなくてもいい。ただ、お前の力をまず、クラス再生のために貸してもらいたいんだ!」
──先生、例の彼女の件までネタにするくらいだから、相当、結婚すんの、いやなんだなあ。
わけのわからないことを熱血菱本先生が叫んでいるのを貴史は聞き流していた。
必要のあるところだけ、記憶させた。
「クラスまとめにはもちろん、俺協力するよ。ただ、先生さあ」
貴史は立ち上がり、菱本先生の肩に手を置いた。
「どっかでラーメンとかうまいもん食いに行ってストレス解消したほうがいいんじゃねえの? 俺もそんぐらいだったら付き合うよ」