第一部 23
霜柱立つ日まで 23
立村が教室に到着したのはそれから十五分ほど後だった。
すでに日はだいぶ斜めに傾ぎ、室内の温みもまただんだん消えてゆくようだった。
美里が側で膝に鞄を乗せた時に身体を震わせていたのを貴史は見ていた。
「立村くん!」
つい十秒前まで貴史とテレビ番組の話で盛り上がっていたくせに、彼氏を見つけた瞬間声が変わるのだから現金なものだ。手を挙げて何度も呼び込むような仕種をした。
「遅い! もう、早くおいでよ」
貴史の隣にちょこんと座り、いかにも待ちくたびれたポーズをとっている。
そんなこと知ったことじゃないとばかり、立村はいつものポーカーフェイスで答える。
「悪い、評議の連中に断ってきた」
「何を?」
「いや、今日の話し合い出られないってさ」
「ふうん、でもこっちだって三D評議専用のの仕事だよね。ね、貴史」
なるほど、さすがに今日は貴史たちを優先したというわけだ。
──相当奴も菱本先生ご婚約でショック受けてるよな。
笑いたくなる。こういうところがやっぱり立村は単純な奴だと思うのだ。
さて、これから三人喋って行くうちに何が飛び出すだろう。
美里の前で立村がどんな様子を見せるのか、どんなへまをやらかすのか、それを観察するのが貴史としてはたまらなく面白い。
「あたりまえだろうが。な、立村、早く美里を黙らせてくれよな。さっきからずうっと俺、こいつのエキサイティングトーキングに付き合わされててな、半分喉が死にそう」
「悪かった、それでは始めるか」
立村は前列の普段から使用している席に座った。さすがに貴史たちもふたりで机の上にちんまり納まっているわけにもいかず、適当に離れて座り直した。美里はこずえの席だった。あまり考えずに貴史も座ったが、よく見るとそこは南雲の席じゃないか。しくじった。
「さて、本日のお題だが、立村よくわかってるよな」
黙って頷いていた。美里がちらっと立村をみやり、すぐに貴史へと満面の笑顔を向けた。
「ね、すっごいことだよね! 菱本先生」
「それにしてもなあ、俺たち、年取ったもんだよなあ」
しみじみと呟きつつ、貴史は意識してテンション高めに言い放った。
「あの単純熱血教師の菱本ティーチャーにも、春が来たってわけか」
「なんだか信じられないよねえ、貴史、想像できる? 菱本先生の結婚式の格好!」
「緊張してこちんこちんだろうなあ、笑えるぜ。嫁さんのドレスの裾踏んで思いっきりこけるかもしんねえぞ」
「まあね。それありがち」
美里が拘っているのはやはり衣裳のことだった。はっきり言ってウィディングドレスのどこがいいのか貴史には理解不能だが、おしゃれ命の美里にはやはり興味津々なのだろう。
──俺からすると、そこで思いっきり裾踏んでつっぷしてこけて大拍手の菱本先生を見たいがな。
「でも踏んだらだめよ! だってお嫁さん、あれなんでしょう、ほら、あれ」
「こけたら、まずいのか? 赤ん坊」
「おなかにいるんだよ! まずいに決まってるじゃない! おなか冷やしちゃだめだとか、いっぱい布巻いたりとか、いろいろするんだもん。赤ちゃんが死んじゃったら大変だよ。菱本先生、ちゃんと気つけて歩いてくれるのかな」
やはり、腹の中に赤ん坊がいるというのは、女子の美里にとって複雑なものがあるようだ。全く貴史には予想つかないことだが、見知らぬ菱本先生の婚約者にそこまで思える美里の性格には恐れ入る。まあ貴史からしたら修羅場の彼女だ、堂々と胸はって「私の守は誰にも渡さないわ! だってちゃんとここに証拠があるんだもの」くらい言い放ちそうな気がする。
立村が貴史と美里を交互に見て、小さくひとつ溜息を吐いた。
いかにも、うんざりといった風にだ。
美里の求めている反応でないことだけははっきりしている。
「立村くんどうしたの」
かすかに笑っている。ばかにしているようにも見える。
「いや、なんでもない」
あっさり流され、美里も二の句が告げない。立村の逃げ口上への対処方法が今だに見つかっていないようだ。恋人同士でこういうのはなんとかしろ。貴史はそこまで過保護じゃない。
「あっそ。それでね貴史、式はいつだって言ってたっけ」
「噂によると、来月の頭だとよ」
「えー、それって早すぎるよ! だって、結婚が決まったのって、先月なんでしょ?」
確かに早すぎる。急がなくてはならない事情があるというだけのことだ。
「早くしねえと赤ん坊が腹から出てきちまうだろ」
「それはそうだけど、え、だとすると、お嫁さん、おなかがぐんと出たドレス着なくちゃいけないのね。かわいそう」
こういう話で時間をつぶすために今日、立村を呼び出したわけではない。
何か考えているようでもあり、単につまらないだけなのかもしれないが、ここでまずはひとつ、きっかけをつくってみよう。
「そいじゃな、まずは我が三年D組の熱血ティーチャーに生徒ができることってなんだろな」
「うん、そうだよね。やっぱりね、あれじゃない?」
貴史の思惑、即座に美里は受け取ってくれた。さすが幼なじみ、伊達じゃない。
「二年半お世話になった私たち三年D組一同として、何か菱本先生にプレゼントしたくなるのは当然じゃなあい? 立村くん」
──そうだよ、そうこなくちゃ嘘だろ、美里。
一テンポ遅れて立村が目をぱちくりしながら謝った。
「ごめん、ぼおっとしてた」
「しっかり聞いてよね」
美里の髪の毛をひょいと摘んで黙らせた。これもいつも通りのお約束。よく見ると美里の髪の毛には細くお下げが編み込まれている。ひっぱるにはちょうどよい。
「怒るな怒るな。なあ立村、美里の言いたいことはつまりだな。三年D組一同でひとつ、『祝・菱本先生ご婚約&ご出産』のパーティーをやろうじゃねえかってことなんだ。体よく言えば、早めのお楽しみ会ともいうな」
「そうよ。ほら、ロングホームルームの時間あるじゃなあい? いつも私たちが司会やるじゃなあい? 議題は私たちふたりで決められるでしょう。菱本先生には内緒でね、議題を先生の知らないうちに決めましたってことで、教室に飾り付けして、一時間パーティーにしちゃうの。菱本先生が道徳授業するつもりで教室に入ってきたら、もうパーティー用の飾り付けされていて、黒板にはいろんな色のチョークで『菱本先生、ご結婚おめでとうございます!』って書き込んであって。で、みんなで結婚のお祝いの歌を歌ったり、誰かに漫才やってもらったり、とにかくのりのりで盛り上がるの! どうかな、これ、きっと菱本先生、喜んでくれると思うんだけどなあ。立村くん、どうかな」
身振り、手振り、ぱっと広げて美里が思う存分イメージを広げてみせた。
貴史ともこのことについては少しだけ企画を立ててみたけれども、美里のように具体的な予定を組むようなことはしていなかった。やはりこのあたり、評議委員として場慣れしている美里の本領発揮というとこだろうか。目を輝かせて語る美里。いまひとつ乗ってこない立村に全力で訴えている。
立村は暫く黙って考えている様子だった。おもむろに答えた。
「清坂氏、ごめん、俺はやはり賛成できない」
──おい、立村、またごねるのかよ、ったくてめえはよ。
「その理由を述べよ、となるわな、立村」
貴史と一緒に美里が、膝に手を置いて詰め寄らんばかりの顔でもって視線をはずさずに見た。
一呼吸置いて立村は冷ややかに言い放った。
「まず、あの担任の結婚についてだけど、しょせんあれはプライベートのことだろう」
身じろぎせずにきっぱりと。
「冠婚葬祭は俺たち生徒にはそれほど関係ないと思うんだ」
さらに続けようとしたところを美里に遮られた。
「ちょっと待ってよ、この前南雲くんのおばあちゃんが亡くなった時、お葬式に行かなくちゃって言ったの立村くんじゃない」
もっともだ。これは美里の言い分が正しい。思わず同意を表し頷いた。それに気づいたのか立村は美里から目線を逸らし、貴史に向けて話を進め出した。
「生徒同士のことだったら、それぞれ付き合いがあることだし、それはそれでいいと思うんだ。先生たちについても、不幸については同じ考えでいいと思う。けど、今回の場合は結婚決まったのがいきなりだし、来月結婚式なんてまず普通、ないことだと思うんだ。そうせざるを得ない状況だったというのがあるのはわかっているけれどさ」
「結婚と葬式と、どうして違うんだあ? 立村、説得力ねえぞ」
「俺も噂でしか聞いていないからなんとも言えないけど」
珍しく言葉を切らずに立村は続けた。他人事のような、いやまさしくその通りなのだが。
「結婚相手には子どもがいるんだよな」
どこかの大学教授みたいに……大学教授と話なんてしたことないが……偉そうに言葉にする。美里がそのものズバリを言い切る。
「そうよ、いわゆる『できちゃった結婚』よ」
「はっきり言って、嬉しいことかって俺は疑問に思うんだ」
友だち相手でなければかなりむかつくような、上から人を見下ろすような言い方が鼻につく。立村には内面はさておいて第三者にそう思わせるような口の利き方をすることがたまにある。
「疑問? そりゃあ、順番間違えたってのはあるかもしれねえけどさ、菱本ティーチャー、あれでも来年は三十路を迎えるいい年の大人だろが。きっちりと落とし前をつけて、愛するわがハニーとベイビーを守る決意をする、なんてかっこいいじゃねえか」
「そうせざるを得なかったという、可能性だってあるだろう」
「そりゃ、たとえばな、本条先輩とかが、同級生を妊娠させたとかな、そういう話だったらご愁傷様とか言うぜ。だけど今回は、教師だぞ、大人だぞ。まっとうな人間だぞ」
いきなり目つきが変わった。今度は貴史も自分が地雷を踏んだことにすぐ気付いている。思わず本条先輩を例に出してしまったし悪意なんてさらさらないのだが、
──やべえな。立村にとって本条先輩は神さまだもんな。
慌てて修正に勤しんだ。いったん立村がへそを曲げてしまったら、そう簡単にご機嫌は直らない。美里とどっこいどっこいだ。
「まあなあ、立村、お前と菱本先生、最悪の相性だもんな」
「相性なんてもんじゃない、あいつの考え方が根本的に許せないだけだ」
──やれやれ。
一安心したのもつかの間、今度は美里が余計な茶々を入れてきてしまった。
さっきから美里が不満そうに指先をもぞもぞさせているのに気付いてはいたのだ。
これも貴史からしたら決して他意はない。そうしたほうがいいかなとなんとなく思っただけなんだが、どうも女子にはむかつくらしい。
「立村くん、ちょっといい? 私、やっぱりそれっておかしいと思うよ」
椅子を鳴らして立ち上がり、立村を上から正視した。
──何お前、ちょっとよくなんかねえぞ。ったく今度また俺が後始末するのかよ!
立村は何も感じていない顔でもって美里に向き直った。受けて立つ気持ちはあるようだ。
「いつも思っていたんだけど、立村くん、菱本先生のことを色眼鏡で見すぎだと思う。立村くん、菱本先生のことを嫌いだからいつも、何かあると菱本先生は悪いんだとか、いやなこと考えてそうしているんだとか、勝手に決め付けるくせがあると思うんだ」
「実際そういうことが多いんだからしょうがないだろう」
奴も早く切り上げたいんだろう。そっぽを向こうとしている。即座に美里は打ち返した
「立村くん、そうやって目をそらすの、失礼だと思うよ」
「ごめん、悪かった」
溜息をかすかについて、立村はわざとらしくゆっくり美里に向かい合った。
美里もきちんと対称になるような格好で座り直した。
ゆっくり、噛んで含めるように言い聞かせようとする。
「あのね、菱本先生の結婚のことだけど、もちろん難しいことはわかんないよ。そうだよね、こんなに早く結婚式が決まっちゃうって珍しいってうちの母さんたちも言ってたよ。たぶん、赤ちゃんが生まれてしまう前にしたいんだねって」
「かえってこの時期に式を挙げる方が大変だってこと、考えないのかな」
答えた瞬間立村が口を拭うそぶりをした。
「きっとね、お嫁さん、どうしてもウエディングドレス着たいんじゃないかなって思うんだ。だから菱本先生も、その夢叶えてあげたくて急いで式を挙げる決意したんじゃないかなあ。わかんないけど、菱本先生の性格だったら考えられると思うんだ。私も貴史も、立村くんと違って菱本先生のこと好きだから、そう考えてるのよ。ほら、違うでしょ。好き嫌いだけで、こんなに事実って捉え方違っちゃうんだよ」
「俺はただ、知っている事実をそのまま解釈しただけだって」
「違うよ、すっごく立村くん、物の見方が偏ってると思う。ずっと前からそう思ってたんだ」
あれこれやりあっていく間にもどんどん時間は過ぎていく。教室はだんだん温度が下がっていく。立村と美里は大してきにも止めていないんだろうが、しばらく黙っている貴史だけだんだん首筋、頬、耳、と少しずつ冷えていくのを感じている。
──だーかーら、結論から言っちまえよ。美里、立村に言いたいことあるんだったらもっと別の時選べよな。とりあえず俺たちとしては菱本先生に対してどうすっかってことだけだろが。
それでも美里の言いたい放題にさせているのは、まんざらその言葉が嘘と言い切れないからでもある。そりゃあ、菱本先生の彼女に関する事情を知っているので美里の勘違いを否定できない後ろめたさはある。できちゃった結婚で実はしかたなく押し切られているんじゃねえかという読みもある。でも、美里が言う通り、
「好き嫌いだけで事実はこんなに違う」
のも確かだと思う。
立村は菱本先生の件に限らず、公正な目で物事を判断することが、意外と少ない。
知り合った最初の頃は沈着冷静な性格と貴史も勘違いしていたが、とにかく自分のいったん信じたことは絶対に曲げようとしない。
嫌われ者の下級生・杉本梨南をとことんかばい続けることも、いったん付き合った美里に対してはとことん尽くす覚悟を持っていることも……修学旅行の件でよく理解した……、よい場面に出ることもある。信念を持っているのはよいことかもしれないが、菱本先生に対してのみそれは何か間違っていると貴史は断言したい。
──たまたま名前読み間違えただけで恨むってのはなんか違うだろ、おい。
美里の意見は恐ろしく貴史の考えとぴたっと合っていた。
今回に限り、美里の肩を持つかもしれない。そう思った。
「本当のことは私もわかんないよ。だけど、立村くんの考えは菱本先生のことを侮辱しすぎてると思うんだ。もちろんいろいろあったからしょうがないよね。でも、菱本先生のすることをなんでもかんでも悪いって決め付けるのはよくないよ」
「決め付けてなんかないさ。俺が言いたいのはそんなことじゃない。つまり」
「つまり、何?」
貴史は美里の隣に立った。
両手を腰に当てた。
「俺もその辺、聞きたいとこだな、立村、言いたいことあるなら言ってみろ」
四つの眼で見下ろした。
立村は暫く考え込んでいたが、顎あたりで気合を入れるように頷き貴史を見上げた。
美里に対してはやはりお留守だった。
「うちの恥さらすようだけど、俺の両親もいわゆる、順番を間違えた結婚だったんだ」
美里と顔を見合わせ、思わずつぶやいた。
「初耳」
──なるほどな。つまり、菱本先生を父親に持つ子の立場ってことだな。
立村の母には何度か顔を合わせたことがあるが、同じ歳の奴の「母親」にしてはあまりにも若すぎると感じていた。化粧が濃すぎることを除けば、仮に立村の姉貴として紹介されても違和感を感じなかったんじゃないかと思う。
父親にはまだ会ったことがないのでそのバランスがどうかはわからない。
母親年齢マイナス十五歳、として計算すると、下手したら恐ろしい結果が出てくるかもしれない。貴史はまず頭で計算してみた。結婚は確か男子十八歳から可能ははず。ということは……。
ぞっとする。話を進めて時間稼ぎする。
「それで立村、お前が先に生まれたとか」
「そう、しかも式を挙げたのは九月十三日だった」
今度は自分の話をしているくせに、また他人事のような口ぶり。腹は立たない。そりゃ、照れるだろう。恥ずかしいだろう。
「もちろんうちの担任と同じ状況だということは、わかるよな」
わかる、わかる。頷いた。また美里がくちばしを挟んできた。
「立村くんの誕生日、九月十四日だったよね?」
「ということは、どういうことか、大体想像つくだろ」
「……その場で、生まれたとか」
思わず手で美里のお下げ髪に手を伸ばすところだった。立村の他人行儀な口調に押さえ込まれた。
「一応、生まれたのは病院だった。母子手帳に病院名書いてあった」
「でも、そんなぎりぎりになんで結婚式なんて挙げたの?」
「本当は十一月が出産予定日だったという話だけど、式の影響で早まったんだって話なんだ。俺もそんな昔のこと覚えているわけないからわからないけどさ。とにかく、式を無理やり挙げたのがが影響したのは確かだよな」
「そうなんだ……」
「うちの場合は、いろいろあって親がふたりとも二十歳そこそこで結婚せざるを得なかったし、あの担任と事情が違うと思う。だけど、やはり、本当はこういう形でやりたくなかったんじゃないかなって気がしてならないんだ」
立村が美里から貴史に顔を向けた。結婚、恥ずかしい話だろう、この辺は大目に見てやる。話せ、話せ。
「もしかしたら俺の親も、そんなに早く結婚したくなかったんじゃないかって思うしさ」
──菱本先生もたぶん、結婚したくねえだろうな。そうだ、そうだ。
「俺が生まれてなかったらもっと違う人生送っていたんじゃないかって思うこともあるしさ、本当は産みたくなかったんじゃないかなって思うことも多々あるしさ」
また立村のいじけ癖が出てきた。どうもこいつの嫌なところは何かあると、「どうせ俺は馬鹿だから」「俺は何もできないから」最近では「俺は足が遅いからリレーでは迷惑かけるから」と拗ねるところだろうか。女子でかわゆい子ならまだ妥協できなくもないのだが、いい年こいた男子に同じことされても張っ倒すしか方法が見つからない。
言い分はよくわかった。立村がなぜ菱本先生に対してむかついているのか、それが私怨以外のところからきているのかも理解した。さて、次だ。
「立村、お前の出生秘密はよおくわかった。で、何を言いたい?」
いじけ虫成分を押しつぶすのは貴史の勤めだ。
立村はすぐ結論に入った。
「つまり、あの担任にとってこの結婚は、あまり嬉しいことじゃないかもしれないっていう可能性を忘れちゃいけないってことなんだ。俺があの担任の悪いところばかり見ているのは承知の上で言うけど、もしもそれがサプライズだった場合、生徒におめでとうって言われても、絶対に嬉しくないと思う。俺があの担任の立場だとしたら、きっとそう考えると思う。顔ではありがとうとか感謝の言葉を口走るかもしれないけれど、本当はきっと面白くないんじゃないかな。もちろんこれは想像だし、俺の見方が偏りすぎているかもしれない。だけど、そういう可能性がほんのわずかでも残っているのだったら、むしろそっとしておいてやるのが親切じゃないかという気がする。俺の言いたいことはそれだけ」
全力疾走、ご苦労様。まずは立村の言い分を受け止めた。
──ま、これからだ。これから美里の攻撃受けやがれ。
貴史は頷いた。後ろで口をもごもごさせている美里に喋るよう合図した。
「あのね、立村くん。しつこいようだけど、やっぱりそれ、偏見だよ」
「なんでそう決め付けられる?」
「そう言いたいのは私たちの方」
席に戻り、腕組みをして聞き入ることにした。
立村の複雑な気持ちはわからないけれども、とにかく自分の立場と重ね合わせてどうしても菱本先生を受け入れられない要因は理解したつもりだ。公私分けろと普通なら怒るところだが、そこまで立村が自分の隠していた過去をさらけ出したことが、なんとなく嬉しくもある。美里も単にヒステリーを起こしているのではなく、そこから本音で語ろうと糸口を探っているようにも見える。
──きっとこの調子だと、あいつら言いたいことぶつけ合えるんじゃねえか。
最近評議委員関連でいろいろとごたついていたようだし、あえて三人しかいない場所で腹の底から打ち明けあうのも、今に限ってはよいことだろう。
「立村くんのお父さんとお母さんが、ぎりぎりで結婚して、式の影響で立村くんが予定日よりも早く生まれちゃったというのは、わかった。それは大変だったと思うよ。でもね、それと菱本先生のことと、どう関係あるの? それに立村くんのご両親って、生まれてきてほしくないってあからさまに言ったの?」
「だいたいそんなニュアンスのことは言われてたかと」
「けど、それは冗談っぽくでしょ」
口篭もっている。おそらくストライクゾーンに突き刺さったんだろう。
注意してやるべきところだが、美里がすぐに自己修正していたので黙った。
子どもに言い聞かせるように、ゆっくりと。
「あのね、立村くん。私ずっと思ってたけど、立村くんは人のことを思いやっているふりして、本当は勝手に決め付けてるだけのような気がするんだ」
「どういうことだよ」
かえってかちんときたのか、立村が腰を浮かしかけ、すぐに座り直した。
美里は冷静だった。こういう場面になると彼女というよりも姉貴の貫禄だ。
「つまりね、立村くんは自分が生まれてきたから迷惑をかけたんだとか、もし自分が生まれてなければこんなことにはならなかったんだとか、勝手に思っているでしょ。だけど立村くんのお父さんお母さんはぜんぜんそんなこと考えてなかったかもしれないでしょ。それと同じよ。菱本先生だって、喜んでいるのかもしれないし迷惑がっているかもしれないけど、そんなの私たちにわかるわけないじゃない。私たちがわかるのって、目に見えていることだけだもん。私の見た限りだと、菱本先生、浮かれてるよ」
「人前でそんな暗い顔するわけいかないって、自分の身に置き換えてみたら」
貴史の読みが甘かったのか、立村が再びバリアを張りはじめている。さあどう出るか。手首をねじって前かがみに様子見する。
「立村くんの基準と菱本先生の基準が違うことくらい、わからないわけ?」
「んだな、立村。それは美里の言う通りだ」
よく言った。ぽろっと本音。当然だ。立村が唇を噛み締めている。
いつか貴史も立村に真正面から本音ボールをぶつけてやりたかった言葉だから。
「できちゃった結婚だから、ほんとはもう少し結婚先にしたかったのにとか思ってるかもしれないよ。それは菱本先生の事情でしょ。私たち生徒が勝手に陰気な想像して決めつけること自体が失礼だと、私、思うよ。それより、素直に、菱本先生の赤ちゃんが生まれることをおめでとうってお祝いしたいよ。だって三年間一緒だった先生だよ! 家族が増えて嬉しくないわけないじゃない! 先生だって、喜ばないわけ、ないじゃない!」
「生まれてほしくない親だっているはずだよ。すべての親が喜ぶわけじゃ」
「立村くんの基準と一緒にしないでよ! なんでそう暗い考え方をするのかな。なんか立村くんの考え方っておかしいよ。そんなこと言われたら、私もきっとそう思われてるのかなって泣きたくなるよ。私がこうやって言ってることも、立村くんには『いじめ』だって思われてるのかなって、悲しくなっちゃうよ」
背中に夕陽が暖かくさしてきた。教室の温度が下がっている代わりに窓から射す光が鋭く当たる。立村は座ったまま美里を見上げていた。美里も立村を見下ろしていた。
やはり、恋人同士の会話なんだろうか。
南雲の席で貴史は、ふたりが影絵に見えるのに戸惑った。
──そろそろ、締めだな。
立ち上がり、仲裁に入った。
「ま、俺もそう思うところはあるわな」
近づけばふたりは影絵ではなく、輪郭のととのったいつもの立村と美里に映る。
あくまでも軽く、いいかげんに声をかけた。
「立村、ここんところはさ、明るくいこうぜ。なあに、菱本さんのこった。多少俺たちがはめはずしたっておおいに結構毛だらけ猫灰だらけって、感謝のちゅーくらいしてくれるかもしれんしな。だろ、美里?」
「そんなのしてほしくないけど、でも、絶対菱本先生は喜ぶと思うよ。人を喜ばせて楽しく盛り上がることが、どうして立村くん、いやなわけ?」
立村だけが黒くバリアを張ったままだった。立ち上がり、鞄を抱え天井を見上げた。口を軽く開け、冷たい口調で答えた。
「わかった。それならこの件は、清坂氏と羽飛に任せるよ」
光で翳った立村の表情は読み取れない。ただ声だけはくぐもり冷え切ったままだった。
「俺の性格上、やはりこういうイベントは苦手だしさ」
──おいおい、お前、また逃げるのかよ!
喉もとまで出かけた台詞を飲み込んだのは、さらに爆弾を吐き出そうとする主がひとりいるからだった。
「ちょっと待ってよ、立村くん、逃げるの」
食ってかかる美里を止めるのも、幼なじみの仕事だった。
「まあまあ、ちょいと落ち着けや」
貴史は美里の前髪にかかるお下げをひっぱった。思いっきり叩かれた。ただでさえ機嫌悪いのをさらに加速させたかのようだった。
「やめなよ、貴史。あんた小学校の時とまったく成長してないよね。お下げ見たらひっぱるものって刷り込みされてなあい?」
「しょうがねえだろ、ほんとは優ちゃんの髪の毛ひっぱりてえとこだけど、しかたねえから美里で妥協してるんだ」
「最低よね、妥協ときたもんね、あんたの方こそ欲求不満、別のところで早く解消しなさいよ!」
軽くせねば。
とにかく、これは貴史がなんとかせねばならない場面だ。
寒いのではなく、熱いのだ。
立村がいったん心を開いて語ってくれたように見えたから、貴史は今まで黙っていた。
自分の過去を今まで剥き出しにすることが少なくて、すでに露見している事実ですらも隠したがる立村が、親しみを現してくれたように見えた。だからつい、読みが甘くなった。
──まずいぞこりゃあ!
本条先輩のことを口にしてしまった貴史が言える立場じゃないが、美里が言いたい放題ぶつけた言葉は完全に立村をひねさせてしまっただけだ。いったん開きかけたドアが閉ざされ、その後はどんなに叩いても開かれないまま。また、修学旅行前のふたりに戻ってしまったかのようだった。
──美里、ったく、お前言い過ぎ、何考えてるんだよ!
代わりに言い放ってくれたことについてはあえて考えず、貴史は三枚目でこの場を押し切るしかない。
「立村くん、待ってよ。今日は一緒に帰るでしょう?」
背を向け、外へ出ようとする立村に、美里がすがるように訴えた。
同じく説得したって無駄だ。あくまでも軽く、いいかげんに、そしてあっさりと。
「そうそう、そういうこと、立村逃げんなよ」
貴史は即、切り替えて呼びかけた。
長い時間。いや、ほんの一、二秒だったろうか。
立村は美里を静かに見つめていた。
また、いつもの諦めた顔で吐息をひとつ、その後、
「わかった、一緒に帰ろうか」
また一歩、貴史たちの下に戻ってきた。
貴史は美里に鞄を渡した。もうこれ以上状況を悪化させる必要はない。
「じゃあな、立村。お前さんのご希望通り、今回菱本先生の結婚おめでとうパーティーについては俺と美里が組んでやるってことにするから、そこんとこだけ断っとくな」
「いいよ、それの方が俺も助かる」
ほっとしているところみると、そちらの答えが本音なのだろう。
なら、貴史主体でやるということでうまく回していこうと決めた。
「清坂氏、さっきはごめん」
いつのまにか「恋人同士」の会話に戻っている立村の口調に貴史は思わず吹き出した。
さっきまでのわやわやとした冷たいざわめきは、やはり気のせいなのだ。そう思わずにいられなかった。ひとまず、人間関係は崩壊せずにすんだ。
──俺の手の打ち方は、間違ってねえってことよな。ったく立村も美里も、ほんと手が掛かるよなあ。
いきり立った口調とは打って変わって優しく接してくる立村に、美里も、
「いいよ、わかってくれるんだったらそれでいいの!」
ずいぶんあっさり許している。そこが恋の故、たるものだろう。
──あとでこのネタで、思いっきりひっぱるぞ。美里覚悟しとけよ。
幸せならその分しっかり、からかうことでバランスを保つ。これも貴史の処世術だった。




