第一部 19
霜柱立つ日まで 19
委員会に関わっている連中はやたらと焦っている。
立村も南雲も、授業以外殆ど教室にいることがなく、鐘が鳴るとともに即飛び出していく。
美里もやはり似たようなものだが、それでも途中古川こずえに引き止められて女子同士のかしましい話に盛り上がっていることもあって声はかけやすい。
「おいおい、今日もそんなに急いでどこ行くんだよ」
別に用はないけれど、貴史はあえて呼び止める。遅刻? そんなの知ったことじゃない。
十月も終わりに近づき、学校祭も一段落し、とりたてて焦るようなことはないはずだ。
「評議委員会に決まってるじゃない!」
またかすかにヒステリーの気配を感じる。美里は髪の毛を緩くひとつにまとめて後ろに垂れ下げていた。美里にしては珍しい形だった。ちなみに規律委員会からのチェックを受ける形ではない。
「もう、すっごく忙しいんだから! 貴史なんか用?」
「あるだろあるだろ、あれだって」
口をもごもごさせるのは自分流ではないが、まだ内密にせざるを得ない。
ばらすなら、もう少し様子を見て、伝えるべき相手に伝えてからでないとまずい。
「あれって、何?」
ぼけてるのか、美里は勘付こうとしない。隣でにやついている古川こずえには聞かれたくない内容なので、まずはひっぺがす。鞄で美里の肩を軽く押して、廊下へと追いやる。
「なあに、ずいぶんいちゃついてるねえ」
「そういう柄じゃあねえだろ、悪いが美里借りてく」
「断りを入れるなら立村にしなさいよ」
──その、立村がどっか行っちまったから話できねえんじゃねえかよ。
その通り、本当は先に、三年D組評議委員の立村へ話を通さねばならないはずなのだ。
それすらする暇の無いわけのわからぬいそがしさ、なんとかならないものか。
「まだ古川には聞かれたくねえからな。まだ、あいつには言ってないだろ」
「言ってない。もちろんだよ、そんなこと」
廊下の窓から見える銀杏が少しずつ黄みを帯びた色に染まりつつある。黄葉にはまだ時間がかかりそうな緑がたくさんまとわりついている樹だけど、たまに落ちてくる葉の冷たさを感じることは確かにある。そろそろ、冷えが近づく頃だ。
美里には事情をすべて話してあった。
「菱本先生のことでしょ、あの、赤ちゃんがって」
口篭もる美里が、その窓へ目線を向け、かすかに頷いた。
「まあなあ。結婚式挙げるらしいぞ」
この話を聞いたのは昨日のことだ。もちろん菱本先生が貴史に直接、
「実はな、俺もとうとう年貢の納め時でな」
なんて語るわけもなく、たまたま文化祭後の面談で母がかまをかけてみたところ、一発で白状したというのが本当のところだ。当然仲良しの美里母にもそれは伝わり、ふたりの間で共有の秘密は息子と娘にも自然と流れてきた、そういうわけだ。
「けど、よくそんなこと聞けたよね。信じられない」
唇を尖らせたまま、目を逸らしたまま。美里は呟いた。
「お母さんたちって、たしなみってこと知らないのかな」
「お前に言われたくねえぞそれ」
横向いたまま足だけ蹴りを入れる女子には死んでも言われたくない言葉だと貴史は思う。本気で蹴り返したら美里も嫁にいけなくなるだろうからここではがんばった。
「それなりに噂には聞いてたけどな。菱本先生にうちの母ちゃんが見合い話持ちかけたんだと」
「何考えてるのよいったい!」
「まあ聞け。その時に菱本先生もすねに傷持つ身だから口ごもっちまって、ああとかうーとか言うもんだから、そこを突いた!」
握りこぶしを作ってぐいと美里の顎に突きつける。いや、脅したわけではない。美里は相変わらずすかした面をしている。
「お好きな方がいらっしゃるの?って?」
「そ、そしたら落ちた」
「ばっかみたい、ほんと菱本先生、先生じゃないみたい。それよかあんたさ、『すねに傷ある』って先生にすっごく失礼じゃない? まるで彼女に冷たいんでしょとか、そんなこと言ってるようなもんじゃない!」
やっと顔を見て美里は言った。貴史としてはごく自然な意味あいで口にしたつもりだったのだが、よく考えてみると美里が首をかしげるのもわからなくはないと納得した。
──美里は、あの修羅場見てねえもんな。
つい、一緒にいたのが美里なのではと勘違いして口走ってしまう。違う、隣にいたのはこずえだ。もし美里だったら……別の意味で修羅場だ。
──美里は古川から、菱本先生の彼女が家にいたことくらいしか聞いてねえだろ。
こずえの言い分に嘘がなければ、の話だが。
──彼女が腹ぼっけで責任取れって話になってるなんてこと、聞いてねえだろ。
まだ外の銀杏が葉もぴんぴん緑だった頃の話だ。少しずつ黄色見がかってきている秋の色と一緒に、菱本先生と彼女との間には何らかの話し合いが持たれたのだろう。
「で、赤ちゃん」
「そこまで白状させるとはなあ」
貴史の母が凄いのは、その後だ。根掘り葉掘り菱本先生の婚約者……そう説明したらしい……の年齢と結婚式の予定まで突き詰め、その予定があまりにも早いことに驚き、もしや?と尋ねたらしい。なぜそんなに結婚式を焦るのかと。
「答えはひとつだろ、ってことだろ」
「赤ちゃんが生まれないうちに」
美里は言葉すくなに繰り返した。
「赤ちゃんが生まれちゃったら、大変だもんね」
──結婚式、十一月らしいな。
当然、三年D組評議委員の立村はそのことを知らないはずだ。
「そういうことでだ。このことを、立村に伝えねえとまずいだろ」
「そうね」
ここはふたりで頷いた。
「立村くんまた拗ねるもんね」
「さすが古女房だ」
また足を踏まれるがそんなに指には響かない強さだ。
「いくらあいつと菱本先生とが天敵同士であったとしても、冠婚葬祭は評議委員の役目だろ」
「私もそう思う。先生にお祝いあげなくちゃ」
もっとも立村が喜んでお祝い探しに奔走するとはこれっぽっちも思っていなかった。
よくて「クラスのお祝いしたい意思が固いならつきあうけど、基本的には勝手にすれば」程度の反応しか返ってこないだろう。
「今、評議委員会も忙しいしね。学祭終わってから立村くんも生徒会室に入り浸って大変なの。なんかね、女子たちをおっぽり出してみんな懸命に騒いでるの。なんでかわかんないけど」
ちらと、立村から以前聞いた「大政奉還」の話を思い出したがこれは口にしない。美里のおしゃべりに付き合うことで探りを入れる。
「B組の琴音ちゃんだけがたまに様子探りに行くけど、やっぱりよくわからないって返事みたいで。男子ばっかりでかたまってひそひそ話ばっかりしてるの! 十一月になったら生徒会の改選があるからそのあたりもいろいろあるみたいなの」
「へえ、生徒会のことまで評議委員会は頭つっこまねばなんねえのか」
そういう話を全く聞いたことがないとは言わない。ただそこまで活発に動き回るのは、貴史の目から見れば本条先輩クラスの野心家連中向きのものであって、感情控えめな立村には似合わないように見える。
彼氏の現状について美里もさらに語る。
「そうなのよ。なんかわかんないけど、会長藤沖くんと熱く語ってるわよ。教えてくれないし教えてもらえるほど時間もないし」
白いブラウスがカフスごと飛び出したジャケットの袖口を引っ張りながら、美里は軽く片足を踏み鳴らした。
「女子だってほんっと、大変なんだからね! 男子にはわかんないかもしれないけど、ものすごい大事件が起きてるんだから!」
悪いが貴史は男子なので、どんな大事件であってもわからないし理解する気もない。
「わあったわあった。お前がいかに立村に振り回されてるかってことはよーくわかった。それよか菱本先生のことは、三人でじっくり話した方がいいよな。クラスの連中にばれる前に」
「そうね。こずえにばれたらあとは秒速で噂が広まっちゃうもんね」
今のところ菱本先生は相変わらず熱血で、学校祭の合唱コンクール……今年から全学年参加が義務となってしまった。去年までは二年生限定だったのに……では舞い上がりと、女性問題のいざこざで頭を抱えている風には見えなかった。だから貴史もすっからかんに忘れていたのだが、展開がここまで早まっている以上は動かないわけにはいかない。
──せっかくだし盛り上がりてえよな。先生も覚悟決めたんだろうしな。
まずは、めでたい。おめでとうございます!
美里と一緒に階段を降りようと一歩足を踏み出した。
いきなり後ろから誰かがぶつかってきた。美里が手摺りにしがみついていた。
「おい、一言謝れよな!」
びっくりしたのか声も出ない美里をちらと見て、先に下りていった男子に声をかけた。そいつが振り返って慌てて頭を下げた。C組の更科だ。
「清坂さんごめん」
美里が首を振る。「大丈夫」のメッセージだろう。更科がそのまま猛スピードで下りていく様を見下ろしていた。
「何焦ってるだよ、珍しいよな更科にしてはな、だろ、美里」
「なんかがあったのかな」
首をひねっていた。
「更科くんってあんまりばたばたするタイプじゃないから、ちょっとびっくりしちゃった」
美里の言う通り、三年C組評議委員の更科は、いわゆる愛玩犬タイプの可愛い男子と思われている。実際は陰でいろいろ悪いこと……噂では保健の都築先生に熱を上げているとか……も耳にすることが多いのだが、表向きは愛想のいい優等生面している。一緒に評議委員コンビを組んでいる霧島ゆいが外見アリス系美少女でありながら本質アマゾネスということもあって、うまく手綱を取って動かしているそういう印象がある。
──いばらせておいて、実はこっちが主導権握ってるってわけか。
貴史にはまずがまんできないパターンの関係だ。
──俺なら間違ってることははっきり言って、その上で主導権取るがな。
美里相手のやり方が、基本として女子に対するパターンだ。
「けど、変ね」
手摺りに手を自然にかけ、美里は降りながら貴史に話し掛けてきた。
「今日、評議委員会で男子たち集まってるはずなのに。女子はこなくていいって立村くんに言われたから私は行ってないけど。更科くん、立村くんたちと一緒じゃないのかな」
「なんか忘れもんでもしたんじゃねえの」
首を振り、
「勘なんだけど、変」
何度も「変」を繰り返し、美里は二階に下りた。職員室に向かい斜めに立ったまま、
「貴史、やっぱり、そう」
小声で呟いた。
「どうした? なんかあったのかよ。やたらと人たかってるな」
見れば職員室前には男女合わせて二十人くらいの連中ががやがや集まっている。入り口をちょうどふさぐ格好で騒いでいる。定期テスト一週間前の場合は、機密保持の関係で職員室に入ることができないこともあり生徒がこうやってだらつくこともある。しかし今は試験なんて関係ない時期のはずだ。何かめでたいことでもあったのだろうか。
「貴史、ちょっと寄ってっていい?」
もちろん貴史も興味がないわけじゃない。美里と駆け足で職員室へ向かった。男子女子はたくさんいるけれどもその殆どが三年C組の生徒ばかりだった。何があったのかわからないが、みな、早口に「霧島がさ」「ゆいちゃんがさ」「大丈夫」とか囁いている。囁きレベルではない、もうはっきりとした発音として「霧島ゆい」の名が飛び交っている。
「ゆいちゃんがどうかしたの?」
まず美里が女子の一人を捕まえて尋ねた。
「職員室にいるんだけど」
口篭もり、小声でなにやら呟いている。側にいる貴史に聞き取れたのは、
「泣いちゃってる」
「西月さんと一緒」
──何かやらかしたのかよ。
美里も同じく疑問に思ったのだろう。次に男子を捕まえた。
「ゆいちゃんが泣いてるってどうしたの? C組でけんかかなにかしたの?」
「してねえよ。ただ」
割って貴史も問い詰めた。美里ひとりでは情報が偏りすぎてしまう。男子は女子に半分しか事実を言わないもの、承知している。
「霧島が担任に呼び出されたのか」
「ああ、たぶん学校のことじゃねえの?」
「学校?」
貴史の胸あたりを片手で思いっきり払いのけ、美里が畳み掛けた。かなり貴史としてはダメージを被っているが、耳だけはかっぽじってしっかり聞いている。
「霧島、やっぱり、青大附高には進学できねえみたいなんだよな」
両手を口に当て、美里が足早に職員室の戸口へと向かった。誰も止めようとはしないのが妙だった。追って腕をひっつかんだ。
「何、お前しようってんだよ」
「だって、ゆいちゃんが」
「霧島の問題だろ。お前が口出しすることじゃねえ」
「だって、ゆいちゃん、青大附高にいけなくなっちゃうなんて、そんな、ひどいよ」
首を振りながら、眉間に皺をよせ、叩きつける言葉。貴史は黙って受け止めた。
「ゆいちゃん、本当に、ほんっとにがんばったんだよ! 中間試験だって実力試験だって、誰よりも一生懸命勉強してたんだよ! それなのに、なんでゆいちゃんだけ、青大附高にそのまま進学できないの? それって変! 何にもしないで威張ってるならざまあみろって思うけど、ゆいちゃんは本当に命がけで勉強してたんだよ! なのに、どうして、成績だけで追い出そうっていうの? 努力をどうして認めようとしないのよ!」
「美里、落ち着け」
貴史も腕を放さなかった。たぶん、ここは止めるべき場だ。
「お前が騒いだってどうもなんねえよ。学校が決めることだろ? C組の殿池先生が決めることだろ? そりゃ、霧島はいい奴だけどそれと学校の進学とは違うだろ!」
「殿池先生だってゆいちゃんを評議委員として三年間応援してきたじゃない! それなのになんで手のひら返したような態度取るのよ! おかしいじゃない! 命がけでゆいちゃんをかばったっていいのに、なんで何にもしようとしないの?」
また後ろから誰かがどんと突いた。
振り返り怒鳴りつけようと思った。
美里が貴史に首を振り、さっき胸板をひっぱたいたその手で口をふさいだ。
「難波くん!」
マントは羽織っていなかったが「青大附中のシャーロック・ホームズ」難波利武が一言も謝らずに職員室へ飛び込んでいった。開け放したドアを誰も閉めようとはしなかった。そのまま、泣き声と叫び声に耳を澄ませた。
「私、何をすればいいんですか? 私、精一杯努力します。足りないならもっと勉強します」
何度も同じ言葉が飛び交っている。
「この学校を追い出されたら、私もう死ぬしかないんです。この学校にいたから私は生きていけたんです。ここ追い出されたら、もう私、行くところどこにもないんです。私、生きている価値がなくなっちゃうんです! お願いです、私を青大附中にいさせてください! 生徒じゃだめなら、中卒でアルバイトでもいいです、落第でもいいんです、お願い、ここにいないと私もう、死んでしまうんです、お願いですお願いですお願いです……」
──ここまでプライドかなぐり捨ててるってわけかよ。
さすがに美里も動かなかった。その声だけで十分だったはずだ。
「美里、外出るぞ。どうせこれから委員会ねえんだろ。菱本先生の方が俺たちには重大テーマだっての」
美里は素直に頷いた。入り口をバリケード化させた三年C組生徒たちにまかせて、貴史は美里とふたり、一階への階段を降りていった。
「そういえば」
目を潤ませ、時折顔を覆いながら美里が呟いた。
「立村くんはいなかったね」
「ああ、んだな」
理由は考えなかった。難波や更科が駆け込んでくるように、立村は飛び込んでこなかった。そのことだけが事実だった。




