第一部 13
笑えるほど軽症だったにも関わらず保健室に運び込まれた貴史はまず、美里にいきなり腕を捕まれてしまった。教室に入る前にだった。待ち構えていたらしい。
「あんた、ちょっと来てよ」
「なんだ、俺を心配してくれるのはありがたいが、そうされて嬉しいのは優ちゃんだけなんだ」
軽くあしらうと思いっきり足のすねを蹴られそうになる。
大事な脚になんてことをする。
「やめろよなあ、なんだよおい」
「ふざけてる場合じゃないの。すぐすむからいい?」
半袖のブラウスに、形が少し崩れた超結びリボン。美里がその手元を見ずにいじくっている。
「またやっちゃったよね」
「誰がだよ」
「言わなくたってわかるでしょ」
貴史を見あげたまま美里は大きく溜息を吐いた。
「なんでよりによってあんなこと言っちゃうんだろ」
「俺はただかっこよく走っただけなんだがなあ」
「あんたのことって誰が言ったの? 主語を考えてよ。私が『言わなくたってわかる』相手ったらひとりしかいないじゃないの」
そうか、立村だ。律儀に保健室へ顔を出して、頼みもしないのに余計な一言残して去ったあいつだ。確かにあいつには放課後何か言い返しておきたい。男と男の勝負を何もいきなり、なかったことにしろとかわけのわからないこと言い出すのはやめろと文句のひとつくらい言ったっていいだろう。
「立村が余計なことやらかしたってことだろ、ああ、わざわざさっき保健室に来たぞ」
「あんたにまで話しに行ったわけ? もう、ほんっとばか!」
今度は顔を覆って首を振る。泣いてはいない。怒っているだけだ。見たらわかる。
「立村くん、ほんと、何考えてるんだろ? もう、わかんない! 暑さで変になっちゃったのかな。もう女子たちから非難ごうごう。大顰蹙。もう私も何度他の子たちから怒られたかって、言ってやりたいよね! どうせ立村くんはいいよ。私が文句言ったって知ったことないって顔して無視するけど。すぐにふてくされてどっか行っちゃってほとぼり冷めるまで隠れてるし。でも、迷惑かけられた私とかどうするのよ。それに、貴史、あんただってさ」
「おい、なんで俺が出てくる?」
「寝ぼけないでよね。あんた、頭打った拍子にどうかしちゃったんじゃないの」
非常に失礼なことを目の前の幼なじみは言い放つ。どうも女子の場合勘違いした発想をしたがる傾向があるのはわからなくもないのだが、しかしつかみ所が完全に違うような気がする。確認しておいたほうがいい。
「美里、何あせってるんだよ」
「あせってなんかないわよ。次の授業、歴史だってこと、わかってるよね」
「そうだな、それが」
貴史が問い返すと美里は次に貴史の胸元のシャツをつかみ、思いっきり引っ張った。
「菱本先生、何を教えてる先生?」
「……わかった」
永い付き合いだとやはりわかる。美里が何に頭を痛めているのかが、だった。
──修羅場がお待ちかねってことだな。
「ね、でしょ?」
「覚悟だな」
「さっき誰かがね、わざわざ今の話を言いつけに行ったのよ。貴史と南雲くんとのアンカー争奪戦で、立村くんが関係ないのに余計なこと言い出したって。貴史と南雲くんの問題なんだから何も立村くんがでしゃばって、ぎりぎりまでアンカー決定を延ばそうなんて言い出すなんて勘違いもいいとこだって! 放課後もう一回一緒に走って勝負つけるって手だってあるのに、なんで立村くんが出てくるんだって、みんな、怒ってるの!」
「おい美里、すげえ勘違いしてるぞ。みんなったら誰だ」
「あんたと私と、あと南雲くん以外。南雲くんはね、別に立村くんの意見でいいって顔してるけど。こずえは激怒してるし。もう、私、知らないから!」
勝手に叫んで勝手に怒って、勝手に教室に戻っていこうとし慌ててまた戻ってきた。
「先生の教科書持ってくるの忘れてた!」
そう、美里は社会の授業前に必ず、菱本先生の教科書やら年表やらを運ぶお勤めが待っているのだった。ちなみに立村は社会に関してのお勤めを一切拒絶している。言うまでもない。
「おいおい、どうした?」
呼びかけながら貴史は教室を覗き込んだ。扉は開け放たれたままだった。ということは、さっき美里がヒステリー起こしていた様も丸聞こえだったというわけだ。
「羽飛、ちょうどいいとこ来た。ちょっと、当事者の意見を聞かせてよ!」
三人ばかり男子連中が、その周りに女子たちが五名ほど仁王立ち状態で待ち構えていた。D組の女子は十五人だから女子全体の三分の一が立村の敵として立ちはだかっていることになる。被告扱いの立村はというと、ちんまり席について、ゆっくり貴史の顔を見つめている。何も言葉を口にしないのは、やっぱり問い詰められていたということだろう。立村の性格上決して珍しい光景ではないのだが、今回は自分が関わっているのでちとやっかいだ。
「また裁判やってるのかよ」
「そういうわけじゃねえけどな」
男子たちが数人顔を見合わせつつ、面倒臭そうに腕をかきむしった。
「女子がうるせえんだよ。口出すなってのにな」
「そうそう、男子が決めたことなんだから女子には関係ねえだろ」
「関係あるって! 何男子たちいきなり殻に篭るわけ?」
三分の一女子内にこずえは混じっていなかった。まあ、万が一その場で同じ面して立村をねめつけていたらまた、こちらとしても何か言わねばならないだろう。面子を確認した限り、どうやらもともと立村を快く思っていない女子の一味だし、いつものように無視するだけですむだろう。本気だして言い負かす必要はなさそうだ。
「殻なんかねえよ。ひよこじゃねえもんなあ」
誰も笑わない。白けた。
「羽飛、あんたさ、むかつかないの?」
「何をだよ」
美里とは違うとげとげしい言葉の嵐に、思い切りびびってしまう。
「せっかくの男と男の勝負を、羽飛、立村なんかに茶々入れられるなんて、たまったもんじゃないじゃないの!」
「はあ?」
確認の意味で呟いただけなのだが、肯定と取られてしまったらしい。勢いづく女子たちにさらに退く。
「そうだよ羽飛。全力であんた勝負したんじゃないの! タイム計ってなかったのはミスだけど、しょうがないよね。今日の放課後もう一度、きっちり勝負しなおせばいいのになんで、中途半端にぎりぎりまでもたせようなんて言い方するわけ?」
「おいおい、どっちを責めてるんだ? 俺か? それとも立村か?」
愚問とすぐに気がつく。女子たちは遠慮しない。はっきり答える。
「もちろん立村に決まってるじゃないの! 昼行灯のくせに!」
「やめろよ、それは言い過ぎだろ」
貴史が割り込む前に別の男子が言い返した。
「お前ら前から立村のことばっかり文句言うけどなあ、そんな自分がご立派と思ってるのかよ。ブスのくせに! 少しは自覚しろ!」
──ああ、やべえ、それは禁句だぞ。女子に顔のこと言ったら最後、半殺しだぞ!
美里で学習済みの真理を教えてやりたいが間に合わない。あわてて割りこむしかない。これでも比較的貴史は女子受けよいほうなのだ。しかし話は激流状態。こうなったら堤防崩壊までいくしかない。
「ブス? 不細工のくせに、こっちがクラスのことを思って言ってあげてるのになによ! 顔のことなんて関係ないじゃない!」
「顔じゃねえよ、お前らなあ、一年の頃からほんっと立村のことばっかしつるし上げてだなあ、むかつくんだよ、弱い者いじめしまくるその態度がな。今までずっと我慢してたがな」
「八つ当たりするんじゃないよ!何様のつもり? 私たち、いつ立村をつるし上げたってのよ。理由がなくてそんなことするわけないじゃないの? 当然原因にはちゃんと理由があるってことよ。一年のことってもしかして杉浦さんのこと?」
「やめろよ、おい」
禁句だ。男子の間でも暗黙の了解で口にはしない、立村の過去を女子は平気な顔して引っ剥がそうとする。男子同士でももちろん軽いのりで叩くことがないわけではないが、立村に関しては決して触れてはならない一線と認識していた。だが女子にそれは通用しない。ただ激しく、ぶちぎれるだけだ。
立村の反応はない。ただ静かに話をしている者の方を交互に見つめている。
完全に貴史は蚊帳の外だった。女子たちが交互に口にするのは、立村へ向ける言葉の毒矢なり。それがどんな風につきささっているのか想像できない。貴史も、立村がいつも無表情で流す以上、さほど傷ついていないのだろうと推測するしかない。激しく荒れない限りは。
「加奈子ちゃんがさんざん立村に追い掛け回されて、ノイローゼになったんじゃないの! 可哀想に加奈子ちゃんずたずたになっちゃって、公立に転校する寸前まで追い詰められたんだよ!」
──うわ、完全に誤解のかたまりだこりゃ。
「それだけやってて、本当だったら立村の方が追っ払われるはずだったのにあんたら男子たちと清坂さんたちがやたらかばってて、それでなんのお礼も言わないわけ? それになんでいまだにあんた、評議委員でいられるわけ? なんで評議委員長なわけ?」
──おい、全くもって話がずれてるだろが!
「そうだよね、私も同じく。本当だったら評議だって別の男子に代わったっていいのに、みんな前例通りだからってことで決め付けてさ。なんか変だよね」
「そうそう、本条先輩に取り入ってるだけじゃないのさ。本条先輩がいなくなってその後光で褒めてもらってるだけなのにね。ったく最低。今度は羽飛にやっかんでるわけ? だからさんざん口出しするわけ?」
──百パーセント、立村のつるし上げのための時間じゃねえか。
男子連中も負けてはいないのだが、口を挟むにはあまりにもスピードが異なりすぎる。ふつうの再生ボタンを押しているにも関わらず、どでかいステレオが倍速タイプの再生を行っているかのようだった。美里相手でも似たような展開になることがないわけではないが、それでもまだ、四倍速になるような言い合いにはなったりしない。
「お前らの方こそばかすぎてしゃべるのもばっかばかしいぞ」
「ばかばかって何様のつもりよ。男子だからって威張るんじゃないよね。私らはただ、真実言ってるだけじゃないの。あんたらの方こそ、女々しいっていうんじゃないのさ!」
もういい、これはもう、公開処刑みたいなもんだ。
「双方、黙れ!」
貴史は強引に立村のまん前に立ちはだかった。奴の顔など見なかった。女子三分の一の顔だけを見据えた。ひとり、またひとり、みな顔を紅潮させ口を尖らせて文句を言い募っている。まだまだ頬袋には文句の種がどっさり詰まっているんだろう。よくわかる。ついでに美里とも修学旅行中いろいろトラブルのあった連中と聞いている。下手に男子として口を挟んだら美里との関係を邪推される可能性有りなので、今までは露骨に言い返すことはしてこなかった。しかし今回は、叩かれる相手が違う。一切言い換えそうとしない立村だ。立村は三年間、同じような場面でも一切反論したりしなかった。大抵貴史や美里、たまにこずえや南雲が割り込んで治めたはずだった。同じパターンならばそれでもいいだろう。
「お前らなあ、話、整理しろよ。今、お前ら言いたいのは男子リレーのアンカー勝負のことだろが! それは男子連中が決めることだぞ。ついでにいうなら、当事者の俺と南雲が白黒つければいいことだろが! おい、南雲の奴、なんて言ってたんだ?」
実は密かに気になっていたことだった。
男子のひとりが答えた。
「それ、いいんじゃねえのって」
「それだけかよ」
言い捨てた。同時にまた頭の別方向から煙が噴出しそうな気がした。振り返り、まずは立村に振り返った。貴史と目が合うと、すぐに逸らし俯いた。こうやって奴はいつも隠れやがる。
「立村、おい、なんか言うことないのか」
首を振る。言葉もないのかこいつはと言いたくなる。思わず足踏みした。
「こうやってるから女子になめられるんじゃねえか! ったくこの馬鹿が!」
悪いが、男子同士の会話とは言葉だけではない、こういうことだ。
周りが右足を一歩退いた。
貴史は、立村の頬を軽く叩いた。もちろん手加減はしたし、「ぶんなぐる」ほどではない。しかし、男子も女子も、その行為に言葉をみな飲み込んだ。
──ということで、こいつら、黙るだろ。
黙らせるには、一対一のぶつかり合いで打ち消すのが一番だ。口の達者な女子連中に対しい、男子同士の会話に割り込ませない方法といえば、これしかない。
立村は頬に手を当てるでもなく、黙ってそのまま俯いていた。何をやっても、伝わらないのもいつものことだった。
「貴史! あんた何考えてるのよったく! 先生来るよ。早く、座りなよ!」
確実に今の修羅場寸前な雰囲気を勘付いていたはずの美里が、教科書一式を抱えて呼びかけた。教卓に荷物を置いて自席についた。その荷物がえらく少なく見えた。後からこずえも飛び込んできて慌てて貴史の側へかけよってきた。
「羽飛、とにかく今から、菱本先生の特別授業始まり始まりだから、さっさと座ってな。ほら、みんなもさ」
怪訝な顔で女子たちが「どうしたのこずえ?」と呼びかける。美里とは相性最悪な女子三分の一たちも、なぜかこずえとはうまくやっているようだった。そのおこぼれで美里もうまく守られていることくらい、もちろん貴史は気付いていた。
「さっき、先生に文句言ったじゃん? そしたらさ、菱本先生が今日の歴史の授業をつぶして臨時のロングホームルームやるって言い出したんだよね。ほら、だから美里は今、年表のどでかいまきもの運んでこなかったじゃん? そういうことよね、先生本気よ」
「おいおいおいおい、お前もかよ古川」
責めたくなるのをあえて隠さず呼びかけると、へらっとして笑顔を向けてきた。
「だってさ、すっきりしないじゃん! 羽飛だって、南雲だって、私らだってそうだしさ、それに立村、あんたもだよ。ちょいと羽飛、そこどきな」
いきなり下半身のベルト付近、いわゆる急所近くをタッチする真似をする。実際真似だけで直接そうされたことはない。うまく逃れた。こずえはそのまま立村の机脇にしゃがみこみ、
「言いたいことあるんだったら、先生のまん前でとっとと言っちまいな」
それだけ囁き、さっさと席に戻っていった。あっけに取られた男子連中のひとりに、
「おい、羽飛、女王様にやられたか?」
にやにやしながら声をかけられた。斜めから観ると、もろ触られたように見えたのだろう。
「大丈夫大丈夫、俺の操は優ちゃんに捧げられてるのさ」
らしくもないきざな台詞でごまかして、貴史も立村を無視して背を向けた。
今のようなやり取りは決して、三年間珍しいものではなかった。
杉浦加奈子を巡る立村の執着心……そこからなる恋愛のややこしい展開……さらに言うならそれの半分以上が仕組まれたものであったこと……でもその真実を言えない理由があり、男子連中だけはそのことを理解し、水に流したということ。
女子たちには、美里とおそらくこずえを除いて真実を知らない。
いまだ、立村は杉浦加奈子に振られてしつこく付きまとった挙句、いやいや美里と付き合ったという展開に納まっているはずだ。その後立村の、評議委員長としての名誉も過去の汚点を押し流すには至っていない。
その他細かな、立村のしでかしたへまが積み重なり、ことあるごとに女子たちは嘲笑していたものだった。今のように人前で物笑いにするケースはさほどないが、陰口はさぞすさまじいことになっているだろう。貴史と美里が裏で懸命に手を回し、なんとか評議委員から落とされるような羽目にだけはなっていない。しかしいつも、綱渡りのクラス評議改選というのも事実だった。
──なんでお前、言い返せねえんだよ!
──過去は過去だろが。立村、俺はお前の隠したがってる過去をみんなお見通しだけどな、ぜーんぶ知っててこうやってるんだろが。ばっかじゃねえのかよ。
──違うなら、なぜ違うってかみつかねえんだよ!
立村はいつも黙ったまま俯いていた。
クラスの外で、評議委員長としてマイクの前で発言する時とは違う、幼い表情のままでいた。その顔を知っている三年D組のクラスメートたちはどこまで噂として流しているのだろうか。一番見下されている場が、一番学校内で長い時間過ごさねばならない教室だということを、立村はどう感じているのだろう。
──このまま、評議委員連中とだけつるんで逃げまくって、それでいいのかお前?
──しかもクラスでわけのわからないことばっかりしやがって! 株落として何が楽しいんだ?
──だから美里がいつも俺にぎゃあぎゃあ八つ当たりするんだろが!
「みんな、そろっとるな」
とぼけた声で菱本先生が、水色のシャツ姿で現れた。
最近、ファッションセンスが少々都会っぽくなってきたと、女子の間では噂になっているらしい。単純にTシャツやジャージよりも、襟のついた服を着るようになっただけなのに、ずいぶんネタにされやすいものだ。
「静かだな」
「嵐の前の静けさね」
こずえが茶々を入れた。またちらと、貴史の喉元にむずがゆいものが走ったような気がした。菱本先生は形の整った頭をかきながら教壇に昇り、次に教卓の教科書を裏返しにした。
「ということでだ。今日は臨時ホームルームだ。テーマはもちろん、男子リレーのアンカー勝負についてだ。わかるな、立村?」
俯いていた立村が、視線だけ鋭く菱本先生にぶつけているのを貴史は見た。
もちろん、言葉はなかった。