第一部 12
三年D組男子リレー、アンカーの座を争う四百メートル走勝負の前、貴史はめいっぱい柔軟運動を行ったし、エネルギーを蓄えるため母に頼んで焼肉ととんかつのセットを夜食に注文した。さらに一歩ライバルと差をつけるために、めったに読まない「保健体育実技教科書」なるものまでひっぱり出して読んだ。こんなの、悪いが入学してから五回くらいページをめくったことがあるかないかのどっちかだ。
──フォーム、フォームって言ってたな。
やたらと陸上部エースの近衛が、立村に対して褒めていた言葉が耳に残っている。
──長距離のフォームったらなんだ? あいつの走りっぷり、そんなにいいのか?
貴史には全くわからない。専門家がどういうかは知らないが、教科書を一ページ眺めただけで放り出した。こんなの無駄だ。やっぱり男は身体が勝負だ。筋肉勝負でいくしかない。
──頭なんか使ってる暇、ねえよ。だーれが南雲になんかまっけるもんか!
アンカー決定の勝負について、女子たちは三年D組以外の他の連中もかなり興味津々らしい。当事者である貴史にすら直接、見知らぬ女子から、
「羽飛先輩、アンカー勝負、がんばってくださいね! 応援してます!」
とか声かけられるし、二年の時一瞬だけ付き合ったことのある後輩からも、
「先輩が勝つって信じてます」
とか囁かれ、折鶴のようなものを手渡された。ほんとに一回デートしたっきりで実をいうと名前ももう覚えていないのだが、振ってしまったにも関わらず笑顔で接してくれるというのはなかなか嬉しいものだ。もしかしたらとてつもなくもったいないことをしてしまったのかも、とふと思う。
──まあいっか! 外野はどうでもいいがまずは勝負だ勝負!
体操着に急いで着がえ、短パンのはまり具合をゴムから何から確認する。ちょっとでもずれがあればやっぱりコンマ何秒かの差が出てしまう可能性がある。
あまり神経質なことを考える性格ではないのだが、やっぱりやるべきことはしっかりやりたい。うっかり手を抜いて足元すくわれたくはない。
さりげなく敵陣地の様子を横目で伺う。立村を相手に南雲が軽やかに笑っている。同じ体操着を身に付けているはずなのに、なぜあんなにぴっちりと納まりがよいのかが謎だった。髪型もいかにもといった風にあやつけている。ちらっと観たところ、整髪料らしきものを使ったてかりが目立つ。前髪も後ろ髪もご丁寧に巻いているところがいやらしい。
「りっちゃん、生徒会との話し合いはうまく言ってるの」
「ああ、少しずつだけど」
大勝負前なのだからもう少し気合の入った会話をしろと正直言いたくもなるのだが、規律委員長と評議委員長との対話でもあるのだからしょうがあるまい。
──立村の奴、結局あのわけわからない「大政奉還」の件、いいかげんあきらめたのか?
夏休み前の話題だし、一夏越えれば立村もそれなりに考え直すだろう。今のところ美里経由で新しい情報は入ってきていない。評議委員会がばたついているのは、C組の霧島ゆいにからむなんらかの事情くらいで、何事もなく学祭の準備が始まり、生徒会改選が行われ、最後に卒業式が待ち構えるという展開だろう。
──ま、俺には関係ねえよな。天羽たちがあとは片付けることだしな。
委員会のことばかりにかまけている立村たちの考えとは意を同じくできない。
貴史としたらやっぱり、熱血ティーチャー菱本先生を担ぎ上げた格好での大団円を期待しているし、そちらの方に立村も力を注ぐべきではないかと考えている。そのことについても時間を見つけて立村に談判したいところだった。
別に「この日はアンカー選考ですよ」なんてことは表立って言われているわけではない。
ただ、体育委員や先生たちからそれっぽい話を臭わされているだけのことだった。
しかも選考レースと呼ばれているにも関わらず、貴史と南雲とは同じグループで走らされるわけでもない。適当に並んだ順番で四人ずつ組ませ、タイムだけ計るといったなんとも言えない手抜きの選考に思えた。
「あーあ、まじかよ、がっつりかったるいよな」
整列している列の後ろで、南雲が東堂に話し掛けている。振り向く気もないが会話だけは聞こえてくる。
「じゃんけんで決めちまったっていいじゃん、なあ、東堂大先生?」
「けどそうは問屋がおろさないでしょうよ、南雲くん」
「熱く燃えるのはできれば本番だけで十分じゃん」
──お前、もう少し黙れよ。
こんな軽い奴に、負けてなるものか。本番だけ熱く燃えて満足できるようないいかげんな奴に、誰が、誰が。
もちろん体育委員がタイムウオッチをもって計測してはいるので、アクシデントさえなければ何事もなく冷酷な数字のもと結果が発表される。
南雲の出番は最終グループの前に、貴史と立村は最終グループだった。出席番号順でいくとどう考えても南雲との一騎打ちになるはずなのだが、あえてずらしたところに何かを感じる。全力で走るしかない。
「今回はなアンカー勝負がかかってるからな! 気を抜くなよ!」
小声で背中をぶち抜いてくれたのが体育の先生だが、
「先生、俺だけにやってるんじゃねえだろ」
「よく見てるなあ羽飛」
これじゃあ気合もするっと抜ける。
とはいえ、やはり目的が……最終的には本番での学年優勝……にセッティングされている以上、そうそう手抜きをする気も起こらない。むしろ、問題なのは隣の立村だ。大外から走る羽目になったのにも関わらず、ろくすっぽ柔軟運動もせずに校舎のほうばっかり眺めている。何か珍しいものでも飛んでいるのか、と眺めたが空が青くひん剥いているだけだった。
「UFOでも飛んでるのか?」
皮肉っぽく言ってやると怪訝そうな顔をしつつ、白線の前に立つ。
「いやなんとなく」
「手抜きするんじゃねえよ。ほら、女子も見てるだろ」
ちょうど南雲たちがグラウンド半周側のゴールにたどり着いたところだった。頭ひとつ抜けている印象はあり、遠めでも勝利したのは南雲だとわかる。さすがにこれは決まりきったことだろう。グラウンドの隅っこでハードルを跳んでいる女子たちの一部が嬌声を上げている。女子たちはタイムで決まることを知らず、とにかく一位で通過すれば無条件でアンカーなんだと思い込んでいるに違いない。
「南雲が勝ったな」
ひとこと、ぼそりと呟いている立村を小突いた。
「あのな、俺への嫌味かよ」
「そういうわけじゃないよ。タイムわからないし」
「俺がアンカーの座、死守するってこと、知っててかよお前」
「悪かった、俺の言い方がまずかった」
「なんで立村そういう卑屈な言い方するんだよ、だからむかつくっての!」
その後の返事を聞く前に、貴史たちの出番が来た。
──絶対、完璧なタイム、出してやる!
順番ではない、タイム勝負なのだ。思い知らせてやる。
スタートした後、全力で飛ばした。四百メートルという距離が中途半端なのだろうか。持久走のように溜めて溜めてそのあと飛ばすという駆け引きもない反面、百メートル走のように勢いだけで持っていけるというわけでもない。ぴんと張った糸をそのまま張りつめたまま、切らないようにつっぱしらねばならない。息の上がり方が半端じゃない。
かすかな歓声が聞こえた。女子の声ならこの瞬間ならばエネルギー変換すぐされる。
「はっとばー!」
喉がつまりそうな息苦しさと共に聞こえてきたのはやはりこずえの声。
「羽飛勝てる!」
「いけるいけるいける!」
「抜けー!そのままそのままそのまま!」
競走馬になり、馬券発売中といった風情のD組女子諸君。ハードルを生真面目に跳んでいる一部の女子を除き、みなかじりつくように応援してくれている。
はっとまた、内臓が逆流しそうな感じがする。喉もとが熱くなる。四百メートル全力疾走というのはいつもこうなりやすい。喉が締め付けられそうだ。隣に誰も負ってくる奴がいないのも承知していて、それでも一秒でも、コンマ一秒でも、文句言わせぬタイムを出す、そのことだけ空の真上に突き刺していた。
「たっかしー! 死ぬ気でいっちまえ!」
甲高い声が響いた。こずえの声ではなかった。自分の中には繋がらないその叫びだった。
──美里、か?
空にしっかり繋がった意識の糸が、振り子のように揺れ一気にゴールの白線へと追いやった、そんな感覚が背中に襲ってきた。誰かが押したわけではない。同時に倒れこんだ。勢いが強すぎて、頬を思い切り地べたに擦った。切り傷ができたことは確かだ。立ち上がれない。女子たちの悲鳴がかすかに聞こえる。右耳から金属音に似たものが響いて止まった。すぐに起こされた。立村だった。
「大丈夫か」
「ゴール、してたよな?」
すぐにしゃがみこみ頭をすぐに持ち上げてくれた。そんなことどうでもいい、タイムウオッチを握り締めたまま駆け寄ってきた体育委員にもう一言尋ねた。
「おい、俺のタイム、南雲に勝ってるか?」
「ごめん、今の勢いで止められなかった」
申し訳なさそうに、それでも顔をにやつかせながら答えた体育委員に貴史は足蹴を食らわせようとした。腰が落ちていてうまく動けない。
「止められなかったってどういうことだよ! おい、お前、今日アンカーがかかってたってこと承知してただろ! おい、何分だよ!」
「羽飛、よせ」
立ち上がろうとした貴史を立村が無理やり両肩を押さえつけた。
「お前が倒れたのを見てすぐに駆け寄ってきたんだ。そんなタイムなんて見ている暇ないに決まってるだろ」
「けどお前、今日はリレーのアンカーの」
「そんなのどうでもいいだろ!」
左肩を立村は強く握ってきた。痛かった。他の連中も不安そうに周りを固めている。元気なところを見せなくてはならないのだが、しかし、
「東堂、悪いけど、羽飛を保健室に連れていってくれないか」
「ああ、了解。ったくよりによってこんな結末かよなあ」
すぐに保健委員の東堂が顔を出し、貴史は強引に地べたから引き揚げられた。立村が手を軽く振り、背を向けたのを貴史はいらだたしく見送った。見損ねたのは南雲の面だけだった。
──なんだよ、よりによってタイム、とってねえのかよ!
お互い仲があまりよろしくないグループ同士ということもあって、東堂とは殆ど口を利かなかった。すぐに保健室へ押し込まれた後、さっさと戻っていった。南雲とのタイム差がどのくらいあるのかなんて計算しようもない。ただ、勢いだけは自分の方が上だったのでは、とも思う。軽く流しておく程度の南雲と……それでもあっさり勝ってしまうのは認めざるを得ない……しゃかりきに突っ走った貴史とを同等に扱ってほしくはない。
「羽飛くん、怪我の薬塗っとくから! ったく下手なこけかたしたよねえ。小さい傷でも黴菌入ったら大変なことになるからね。もう次の授業の準備もあるし、あんた、すぐに教室へ戻りなさいね」
かなり染みる赤チンを顔の傷に塗ってもらった。養護教師の都築先生がこまこま動きながら薬箱を開けている後ろ姿を眺めながら、
──ほんとにこの先生と更科付き合ってるのかな。
思わず腰から下へと目線を向けてしまった。噂だけだと凄いことになっているらしいが、まあ、ありえないだろう。いくら都築先生が若く美人とはいえ、自分らからすれば二十代というのは「おばさん」の領域に入る。やはり女子は自分より年下で可愛いのが一番だ。
「羽飛」
廊下から教室へ戻ろうとすると、立村が呼びかけてきた。もう身支度を整え、ネクタイを襟元で結び直している。俯いた顔をすぐにあげて、
「大丈夫か?」
「大丈夫なんかじゃねえよ! なんだよタイム計ってねえだと?」
立村に八つ当たりするのは意味がないと分かっていても、つい罵声浴びせたくなる。
「リレーのことだけど、やはり、今日はまだアンカー決めないことにしたよ」
「やはりってなんだ?」
タイムが出ていない以上、判断ができないというのだろう。予想できないわけではない。しかし次に飛び出した立村の台詞に貴史はあぶなく、正面頭突きをしでかしそうになった。
「俺が提案したんだけど、アンカー決めるの当日のコンディションで決めるってことでいいんじゃないかってことで、話がまとまっているんだ」
「おい!」
闘牛化した自分を押さえる間がない。思わずネクタイにかじりつきそうになる。すぐに闘牛士立村は交わす。
「南雲もそれで納得してたよ。無理にタイムだけで決めるより、その日一番身体の調子がよい人がアンカーになればいいじゃないかって」
「だけどなあ、練習はどうするんだ!」
「練習は、ふたりともアンカーのつもりでやれば、モチベーションも上がっていいんじゃないかな。へたに今の段階で決まったら、余計な外野の人たちがわいわい騒ぎ出す可能性あるしさ。羽飛も、集中できないだろ?」
顔色買えずに立村は、それだけ伝えて背を向けた。
体育着を脱いで通常の制服に着替えた立村には、貴史も言い返せないことが多々ある。
わけのわからない、有無を言わせぬ胆力のようなものが、奴には時々見られる瞬間がある。貴史からすればそういう部分をなぜ、リレーの際に利用しないのかが理解できなかった。
──あいつ、俺が保健室で赤チンぬったくられてる間に、そんなくだらんこと決めやがったのかよ!
球技大会当日まで、二分の一の確率で考えられた「南雲への敗北」に対する感情を感じずにすむのはよい。だが、もう一方の可能性「貴史の勝利およびアンカー決定」については当日にならない限り得ることはできない。
──ちくしょう! 立村の奴何考えてるんだ! それにあいつ、真面目に走ってたのかよ!
そういえば、立村は四人中何番目で入線したのだろう。
確認するのを忘れていた。
誰も立村を応援する声は飛ばなかったことだけ、記憶していた。
──美里ですらも。
頬の痛みに思わず傷を手の甲で抑えた。赤チンが少しだけついた。
──あいつもなあ、俺なんかに声かけるよか、立村だろ? 本当は!
──でなきゃ、俺だってこんなわけわからねえこけ方しねかったぞ。
──たっかしー! 死ぬ気でいっちまえ!
今まで青大附属の行事において、美里は貴史ひとりを意識して応援することがあまりなかった。いまさら応援したって効果なんかない、というのが言い分だった。それ以来貴史は「せめて立村くらいは応援しろよ」と言い聞かせておいた。美里にしては意外にも素直に受け入れ、交際前・交際後問わず立村をひいきするようにしていたはずだった。
──なんで俺の名前、呼ぶんだ? 美里? 血迷ったか?
なぜ訳のわからぬことやらかしたんだろう。