第一部 11
男子対抗リレーは男女問わずクラスの花形が揃うと呼ばれている、らしい。
──まあ、当然の選出だなあ。
などと貴史も脳天気に思ったりしているのだが、どうも声援の多くが南雲に流れているのがおもしろくない。特に女子が全学年からまんべんなく絶叫しつつ「南雲くーん!」などと甘ったるい声をあげているのは、はっきり言ってみっともない。
決して、貴史の応援がほとんどこずえのよく響くアルト「はーとばー!」に打ち消されてしまうからではない。南雲と層は違うにしても、それなりにもてるはずなのだ、自覚はある。
一週間前ともなると放課後みな、それぞれのクラスが居残って練習する姿が見受けられる。その一方で委員会に携わる連中はなんだかんだ言い訳しつつ途中で抜け出していく。特に評議と規律あたりはやたら忙しいらしい。本人たちが真面目にバトンパス練習をしているところを後輩たちが割り込むようにして連れ去っていく。
「悪いな、ちょいとやぶ用で」
貴史が気付かない間にまず、南雲が姿を消していた。
十月の学校祭もさることながら合わせて発行予定の「青大附中ファッションブック秋号」の準備とかで、執筆および撮影作業が大変なのだという。
文句を言われると勘付いたのかさっさと逃げたその姿よ天晴れだ。
残りは評議委員長殿の様子だが、やっぱり腕時計を睨みつつそわそわしているのが丸分かりだった。それでも貴史の目を気遣ってか、真面目にバトンの受け渡し練習を行っている。腰のあたりに手を置き、臨時コーチとなった近衛からバトンをばしりと渡されている。
「立村、練習してたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
実際は参加できないのにやたらと笑顔で熱心な近衛は、陸上部員の本領発揮でひとりひとり丁寧にアドバイスを行っている。去年こいつがひっぱっていた男子リレーチームの時はやたらとぴりぴりしていたというのに、チーム参加不参加となるとこうも違うのだろうか。立村も黙って素直に頷いている。近衛とのやり取りが耳に入ってくる。
「いやあ、けどさあ、夏前に比べるとお前、タイムがかなり縮まってねえ?」
「わからないけど」
「なんてっか、フォーム、誰かに教えてもらったりしたのか。こういっちゃなんだけどさ、立村一夏明けて別人みたくスピード出てるよな。今、タイム計りなおしたらとんでもない数字出るんじゃねえの?」
──近衛の奴、立村の走るフォームがどうたらこうたらって言うけどな、俺からみたら相変わらずどんくせえけどな。あいつの得意技は卓球だけだろが。
陸上部員の突っ込みを受け流しつつ、立村はまた時計を目に近づけた。
「ごめん、悪いけど、これから委員会があるんだ、終わってから間に合うようならまた練習に参加するけど」
「おい、そりゃあねえよ」
割り込んだのは貴史だった。必ずこう言うと思っていたのだ。チャンスを見つけて脱走しようと思っていたのだろう。練習が始まってからというもの、立村が走ることに喜びを見出しているとは言い難い。南雲のような忍者的脱出をしないだけまだいい方である。
「お前なあ、評議委員長だからって何もそうせかせかすることねえだろ? 天羽だって難波だって更科だって、それぞれのクラスで練習してるだろが」
「確かにそうだけど」
やたらと立村は語尾に「けど」を使う。
「お前がいねえったって、評議委員会は無事に運営されてるんだろ? そういうことだろ?」
「確かにそうだけどさ、でも」
口篭もる立村は、校舎を振り返りつつ、靴のつま先を細かく動かした。
「それなら、三十分くらいで戻ってくるならいいかな」
「何しに行くんだよ」
「取りに行きたいものがあるんだ。頼んでおいたもので」
「なんだそりゃ」
あれやこれや言い訳してなんとかして逃げ出そうとするその魂胆が許せないってものだ。
もちろん理由があれば聞かないわけではないけれども、立村のように普段クラスから距離を置いている奴を、そう簡単に手放すわけにはいかない。実際リレーの練習が始まってから、自然と男子連中も立村に対して一目置くような雰囲気が出来上がっている。それまでは、「一応評議委員長だけど、いろいろ面倒を見なくてはならない弟みたいな奴」という認識でしかなかったのだが、「あれ、結構立村ってば走れるじゃん」といったイメージが少しずつ広がって来ている。貴史の見る限り、女子たちの一部も、見直そうとする動きがあるらしい……と古川こずえは語っている。
──せっかくな、最後になってまっとうに評価されようとしてるんだからな。ここでもう少し男になれやって感じだよな。
滝壷に突き落とす親獅子の気持ちでもって、貴史は再度止めた。
「悪いが、行かせるわけにゃあ、いかねえよ。な、そうだろ?」
近衛が嬉々として頷いた。立村の肘をひっぱり、
「さ、練習練習。バトンはな、死んでも放すなよ」
いやいやバトン受け取りポーズに体勢を戻す立村に、太いバトンを叩くよう渡した。
まだアンカーは決まっていなかった。とにかく南雲がいないのだから、どちらがアンカーでテープを切るかについては先延ばしせざるを得ない。貴史からすると素直にもう一度走ってタイムを計り直した上での結果で決めろ、と言いたい。近衛ではないけれども、一夏明けてからどのくらい走力が高まったかを確認してからでもいいと思うのだ。
立村は第二走者に回した。どの場所に置いてもいいのだろうが、アンカーを任せられるほどではないというのが他のみなみなさまのご意見。貴史も異論はない。
「羽飛、もういいかな」
三十分くらいグラウンド周りをぐるぐる走り回った後、立村が根を上げたかのようにしゃがみこみ訴えた。
「三十分くらい、時間もらえると助かる」
「ふざけるんじゃねえよ!」
軟弱者と言いたい。貴史からしたらまだまだ練習したりないといっても過言じゃないのだが。これでもかなり手加減したつもりだ。前回優勝したベストメンバーで走れない分どうしても、立村に人一倍努力してもらわないというのに。
「お前さあ、ほんっとにしつこいようだけどな、やる気あるのか?」
「あるよ、だから」
「あるならそれなりに気合入れろよ!」
すごんでみる。もっとも立村に効果がないのは過去の経験上よく理解している。
でも言うしかないのだ。のれんに腕越しだとわかっていても。
立村はやっぱり困った風に唇を噛んでいる。尖らせないので子どもっぽくは見えないのだが、それで騙されたことが何度あることか。苦汁を飲まされたこと過去幾度となくある貴史は、手を抜かない。
「あのなあ、いつもいつもお前がぐだぐだやってるからな、面倒みる俺たちがほんっと迷惑してるんだぞ。少しは考えろよな! ほら、もう一周走るぞ!」
背中から思いっきり気合入れの手型をつけてやった。もちろんもみじマークが立村の背中に、ポロシャツごしにくっついているかどうかは定かではない。しかたなさそうにふらふら立ち上がった立村を引っ張ろうとした時、余計な奴の声がした。
「りっちゃーん!」
意識せずともわかる。奴だ。南雲だ。間違い無し。
わざわざ爽やかな笑顔を演出して走ってくるその姿、誰かに見せびらかすつもりなのだろうか。少なくとも、公式彼女とされている奈良岡彰子に向けてのものではないことを貴史は知っている。
「りっちゃん、さっきから桧山先生が探してたよ」
「ほんとか?」
息を切らしながら立村が問い返した。しっかり走っても全く呼吸が乱れない南雲の表情を、貴史は見て見ぬ振りした。悪いがファンクラブの女子連中と好みが全く違うのだ。
「俺もさっきまで規律の連中と話、詰めてたんだけどさ。桧山先生がりっちゃんに頼まれた英語の入試問題集とヒアリングテープを渡したいから職員室に来てくれって」
「ありがとう、今から行く」」
さっきまで死にそうな面してふらふらしていた立村がすっくと立ち上がり、膝のあたりを払う仕種をした。むかつくくらい丁寧に腕時計番を見つめた。
「もう、かなり時間、経ったよな」
「うん、三十分くらい」
「だよな」
立村はゆっくり貴史を見返した。前髪を手の甲でどかした。
「羽飛、本当に申し訳ない。今から桧山先生のところに用があるんだ。もう、いいだろ」
「いいだろって」
文句はたんまりある。腹が膨れるくらいにだ。余計なことを南雲が割り込みつつ言う。
「桧山先生もなんか、りっちゃんに急いで渡したいみたいだったよ。急いだほういいと思うなあ。今もそうとうりっちゃん、しごかれたあとみたいだし。けど、先生が帰っちゃう前にダッシュしたほういいと、俺は思うよ」
「あのなあ」
なんというのか、南雲には文句を言いたくてもどんどん交わされてしまうような手ごたえのなさを感じていらだつ。これが仮に一発命中させることができて泣くなりわめくなりしてもらえれば、貴史も二本足ふんばって勝負できるだろう。大抵の男子にはそうやって対峙してきた。青大附中に入学してきていろんな男子と話をしてきたが、南雲ほど捕らえどころのない、わけのわからない男はいなかった。
いや、厳密に言うと立村もそのひとりなのだが、それはまた別の問題だ。
「じゃ、あとはやっとくから、りっちゃん行っちゃえよ」
「ありがとう」
なぜ、南雲に対しては何度も「ありがとう」と礼を言うくせに貴史には謝ってばかりなのだろうか。どうもその差も面白くない。
「明日、来るだろうな!」
「うん、もちろん」
他のリレーメンバーにも片手を挙げて合図をし、立村は全力で校舎へと戻っていた。あのスピード見る限り、体力はもうグラウンド一周くらいしても十分なほど残っていたのではなかろうか。見ているとほんとむかつく。
しばらく気まずい夕暮れ間際の空気が漂った。もうそろそろ本来ならば切り上げねばならない時間という気もするが、貴史の見る限り他クラスの連中は誰も帰ろうとしていない。ということはまだまだ練習したって構わないということだろう。
「さあっさ、もう一丁行くぞ」
声をかけてみるが、今度は南雲が近衛に質問攻めに合っている様子である。
三年D組男子リレーチームにおいて主導権を握っているのが陸上部の近衛である以上逆らえないのが辛いところだ。たとえ出場しなくても、敬意を払わざるを得ない。つまり、近衛が話し終えるまで待たねばならない、そういうことだ。
「立村なんで呼ばれたの?」
「さあ、俺が桧山先生から聞いた限りだと」
知ったかぶりで南雲が説明を繰り返す。
「過去五年間の青大附高の問題集とヒアリング試験用のテープだって。りっちゃん、自分のために使いたいから貸してもらいにいったらしいよ」
──青大附高?
わけがわからない。靴の紐が緩んだのを直す振りして、下から聞く。
「なんでだろなあ。なんで青大附高の試験問題が必要なんだ? もっかい受けて入学し直そうなんて考えてるわけねえしなあ」
──当たり前だろが!
近衛のひょうたん顔で語るその口調もなんだかいらだたしい。南雲とセットというのが不快感倍増させる。さっさと夏か秋かはっきりしろと言いたくなる。
「英語だけだって言ってたよ。興味あるんじゃないのかな。だってりっちゃんさ、英語科進学を狙ってるしさ。あ、もう決まったようなもんか」
──分かりきったこと言うんじゃねえよ! 立村は英語科志望一本だってこと、うちのクラスの連中全員に知れ渡ってることだろうが。
まあ、落ちるとすればふだんの行いだろうが、菱本先生がいきなり立村を叩き落とすようなことはないと思われる。立村が嫌っていようが、熱血菱本先生にとってあいつは手のかかる可愛い生徒なのだ。
「なのに、なんで試験問題必要なんだろうなあ」
「りっちゃんなりに理由あるんだと思うよ。さ、うるさい奴がいるからさっさと俺、走ってくるわ。近衛、一緒に付き合うか?」
──ああ、うるさい奴だな、悪かったな!
貴史の存在を気付いているかいないかわからないようなそのあしらいに、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「南雲、なんだその言い草は! ちょっと来い!」
「悪いけど、俺もわずかながらトレーニングしなくてはならない身の上なんでね」
言葉を切り、わざとらしくゆるゆるランニングを続けながら近づいてきた。
「明日の体育の時間にさ、アンカーを決めるって話だし、ま、そのためにはひとつ努力せねばね。そんなにやきもち妬かなくてもいいじゃん!」
──てめえ!
振り上げたこぶしを下ろす間もなく、南雲はさっき校舎へ駆け抜けていった立村と同じくらいのスピードでグラウンドめがけて一周し始めた。またどこかの女子たちが、バレーボールの円陣から黄色い声を挙げている。三年C組あたりだろうか。顔しか見ようとしない女子どもには困ったものだと改めて思う。
「おい、近衛、アンカー決めるの明日かよ?」
「しかないじゃん」
のどかな声で、陸上部のエースはにやにや笑いつづけていた。
「冗談じゃねえ!」
──あいつにアンカー取られて、たまるかよ!
貴史は南雲と反対方向からグラウンド脇を一気にダッシュした。百メートルだけ全力疾走した。後ろの体育館出口から、
「はっとばー!」
とおなじみこずえの声が響き渡っていた。今の自分には残念ながらこれが現状だ。