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第四部 100

 家で手紙を書くのはなんだかめんどうくさかった。ふたり、どちらともなく駅前に出て、ハンバーガーショップに入りそこでもう少し相談することにした。

「おねえちゃんがしつこいからね」

「聡子姉ちゃんそういえばどうしてる」

 最近、美里からは聡子姉さんとの姉妹仲が悪化しているかどうか聞いていなかった。正月に顔を合わせたりくだらないネタ話はよくするけれども、大抵美里は間に挟まっていないことが多い。

「また新しい彼氏作って遊んでる。うちの父さん母さん気づいてないけど」

「なんでお前だけ知ってるんだよ」

「そりゃそうよ。毎日見てたらわかる」

 それ以上美里は口に出さず、途中買ってきた便箋を鞄から引っ張り出し貴史に一枚手渡した。

「はい、下書き」

「ほいな」

 やっぱり勢いで書くのは危険という判断だろう。宛先が立村なら至極当然だ。

「一気に書いてみて、それからにしようよ。お互い読み合わせたほうがいいかもしれないし」

「通信機密ってのはどうなるんだよ」

「知らないそんなの、さっさと書きなよ」

 面倒くさそうに美里はフライドポテトを一本ずつつまみながら、便箋に向かい勢いよく書き始めた。溢れんばかりなんだろう。言いたいことが。そりゃわかる。

 まだ春休み前の制服姿連中がたむろう店内で、ジュースと一緒にフライドポテトを一パックのみ……貴史が止めたのだ。あさっての卒業式で獅子頭役の美里を背負う貴史の立場をよく考えてダイエットに励めと説教済だ……注文し、頭を付き合わせている。おかっぱ髪の美里はそういえば青大附中に入学してからほとんど髪型を変えてないような気がして、改めて貴史はまじまじと美里を観察しのした。

 ──小学校のときは、やたらと手間かかる髪型してたもんなあ。

 貴史も白い便箋をじっと見つめて、何を書くべきか考えるつもりだった。

 なのに、気持ちが別の方にふらふら動く。ついフライドポテトに手が伸びる。美里に注意された。

「だめ! 私の分まで食べないで!」

「俺はお前を背負うのにエネルギーが人一倍必要なんだっつうの。早く書け!」


 ──美里の奴、まだ五年のあの事、引きずってたのかよ。

 気がついていないわけではなかった。

 何度かふたりきりの会話でその事が話題に上がることがなかったわけではない。もっと言うなら美里もある時期から自分で開き直ってクラスの前でしゃべってしまったこともある。女子にとってはもちろんこっ恥ずかしくて穴にでも入りたいことかもしれないが、貴史が男子のせいだろう、所詮最後はお笑いで終わると軽く見ていた。

 ──けど、もう四年も経ってるんだけどなあ。

 小学五年の秋のこと。美里はたまたまクラスの女子がトイレにまつわる大失敗をしでかしてしまい、懸命にかばおうとした。女子特有の面倒くさいことがいろいろ関係していたらしいが、悪意ではなかったと信じている。しかし、それが回りまわって他の女子たちとぶつかり合う羽目になり、せっかくかばってくれた藤野詩子の配慮も虚しく美里はとんでもない勝負事を敵方と約束してしまう。

 ──人前で粗相をしでかしてしまう前になぜ、トイレにダッシュしなかったのか? いくらでも選択肢があったはず。なのにしてしまうんだったらただ椅子に座ったまま誰かが世話してくれるのを待つのではなく、自分で片付けるべき。

 美里が言い募った結果、そんなこと机上の空論……当時はそんな言葉知らなかったが……と反論した女子グループに追い詰められ、美里は実際それができるかどうかを身でもって試すことを宣言した。すなわち、

 ──授業中小便たれてそのあと「私片付けます」とか先生に報告して、雑巾もってそのへん拭けってことだよな。

 もし、前もって貴史が聞いていたらどんなことがあっても美里を止めただろう。たぶんぶん殴るかなにかしたかもしれない。トイレに閉じ込めて一日出さなかったかもしれない。五年生のガキが考えるレベルだからろくでもない内容かもしれないが、少なくとも五時間目の授業中、スカートと椅子の下を水浸しにして顔を真っ赤にして泣きじゃくるようなはめにはならなかったはずだ。

 美里はそのあたり昔から、自分がなんでもできると勝手に思い込んでしまうところがあり、貴史はよくその後始末をさせられたものだった。当時の記憶を引っ張り出して思うのは、まず美里が最初にしでかした張本人だったとしても、理想とする行動ができたのかどうかと考えると百%無理、絶対その場で泣きじゃくっているという確信がある。

 ──美里がちびっちまった状態であのまま放っておいてたら。

 事が起きて美里が自分の作ってしまった水たまりにおののいていたのに気づいたのは、あの時貴史だけだった。あの時即、水をこぼしてごまかした貴史の技は我ながら賢いと思うし、あの一件だけでも今後美里からフライドポテトを一生分おごってもらっても不思議はない。実際は美里の泣き顔を見ただけでまあそれでいいやと納得したので要求はしていない。


 だが、美里にはいくつか話していないことがある。

 ──実は、あの時の美里のやっちまったことは、他の奴らや担任にもばれてたんだよな。

 表向きは貴史が担任の沢口先生にぶん殴られることでうやむやになったような形だけども、実際のところは、

「清坂が授業中トイレに行きたいと言い出せなくなって我慢できずもらした」

 という単純な結論に達してしまっていた。男子も女子もそれは同様だった。美里ひとりがごまかせたと思っていただけに過ぎない。だから貴史もすぐに男子連中を捕まえて箝口令を出したのと同時に、そのきっかけが実は別の要因だったのだという説明を行ったわけだ。実際美里は男子たちとうまく付き合っていたのでたまに喧嘩したとしても仲直りできるタイプだった。貴史の後ろ盾も効果があったのだろう、結局美里は卒業するまで、

「五時間め、図工の授業中におもらししたことは、ごまかせたはず」

 そう信じていたし、もっというなら今この瞬間もきっとそう思い込んでいるだろう。ばれたのは、自分がそれを、貴史の助言によりクラス全員の前で告白し、同時に別の問題を片付けようとした時が初めて、そう思っているはずだ。

 ──違うんだよ美里。足元に広がっていた水たまりは美里のたれた小便だったってことばれてるんだっての。お前ずっと自分が言わなければあんな辛い想いしなかったと思い込んでるかもしれねえけど、きっかけは違うんだって。

 決して、口に出したことのない真実だった。


 五年の秋に起きた女子同士のいざこざをめぐる問題は、表向き解決したかのように見えた。それぞれの価値感の違いで生まれたことだし誰を責めることもできない、これからは気をつけましょうという極めて優等生チックな結論に達した。

 だが、その後置かれた美里の立場は、確かに地獄だったろう。

 どちらにしてもやらかしてしまったことが、「トイレに行きたいと言えずにその場でもらした」ことには違いない。どういう理由であっても変わらない。小学五年にもなれば誰でも生理的要求や体調不良の報告はできるはず。それができなかったというのは非常に情けなくみっともないこと。美里の投げつけた言葉が跳ね返り、それまで美里を苦手としていた女子たちからの攻撃ポイントとなった。

 ──確かに自業自得だわなとは思うがな。

「清坂さんは、自分でできないくせに、つい失敗してしまった相手を責めるのが好き」

「実際は自己管理できなかったくせに。証拠はあれ」

「清坂さんがあの場でやっちゃったって、本人が認めてるんだから」

「頭はいいかもしれないけどおもらしするような赤ちゃん相手にしたってしょうがないよ」

 もちろん女子たちも高学年になると露骨に攻撃することはない。そのかわり陰でこそこそと噂話をふくらませる。聞こえよがしにささやく。男子たちが聞き耳立てているところでわざとらしくつぶやく。一方的にいじめられているのならば反撃しやすかったろうが、この件ばかりは美里の分が悪かった。結局、美里が選んだのは、家族から勧められていた青潟大学附属中学受験でもって逃げ出すことだった。成績が良かったからといえばそれまでだが、もし友だちにもう少し恵まれていたら絶対に公立中学へ進学していただろう。気がつけばこっそり塾に通い始め、必死に勉強し始めた美里の姿を貴史はどことなく遠く眺めていた。

 ──五年生にもなっておしっこたれた清坂さんというレッテルから逃げ出したかったんだ。


「あれ、貴史どうしたの、何考え込んでるのよ」

「まじで名文を研究してるんだ。黙って書いてろ」

 叱りつけて、目の前の便箋を何度もシャープの先でつつく。

 ──そういうことか!

 はっと、目の前の美里を見る。気づいていない。随分細かく手紙を書いている。もう三枚くらいめくっている。えらい長文だ。

 ──美里が立村に惚れたように見えたのはそれか!


 ずっと貴史は美里が立村にべた惚れだと信じきっていた。

 実際美里も一目惚れに近い行動をしていたから、本人もそうだろう。

 違う、答えはもっと深いところにあった。いや、貴史の目の前においてあった。

 ──美里も、立村も、同じ暗い過去があって逃げ出そうとしてただけなんだ。


 温風が吹き抜ける店内でなぜか寒気が走る。風邪なんかひいてない。

 美里がなぜ、自分を振った……と考えていいだろう……立村を今でも守ろうとするのか。家族だから、それだけじゃない。たったひとり、自分と同じ惨めな記憶をかかえてあがいているように見えたんじゃないだろうか。もちろん、惚れた晴れたの気持ちは嘘ではないにせよ、それ以上にみっともない自分を隠そうとしてあがいている立村を、自分がしてほしかったように手を差し伸べたかったんじゃないだろうか。

 ──美里は結果として、青大附中で大成功してるしな。

 評議としてきっちり結果も出している。なによりも中学二年の宿泊研修時に美里は五年のおもらし事件をバスの中ではっきりとクラスメートに告白している。あの時も別のいざこざが絡んでいたこともあるけれども、D組の連中は誰もそのことをネタにして美里をいじめたりはしなかった。さりげなく過ぎた出来事だけど、もしかしたら美里はあれで少しだけ救われていたのかもしれない。

 だが、立村は?

 立村は過去が暴露された時に失ったものが多すぎた。結果論にはなるけれど後期評議委員長の座も、生徒会長藤沖との良好な関係も、先輩後輩からの敬意も、その他貴史には見えないところできっといろいろなものをなくしたに違いない。そんなもの気にしなくても貴史は立村を迎える準備はある。だが、それを伝える術が今はない。

 ──美里は、本当は、助けてほしかったんだ。今自分が立村にやってるように。

 ──やらかしたことを笑って話せるようになれるように、手助けしてほしかったんだ。


「美里、俺なりに歴史に残る名文をこれから書く予定なんだがな」

「はいはい」

 美里に貴史は問いかけた。意地になってフライドポテトを半分消化している美里に、

「正直に言えよ。立村が別のあの、やたらと一部ばっかりでっかい女子と付き合ったとしても、まじで友だちでいられる自信、あるのかよ」

「なによいきなり。すっごい失礼な言い方だけどそれ杉本さんだよね」

「そうだ、それとだ」

 付け加えた。

「もし三人で奇跡的にもっかいしゃべりあえる機会を掴んだ時、お前『実はあ、私、五年の時、トイレいけなくてえ、おしっこもらしちゃったんですう』とか言えるか」

 瞬時に机の下から蹴りを入れられそうになったがもちろん交わした。慣れている。

「あんた、せっかくのフライドポテトがまずくなるようなこと言わないでよ」

「とっくに冷めてるから関係ねえよ。それよか俺の質問に答えろ。すっげえ重要なテーマなんだこれは」

 顔をしかめた美里は、ふっと片手を広げ、じっと見据えた。

「あんたの下手な鈴蘭優のモノマネなんか見たくないけど、聞きたいことって私がやっちゃった時の話を立村くんに平気な顔でできるかってことを知りたいんだよね」

「その通り。ほら、お前、二年の宿泊研修で杉浦が小便がまんできなくなっちまって悶えている時、自分がしでかした過去のことクラスの奴らにしゃべったことあるだろ。あとで杉浦をいじめねえようにってかばったことあるだろ。あんな風にもし、立村に話せるんだったらきっとあいつの気持ちも軽くなるんじゃねえかって思ったんだ」

「なんでよ、全然、話通じないんだけど。なんで私がそんなこと言わなくちゃなんないの! そんな恥も外聞もないこと言えるわけないってば!」

 切れることは予想済み。貴史は畳みかけた。

「違う、俺が言いたいのはマゾっけ出せってんじゃねえ。単純に、立村が今どん底にいるんだったら、美里だっておんなじ立場にいたし、現に今は平気でつらっと言えるだろ? 十分立ち直ってるだろ? 小学校の時は逃げるしかねかったけど、今は言い返せるってな。言ってただろ自分で。それに、あいつがどんなへまやらかしたって俺たちは待ってるし、今じゃなくたってその後でも、またって」

 美里はうつむいたまま、すでに書いた五枚の便箋をじっと見つめていた。丸っこい字で可愛らしく、立村への想いを綴っているかのようだ。貴史がさらに言葉を継ごうとした時、

「そんなんじゃない!」

 小声ではっきりとつぶやいた。

「貴史、あんた気づいてないよ。立ち直ってなんかない」

「だってなあお前、宿泊研修のバスの中で」

 もう一度説明を繰り返そうとするのを美里は激しく首を振り遮った。書いた五枚の便箋を丸めて玉にした。でかかった。

「貴史、あんた私があのバスの中で、なんであんなことしゃべったかわかる?」

「だからなあ、杉浦がやっちまった時のための保険だろ」

 それしか考えられない。それ以外の発想なんてありえない。美里はまた首を弱く振った。

「私と、加奈子ちゃんがあの時どんな関係だったか、わかって言ってるよね」

「まあ最悪ではあったよな。けどやっぱ評議だし義務果たそうとしただろ」

「違うんだってば! 貴史、あんた、ずっと私に騙されてたの!」

 小声で、でも聞き取れる声で。幸い店内のBGMはロックががんがんかかっているせいか他人に聞かれずにすみそうだ。

「騙すったってそんなマジックみたいなことできるかよ」

「ちゃかさないで! 私、そんな性格良くない、絶対良くないもん!」

「美里、おい」

 息もつかせず、声を低めたまま、美里は丸めた便箋をぎゅうと両手で握り締めた。身体を震わせている。

「私、あの時ね、加奈子ちゃんを助けたいなんてこれっぽっちも思ってなかったの。私、私」

「けど結果的には」

「違うってば! 私、本当は加奈子ちゃんをあのバスの中で」

 震えが止まらない美里に、貴史は手を伸ばしかけた。美里が振り払った。

「じゃあっと、させたかったの。五年の時の私みたいに」


 ──はあ? 美里、それ嘘だろ? てか、物理的にどうつながるんだ? わっけわからねえ。

 とんでもない告白に、貴史の手が止まった。まだ身体を震わせえいる美里に、貴史はもう一度問いかけた。

「杉浦に小便たれさせたかったって、けど美里のやってたことはどう考えても杉浦かばってることだぞ。あんな真っ黒い過去をだぞ、俺を含む男子の前で言っちまうってのは」

「そうだよね、貴史も他の子もみんな私がかばったって思ってるよね」

 美里はうつむいまま言葉を続けた。ぽたり、ぽたりと何も書かれていない便箋の上に雫が落ちている。

「そう見えること、計算してたんだもん。当然だよ。私、トイレ行きたい時にトイレの話されたり、トイレ行きたいってこと男子に知られたりしたら、きっとあせってやっちゃうんじゃないかってなんとなく思ってた。加奈子ちゃんがピンチだって聞いた時、評議私だけだったし、なんとかしなくちゃって思ったよ。けどあれがこずえとか別の子だったら私あんなこと絶対言わないで、こっそり励ますとかしてた。がまんしてるところばらすなんて絶対に、しなかった」

「美里、お前」

 言葉が続かない。美里の口走る内容は、貴史の想像範疇をはるかに超えていた。すすり泣きながら、それでも美里は告白を続ける。

「一年の時立村くんの裏・班ノートのことで加奈子ちゃんと喧嘩になっちゃって、その後あまりにもひどいやり方で立村くんが誤解されちゃって、でもちゃんと反撃できてなくって、あの時の私、悔しかったんだ。立村くんが女子に嫌われて辛い思いひとりでしてるのに、加奈子ちゃんひとりがのうのうとしてて、いつか絶対やり返すって決めてた。あんなやり方じゃなくって、だけど」

 忘れかけてた「裏・班ノート」を思い出す。すべてはあれが発端だった。

「だから、あの時、加奈子ちゃんがじたばたしてた時、私、本音言っちゃうとざまみろって思った。がまんする仕草とか見てて、本当にぎりぎり切羽詰まってるってことがわかったから、ほんとは評議として助けなくちゃいけないってのはわかっていても」

 美里は喉を詰まらせつつ、うつむいたまま語り続けた。

「もしあのバスの中で、加奈子ちゃんがおもらししちゃったら、立村くんの決闘の過去なんて関係ないくらいに噂になっちゃうよね? そりゃ、評議だから絶対誰にも言わないでって口先では言ってたと思うけど、この前のロングホームルームの時みたいに必ず誰かから他のクラスにばれるよ。ばれたら私がおもらししちゃった時以上に、『あの子中学二年なのにバスに乗る前にトイレ行くの忘れててその場でやっちゃったんだよ。常識ないよね』って馬鹿にされちゃうよね、きっと、五年生なんてまだまだ子どもだよ、中学生だよって、きっと」

 ──そういうもんか?

 貴史はただ黙って聞いた。

「けど、結局、加奈子ちゃんは女子のみんなが守ってくれた。そりゃ、ちょっと、あの場所でいろいろしたから恥ずかしいこともあったと思うけど、男子たちも加奈子ちゃんをそのことでいじめたりはしなかったよね。立村くんや、私みたいに、惨めな思いをして、笑われたり嫌われたりなんか、しなかったよね?」

「美里、それは」

「私、最低。加奈子ちゃん、今だに私があの時助けようとしてたってこと、疑ってないの。おもらししないですんだのは私のおかげだって、真顔で言うの。とんでもない大嘘なのに、私、今でも加奈子ちゃんに嫌われないですんでるの。小学校の時みたいに実はそうでしたって告白すればよかったかな、でもそんな勇気なんてない。私、下衆もいいとこだよ。嫌われて当然こんな私!」

 丸めた紙を握り締めたまま、美里はうつむき顔を覆った。声を殺して泣いていた。 


 ──そういうことだったんだ。

 不意に浮かんだ、五時間目と六時間目を使い立村の今後について熱く語ったロングホームルームの光景。あの時、杉浦加奈子のいじめ問題を議論しつつ、当の杉浦に意見を求めた時、

 ──二年の、宿泊研修の時、私がバスの中で大変なことになった時、清坂さん、一生懸命私のこと、助けようとしてくれたんだもの。私のことなんか無視したってよかったのに、私のことかばってくれて、あんなことまでしてくれて。嫌いな子にもやさしくしようとしてくれる清坂さんのこと、私絶対に、絶対に、嫌いになんてなれないもの、

 泣きながら訴えていた。その時なんとなく美里の対応が不自然だったような覚えがあり、貴史も少し疑問を感じていた。どう考えても杉浦加奈子に問題があり、美里は立村をかばう上で勝利者であるべきだった。当然もっと責め立ててもよかったはずだ。それがためらうことなく杉浦の傍に寄り、手を握りしめて何度も頭を下げていた。なぜなのか、ずっと心にひっかかっていたが、今の言葉通りであればすべてパズルピースがはまる。

 ──だから美里はあんなに必死に、杉浦に謝ってたんだ。自分が本当は杉浦に大恥かかせようと思ってたってことわかってたから、そのことを目に見えない形で必死に頭下げたんだ。美里は、ずっと、あのことを。

 美里にとって五年の出来事は、終わっていなかったこと。今知った。

 ──終わらせてやりたい。

 今だけは立村への手紙など後回しでよかった。ただ、美里だけに触れたかった。

 

 貴史は手を伸ばした。美里の頭に手をやった。本能だった。ふっと真っ赤に頬を染めた美里が顔を上げた。涙で頬はぐっしょり濡れていた。

「もういいだろ。お前とっくに杉浦にあやまっただろ」

「そんなことない、だって事実知らないんだよ」

「馬鹿、知ってどうするよ」

 今、美里が欲しがっている言葉だけはわかる。それが物心ついた時から傍にいた貴史の特権。

「お前がどう思ってようが外野から見たら美里は十分杉浦かばってるし恥もかかせなかった。他のクラスにばれていじめネタにもならなかったし、杉浦もめちゃ感謝してる。気持ちどろどろの状態でそこまでできたのは、美里が五年のじゃー事件でめげなかったからだろ。もし俺ならできねえなあ。絶対、バスの中大洪水にさせちまってる」

「貴史、私、そんな」

「よくがんばったな、美里」

 貴史は何度も美里の頭をさすってやった。


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