第一部 10
夏休みが終わってからしばらく経ち、いよいよ球技大会の準備が始まった。
「ってことでだ、今年の球技大会だがかなり方向性が変わってだな」
三年D組の教壇に立ち、菱本先生が残暑の重い空気を背負いつつ語り始めた。
「原点に立ちかわり、これからはきっちりと集団競技を大切にしていこうと考えているわけなんだ。わかるな、それは」
「先生、なんっすかそれ」
クラスメートの南雲がまぜっかえすように声をかけた。
「もっとわかりやすく言ってくんさい」
こういう場で話が盛り上がるよう、合いの手を入れるのが青潟大学附属中学流だ。
他クラスだとこういう役割は評議委員らしいのだが、我がクラスの評議委員かつ評議委員長でもある立村上総にそれは求められない。興味なさそうに頬杖ついてそっぽ向いている。
「南雲、去年の男子リレーでの活躍ぶりはまぶしかったぞ」
「先生の髪の毛はまだまぶしくねえんでその点ご理解を」
──け、どこが面白いんだ。
受けている男子女子連中の顔を、貴史はうんざりと見返した。
菱本先生が言いたいことなんて、何も「わかりやすく」しなくたって十分通じるだろうに。
「つまり、先生さ、こういうことだろが」
貴史は手を挙げるのも省略し、立ち上がって説明してやった。
「今回の球技大会では個人競技を全部なくすることにしたんだろ」
ついでに立村にも視線を投げた。菱本先生も単純なのか、あっさり釣られてそこに目をやった。誰もが立村を見やる。
「ってことで、立村、お前何に出るの」
全員爆笑一色に見えたが、美里と立村本人だけはむっすりと黙っていた。
──一応彼女の立場としちゃあ、笑えねえべな。
「足手まといにならないところに出るよ」
不機嫌露わに、立村は貴史に答えた。機嫌は悪そうだが、頭にはきてないようすだ。奴なりに覚悟は決めていたのだろう。菱本先生はあっさり頷いた。
「そうか、立村もそのあたりは理解してくれていたか」
「ないものはしかたないのでしょうがありません」
貴史は席につき、まず菱本先生の顔を覗き込んだ。南雲がまた口をひらきたそうな顔をしているのがむしょうに腹立つ。続けてやった。
「で、出場種目はあれだろ。男子リレー、女子リレー、バスケ、バレー、ソフト、バレー。これだけありゃあいくらでももぐりこめるだろ」
リレーがはたして球技大会にふさわしいのかという疑問を突っ込む気なんて誰もない。
──卓球がなくなったのは、まあ、立村にとっちゃ、痛いわな。
「そうだな、で、もうひとつ問題があるんだが」
「なんすかそれ」
うるさい、どっかの高級犬みたいな髪をしゃらしゃらさせながら、南雲が割り込んだ。
「実はだな、この時期、中体連の陸上大会が迫っているんだ。どういうことか、わかるな」
説明されなくてはそんなのわかるわけがない。
六時間目のロングホームルーム、今回は球技大会における出場メンバーをそれぞれ振りわけるためのものだった。本来なら体育委員がすべて担当すべきところなのだが、熱血教師の菱本先生がどうしても体育大会関連にはこだわりたいらしく、しかたなく権限を譲っている状態だった。
前々から今年の球技大会に関しては、いろいろと新しい試みがなされるのではと噂されていた。そのひとつが今、菱本先生の発した「個人競技の撤廃」だった。
いや、単純に言ってしまえば「バトミントン、テニス、砲丸投げ、および卓球を競技種目の中からはずす」ことにつきる。この四種目に関してはは個人の要素が強すぎるためにクラス一丸になりづらいとの判断から、教師主導で除外決定されたとのことだった。
卓球を自分の指定席に定めていた立村にとって、これはかなり衝撃だったはずだ。
噂そのものは早い段階で耳にしていただろうし、ここで「なんでですか!」と怒鳴らなかったところ見ると立村も覚悟はしていたに違いない。男子バレーだろうが男子バスケだろうがいくらでも行く種目はあるはずだ。卓球に関しては無敵と言われていて、過去二回の球技大会ではすべて決勝まで残っていた。その決勝試合だって力不足で負けたというよりは、いつまでたっても試合が決着つかないのでわざと手を抜いて終わらせたという雰囲気漂うものだった。卓球部員から何度も部活へ入ることを勧められたが、立村がそれを受け入れるわけもなく今日に至る。
とりたてて目立つわけではないにしても、それなりに運動もこなせるし、さほど他の奴の足をひっぱるとも思えない。立村が普通に行動していれば、別に何も困ることはないだろう。
「今回、めでたいことに我がクラスの陸上部スター、ミスター近衛が選抜出場することになったわけなんだが」
菱本先生は近衛に手をひらひらさせ、立ち上がるよう指示した。
背の高い近衛がへらへらしながら立ち上がり、一礼した。
「この日がなんと、球技大会の真っ只中なんだな、そうだな、近衛」
「はい、すんません」
さすがにこの瞬間はみな、非難の溜息で溢れてしまった。それはそうだろう。去年の男子クラス対抗リレーにおいて、ナンバーワンヒーローは貴史でも南雲でもなく、陸上部在籍の近衛だった。もともと目立つ性格ではないのと、部活動を軽んじられる校風ゆえに高い評価はされていなかった。さらにこれまでは目立った大会での活躍も耳にしてはいなかった。
それが、何かの拍子で、青潟市内の大きな大会に出場できるだけの力を蓄えていたことが判明し、急遽参加が決定したという。
本来ならば拍手喝采のはずなのだ。
クラス対抗なんていうけち臭いレベルの話じゃないのだから。
だが、しかし。
「近衛がいねえとどうするんだよ、今年のリレーはよ!」
誰かが呟く。律儀に近衛が頭を下げる。
「すまん、俺もまさか、出られると思ってなかったんだ」
「めでてえことだとは思うけどさ」
「そうだよ、素直に喜べばいいじゃない!」
美里が甲高い声で叫んでいる。何もこんなところでいい子ぶらないでもいいだろうにとも思うのだが、誰かが言ってやらないとまずいだろう。貴史も同調した。
「んだんだ、そうだろ、まずは近衛に拍手しろって」
貴史は立ち上がりまず、近衛に近づいた。場の状況をこいつは把握していないようで、なんで喜んでもらえてないのかその理由がわからないらしい。
「いやーすげえぞ近衛! お前さ、選抜に選ばれたってことはさ、お前がずーっとがんばってグラウンド何十周もしてきたことが認められたってことだろ? いやーすげえよ。男子リレーの貴重な戦力が失われちまうのは痛いけどな、こりゃあもう、俺たち拍手で送りだすっきゃあねえよ。いいか近衛、死ぬ気でいい成績出してこいよ! でねかったら俺たち、泣くにも泣けねえぞ、いいな、三Dの涙を背負って勝負して来い!」
「羽飛、お前、本当にいい奴だなあ」
面長のスポーツ刈り頭、がりがりかきながら近衛はあっけらかんと笑顔を見せた。
こいつ、全く、その後の修羅場がどうなるかを予想していないようだ。
幸いクラスの雰囲気は拍手喝采で、なんとか片がついた。菱本先生と視線を合わせて、何度か頷いておいた。こうでもしなくちゃ、これからの展開が危険すぎる。
近衛が笑顔のまま席につき、お祝いムードがうまく教室内に広がったのを見計らい、菱本先生は話を再開した。
「近衛の選抜出場はめでたいんだが、羽飛がいみじくも今語ってくれたようにだ。今回一番のピンチは男子リレーの代表選びなんだな。そうだろ、羽飛」
「そうそう」
「リレーに出場する選手は希望者ではなく、毎年恒例の陸上クラス内順位をタイムで計って選出することになっている。で、去年は近衛、羽飛、南雲、豊城、須坂の五名で構成されたんだが、今年は頭が抜けてしまった。もちろん近衛には別の舞台で全力投球してもらいたいので拍手で送り出すつもりだが、さて、こちらはどうすればいいものやらってことなんだ」
「簡単でしょが、タイムで選べばいいじゃん」
古川こずえが茶々を入れた。
「近衛を抜かした上位五名で決まりじゃん」
「となるとだ」
──古川はわかってて言ってるのかよ。おい。
──美里も何も教えてねえのかよ。
どうもこずえの言動がきりきりいらだつ。夏休み以降こずえの言葉にどうも嫌悪じみたものを感じてしまい、面倒なので距離を置いていたりもしたのだが。裏を読んでしまいたくなるのはその後遺症なのだろうか。
「そうだな、タイムで選ぶと、だ」
菱本先生はじろりと立村に、もう一度目線をやった。
背中から溢れるのはだらだらした汗なのかそれとも熱気なのか。
どちらにしても立村が嫌がるエネルギーに違いない。
「どう計算しても、タイム上男子の繰り上げ五位は立村になるんだな」
初めて立村が菱本先生の方へ向き直った。
──あーあ、先生言っちまったよ。
後ろの席でこずえが美里に向かってなにやら指を当てて合図している。それを無視している様子の美里。そして立村は黙ったまま冷たい視線をぶつけていた。
「ちょうどいいだろう。今回は残念ながらお前の得意分野もないしな。もともと個人競技の卓球がなんで種目の中に加えられていたのかが俺も不思議でしょうがなかったんだ。卓球部員を救済するためといえば聞こえがいいが、部員でもない立村がそこで何かプラスになるわけでもないということだし、むしろ集団でしっかり動くコツを覚える意味で、いいんじゃないか? だろう?」
立村は答えなかった。すぐに目を逸らして頬杖をつきなおした。ふてくされている、とも言う。
「だがそうなるとだ。これから男子リレーチームとしてはとことん練習をしなおさねばならないのも事実だな。そうだろ、羽飛?」
全くもってその通りだ。
貴史が一番この件で頭を痛めていたのはそこだ。
「うん、そうだよ、先生」
わざとらしく溜息を吐いてやる。立村にも聞こえるように。
「立村、そういうことだったらとことん、お前のこと、しごくからな! 人並み以上に努力しねえと、絶対去年みたいに総合優勝なんて狙えねえからな!」
笑い声、いっぱい。
刺もちくちく。
立村がそっぽ向いたまま、聞き流そうとしているのが見え見えだ。
「立村、どうした。羽飛にしごかれるなら本望だろ? 今までお前はいつも六位で、惜しいところでリレー選手に入れなかったわけだが、卒業間際にしてやっとスターになれたじゃないか。だろ、南雲? お前も今回しっかりリレーチームの一員だが」
ちゃらちゃら男の南雲が、軽い声で答える。
「ああ、俺いいっすよ。りっちゃん結構足速いし。気にしちゃあいませんぜ。むしろ、心配なのはですねえ、まあ、いっか。悪いこと言ったってしょうがねえし」
いかにも立村をおだてているようなその口調だが、どことなく南雲もこのメンバーでリレー勝負を行うには不安を感じているような気がしなくもない。
──どっちにしろだ。これから俺、どうあいつの尻ひっぱたいていけばいいかってことだよな。ったく、面倒ったらねえよ。こうなったら立村がどんなに「評議委員会があるから」とかなんとか言って練習さぼろうとした時に、怒鳴ってやらねばならないだろが。ったくなあ、ただでさえ南雲とぎゃあぎゃあやりあうのも面倒だってのにな。
リレー、とっくに選手決定の貴史にとって、この件は非常に重たいものだった。
三年同じクラスだと生徒それぞれの種目は自然と決まっていて、昨年通りパズルのように埋め込んでいけばうまく収まるしくみが備わっていた。他のクラスだってそうだろう。たまたま近衛が出場できなくなったとイレギュラーな自体が起きなければ特に問題はなかっただろう。立村だって、風前の灯火状態だった卓球種目がなくなったことを素直に諦め、男子バレーかバスケにもぐりこめただろう。それはいい。
貴史がいらだっているのはその点だけではなかった。
ロングホームルームが一段落し、帰りの会をその流れのまま終わらせた後、貴史は立村の席に駆け寄った。他にも何名か男子連中が立村の側にいる。男子がかたまっているとさすがに彼女たる美里は近づけないらしく、こずえと一緒になにやらひそひそ話をしている。
「立村、どうする? お前本当にリレーに選ばれちまっていいわけ?」
「断っちまえよ。冗談じゃねえって。タイムだけだったら別の奴に譲るとかさあ」
なんだか雰囲気としては、立村を下ろしたいという男子連中の本音がうかがえるものだった。予想外の展開であることは明らかだ。
立村がタイム上万年六位に位置していることは承知していた。
だからいつも、リレー選手に選ばれずにすんでいたということも。
奴の性格上、あまり拘りもなかっただろう。
卓球さえ種目に残っていれば、何も問題はなかったはずなのだ。
「断りたいけどさ」
小声で呟く立村の声が聞こえる。
「その方法が見つからないんだ」
表情は俯き加減で読み取れない。まだ夏服のまま、半そでシャツから出た腕は白すぎた。
夏の陽射しで焼いた名残は全く残っていなかった。
「へえ、お前、断る気でいるわけかよ」
「羽飛」
立村は静かに顔を上げた。貴史の言葉を予想していたかのようだった。
「断るったって断れない。タイムがすべてだし」
「ああそうだなあ。そんくらいは承知してたか」
席の後ろに回り、両手を肩にかけた。
「じゃあ、菱本さんの言う通り、男子リレーに参加する意思は、あるんだよな」
「しかたないし」
「しかたねえじゃあねえだろ!」
背後で「よっ、鬼コーチ!」なる掛け声が飛ぶ。古川こずえの声だった。知ったことか。貴史は立村の左脇にしゃがみこみ、下から覗き込んだ。全くもって夏を越えたとは思えない焼けていない顔が側にあった。
「いいか立村、去年優勝したから言うわけじゃあねえが、少なくとも無様な試合はできねえってこと、承知してるよな」
「去年は羽飛たちががんばったからだろ」
その通りだ。だがその他人事な言い草はないだろう。
「ああ、俺は命賭けて走ったからな。それに鬼のようにそりゃ練習したからな。休み時間、放課後、とにかくどっかの部活と同じくらい走ったぞ。バトンパスの練習だってしたぞ。おかげで二学期の中間テスト、ぼろぼろだ」
言い訳にはならないが、言っておく。
「お前はあん時、評議の学祭がどうとか、ビデオ演劇がどうとか、本条先輩のパシリだとかでクラスには殆ど顔ださねかったけどな。今回に限ってはそれ、許さねえぞ!」
「許すもなにも」
言いかける立村にさらに噛み付いてやる。
「いいか立村、俺は最初から勝つことだけ考えてるんだ。それをお前のようにいいかげんに流すってことは最初っから問題外なんだ。いいな。お前がリレーに出るんだったらそれは大歓迎だ。けど、練習休むなよ。さぼんなよ。評議委員長だからってそっちばっかりにかまけるんじゃねえぞ。とにかく、リレーのことだけ、考えろよ!」
ここまで怒鳴っておかねばならない理由とは。
──立村の奴、また評議委員会に逃げ込むかもしれねえし。
想像はついた。ただでさえ委員会活動があわただしくなる時期、どうしてもクラスの行事が後回しになることはしかたないといえば、しかたない。しかし、だからといってクラスをさておいて適当にリレーバトンパスを行い、はい、終わりというのだけは許したくない。
立村が今、評議委員長としてトップに立っているというのはよくわかる。
一人を好む性格柄卓球のようにひとりで完結することのできる競技を好むのも、三年近く付き合ってくれば理解もできる。
しかし、男子クラスリレーだけは別だ。
どんなことがあったとしても、クラス一丸で勝負する場面を、担任が嫌いだとか評議の仕事が忙しいとかいう身勝手な理由で放りだしてほしくはない。今までそうだったから尚のこと、最後の一年だけは決して立村にそうさせたくなかった。
「わかったな、立村。死ぬ気でやれよ!」
頷くのを待たず、貴史は座ったままの立村の肩をたたき、立ち上がった。
正面の窓辺には南雲が、茶色っぽい犬風の髪を揺らしながらにやけていた。
何をまた、ガンつけてくるんだか。
──どっちにしろあいつも今回また一緒に組まねばならねえんだな。
普段むかつく奴でも、チームメイトとしては別だ。うまくやらねばなるまい。
「羽飛」
小声で立村が貴史に呼びかけた。気がつかず、側の誰かから「立村が呼んでる」と声をかけられた。
「なんだ」
「ベストは尽くす。足は引っ張らないようにする。ただ」
「ただなんだよ」
「うまくいかなかったら、ごめん」
かすかに頬が緩んでいる風に見えた。どことなくばかにしたようにも思えた。
「何だよ、最初から負け戦かよ!」
「違う」
立村は首を振った。
「覚悟はしてた。だから、準備してるから」
──準備、してる?
問い返す前に立村は鞄に手をかけ立ち上がった。
「今日これから評議があるから、また後で」
「おい、待てよ、逃げるなよ!」
貴史が呼び止めようとしたが、立村は振り向きもせずすたすた扉を開けて出ていってしまった。後を追おうとしたら美里に止められた。いつのまにか腕をひっぱられていた。
「貴史貴史、悪いけど、ほんっとうに今日は、評議委員会で大問題発生してるから行かせてあげてよ」
「なんだよそれ、大問題って」
耳に小声で美里は囁いた。周囲に聞こえないようにせざるを得ない内容だった。
「ゆいちゃんの進学のことで、ちょっと大変なことになってきたの」
「はあ?」
C組評議の霧島ゆいのことになにかかかわりがあるのだろうか。美里はそれ以上何も言わず、素早く立村を追っかけていった。
詳しい事情を聞くには、残された古川こずえを捕まえるのがベストだろうが、その気も起きず貴史は、すみっこでへらへらしている問題の張本人・近衛に話し掛けた。
「お前ひとりがいねえせえでこうなっちまうとはなあ。ほんと偉大だよ。近衛、お前のその俊足がなあ」
「大丈夫大丈夫」
何でもない顔している近衛は、すっとぼけたままさらっと答えた。
「なんかさあ、立村、三年に入ってから陸上のトレーニングしてるなって感じがするんだよ。走るフォームとか、いかにも陸上やってる奴っぽい感じになってるなって思ってさ。大丈夫大丈夫、アンカーに回さねばそれでいけるよ」
「どこがだあ?」
陸上部選抜出場の近衛の言うことには何か意味があるんだろうが、貴史には皆目見当がつかなかった。ま、アンカー争いは南雲との一騎打ちになるだろう。そちら譲る気は貴史もない。