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第一部 1

「寒明け前」の別視点作品となります。

「姉ちゃん、生理の時ってそんなにいらつくもんか?」

「はあ? あのねえ貴史、何あんたスケベなこと考えてるの? そういうことをさ、いくら姉ちゃんでも聞くのはどうかと思うよ」

 三歳上の姉は、ぶん殴るでもなくあっさりとたずねてきた。どうやら感性としては古川こずえに近いあけっぴろげ感覚の持ち主らしい。まあ、思春期の弟を前に、平気でパンツと生理用品を丸見えにして持ち歩いているくらいだから平気なんだろうが。

「ちゃうちゃう。美里が修学旅行中ぎゃあぎゃあ騒いでいたから、女子ってそんなもんかって思ったからだけだって」

「へえ、美里ちゃんが? エッチ話、やっぱりしたんだ。ねえねえ、あんたたちどこまで進んだの? 母さんには話さないから、行ってみな」

 興味津々に尋ねてきたのでついでに答えた。

「そんな話じゃねえよ。あいつさあ、初めての生理になっちまってから人格変わっちまってすげえ大変だったんだぞ。姉ちゃんと一緒でさあ。八つ当たりするわわあわあ泣くわでさあ」

「貴史、それは一言余計だよ。技一本かけるから覚悟しな」

 技ではなく拳骨だった。ぐりぐり脳天をやられる。もちろん即、叩き落とす。

「姉ちゃんやめろよ。それよかさあ、美里のあれでとばっちり受け捲くった俺の立場も想像してくれよな。結局旅行中、俺がぜーんぶ美里の後始末をすることになっちまってな。五年の時にあいつがしょんべんもらした時と同じってこと。いつまでたっても同じパターンで頭くるよなあ。もう少し学習しろよ。あ、そうだ姉ちゃん、肝心なこと聞くの忘れてたけどさあ、拳骨勘弁な」

「事情によりけり。言ってみな」

 それぞれ行動するには事情がある。貴史が一番姉に尋ねたかった点はここだった。

「姉ちゃんが生理の時って、どういう話をすれば元気出るもんか? 俺、今回のことでいやってほど美里のお守りにほとほと参ったからなあ。食い物がいいもんか? それともここいらでびしっと怒鳴ってやる方がいいもんか? さっすがに俺、女子じゃねえからそこまでわからねえし」

「そっかあ、美里ちゃんデリケートだもんね。美里ちゃんに聞いてみたらってわけいかないよね。 だったらさうちの母さんあたりにさ、聞いてみた方が早いんじゃないの。あの人それなりに女の道、歩んできてるからさ。そうだ、私が代わりにあんたの質問、聞いとこうか?」

「やめろよ。女捨ててる母ちゃんの話聞いても役立たねえだろ?」

 もちろん、軽口。たいしたことじゃない。ただ、その話が即、一時間後、電話で美里の姉に伝わり自然と家族に広まり、さらに一時間後美里が泣きながら電話をかけてきたのは予定外の出来事だった。



「貴史! あんたいったい何言ったのよ! 八つ当たり八つ当たりって! 私だってそんな、したくてしたんじゃないってわかってるよね! なんでそんなこと言うのよ! みんなにばらしてそんなに面白い?」

「いや、ばらしたつもりじゃねえよ」

 とは言え、姉に話したということは羽飛家および清坂家に流布すること。それを読まなかったのはまずかったと密かに思う。こちらからするともっと別の意図があったのだが、そちらは全く考えていないようだ。美里はまだまだヒステリックにわめきつづける。

「あんたにはそんなに変なこと言わなかったじゃない! ひどい! 変態! スケベ! ロリコン! 鈴蘭優にだったらそんなこと言わないよね。私だからなんでも言っても傷つかないって思ってるでしょ! ばかにしないでよ!」

 ありとあらゆる罵倒文句をぶつけられる。まあ悪かったことは認めるが、そこまで言われるのは正直腹に据えかねる。悪いが売られたけんかは買うのが当世。

「美里、お前、言っていいことと悪いことがあるだろうが! なんにも一人でできねえくせに、ぜーんぶ俺に後始末押し付けて逃げ回ってるくせに、何威張りやがる。ったく、同じこと立村相手に言えるのか? 言えねえだろ?」

「なによ、なんで立村くんのことが出てくるのよ!」

 修学旅行帰りのバス内で、クラス全員の前で恋人宣言してくれた彼氏の立村には、死んだって「変態!」などとは言わないだろう。

「俺だから何でも言って許されるなんて思ってやしねえだろうな! 美里、俺が言ったことのどこが間違ってるんだよ。第一そうだろ? お前五年の時しょんべんもらした時、後始末全部俺がしただろうが! 一年の時別の男子と付き合ってた時だって結局お前一人じゃ何にもできなかったから俺が助太刀しただろうが! この前の修学旅行だってそうだろうが、お前が生理だ生理だってぎゃあぎゃあ騒ぐから、しかたなく俺と古川が面倒みたんだろうが! 俺のどこ嘘言ってる?」

「それとこれとは違う!」

「違わねえって言ってるだろ! 五年のこと思い出してみろ。もしあのまんま教室でじゃあじゃあたれっぱなしで座ってたらお前どうなってたか考えてみたことねえのか。立村にだって付き合いかける時あいつの性格を分析してやったから付き合えたんだろうが! 感謝こそされてもだなあ、スケベなんていわれる筋合いねえよったく、勘違いもいいかげんにしろ!」


 言いたいことは腹に残さず一気にぶつける。それが俺たちのルールだった。

 突如、美里が黙った。

「悪かったわね」

 理解はしたようだ。当然だ。そう思いきや、

「ふざけないでよ! 今更五年生のことひっぱり出すようだったら悪いけど私だって言いたいことあるよ」

「ほお、言いたいことあるなら言ってみろ」

 悪いがあの時の力関係で完全に貴史は美里を上回った自信がある。以前寝小便が直らなかった頃の自分なら、さすがに言い返せないが、だ。

「あん時、貴史が私に、みんなの前で本当のこと全部言えって言ったから言ったんだよ! そうしたら結局、私、ずっと女子から馬鹿にされっぱなしだったじゃない!」

「はあ、俺のせいにするのかよ」

「当たり前じゃない!あんたのせいよ! あんたのせいでずっと私、あの担任とクラスの女子たちに軽蔑されて、修学旅行の時は仲間外れにされて、他の男子たちにはその、あの、しちゃったことみんなにばらされたんだよ! ばれてなければそんなこと言われなくたってすんだんだよ! 全部貴史のせいじゃない! 貴史が悪いんだよ! もう、あんたなんか大嫌い! 死んじゃえ! ばか!」

 最後は泣き声だった。勢いよく受話器を切られた。耳の鼓膜破れたら即賠償金請求だ。


 ──ふざけんな。ついに今度は俺の責任かよ。黙って言わせておけば何様のつもりだあの女!

 美里とのぶつかり合いは決して珍しいことではない。言いたいこと言ってすっきりするのがいつものパターンだ。それに今回に限って言えば、貴史は全面的に悪くないと思う。

 ──第一、三年以上も前のことを蒸し返すなよ。だから俺が青大附属に連れていってやっただろうが!

 美里の言う通り、確かに一年前、クラスの女子たちから「あらら、結局がまんできなくてつまらぬ意地を張っておもらししちゃたのね」くらい言われたのは事実だ。貴史もその事情うはいろいろと目にし耳にしてきた。ただし言わせてもらえればその際、無視しなかった一部の女子プラス男子たちを集めてしょっちゅう気晴らしの機会をこさえたのも貴史だ。責任はそれなりに取っている。

 ──それにだ。あのままだんまりで通したら帰って神経参るだろう?

 美里はもともと嘘をつけない性格だということを、貴史はよく存じている。

 仮にあの事件が「なかったこと」として終わっていたとしたら、美里の性格上ずっとうつうつ悩んでいたに違いない。自分の立場がいいかわるいかそれは関係なく、本当のことしか言いたくないとがんばる美里のこと、女子同士の複雑な感情のもつれがあったとはいえ、教室でもらしたことをそのまま隠していくことは、たぶんできないだろう。だから貴史もあえて、いろいろな場所でその時のことをぺらっとしゃべったりしていたのだ。そう、立村にも。

 ──陰でばれてあとでパニックになるよかいいだろう?

 そういう事実があったとしても、所詮男子同士は笑い話で終わるし、そんなくだらないことが起こったとしてももう過ぎてしまったこと、価値観が変わるなんてことはない。事実、その話は中学一年の段階で軽くしてあるが立村は何も変わらなかったじゃないか。で今回は、恋人宣言までしてくれたわけだ。

 ──さらに言うとだ、一年の時だってあいつの昔の男のことでだ。

 あまり大袈裟なものではないにしろ、貴史の目の届かぬところで他小学の男子と付き合っていたというのは事実だ。そこでトラブルがいろいろあったらしいが、立村にばれないようにうまく取り計らったのも貴史だった。立村に無理に話す必要なんてないのでそのことは話さなかった。しかし、もしあのままごたごたしていたら美里は立村に告白なんてできなかっただろうし、今らぶらぶ交際なんて一切できなかったに決まっている。貴史は偉いのだ。

 ──その他、俺がいろいろ手を変え品を替えてきて、美里の面倒を見てきたことをずいぶん忘れてやがるしなあ。ったくそれをだ。いきなりすべて俺が悪いと押し付けるのは絶対違うぞ。少しここんとこでお灸据えておかねえと、あいつまたありえねえこと平気で口走りやがるからなあ。

 美里と立村をくっつけたのも本当のところは貴史が暗躍したようなものだし、今回の修学旅行においてもそうだ。古川こずえと一緒にいろいろと気を遣ったことも確かだ。本当だったら一日中ゲーセンで遊んでいてもよかったんだが、わざわざ美里のために外へ連れ出して話を聴いてやったじゃないか。全く美里はそういった貴史の思いやりを全く無視するのだから困ったものだ。反省させるしかない。


 部屋の向こうで姉と両親がくすくす笑いながら様子を伺っていた。悪いがあいつらに説明する気はさらさらないので、さっさと部屋に戻ることにした。まあ、貴史に一点、難があったとすれば姉の前でわざわざ美里の秘密をしゃべってしまったことだろう。ばれるのは見え見えとはいえ、ただ貴史なりに理由はあったのだ。 

 ──女子でなきゃわかんねえし、古川に聞いたらむりやりエロネタにされちまうし、となったら姉ちゃんが一番話として分かると思ったからだけどなあ。

 美里と貴史、姉同士は仲がよいので、そこから伝わったのかもしれない。さらに母同士は少女時代からの親友と来ている。となったら、あっという間に情報が伝わりというのはあったのかもしれない。美里の性格上、三人姉妹の真中ということもあってかなりのはねっかえりである以上しょうがない、叩かれるだろう。かなり怒られたのかもしれない。例の修学旅行中にパニックを起こし、先生から報告があったのかもしれない。

 ──しかし、俺に八つ当たりするのは絶対に間違ってると思うぞ。

 ──するんだったら、彼氏たる立村にしろよ。あいつ、困りきった顔して話聞くぞ。


 一夜明けた。次の日が日曜だったこともあって朝寝をたっぷりしようと思ったのだが、なぜか目が覚めたのは早朝五時過ぎだった。天気がよすぎるのと、太陽が気持ちよく昇りすぎるせいだ。もちろん両親姉貴みなしっかり寝ているので、家の中は物音ひとつしやしない。

 修学旅行で妙に規則正しい生活習慣を叩き込まれたのはいいが、その反動で学校に通っている間はどうしても眠気が取れず居眠りばかりしていた。しょっちゅう先生にたたき起こされたりもしていたのだが、さてのんびりできる休み時間に突入したとたん目が冴えてしまう。

 貴史は思いっきり伸びをし、まず腹筋背筋を布団はいだまま行った。

 調子はいい。なんかこのまま起きてもよさそうだ。

 そうと気付けばあとはやるのみ。ランニング一枚すぐに脱ぎ捨て、替わりに緑のTシャツへ着替えた。ジーンズ一本、昨日脱ぎっぱなしにしたまま床に落っこちている。足の形が残っているのですぐに身支度は整う。腹が空いたのでまずは水を水道から一杯飲み、冷蔵庫をあさって昨日の残りもの、かまぼこを半分せしめる。それで足りるわけがないので、パンを一枚頂戴する。まあ、全く足りないがこんなものだろう。

 正式な朝食が用意されるにはまだまだ時間がかかる。外に出て爽やかな六月の空気を吸いに行こう。どこが爽やかかどうかは見当つかないが。


 もうすっかり明るくなった空から白い光が揺らいでいるのを見つけた。あちらこちらで反射している屋根の光だった。まだ夏になりきらないその空からは、水で思いっきり薄めた青がめいっぱい広がっている。「青空」という言葉を思い出し打ち消した。

 ──金沢が言ってたけど、あの色っていわゆる「青空」じゃあねえよな。

 未来の天才画家である同級生の金沢が、熱く語っていた。

 ──「青い空」なんていっぱい種類があるのに、一言で片づけるのって、変だよね。

 難しいことを言うな、とは思うのだが実際空を見上げるとその通りと思う。

 朝と昼、夕方近くの「青空」は全く違うものなのだ。

 しばらくその辺をうろうろしてみた。さすがに朝っぱらから誰かをたたき起こして野球かサッカーを提案する気はない。ただ、例外としてひとり、そうしても構わない相手がいる。

 ──ちょいと、起こしてみるか。

 あまりとがってなくて、軽そうな石を探した。適度に投げやすく、仮に窓ガラスにぶつかっても割れることのなさそうな重さのものだ。親指程度の白い石を拾い、そのまま目的地へと向かった。

 清坂美里の家だ。


 美里の家は、自宅から徒歩三分程度の距離にあった。隣同士ではないし、家族との日常生活がどのように営まれているか読み取れないぎりぎりの場所だった。

 ──しっかし、うちの母ちゃんたちってなんで、結婚してからもこんな近くに家建てたりするんだ?

 幼い頃からの疑問である。 

 美里の母と親友同士だった貴史の母は、永遠の友情を誓ったかなんかして結局同じ町に住まうことになったという。さぞお互いの夫となった人たちは驚いただろう。まあその人がいるから今のところ貴史も美里も存在しているわけだ。

 しかも二番目とはいえ、自分の娘・息子をそれぞれ年をあわせて計画出産するというすごいことまでやらかしている。これって許されることなんだろうか。第一、その共同作業者である互いの夫、つまり父はそれを受け入れたのだろうか。

 ──受け入れたから、こうなったってわけだよなあ。

 このあたりのなれ初め事情について、まだ貴史は詳しいことを教えてもらっていなかった。照れくさい、というのもあるけれどもなんとなくまだ尋ねてはならない裏事情がありそうで少々びびっていたというのもある。姉や美里など、女子たちはなんとなく情報を仕入れているようだが、その辺まだ話としても聞いていない。

 どちらにせよ、今の貴史にとってそんな過去の話などどうだっていいことだ。

 まずは目の前の出来事をしゃかしゃか処理するのが先決。

 ──さてと、美里の奴、どんな面して寝ているやらな。

 決して早朝、清坂美里宅に向かい、二階の窓辺に小石を投げて合図を送るというのは珍しいことではない。そうし始めた小学校時代と若干異なるのは、貴史なりに的を外さず窓ガラスを割らず、美里以外の誰も起こさずにすむというコントロールを身に付けたことだった。

 すとんとした二階建ての向かって右端、その窓辺。

 美里が窓側に頭を向けて横になっているはずだ。

 外れなし。強くもなく、弱くもない。力加減は完璧だった。貴史の投げた小石はまっすぐ窓辺の斜め右端へと向かい、かちんと音を立ててあっさり落ちていった。

 そのまま窓辺を見上げていた。カーテンがほんの少し揺れてすぐに閉まった。

 雀の騒ぐ声がほんの少しふくらんだ頃、玄関の戸が開く気配に耳をそばだてる。

 美里がピンクのショートパンツにたっぷりめのTシャツ姿で顔を出した。

 おしゃれのことしか考えていない美里にしては、ずいぶんとラフな格好だった。


 すぐに貴史を見つけ、強張った顔のまま近づいてきた。

 かなりご機嫌斜めというのは、昨夜の口げんかからしても当然といえば当然だ。

 その一方で、すぐに噛み付いたり蹴りを入れたりしないところが、妙に気になったりもする。美里の髪はさほど乱れていない。寝癖なんかもない。顔を覗き込めば、やっぱり兎のお目目状態。顔がてかてかしているように見える。

「寝てねえだろ」

「関係ないでしょ」

 おはようの一言の前に、まずは小石の投げあい。単なる寝不足とは違う雰囲気だった。

「何しに来たのよ」

「昨日の電話の続きだろが。お前が勝手に言いたい放題言って切っちまうからだろ」

「私、間違ってないもん」

「そんなの関係ねえだろ! 人をスケベだとか変態だとか散々馬鹿にしやがって」

「そう言われるだけのことをあんたがしたんじゃないの!」

 美里は白いTシャツの裾を手で伸ばしながら貴史を睨みつけた。睨んだつもりだろうが、顔が泣きそうですぐ崩れてしまいそうに見える。無理しているのが見え見えだ。

「なによ、なんでもかんでもみんなしゃべっちゃって! 貴史が言ったこと、みんなお母さんやお姉ちゃんに聞かれちゃうってこと、どうして気付かないのよ!」

「俺はなんも悪いこと言ってねえだろ? それ言うならお前の方こそどうなんだよ。何でもかんでも俺のせいにしやがって。感謝しろって言ってどこが悪いんだ?」

 本当は違う話をするつもりだったのだが、やっぱり美里の顔を見ると一言びしっとしかりつけたくなる。こういうのもなんだが、貴史は今まで美里に対して、けんかの後自分から頭を下げたことが全くない。折れるのは意外にも美里の方だった。大抵「お母さんとお姉ちゃんが、私が悪いって言い張るから」とか「貴史に謝らない限り口利いてくれないって言われるから」とか適当な理由をつけて「ごめん」と一言呟くだけのことだが。もう少し謝り方を考えろ、と言いたいが、無理にそれ以上謝らせる必要もない。無視しあっている時間がもったいないからそれで終わらせる。

 不服そうな美里の顔に、貴史は言い放った。

「言いたいことあるだろ、さっさと言っちまえ」

「そうよ、どうせ私が悪いのよ、みいんな!」

「わかりゃあいいんだ。それよか美里」

 一呼吸おいて、まず空を見上げた。だんだん光がゆったり広がり始めている。薄い空の青がだんだん生々しく満ちてきているのは、日が昇ったせいだろうか。天才少年画家・金沢がこの空を見上げた時どういう色として描くのか、なんとなく興味深かった。

 その青を焼き付けた目で、美里に向かう。

「昨日言ってただろ。美里、なんで五年の時のこと、いまだに引きずってるんだ?」

 

 とっくに終わったことだと思っていた。クラス女子とのいざこざがきっかけで、五年の後半から小学卒業までの間、美里の居心地があまりよくなかったことは貴史も承知している。美里が必死に青大附中へ入学するため受験勉強に勤しんだのも、小学校時代の腐った人間関係を断ち切りたかったためだとも聞いている。それにお付き合いして貴史も思い切って青大附中を受験した。もっとも実は互いの両親たちが計って、貴史をその気にさせるためそれなりの策を弄していたらしい。

 どちらにしても、青大附中に合格してからはそれなりにごたごたもあったとはいえ、それなりに楽しく過ごしたはずなのだから、いまさら小学校後半の恨みつらみを語る必要はないように思える。

 黙った美里にさらに畳み掛けた。頭にきた後の貴史はしつこい。

「お前変なこと言っただろ。俺が例のことしゃべっちまえって言ったからろくでもないことになったってな」

「言ったよ」

「けど俺がちゃんと、木村や藤野たちのいるグループにお前入れてただろ?」

「わかってる。けどそれとこれとは違うの」

「違わねえだろ」

 どうもこのあたりがしっくりこない理由かもしれない。

 貴史としては十分過ぎるくらい、例の事件が終わってから美里に対して気を配ってきたつもりだ。それこそ陰でいろいろ他の連中から言われたものだ。いくら幼なじみであっても、ここまでしつこくべたべたするとは相当惚れてるんでないかとかなんとかかんとか。決して面白いことではないし、不本意ではあるけれどもそれでも貴史は美里を仲間に加えつづけたはずだ。美里のことを嫌った女子たちが多かったのは事実だが、それ以上の場所を貴史は用意したはずなのだ。なのに、

「こういっちゃなんだけどな、お前、立村のこと笑えねえだろが」

 少々きつい言葉を投げつけてやりたい。

「一緒にしないでよ」

 一週間前に恋人宣言してくれた奴の名前を出すと、美里も照れくさいのか俯いて言い返してきた。

「やっちまったことは消えねえよ、だからしょうがねえだろ。とっくに立村もお前に付き合ってた奴がいること知ってるし、お前がしょんべんたれたことだって聞いているはずだろ。修学旅行のあれだってな、まじであいつ、血便が出たんじゃないかって同情してたからなあ。美里がしでかしたことを立村は知ってるし、それでどうのこうのってことがねえだろ」

 あまり表立って話す必要もないから言わないでおいたが、貴史は入学当初から二年にあがるまでの間に、立村へ美里の過去らしきものをかいつまんで話しておいた。しょっちゅう三人で行動することが多いのもあったが、どこかからか美里の失敗談が噂で流れて来て、真実とは異なる情報を聞いて誤解される可能性がないわけではない。それなら早い段階で事実関係だけ伝えておき、噂は聞き流してもらったほうが楽だろう。秘密をばらした、と言われればその通りだ。だがそれは、その後のトラブルを防ぐため。感謝されてもいいくらいだ。

「けど、しゃべってなんて言ってないよ。知らなくたっていいことじゃない!」

 美里が言い返してきた。目が潤んで来ている。単なる寝不足だろう。同情はしない。

「じゃあ、昨日のこともそういうことなわけ? 私のために、みんなにあれのこと、しゃべったってこと? うちのお姉ちゃんもお母さんも、何にも聞いてなかったんだよ。なのに、貴史がしゃべったからみんなばれちゃったんだよ。そうやって、みんなから笑われて、馬鹿にされて、しまいには貴史に謝ってこなくちゃお小遣いくれない、とか言われて、私がみんな悪いことにされちゃってるんだよ!」

 初耳だ。つまり修学旅行の出来事については一切、菱本先生が話していないということか。

「そうよ! あたりまえじゃない! あんなこと、言われたくないわよ! なのに貴史がぺらぺらしゃべっちゃったせいで、昨日は食べたくないのにお赤飯炊かれちゃったんだよ! いやらしい目で見られて、笑われて。その後菱本先生にお母さんが電話してみんな聞いて、殿池先生に電話して、また謝らされて。結局みーんな、私が悪いってことになっちゃってるのよ。あんたのせいじゃないって、どうして言える? あんたが私の、あの、あのこと、しゃべっちゃったから、うち、大騒ぎになっちゃたんだよ!」

 ここまで言い放ったとたん、美里の頬が突然光った。滑り落ちた涙の粒が、朝の光に反射しただけだった。次から次へと涙が頬にレールを描いていく。

「五年の時だってそうなのに! あのこと、話したらみんなわかってくれるからって、味方がいるからって、そう貴史が言ったから私、女子に本当は教室で、だったのって話したのに、私のこと、馬鹿にされちゃったんだもん! 仲間外れにされて、何かあると男子にも『こいついばってるけど、五年の時に教室でもらしたんだぞ』とか言われるし。うちの人たちにだって、私が、そのしちゃったってことばれたら、思いっきり笑われたんだよ! うちで誰もそんな失敗したことないのに、よりによって私がするなんてばっかみたいって! 株上がるのは貴史ばっかり、そうだよ、貴史、何にも知らなかったくせに、いばらないでよ! 立村くんと付き合った時だってそうだよ、みんなに馬鹿にされて、しょうがないってわかってたけど、あんな奴と付き合う私の気が知れないって、ひどいこと一杯言われて、お母さんたちには『あの品山の男の子なんかと』とか嫌味言われて、けど貴史の親友だからそれでいいんだって言われて、けど私」

 意味不明な言葉が続く中、言葉を喉で詰まらせ、しゃくりあげながらとうとう美里は顔をゆがめたまま激しく泣きじゃくりはじめた。その涙を手の甲でこすりながら、貴史からは目を逸らさずに、ただしつこく恨み言を連ねるだけだった。


「そんなに立村の悪口言われてるなら、なんで俺にもっと早く言わねえんだよ! あいつは俺の友だちだって、何度も説明しに行ってやる。泣く前に美里するべきことあるだろうが」

 一区切りついた頃、まず貴史は言い返した。

「五年の時だってそうだろ? お前、平気な顔してただろ? 他の奴らにお前のやらかしたことからかわれても平気な顔してただろ? そんなことしてたら俺が気付くわけねえだろ。立村に言うのと同じ事言うぞ。口で言ってもらわねえとそんなことわかるわけねえだろ?」

「言えるわけないじゃない!」

 顔面を糊でてかてかにしたみたいに光らせて、美里は激しく首を振った。

「今みたいにあんた言うに決まってるじゃない! それは私の受け取り方が悪いんだって。それ以上求めるのって迷惑なんだって、そう言うに決まってるじゃない! みんな、私が悪いことになっちゃんだもん!」

「美里、いったいおばさんたちに何言われたんだ?」


 修学旅行一週間後、初めての日曜。

 今の話を聞く限り、美里は相当親姉妹から怒られたのだろう。

 旅行中に初潮を迎えてしまったこと、それを隠していたこと。

 周りの人たちに八つ当たりしまくって迷惑をかけたこと。

 普段の行いがよろしくないことも相まって、八方攻撃を受けたに違いない。

 ただでさえ神経がぴりぴりしている美里にとっては堪えたのだろう。それこそ、泣き明かしてしまうくらい悔しかったのだろう。もっともそれで八つ当たりされるのはたまったものではないが。


 まず背を向け、美里が追っかけてくるのを待った。

「話だけは聞いてやる。来い」

「何よその言い草」

「全部俺のせいにするからには、それなりの理由があるだろ。言えよ、言いたいことあるなら全部がまんして聞いてやる。そのかわり、納得いかねかったら叩きのめすからな」

 まったく、美里には手がかかる。本当だったらこういうアフターフォローは恋人の立村がすべきところなのに、結局いつも貴史が後始末をするはめになる。

 物心ついた頃から、このパターンが代わったことはついぞなかった。




 



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