89.幻聴(後編)
そして、最後―――
「―――ぁ………」
父様を、扉越しに見た、あの時。
父様が、理想の子供を語った、あの時。
私の、心は、傷ついた……
私は、涙を、流してしまった……
………本当は―――
本当は、知っていた……
殻なんて、絶対に傷つかない心なんて、なかった……
本当は、ずっと、ずっと、傷ついていた……
それを見て見ぬ振りして、私は―――
―――私はまた、強がっていただけなんだ……
それに、気づいてしまった。
それに、気づかされてしまった。
「子供―――子供か。そうだな、私は―――」
父様は語った。幸せそうな、表情で。理想の娘の、像を―――
……………私じゃ、ない。
それは、私じゃない。私じゃない私じゃない私じゃない私じゃない――――
父様が、愛そうとしていた娘は、やっぱり、私なんかじゃ、なかった。
私なんかじゃ、絶対、絶対、だめ……だったんだ……
「………」
視界が歪む。幸せそうに微笑む父様は、もう見えない。
私が―――私が、壊してしまったんだ。あの、幸せそうな顔を浮かべていた、父様を。
私が生まれてきたばっかりに!
私が血を飲めないばっかりに!
全部っ! ……全部、壊してしまった。父様も、母様も。2人が描いていた未来も、幸せも。
2人が大事に育てようとしていた、子供という幸せの形を、私が、壊してしまったんだ……
……生まれてきたのが私なんかじゃなければ!
私なんかが生まれてこなければ!
2人は……今でもきっと、幸せに……
「いっそのこと、この世から消えてなくなって欲しいものだ。誰からも愛されぬ娘よ―――」
―――………そうだ。
グーネル公爵の、言う通りだ。私なんて、誰からも愛されるはずのない娘なんだ。
誰かに愛されようと求めるのも、おこがましい。両親の幸せを壊した私が、誰かに求められたいと思うこと自体、間違いだった。
姫として、生まれてこない方が良かった。
そもそも、誰としても生まれてこない方が良かった。
だから―――きっと、私は死んだほうがいいんだ。
……心に殻はない。あったのは、殻だと思って構えていた、心だけ。
もう、私には何も無い。そこにあるのは、死にたい、死にたい、死にたいと思うだけの―――ただの屍……
【……違う】
「………」
その時、絶望に枯れた私の心に、【幻聴】が届く。
【……違うっ!】
「……く―――」
それは私の心の中に、溶けて混ざる。
途端、心の奥に、熱が生まれた。冷え切った心に灯る炎、それは聞こえてくる声と共に大きく燃え盛る。
【違うっ! だって、悪いのは私じゃない! 私は何も悪いことしていない! 求められたことをしてきただけ! 私は、頑張って、立派な姫になろうとしてきただけじゃない!!】
ちらちらと、奥で揺らめくだけだったその炎はあっという間に火勢を増し、肺を遡って口から漏れ始めた。
「くふふ、うふっ」
それは、笑い声―――
私は『それ』に気づいてしまった。だから、心の奥底から染み出てくる可笑しさのあまり、私は笑った。
【なんで、私が死ななくちゃいけない!? それは、あまりに、理不尽でしょう!? だって、私は―――】
…………………ああ。
そうか、そうだ、そうだったよ。
私が傷つかなくちゃいけない道理なんて、どこにある?
こいつらは、私から居場所を奪った。
生まれて、頑張って、ただ他人の為に努力してきた私を除け者にして、身勝手に悪者扱いして。
お山の大将を気取って、私を端へと追いやった。
同族とは認められないと異端へと追い込んだ。
……何が同族だ。何が異端だ。
仲間に入りたがる者を除け者にして、頑張っても出来ないことを指差して笑いやがって、何が同族意識だ。何が吸血鬼だ。下を作ったやつらは安心でしょうよ。下にされた私の気持ちなんて知らず、我が物顔で生きていけるんだもの。
それがひっくり返って私が強くなったら、言うに事欠いて『死んでくれ』?
―――ふざけるな。私はお前らの為に生きているわけでも、死んでやるわけでもないんだ。
私は、私の為だけに生きて―――誰だって、どんなやつだって、殺せる。
その力が、私にはある。
だって、私は―――
「あはは! あははは!!」
だって、私は最強なんだもの!
「あはは、あははは―――」
私はもう、傷つかない。
誰の言葉も、誰の悪意でさえも、壊して潰す。
居場所だって、他人に縋らない。
私を恐れ、拒絶するようなやつは、全員殺してやればいいんだから。
私には、力がある。
他人に怯える必要なんてないほど、強大な力が。
―――どうして、今まで怖がっていたんだろう?
―――どうして、今まで傷ついていたんだろう?
もう、そんなことも、思い出せない。だって、傷つくだけの弱い心なんて、いらないから。
ただ、思う……傷つき、泣いていた私に対して、たった一言だけ、言ってやりたかった。
「―――ばっかみたい」
心なんて、もういらない。
……もう、【幻聴】は聞こえない。
そもそも、【幻聴】なんてきっと初めからなかったんだ。
あったのは、私の声だけ―――無意味に傷を負おうとしている私に対して、真理に気づいた【私】が呟いていた、心の声だけだったんだ―――




