88.幻聴(前編)
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―――ねえ。
私は、何のために生まれてきたの?
―――ねえ。
私は、誰の為に生まれてきたの?
―――ねえ。
私は、私の為になんて生まれてないわ。
私は、生まれてきて良かったなんて、一度も思ったことない。
―――ねえ。
誰か教えてよ。
私は、私は、生まれてきて良かったの? 幸せを求めて良かったの?
―――ねえ。
誰か教えてよ。誰か私を認めてよ。
生きていて良いんだって。幸せを信じて良いんだって。
―――ねえ。
―――ねえ。
―――ねえったら。
でないと、私―――……
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「………」
カリーナと久し振りに会った、あの日。
―――私は、何もかもが、悲しかった。
母様が亡くなったと聞かされて。
父様が心を病んだと聞かされて。
その原因が、自分にもあることを聞かされて……私は、すごく、悲しかった。
私は、私のことがますます嫌いになった。
私なんて、生きていたって仕方がない。誰かを悲しませるだけの娘なんて、生きていたって仕方がない。
―――もしかしたら、死んだ方がいいんじゃないかって、本当に思った。
だって、ナトラサに帰るまでの毎夜、お母さんと母様が夢に現れ、私を責め続けてきたから―――すごく、つらかった。でも、仕方がないって思った。だって、2人とも、私が※※※んだから。
【あはは、ばっかみたい!】
……つら過ぎて、悲し過ぎて、どこかがおかしくなってしまったのか。いつからか【幻聴】が聞こえ始めた。それは無邪気な笑い声、嘲りの言葉。
それに、自分が何を考えているのか、よく分からなくなる時があった。それは悲しくて悲しくて仕方がないときに、よく起こった。
―――もう、嫌。考えることにも、悲しむことにも、疲れてしまった。
心が疲れ切って、もう動きたくない。目を閉じ、耳を塞ぎ、その場に蹲ってしまいたくなった。
でも、動かないといけない。カリーナは私をナトラサへ連れて行きたがり、私はそれを拒絶出来ない。
だって、行かないと、父様をますます不幸にさせてしまうかもしれないのだから。
私は行かなければならない。
私は、行かなくちゃいけない。
でも―――行けば、私は傷ついてしまうかもしれない。動けば、悲しみが増えるだけかもしれない……
……ああもう、嫌だ。嫌だっ!
私をこれ以上責めないでっ、悲しませないでっ、悪者に、しないで……そうして願った結果、心が殻を作ってくれた。
絶対に傷つかない、心の殻。それを破らない限り、私に言葉は届かない。誰の言葉であろうと、私を傷つける言葉はそこを通らない。通るのは、通すのは、私を癒す、私を求める、優しい言葉だけ。
【あはははは、ほんと、ばかみたい!】
―――また、【幻聴】が聞こえた気がした。でも、それは私の心に響かない。私の心は、丈夫な殻で守られているから。
私は、絶対に傷つかない。
私は、絶対に悲しまない。
そうして私は心を隠し、身体を動かし始めたのだった。
「………」
ナトラサへ下る道、暗い洞窟を歩いていると嫌でも思い出す、あの日のことを。
自分を偽り、民と父を恐怖に陥らせ、自身の処刑場へ軽やかに歩いたあの日のことを。
心を偽れば、表情も偽れて、気持ちも偽れた。その時の私は、強い姫だった。
民の為、国の為、父の為、そして―――死んだ後の自分の為。全ては、全てのひとの幸せの為であり、私は絶望が占める心の中で唯一光るものにしがみつき、必死に強者を演じた。
自分を犠牲にして私は色んな人を救えるんだという、ほんの一握りの幸福感を抱きしめて―――じゃないと、私は私を保てなかった。何か幸せなことを考えていないと、すぐに弱い私が出ていきそうだった。
―――そして、その強がりは踏みにじられた。希望は絶望に裏返って、爆発する。それに縋りついていた私は心ごと砕かれた。
強い姫になり切れず、弱い私も消し飛び、私は私を失った。その瞬間の、絶望という言葉さえ生ぬるい、喪失感。
忘れようとしていたその時の感情が、手放すことが出来たと思っていたあの時の悲しみが、暗い洞窟を歩く一歩ごとに奥から溢れてくる。
私は再び、私を失いそうになった。
【だったら、壊しちゃおう】
「っ―――」
何かが、走った。
背筋を通り抜け、何かの刺激が脳へと突き刺さる。私は―――私は今、何を考えていた?
分からない。何かが聞こえた気もしたが、同時に何かを閃いた、そんな予感を覚えた。
「……お嬢様?」
そんな折、カリーナから呼び止められて。
「……なんでもない」
私は否定した。拒絶した。
今の私に触れないで。今の私を見ないで。
……内からの動揺に、心の殻が剥がれかけている気がしたから。
「なんでもないったら!!」
感情が、表情が、言うことをきかなくなった。
私は、私に近づいてくる全てを拒絶する。
それが優しい表情を浮かべていたとしても、甘い言葉を語ったとしても、私はもう、それすら受け付けない。その裏には、私を突き刺すナイフを隠し持っているかもしれないのだから。その前には、私を嵌める落とし穴が用意されているかもしれないのだから。
だから私は、殻に隠れる。その殻を突き破る程の何かを―――優しさを、甘さを求めながら。
「………」
私は眺めている。カリーナと、グーネル公爵が息巻いて話している、『何か』を。
『何か』、とは―――言葉に変えるのが難しい。この空間のことを、目の前の出来事のことを、言葉に変えると何であろう。
【分かっているくせに……】
―――そう、分かっている。
本当は分かっていたけど、その言葉を使うのが躊躇われただけだ。
カリーナは泣いている。さっきまで必死になって話していたのに、グーネル公爵に少し責められたくらいで、泣き始めてしまった。
【ああ、こいつもか。
こいつも、私を悪く言うんだな】
私の心は傷つかない。だって、硬い殻に覆われているから。
グーネル公爵が、私を悪者扱いするのは知っていた。だって、会った時から目つきが悪かった。私を見る眼が、冷たかった。
だから、この人の言葉だけは絶対に通さないって、心に決めていた。だから、私のことをどんなに悪く言ってきたところで、私の心まで届かせない。
だけど、カリーナも、そうだった。グーネル公爵の話に涙し、自分の非を認め、私に罪を擦り付けた。
自分では正しい行為をしていると思っていたのに、実は正しくなかったと責められる原因を、私という存在のせいにした。
悲しか※※――――悲しくなんて、なかった。心の殻はカリーナの言葉を弾き返し、私は傷つかなかった。
そう、まったく、これっぽっちも、『悲しかった』などと思う余地なんて微塵もない。だって、私の心には何も届いていないのだから。
「それで、私はいつまでこの茶番を見ていればいいのかしら?」
そうして、ついついそれを言ってしまった。
目の前の『何か』―――それが、茶番でしかないということを。
だって、2人の話を聞いていると結論ありきの喧嘩にしか見えないんだもの。
私が化け物だから?
私を愛していたから?
どっちにしても、私が悪いと言っているようにしか聞こえない。
たぶん、二人の中では、どうせ私が悪いって結論が出ているんだ。下らない―――本当に、下らない茶番だった。
私は剥がれかけた心の殻を抱え直す。絶対に落とさないように、何があろうと振り落とされないように―――もう、私は、絶対に傷ついてはいかないのだから。




